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観客のいない世界  作者: 亀


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第160章 退路を残す

「話をするなら、まず手を離してもらおうか」


男の言葉に、室内の空気がわずかに変わった。


腕をねじ上げられていた作業員は、口を塞がれたまま、苦しそうに身をよじっている。


机の上には荷札と書類が散らばっていた。床には倒れた木箱。入口付近には、搬出を待つ荷車が一台。


男は、それらを順番に見た。


相手は三人。


少なくとも一人は、作業員を押さえている。もう一人は荷札を回収していた。残る一人は、男と搬入口の間に立っている。


狭い場所で正面から戦えば、数の差がそのまま不利になる。


しかも、右手の傷はまだ塞がりきっていない。


「最後に聞く。ここで何をしている?」


入口を塞いでいる男が尋ねた。


「それは、こっちが聞きたいことだ」


「昨日の倉庫でも余計なことをしたそうだな」


男は表情を変えなかった。


「昨日のことを知っているなら、話は早い。あの荷札は何だ?」


相手の視線が、机の上へ一瞬だけ動いた。


それで十分だった。


少なくとも、荷札が重要だということは分かった。


「お前には関係ない」


「なら、どうして俺がここにいると困る?」


男は、相手が答える前に続けた。


「俺を追い払うだけなら、外へ出ろと言えば済む。わざわざ三人で囲む必要はない」


「口の減らない奴だ」


入口の男が近づいてきた。


男は後退した。


一歩。


さらに一歩。


相手が距離を詰める。


男は逃げているように見せながら、搬入口の横に置かれた荷車との位置関係を確かめていた。


荷車の片側には、固定具の外れた車輪止めがある。床には金属片と木片が散らばっている。足元は平らではない。


相手が三人いることは変わらない。


だが、三人が同じ方向から動く必要もない。


「お前、何を見ている?」


男が視線を落としたことに気づき、相手が警戒を強めた。


その瞬間、奥で作業員を押さえていた男が叫んだ。


「こいつ、昨日の倉庫の――」


言葉が途切れた。


押さえられていた作業員が、相手の足を踏みつけたのだ。


男が一瞬ひるんだ隙に、作業員は腕を振りほどいた。


「走れ!」


男は叫んだ。


作業員は出口へ向かった。


しかし、荷札を回収していた男が進路を塞ぐ。


作業員は足を止め、方向を変えた。


その混乱の中で、入口の男が男へ飛びかかった。


男は真正面から受け止めなかった。


肩をずらし、相手の腕を外側へ流す。だが、相手の体格は大きく、完全には崩せない。


二人の肩がぶつかり、男の背中が壁に当たった。


痛みが走る。


相手の手が襟をつかんだ。


男は傷のある右手を使わず、左手で相手の手首を押さえた。足を踏み替え、体を横へ向ける。


それだけでは振りほどけなかった。


次の瞬間、荷車が大きな音を立てて動いた。


逃げようとしていた作業員が、車輪止めを蹴り外したのだ。


荷車は傾いた床を滑り、入口付近に積まれた空箱へぶつかった。


木箱が崩れ、入口の男が反射的にそちらを振り向く。


男は、その一瞬を逃さなかった。


襟をつかむ手を振りほどき、相手の脇をすり抜ける。


追いかけてきた二人目の腕が伸びた。


男は腰を落としてかわしたが、肩をかすめられた。体勢を立て直す間もなく、床に転がっていた木片を踏み、足が滑る。


膝をついた。


相手が上から覆いかぶさろうとする。


男は床に手をつきかけ、傷を思い出して寸前で止めた。左腕で体を支え、膝を引いて相手の足元から離れる。


そのまま立ち上がると、搬入口へ向かった。


「逃がすな!」


背後から声が飛ぶ。


男は外へ出た。


通路には、さきほど逃げた作業員がいた。彼は壁に背をつけ、腕を押さえている。


「何をしている、逃げろ!」


「この先にも人がいる!」


作業員が叫んだ。


通路の反対側から、二人の男が走ってくるのが見えた。


挟まれた。


男は即座に判断した。


広い道へ戻るには、荷置き場の正面を通らなければならない。そこには、最初の見張りがいる。


反対側は狭い通路だが、途中に古い資材置き場がある。


「こっちだ!」


男は作業員を連れ、資材置き場へ走った。


背後から足音が迫る。


通路の端には、使われなくなった木製の棚が積み上げられていた。男はそれを倒そうとはしなかった。倒せば相手を止められるかもしれないが、棚の向こうに誰かがいれば巻き込む危険がある。


