第162章 箱を移す朝
翌朝、男は日の出前に目を覚ました。
昨夜は何度か目が覚めた。掌の傷が痛んだこともあるが、それ以上に、今日の箱の移動について考えていた。
箱を新しい場所へ移せば、今までより自由に動ける。
しかし、保管場所が変わるということは、新たに信頼関係を築かなければならないということでもあった。受け入れ先が安全だと確認できても、そこへ至る道が安全とは限らない。
男は荷物を必要最小限にまとめた。記録類は箱とは別に持ち運ぶ。箱の位置を示す情報も、すべて一人で管理するのではなく、必要な範囲だけ直人と共有する。
準備を終えると、直人が入口に現れた。
「受け入れ先から連絡があった。予定どおりでいいそうだ」
「分かった。箱の状態を確認してから出よう」
二人は保管場所へ向かった。
箱は、これまでどおり封をしたままだった。外側に新しい傷はなく、封印も崩れていない。
男は一つずつ確認し、記録と照合した。
「問題ない」
「なら、運ぼう」
直人が荷車を用意した。
箱を積み込むとき、男は思わず手を止めた。
箱の一つに残された古い金具には、何度も見てきた傷がある。これまでの調査で、商人の家や古い交易都市、過去の契約に関係する人々を訪ねてきた。そのたびに、箱は新しい疑問を生み出してきた。
しかし、今も中身を確かめることはできない。
箱を開けるために必要なのは、力任せに封を破ることではなく、失われた管理権限に関わる何かだった。
「どうした?」
直人が尋ねた。
「いや。これを集めること自体が目的にならないように、もう一度考えていた」
「目的は、箱を集めた先にあるんだろう?」
「そうだ。ただ、先に何があるのかも分からない」
男は箱から手を離した。
「だから、途中で何を見つけても、箱そのものを失うようなことはしない」
荷車が動き始めた。
受け入れ先までの道は、普段なら何の変哲もない商店街を通る。二人はあえて最短距離を選ばず、人通りのある道を進んだ。
最初の角を曲がったところで、男は違和感を覚えた。
通りの反対側に、同じ場所を何度も行き来している男がいた。
荷物を運ぶ様子も、店へ入る様子もない。こちらを見ていると断定できるほどではなかったが、男が立ち止まると、相手も足を止めた。
「直人」
「気づいた」
直人は振り返らずに答えた。
「知っている顔か?」
「いや。昨日まで見たことはない」
男は、荷車を押す速度を変えなかった。
相手が本当に尾行しているなら、ここで急に道を変えるのは不自然だ。逆に、ただの通行人なら、こちらが過剰に反応する理由もない。
二人は次の交差点へ進んだ。
そこには荷車が二台止まっていた。一台は商店へ商品を運び込んでおり、もう一台は道の端で車輪を修理している。
男は荷車の間を通り抜けた。
その直後、後方から車輪の軋む音がした。
振り返ると、先ほどの男が別の荷車の陰に隠れるように移動していた。
今度は偶然とは考えにくい。
「直人、先へ進んでくれ」
「お前は?」
「追わせる。ここで相手の目的を確かめる必要はない」
直人は短く頷いた。
「無理はするな。受け入れ先で待っている」
直人が荷車を押して進んでいく。
男はその場に残り、近くの店先で品物を眺めるふりをした。
尾行者は、男が一人になったことを確認するように、しばらく距離を保っていた。
やがて、相手は通りの反対側から近づいてきた。
「少し話せるか」
男は顔を上げた。
「誰だ?」
「名前を聞くために来たんじゃない」
「なら、何のために来た?」
相手は周囲を見た。
「お前が運んでいるものについて、忠告しておきたい」
男の表情は変わらなかった。
「何を運んでいると思っている?」
「古い箱だろう」
相手はあっさり答えた。
男は、相手の服装と手元を観察した。武器らしいものは見えない。だが、相手が何も持っていないからといって、安全だとは限らなかった。
「どうして、それを知っている?」
「知っている人間がいる。それだけだ」
「誰が?」
「それを話せば、俺がここに来た意味がなくなる」
男は相手を見た。
昨日までの調査で、箱の存在を知る者が増えている可能性は考えていた。しかし、相手がどこまで知っているのかは分からない。
「忠告というのは?」
