第159章 先に動く
翌朝、男は直人と別れて、一人で北の水路へ向かった。
昨日と同じ場所を調べるためではない。
あの騒ぎのあと、誰が後始末を引き受け、誰が損失を負い、誰が何事もなかったように仕事を続けているのか。それを確かめるためだった。
荷車の行き先を追うだけなら、目撃者を探せばいい。
だが、荷が運び出された理由まで知りたいなら、荷を失った側と、荷を得た側の両方を見る必要がある。
水路沿いの運送業者の詰所には、朝から人が集まっていた。
昨日、荷を止められた運送業者たちが、管理所への申し立てについて話し合っている。男が近づくと、一人が顔をしかめた。
「またお前か。今度は何を聞きに来た?」
「昨日の荷のことで、確認したいことがある」
「なら管理所へ行け。俺たちは被害を受けた側だ。事情を説明する余裕もない」
男は相手の言葉を否定しなかった。
「荷が止められたことで、今日の仕事にも影響が出るのか」
「当然だ。部品が届かなければ、工房は仕事を止める。仕事が止まれば、運送の依頼も減る。俺たちだけの問題じゃない」
「代わりの部品を運ぶことはできないのか」
運送業者はしばらく黙り、それから吐き捨てるように言った。
「できるものなら、とっくにやっている」
「何が足りない?」
「許可だ」
男は目を細めた。
「荷があるのに、運ぶ許可がない?」
「許可だけじゃない。指定された経路を通るには、決められた荷札が必要だ。別の荷札を使えば、今度は受け入れ先で止められる。昨日の荷だって、俺たちは書類をそろえていた。それでも止められたんだ」
運送業者は、机の上に置かれた書類を指で叩いた。
「俺たちが勝手に荷を動かせば、契約違反になる。荷を止められても、勝手に別の経路を使えば、今度は俺たちの責任だ。どうしろっていうんだ」
男は、すぐには答えなかった。
彼らは荷を運ぶ能力を持っている。
しかし、経路を決める権限も、荷札を発行する権限も、受け入れを承認する権限も、すべてを持っているわけではない。
その一部を握る者が、荷の流れを変えられる。
そして、荷が届かない責任を負うのは、必ずしも流れを変えた者ではなかった。
「昨日、裏口から運び出された荷については?」
男が尋ねると、運送業者は警戒するように目を向けた。
「何を見た?」
「荷車が出ていくところを見た。それだけだ」
「なら、忘れろ」
「どうしてだ?」
「知らない方がいいこともある」
運送業者は話を打ち切り、詰所の奥へ戻った。
男は追わなかった。
相手が何かを知っている可能性はある。しかし、知っていることと、話せることは同じではない。
ここで無理に聞き出せば、相手をさらに口を閉ざす側へ追いやるだけだった。
男は詰所を離れ、昨日の荷が届けられるはずだった工房へ向かった。
工房の門は開いていたが、中の機械はほとんど動いていなかった。
職人たちは作業台の前に座り、使える部品を選別している。壁際には、途中まで組み立てられた機械が何台も並んでいた。
「部品が届かないのか」
男が尋ねると、年配の職人が顔を上げた。
「届かないというより、受け取れないんだ」
「運送業者は、許可がないから運べないと言っていた」
「こちらにも許可はある。だが、指定された荷札が違うと言われた」
職人は机の引き出しから一枚の書類を取り出した。
「先週までは、この形式で受け取れていた。ところが、数日前から別の形式を要求されるようになった。変更の通知は来たが、どの荷から適用されるのか、説明がはっきりしない」
「新しい形式の荷札を使えば、受け取れるのか?」
「それが分からない。新しい荷札を申請した工房の中には、今度は別の条件を満たしていないと言われたところもある」
男は書類を見せてもらった。
