第157章 追う者、追われる者
翌朝、男はいつもより早く目を覚ました。
昨夜、窓の外に立っていた人物は、まだ特定できていない。服装と歩き方、曲がっていった道は記録したが、顔ははっきり見えなかった。
直人は、夜のあいだに何か変わったことがなかったか、建物の周囲を確認していた。
「裏口に新しい足跡があった」
直人が言った。
「中へ入ろうとした形跡は?」
「そこまではわからない。ただ、裏口の近くで止まり、しばらくしてから離れている」
男は裏口を確認した。
扉に傷はない。鍵も壊されていない。何かが盗まれた様子もなかった。
「箱は?」
「無事だ。記録も、昨日のまま残っている」
男は息を吐いた。
箱が狙われている可能性はある。だが、昨夜の人物が箱を探していたと決めつけることはできない。
彼の調査を監視しているのかもしれないし、別の目的で建物の周囲を歩いていただけかもしれない。
ただ、こちらの行動を知られている可能性は考えておく必要があった。
「今日は、箱を別の場所へ移したほうがいい」
直人が言った。
「そうだな。ただ、何度も移動させれば、そのたびに見つかる危険がある。今の場所を変えるだけじゃなく、移す理由と、その後の管理方法も考えよう」
男は、箱の記録を確認した。
中身を調べることはできない。鍵となる技術もない。だからこそ、箱そのものを不用意に動かしたり、他人に見せたりする必要はなかった。
直人は、信頼できる知人を通じて、一時的に保管できる場所があるか確認することにした。
男はその間、外へ出る準備を進めた。
今日は、保管所の奥へ運ばれた荷物を追うつもりだった。
ただし、荷物そのものを追いかけるのではない。
誰が保管所へ出入りし、どのような手続きで荷物を動かしているのか。それを確認する。
昨夜、自分が監視されていたのなら、相手もまた、男が次に何をするかを考えているはずだった。
だからこそ、昨日と同じ道は使わなかった。
*
保管所へ続く通りは、朝から人で混雑していた。
男は建物の正面へは向かわず、向かいの市場で荷物を運ぶ人々の流れを見ていた。
しばらくすると、昨日、奥から出てきた男が姿を現した。
男は一人ではなかった。
二人の作業員を連れ、保管所の脇にある小さな門へ向かっている。
門の前には、荷物を積んだ荷車が一台止まっていた。
昨日、引き渡しを止められた荷物とは違うように見える。
三人は門の前で短く話し、作業員の一人が荷車の札を確認した。
その後、奥から別の男が現れ、何かを書類に記入した。
荷車は門を通過した。
男は、その一連の動きを記録した。
荷物を確認する者。
記録を記入する者。
通行を許可する者。
昨日は一人の人間がすべてを決めているように見えたが、実際には複数の人間が異なる役割を担っているらしい。
もちろん、権限の分担があること自体は不自然ではない。
問題は、その役割の境界がどこにあるのか、そして誰がその境界を越えられるのかだった。
男が次の動きを待っていると、市場の人混みの向こうから、一人の若い男が歩いてきた。
北の水路で、昨日の荷車の事故について何かを知っている様子を見せた若い作業員だった。
男はすぐに声をかけなかった。
若い男は保管所の門を見てから、通りの反対側へ歩いていく。
誰かを探しているようにも見える。
男は距離を保って後を追った。
若い男は二つの通りを曲がり、使われなくなった小さな作業場の前で足を止めた。
そこには、先客がいた。
黒い上着を着た男が壁にもたれ、若い男を待っている。
若い男は周囲を確認してから、相手に近づいた。
二人は短く話した。
声は聞こえない。
やがて、黒い上着の男が小さな紙片を渡した。
若い男はそれを受け取り、すぐに懐へしまった。
その瞬間、黒い上着の男が顔を上げた。
男は反射的に壁の陰へ身を引いた。
相手の視線がこちらへ向いたように見えた。
しかし、相手は何も言わず、若い男とは反対の方向へ歩き出した。
男は迷った。
若い作業員を追えば、昨日の荷物について何か聞けるかもしれない。
黒い上着の男を追えば、紙片を渡した理由がわかるかもしれない。
両方を追うことはできない。
男は、黒い上着の男を選んだ。
若い作業員は、すでに自分が知っている相手だ。話をする機会は、今後もあるかもしれない。
一方、黒い上着の男は、これまで接点がなく、紙片を渡した理由も不明だった。
男は距離を保って歩き始めた。
*
黒い上着の男は、市場を抜けて、荷車の往来が少ない通りへ入った。
歩く速さは一定だった。
時折、店先で足を止めるが、何かを買う様子はない。
男は、相手に気づかれない距離を保とうとした。
しかし、角を二つ曲がったところで、相手の姿が見えなくなった。
男は足を止めた。
通りは三方向に分かれている。
一つは大通りへ戻る道。
一つは住宅が並ぶ細い路地。
もう一つは、古い倉庫が続く裏道だった。
どこへ行ったのか。
男は地面を見た。