代わりに、棚と壁の間にある細い隙間へ体を滑り込ませた。


作業員が続く。


追ってきた男の一人が、勢いを落とせず棚にぶつかった。


棚が揺れ、積まれていた板が床へ落ちる。


「止まれ!」


追跡者が怒鳴った。


男は止まらなかった。


資材置き場の奥には、外へ通じる低い通用口があった。男は先に作業員を通し、自分も身をかがめて外へ出た。


そこは水路沿いの道から一本外れた、古い工房の裏手だった。


二人は建物の陰まで走り、ようやく足を止めた。


男は息を整えながら、背後を確認した。


追跡者の姿はない。


少なくとも、すぐには追ってきていなかった。


「お前、誰なんだ」


作業員が息を切らしながら尋ねた。


「それを聞く前に、腕は大丈夫か」


「痛いが、動く」


「なら、まず安全な場所へ移ろう」


男は周囲を見回し、通りの人通りを確かめた。


さきほどの作業員は、荷置き場の中で何かを見たはずだ。


だが、今ここで事情を聞けば、相手が再び追ってくる可能性がある。


男は、作業員を人目のある茶店まで連れていった。


店の主人に水を頼み、二人は入口から見える席に座った。


作業員はしばらく黙っていたが、水を飲むと、ようやく口を開いた。


「俺は、あそこで荷を運ぶ仕事をしていた」


「昨日も?」


「昨日は別の場所だ。今日、臨時で呼ばれた。荷を移すだけの仕事だと聞いていた」


「何を移すのか、知らなかったのか?」


「木箱だとは聞いていた。でも、中身は知らない。仕事を受けるときに、細かいことを聞くなと言われた」


男は頷いた。


「それで、何を見た?」


作業員は周囲を気にしながら声を落とした。


「箱の中に入っていたのは、金属部品だけじゃなかった」


男は、すぐには問い返さなかった。


「紙だ。古い紙が束になっていた。誰かが箱を倒したとき、床に散らばった。俺は拾おうとしたが、すぐに取り上げられた」


「何が書かれていた?」


「全部は見ていない。ただ、同じような記号が繰り返されていた。荷札の番号とは違う。紙の端に、古い印が押されていた」


男の頭に、箱に残されていた記録が浮かんだ。


旧契約者用。


契約終了後、権限を返却する。


返却先が存在しない場合、接続は閉鎖される。


後継者が存在する場合、権限の再申請を認める。


三つの旧管理区記録。


そして、第四管理区。


ただし、目の前の作業員が見た紙と、箱に残された記録が同じものだとは限らない。


男は慎重に尋ねた。


「その印を、もう一度見れば分かるか?」


「たぶん」


「覚えている形を、紙に描けるか?」


作業員は迷った。


「描いたら、俺が見たことがばれるんじゃないか」


「ここで描く必要はない。無理に協力してほしいわけでもない」


男は、机の上に銅貨を二枚置いた。


「茶代だ。腕を診てもらう金が必要なら、これを使ってくれ」


作業員は銅貨を見たが、手を伸ばさなかった。


「金が欲しくて話したんじゃない」


「分かっている」


「俺は、あいつらに使われたくないだけだ。何も知らないまま運ばされて、あとで責任を押しつけられるのはごめんだ」


男は、その言葉を聞いて頷いた。


「なら、自分が何を知っていて、何を知らないのかを整理しておくといい。見たものと、誰かから聞いた話を分けるんだ。あとで話す必要が出たとき、混ぜない方がいい」


作業員はしばらく考えた。


「お前は、何を探している?」


男は少しだけ答えに迷った。


自分が探しているものを、そのまま説明することはできない。


箱の由来も、そこに残された契約の意味も、まだ完全には分かっていない。相手にすべてを話す理由もなかった。


「古い記録だ。過去に結ばれた約束が、今どう扱われているのかを知りたい」


「それを知って、どうする?」


「分からないことを、分からないままにしない。そのために、まず確かめる」


作業員は男を見つめた。


「そんなことをして、何になる?」