記載されているのは、荷札の形式変更と、受け入れ条件の一部改訂だった。昨日見た番号との直接的なつながりはない。
だが、運送業者と工房の双方が、似た問題を抱えている。
「この変更で、仕事を続けられなくなる工房もあるのか」
「もう、いくつかは注文を断っている。小さな工房ほど余裕がないからな。部品が届かなければ、その日の収入もなくなる」
職人は、組み立て途中の機械を見た。
「俺たちは決まりに従って仕事をしてきた。それなのに、決まりが変わるたび、今までのやり方が突然使えなくなる」
男は書類を返した。
「この変更を決めた人間に、直接話を聞いたことは?」
「管理所へ行った。担当者は通知を出しただけで、詳しいことは分からないと言っていた」
「では、誰が詳しいことを知っている?」
職人は首を横に振った。
「それを探すのが、こちらの仕事なのか?」
その問いに、男はすぐに答えられなかった。
彼らには彼らの仕事がある。部品を作り、機械を組み立て、注文を納める。制度の変更を追いかけるために雇われているわけではない。
だが、誰かがそこを利用しているなら、現場の人間だけが調べても限界がある。
男が工房を出ようとしたとき、門の外で一人の少年が待っていた。
昨日、倉庫で荷札を回収していた男の顔を知っているかと尋ねた、別の若い作業員だった。
少年は周囲を見回し、男に近づいた。
「昨日、倉庫で騒ぎがあっただろ」
「ああ」
「そのあと、荷車が戻ってきた」
男は足を止めた。
「どこへ?」
「ここじゃない。水路の北側にある古い荷置き場だ。俺は直接見たわけじゃないけど、荷車を引いていた男が、仲間にそう話していた」
「いつの話だ?」
「昨日の夕方だ」
男は少年の表情を見た。
「なぜ、それを俺に教える?」
少年は口を結んだ。
しばらくしてから、小さな声で言った。
「昨日、怪我をした作業員は、俺の兄貴なんだ」
男は何も言わず、続きを待った。
「兄貴は腕を痛めて、しばらく仕事ができない。なのに、責任者は事故の原因を、兄貴が勝手に動いたせいにしようとしている」
「実際には?」
「兄貴は荷を支えようとしただけだ。俺も見ていた。あのとき、荷車を押したのは別の男だった」
少年の声に怒りが混じった。
「でも、証言したら、俺も仕事を失うかもしれない。俺たちの家は、兄貴と俺の稼ぎで何とか暮らしているんだ」
男は、昨日の若い作業員の姿を思い出した。
荷車の進路から引きずり出したとき、彼は痛みをこらえながらも、倉庫の方を気にしていた。
自分の怪我より、仕事を失うことの方が怖かったのかもしれない。
「兄貴は、昨日の荷のことを何か知っているのか?」
「分からない。聞いても、あまり話したがらない」
「そうか」
男は、少年に無理に協力を求めなかった。
「今の話は、俺が聞いたことにしておく。お前の名前を出すつもりはない」
少年は疑うように男を見た。
「本当に、それだけか?」
「お前が何を話すかは、お前が決めればいい。俺は、聞いたことを確かめる」
男はそう言って、工房を離れた。
北側の古い荷置き場。
そこが昨日の荷車の行き先なら、今度は現物を確認できるかもしれない。
ただし、相手も同じ荷を探している可能性がある。昨日、荷札を回収した男たちが、すでに別の場所へ移していることも考えられた。
男は水路の分岐点で足を止め、道を選んだ。
以前なら、手掛かりが示す場所へそのまま向かっていただろう。
今は、そこへ行くことで誰が得をし、誰が自分を待ち受けられるのかを考える。
荷置き場へ向かう道は二つあった。
一つは、水路沿いの広い道。荷車が通りやすく、人通りも多い。
もう一つは、古い工房の裏を抜ける狭い道。距離は短いが、途中に人目の届きにくい区間がある。
