第158章 荷を奪う者
翌朝、男は倉庫へ向かう前に、直人と短く打ち合わせをした。
「俺が戻らなかったら、箱を動かすな。受け入れ先の準備が整っても、相手の身元と保管場所をもう一度確認してくれ」
「分かった。お前は?」
「若い作業員と話す。昨日の男については聞かない。まず、あいつが何に巻き込まれているのかを確かめる」
直人は男の手のひらを見た。
傷口は塞がりかけていたが、力を入れればまだ痛む。
「戦うつもりなら、その手じゃ不利だぞ」
「戦わずに済むようにする」
男はそう答えた。
それは希望であって、保証ではなかった。
北の水路に着いた頃、荷運びの仕事はすでに始まっていた。
昨日まで見かけた作業員たちは、それぞれの持ち場で忙しく動いている。男は正面から倉庫へ近づかず、積み下ろし場の外側を回った。
若い作業員は、荷車のそばで木箱の数を確認していた。
男が近づくと、彼は一瞬だけ顔を上げた。すぐに視線を戻したが、その反応だけで、昨日のことを覚えているのは分かった。
「少し話せるか」
「仕事中です」
「長くは取らない」
「話すことはありません」
若い作業員は周囲を気にしていた。
男は質問を重ねなかった。代わりに、荷車の向こうに並ぶ木箱へ目を向けた。
「今日は荷物が多いな」
「いつもと同じです」
「そうか」
男が離れようとしたとき、積み下ろし場の奥で怒鳴り声が上がった。
「その荷は出せない!」
責任者らしい男が、荷車の前に立ちはだかっていた。
向かい合っているのは、運送業者の男たちだった。彼らの荷車には、金属部品を詰めた木箱がいくつも積まれている。
「許可は出ている。受領先も変更済みだ」
運送業者が書類を突き出した。
責任者はそれを見ようともせず、後ろにいる作業員へ命じた。
「荷を倉庫へ戻せ。ここから先へは一つも通すな」
「ですが、受領先には今日中に届ける約束が――」
「命令が聞こえなかったのか」
作業員は口を閉じた。
運送業者の一人が責任者の腕をつかんだ。
「荷を止めるなら、理由を説明しろ。こちらは契約どおりに運んでいる」
責任者は腕を振り払った。
「契約の話をするなら、管理所へ行け。ここで騒ぐな」
「管理所へ行っている間に、荷をどこへ隠すつもりだ?」
その言葉を合図にしたように、倉庫の裏口が開いた。
数人の作業員が、別の木箱を荷車へ運び始めた。
男は、その木箱に目を留めた。
側面には新しい荷札が貼られている。番号は昨日、倉庫の奥で見たものと似ていたが、同じかどうかまでは距離があって確認できない。
それでも、目の前の騒ぎと無関係だと考える理由もなかった。
「そっちの荷はどこへ運ぶんだ!」
運送業者の一人が叫んだ。
裏口の作業員たちは答えなかった。
責任者が運送業者を押し返す。押された男が足を滑らせ、荷車に肩をぶつけた。
積まれていた木箱が傾いた。
「危ない!」
若い作業員が駆け寄った。
箱を支えようとした彼の腕に、傾いた荷がまともにぶつかった。鈍い音がして、彼は地面に膝をついた。
同時に、木箱が一つ、荷車から転がり落ちた。
蓋が割れ、中から金属部品が散らばる。
その瞬間、裏口から荷を運んでいた男たちの動きが変わった。
二人が木箱を運ぶのをやめ、散らばった部品を拾おうとした作業員たちを押しのける。もう一人は、転がり落ちた箱の破片を踏みつけ、地面に落ちた荷札を拾い上げた。
彼らが急いでいるのは、荷物を守るためだけではない。
男はそう感じた。
「下がれ!」
責任者が叫んだ。
しかし、下がるよう命じられた作業員の一人が、地面に倒れた若い作業員を踏み越えようとした。
男は考えるより先に動いていた。
若い作業員の肩をつかみ、荷車の進路から引きずり出す。
その直後、空になった荷車が押され、男の脇をかすめて通り過ぎた。
男は壁に肩をぶつけた。
掌の傷が開き、熱い痛みが走る。
思わず手を握り込んだが、血が指の間からにじんだ。
「立てるか」
若い作業員に尋ねる。
「……腕が」
彼は右腕を押さえていた。骨が折れたかどうかは分からない。だが、立ち上がろうとしても、顔を歪めて動けなかった。
男は周囲を見た。
責任者は運送業者を倉庫の外へ押し戻そうとしている。裏口の男たちは、荷札を回収すると、残りの木箱を荷車へ載せていた。
騒ぎを起こした者たちが、騒ぎの収拾よりも荷物の移動を優先している。
その事実だけは、はっきりしていた。