「今は、その箱を移さない方がいい」
「理由は?」
「移せば、別の人間が動く」
「誰が動く?」
相手は答えなかった。
男は一歩だけ近づいた。
「俺に箱を移すなと言うなら、少なくとも、移した場合に何が起きるのかを説明してもらいたい」
「説明できることと、説明していいことは違う」
その言葉には、どこか聞き覚えのある響きがあった。
男はすぐに、それを特定の人物と結びつけることはしなかった。
「それは、お前の都合か。それとも、誰かの命令か?」
相手はわずかに眉を動かした。
「どちらでもない」
「なら、なぜ俺に忠告する?」
相手はしばらく黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「箱を失えば、お前が困る。箱が移れば、困る人間もいる。どちらが先に動くかで、結果が変わることもある」
男はその言葉を頭の中で整理した。
箱を移すこと自体が危険なのか。
箱を移すことで、誰かが別の行動を始めるのか。
それとも、箱を現在の場所に置いておくことで、相手が得られる利益があるのか。
相手の言葉は、どれにも解釈できた。
「お前は、俺が箱を移すのを止めたいのか?」
「止められるとは思っていない」
「なら、何を望んでいる?」
相手は答えず、通りの先を見た。
「忠告はした。それ以上は、お前が決めればいい」
そう言って、相手は歩き出した。
男は追わなかった。
尾行者が箱の移動を知っていたことは確かだ。だが、誰から情報を得たのか、何を目的としているのかは分からない。
追いかけて問い詰めても、今度は相手の選んだ場所で話をすることになる。
男は、まず箱を安全な場所へ移すという判断を変えなかった。
受け入れ先へ到着すると、直人が入口で待っていた。
「何かあったか?」
男は、先ほどの会話を伝えた。
直人は眉をひそめた。
「箱の移動を知っていたのか」
「そうだ。だが、受け入れ先を知っているかどうかは分からない」
「今から中止するか?」
男は、入口と周囲の道を確認した。
「いや。ここで移動をやめれば、相手の忠告に従ったことになる。それに、今の場所が安全だという保証もない」
「受け入れ先の安全を、もう一度確認する必要はあるな」
「そうだ。箱を運び込む前に、予定していた保管場所と、出入りする人間を確認しよう」
二人は受け入れ先の担当者と話し、保管場所の鍵、出入口、荷物を預かる際の手順を改めて確かめた。
担当者は、急な確認に不満を示したものの、事情を聞くと必要な範囲で協力した。
箱は予定どおり運び込まれた。
封印を確認し、保管場所を閉じる。
男は、箱の位置を記録した紙を二つに分け、一方を直人に預けた。もう一方は自分で保管する。
これで、箱の移動は完了した。
少なくとも、これまでの場所に置き続ける必要はなくなった。
直人は鍵を確認しながら言った。
「これで少しは動きやすくなったな」
「そうだな。ただ、箱を移したことを知っている人間がいる。これからは、その情報がどこまで広がっているかも考えなければならない」
「忠告してきた男を探すか?」
男は首を横に振った。
「今は探さない。相手は、俺が追えば何かを話すとは限らない。むしろ、追わせること自体が目的かもしれない」
男は、これまでに集めた記録を取り出した。
荷札の番号。
臨時作業員の募集条件。
荷車の支払人。
運送の仕事を仲介する事務所。
そして、箱の移動を知っていた謎の男。
一つひとつは、まだ確かな線で結ばれていない。
だが、箱の移動を止めようとする者がいる一方で、箱を集めること自体が相手にとって不都合だとは限らない。
忠告の言葉を、そのまま信じることはできなかった。
男は紙を整理し、明日からの行動を決めた。
まず、臨時作業員を集めている事務所へ行く。
今度は、外から様子をうかがうだけではなく、仕事を探している者として中へ入るつもりだった。
仕事を配る者の仕組みを知るには、仕事を受ける側がどのような条件を提示され、何を知らされ、何を知らされないのかを確かめる必要がある。
そして、その過程で相手が何を隠そうとするのかを見極める。
箱は、安全な場所へ移した。
次は、自分自身が動く番だった。