男は広い道を選んだ。
相手が自分を待っているかどうかは分からない。だが、少なくとも、逃げ道を自分で狭める必要はなかった。
荷置き場に近づくにつれ、金属を打つ音が聞こえてきた。
使われていないはずの建物の一部に、作業場が設けられている。
入口には二人の男が立っていた。昨日、倉庫の裏口にいた者たちとは違う顔だった。
男は建物に入らず、近くの荷車置き場で作業していた運送業者に声をかけた。
「ここは、いつから使われている?」
「さあな。俺は荷を運んできただけだ」
「昨日も荷車が来たのか?」
運送業者は男を見たあと、建物の入口へ視線を向けた。
「知らない」
答えは早すぎた。
男がもう一度尋ねようとした、そのときだった。
建物の奥で、何かが激しく倒れる音がした。
続いて、短い怒鳴り声。
入口に立っていた二人が顔を見合わせ、一人が中へ走り込んだ。
もう一人は入口を塞ぐように立ち、周囲の人間を遠ざけ始めた。
「ここから離れろ!」
男は動かなかった。
建物の中から、木箱が地面を滑る音が聞こえた。
そして、誰かが叫んだ。
「荷を出せ! 今すぐだ!」
男は入口を見つめた。
昨日の騒ぎは、荷を運び出すための混乱だったのかもしれない。
だが、今日も同じことが起きているなら、単なる偶然では片づけられない。
男は建物へ駆け込むのではなく、まず脇の通路へ回った。
中にいる人数も、荷の量も、何が起きているのかも分からない。
正面から飛び込めば、相手の都合で戦うことになる。
通路の先には、半開きの搬入口があった。
男は壁に背をつけ、内側をのぞいた。
木箱が二つ、床に倒れている。
そのそばで、一人の作業員が男に腕をねじ上げられていた。別の男が、床に散らばった紙片を拾い集めている。
そして、奥の机には、見覚えのある荷札が置かれていた。
男は息を止めた。
番号の一部が、昨日の倉庫で見たものと一致していた。
同じ荷かどうかは、まだ断定できない。
だが、少なくとも、ここには昨日の出来事とつながる何かがある。
腕をねじ上げられていた作業員が、男の姿に気づいた。
目が合った。
その瞬間、作業員は叫んだ。
「そいつだ! 昨日、倉庫にいた――」
言い終わる前に、男が口を塞がれた。
室内の全員が、搬入口を振り向いた。
男は、逃げ道を確認した。
背後には狭い通路。入口側には見張り。中には少なくとも三人。
掌の傷が、布の下で脈打つ。
ここで退けば、荷札の現物を確認する機会を失うかもしれない。
しかし、ここで捕まれば、箱の移動も、これまで集めた記録も守れなくなる。
男は、床に落ちた木片と、壁際に立てかけられた空の荷車を見た。
戦う必要があるかどうかを決める前に、相手が何を守ろうとしているのかを見極める。
そして、相手が自分を捕まえようとするなら、その理由を逆に利用する。
男は、搬入口の脇に落ちていた小さな金属片を拾い上げた。
「その作業員を離せ」
声は大きくなかった。
だが、室内の男たちには届いた。
「俺が何を見たのか、そちらも気になっているはずだ」
男は一歩も踏み込まなかった。
「話をするなら、まず手を離してもらおうか」
一人が鼻で笑った。
「お前が条件を出せる立場だと思っているのか?」
「思っていない。だから、そちらが何を選ぶのか見ている」
短い沈黙が落ちた。
男は、相手の手元と足元を見ていた。
誰が指示を出しているのか。誰が荷札を守ろうとしているのか。誰が、騒ぎに乗じて逃げようとしているのか。
まだ分からない。
それでも、昨日までとは違った。
彼は、ただ相手の残した記録を追っているのではない。
相手が何かを隠すために動く、その瞬間に立ち会っている。
次に起きることを選ぶ権利は、相手だけのものではなかった。