「医者を呼べ!」
男が声を上げた。
近くの作業員が一瞬こちらを見たが、すぐに視線をそらした。
「誰か、手を貸してくれ。腕を痛めている」
今度は別の作業員が足を止めた。
男は若い作業員の肩を支え、壁際まで移動させた。自分の手の傷は後回しにするしかなかった。
その間に、裏口の荷車は動き出していた。
男は追わなかった。
今ここで追えば、負傷者を放置することになる。しかも、相手の人数も行き先も分からない。手の傷を抱えたまま、狭い通路で囲まれれば、昨日と同じように逃げることさえ難しくなる。
彼は荷車の車輪についた泥と、荷札を拾った男の顔を記憶した。
追跡を諦めたのではない。
追う順番を変えたのだ。
やがて、ようやく一人の作業員が医者を呼びに走った。
責任者はそれを見て眉をひそめたが、止めなかった。
「余計なことに首を突っ込むな」
男に向けられた声だった。
「目の前で人が怪我をした。それだけだ」
「お前には関係ない」
「なら、どうしてあの荷を急いで動かした?」
責任者の顔が固まった。
ほんの一瞬だった。
しかし、男は見逃さなかった。
「何の話だ」
「さあな。俺も知りたいことが増えただけだ」
男はそれ以上追及せず、若い作業員のそばにしゃがんだ。
責任者はしばらく彼を見ていたが、やがて別の作業員を呼び、散らばった金属部品の回収を命じた。
その後、医者が到着し、若い作業員の腕を固定した。
運ばれていく直前、彼は男の袖をつかんだ。
「……昨日のことは、聞かないんですか」
男は彼を見た。
「今は腕を治せ。話すかどうかは、そのあと自分で決めればいい」
若い作業員は何か言いかけたが、結局、口を閉じた。
男はそれ以上、引き留めなかった。
倉庫を離れたあと、彼は人目の少ない路地で掌を布に押し当てた。傷は深くない。しかし、出血が続けば、次に何か起きたときに支障が出る。
手当てを済ませ、直人の待つ場所へ戻ると、直人は男の手を見るなり顔をしかめた。
「またか」
「今度は自分から喧嘩を売ったわけじゃない」
「結果は似たようなものだ」
男は反論しなかった。
彼は見たことを順番に説明した。運送業者と責任者の衝突、裏口から運び出された木箱、回収された荷札、そして負傷した若い作業員。
直人は最後まで聞いてから、尋ねた。
「箱を追わなかったのか」
「追えば、あの作業員を置いていくことになった。それに、あの荷車だけを追っても、誰が動かしているのか分からない」
「じゃあ、次は?」
男は少し考えた。
「荷車の行き先を探す前に、今日の騒ぎで誰が得をしたのかを調べる。運送業者は荷を止められた。作業員は怪我をした。責任者は命令を通そうとした。裏口の連中は、その間に別の荷を運び出した」
「つまり、騒ぎそのものが目的だった可能性もある?」
「ある。ただし、そう決めつけるのはまだ早い。偶然の混乱を利用しただけかもしれない」
男は机の上に紙を広げ、覚えている番号と人相、荷車の特徴を書き出した。
以前なら、そこに現れた記号や番号を一つずつ追いかけていただろう。
今は違う。
記録は手掛かりだ。しかし、記録を動かしている人間がいる。人間には仕事があり、利益があり、守りたいものがある。
そこを見誤れば、いくら記録を集めても相手の都合のよい場所を回るだけになる。
「それと、箱の移動は予定どおり進める。ただし、受け入れ先には今日の騒ぎを伝えて、保管条件を見直してもらう」
直人がうなずいた。
「お前の探している箱と、今日の荷がつながっている保証はないぞ」
「分かっている」
男は、まだ乾ききらない血のにじむ布を見下ろした。
「だからこそ、別々に確かめる。箱を守ることと、あの荷を動かした連中を追うこと。その二つを、相手に一つの問題として扱わせない」
窓の外では、荷車の音が遠ざかっていった。
今日の騒ぎで、誰かが負傷した。
誰かは荷を運び出し、誰かはそれを止めようとし、誰かは責任を押しつけられることを恐れて口を閉ざした。
男には、まだ全体像が見えない。
だが、これまでのように、誰かが置いていった手掛かりを拾うだけでは足りないことは分かった。
次に動くときは、自分が何を知りたいかだけでなく、相手が何を動かしたがっているのかも考えなければならない。
そのためには、まず、今日運び出された荷がどこへ向かったのかを確かめる必要があった。
そして今度は、相手に追われる前に、自分から動く。