足跡を追えるほど、地面は柔らかくない。人の往来も多く、相手だけの痕跡を見つけることは難しかった。
そのとき、背後から声がした。
「誰を探している」
男は振り返った。
黒い上着の男が、路地の入口に立っていた。
いつ回り込まれたのか、わからなかった。
男はすぐに周囲を確認した。
逃げ道はある。だが、背後の路地は狭く、相手が先に動けば、正面から抜けるのは難しい。
「人を追いかける趣味はない」
男は答えた。
「では、なぜ俺の後をつけた」
「昨日、保管所で荷物を止めた人間を見ていた。今朝、あんたが別の男と会っていたから、何か知っているのかと思った」
「それで、俺を追ってきたのか」
「そうだ」
黒い上着の男は、男の手に巻かれた包帯を見た。
「水路で怪我をしたのか」
「そうだ」
「なら、忠告しておく。ここで余計なことを調べるのはやめたほうがいい」
「なぜだ」
「自分が何に手を出しているのか、わかっていないからだ」
男は相手を見つめた。
「なら、何に手を出しているのか教えてくれ」
黒い上着の男は、少し笑った。
「教えたところで、お前はやめないだろう」
「それは、聞いてから決める」
相手の笑みが消えた。
「お前は、箱を探しているのか」
男の表情が変わった。
ほんの一瞬だった。
しかし、相手は見逃さなかった。
「やはりそうか」
黒い上着の男が一歩近づいた。
男は、すぐに後ろへ下がった。
「誰から聞いた」
「質問に答える立場だと思うか」
「なら、どうして聞いた」
「確かめたかっただけだ」
男は、相手がどこまで知っているのかを考えた。
箱の存在を知っている。
だが、それが何を意味するのか、どこまで理解しているかはわからない。
匿名の手紙を送った人物と同じなのか。
水路の封鎖を指示した側の人間なのか。
それとも、別の組織に属しているのか。
何も確定していない。
「箱を知っているなら、何のために探しているのかも知っているのか」
男が尋ねた。
「知らないこともある」
相手は意外な答えを返した。
「だが、少なくとも、お前が手に入れようとしているものを、誰もが歓迎するわけではない」
「誰が歓迎しない?」
「それを知りたければ、もっと調べろ」
黒い上着の男は、背を向けた。
男は追わなかった。
相手は箱の存在を知っている。
しかし、相手が敵なのか、協力者なのか、あるいは別の目的を持つ第三者なのかは不明だった。
今ここで無理に捕まえようとしても、得られるものは少ない。
それより、相手が自分の調査についてどこまで知っているのかを考える必要があった。
*
男が戻ると、直人はすでに箱の保管場所について返事を受け取っていた。
「一時的に預けられる場所は見つかった。ただ、今日すぐに移すのは難しい。向こうも受け入れる準備が必要らしい」
「わかった。無理に急がせる必要はない」
男は、今日起きたことを説明した。
保管所の出入りを観察したこと。
若い作業員が黒い上着の男から紙片を受け取ったこと。
そして、その男が箱の存在を知っていたこと。
直人は最後の部分で表情を変えた。
「箱のことを、もう知られているのか」
「少なくとも、あの男は知っていた。ただ、どこから情報を得たのかはわからない」
「君が箱を持っていることまで知っている可能性は?」
「あるかもしれない。だが、そこまでは確認できていない」
男は机に向かい、黒い上着の男の特徴を書き留めた。
身長、服装、歩き方、声の調子。
名前はわからない。
所属もわからない。
紙片に何が書かれていたのかもわからない。
だが、相手は男に対して、箱を探していることを知っていると示した。
それは警告だったのかもしれないし、反応を確かめるための質問だったのかもしれない。
「次はどうする?」
直人が尋ねた。
男は、保管所の記録を取り出した。
「黒い上着の男を探す前に、あの若い作業員と話す。ただし、紙片のことを知っていると悟られないようにする」
「なぜだ?」
「彼が自分の意思で動いているのか、誰かに指示されているのかを知りたい。いきなり問い詰めれば、もう話してくれなくなるかもしれない」
直人はうなずいた。
男は、これまでの記録を並べ直した。
水路の封鎖。
荷物の識別札。
保管所での引き渡し停止。
そして、箱の存在を知る黒い上着の男。
それぞれの間には、まだ空白がある。
だが、その空白の向こうに、少なくとも自分の動きを知っている人間がいることはわかった。
男は、最後に一つの問いを書き加えた。
「誰が、どの情報を、誰に渡しているのか」
箱を手に入れることだけを考えていては、相手の動きを追うだけで終わる。
情報がどのように流れ、人間がどのように動かされているのか。
そこを見極めることができれば、相手の用意した道から外れることもできるかもしれない。
男は記録を閉じた。
明日は、若い作業員に会いに行く。
今度は、相手の言葉を引き出すためだけではない。
彼が何を恐れ、何を守ろうとしているのかを知るために。