「少なくとも、誰かが勝手に決めたことを、最初から決まっていたことだと思い込まずに済む」


男はそう答えたが、それ以上は話さなかった。


作業員も、追加の質問はしなかった。


二人は茶店を出る前に、次に連絡を取る方法だけを決めた。作業員は、自分の名前も住まいも明かさなかった。男も、それを求めなかった。


別れ際、作業員が振り返った。


「一つだけ言っておく。あの荷置き場には、毎日同じ人間が来るわけじゃない。今日いた連中も、臨時で集められた者が多かった」


「誰が集めた?」


「知らない。ただ、仕事の話は一人の男を通して来る。そいつが仕事を配り、終わったら報酬を払う」


「その男の名前は?」


作業員は首を振った。


「名前を聞くなと言われている。俺も聞かなかった」


男はそれ以上尋ねなかった。


臨時の作業員を集め、荷を運ばせ、必要がなくなれば切り離す。


その仕組みなら、現場の人間を入れ替えることで、誰が何を運んだのかを曖昧にできる。


しかし、それだけで背後に大きな組織があると断定することはできない。違法な荷を扱う商人が、同じ方法を使うこともある。


男は茶店を離れ、直人のもとへ戻った。


直人は男の服の汚れと、傷の増えた掌を見て、深く息を吐いた。


「何があった?」


男は、荷置き場での出来事と、作業員から聞いた話を伝えた。


直人は途中で何度か質問したが、男が見たことと、作業員から聞いたことを混ぜないように、別々に紙へ書き留めた。


「古い印か」


「まだ形は分からない。記録と関係があるかも不明だ」


「でも、箱の中身に関係する可能性はある」


「可能性はある。だからといって、今すぐ箱を開けられるわけじゃない」


直人は頷いた。


「それで、次はどうする?」


男は机の上の紙を見た。


荷札の番号。


荷車の特徴。


作業員の証言。


臨時の仕事を配る男。


それぞれの情報は、まだ一本の線にはつながっていない。


だが、今までと違うことが一つあった。


相手は、ただ荷を移しているのではない。


現場の人間を入れ替え、記録を回収し、目撃した者を押さえつけようとしている。


そして、男がそこへ踏み込んだことで、相手は彼の存在をはっきり認識した。


「明日からは、荷置き場を正面から見張るのはやめる」


男は言った。


「相手は俺が何を探しているのか、まだ全部は知らない。でも、俺があの場所へ戻ることは予想できる」


「じゃあ、別の場所を調べるのか?」


「そうだ。仕事を配っている男を探す。ただし、本人を直接追い回すんじゃない。誰が仕事を受け、誰が報酬を受け取り、誰がその仕事を断れないのかを調べる」


直人は少し考えてから、尋ねた。


「それで、箱は?」


「予定どおり移す。相手の動きを追うために、箱まで危険にさらすつもりはない」


男は、受け入れ先へ渡すための確認書類を取り出した。


箱の移動は、まだ完了していない。


保管場所の安全性も、受け入れ側の事情も、もう一度確かめる必要がある。


だが、少なくとも、箱を守ることと、相手を追うことを同じ場所で行う必要はなくなった。


男は紙を折り、道具入れへしまった。


今日は、荷札の現物を手に入れることはできなかった。


それでも、相手の動き方を一つ知った。


記録を隠すだけではなく、記録に触れた人間を入れ替え、仕事の責任を分散させ、現場に残る情報を細かく切り離している。


その仕組みを崩すには、誰か一人を捕まえるだけでは足りない。


人が動く理由と、動かされる条件を見つけなければならない。


男は窓の外を見た。


水路の向こうでは、荷車が何台も行き交っている。


その中の一台が、何を運んでいるのか。


誰の命令で動いているのか。


誰がその荷を待っているのか。


まだ分からない。


だが、次に動く場所は、もう荷置き場ではなかった。


男は、荷を運ぶ者ではなく、荷を運ばせる者を探し始めていた。

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