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観客のいない世界  作者: 亀


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第155章 消された通路

通行制限に関する書類を受け取った翌朝、男は管理所へ向かう準備をしていた。


しかし、出発する前に、直人が市場から戻ってきた。


「北の水路で、また問題が起きている」


「封鎖が広がったのか」


「それだけじゃない。今朝、倉庫へ運ぶはずだった荷物が、途中で止められたらしい。運送業者は通行許可を持っていたのに、現場の人間が許可の形式が違うと言って通さなかった」


男は地図を広げた。


「許可を出したところと、止めたところは?」


「まだ確認できていない。ただ、荷物の持ち主は今日中に受け取れなければ、取引を取り消すと言っているそうだ」


「荷物は何だ?」


「金属部品らしい」


男は顔を上げた。


金属部品。


これまで追ってきた荷物の中にも、同じようなものがあった。配送先の変更、数量の不一致、記録に残らない移動。だが、それらが今回の件とつながっている証拠はない。


同じ種類の荷物だからといって、同じ目的で動いているとは限らなかった。


「持ち主はどこにいる?」


「市場の東側だ。運送業者と話し合っているらしい」


男は地図を畳んだ。


「そこへ行こう」


          *


市場の東側では、数人の商人と運送業者が言い争っていた。


荷車の上には、布で覆われた箱が積まれている。荷台の側面には、荷主と配送先を示す札が取り付けられていた。


商人の一人が、書類を握りしめていた。


「許可は昨日のうちに出ている。そちらが勝手に形式を変えたんじゃないのか」


「こちらは受け取った書類に従っているだけです」


「では、誰が通行を認めないと言ったんだ」


「現場の責任者です」


「その責任者はどこにいる」


運送業者は答えなかった。


男は二人の間に割って入らず、まず荷車と書類を確認した。


許可証には、通行できる区域と有効期限が記されていた。期限は今日まで。対象となる荷物も、配送先も明記されている。


少なくとも、書類の表面に明らかな不備は見当たらなかった。


「この許可証を発行したのは、どこですか」


男が尋ねると、商人は警戒したようにこちらを見た。


「誰だ、あんたは」


「昨日、北の水路の通行制限について管理所で確認した者です。書類の発行元を聞いています」


商人は許可証の下部を指した。


そこには、共同管理区域の管理部署を示す印があった。


男は、その印を記録した。


「止められたのは、どこですか」


「水路の南側だ。許可証を見せたら、指定された通路が使えなくなったと言われた」


「別の通路を案内されましたか」


「案内されたが、荷車では通れない。人が歩くための狭い道だ」


男は地図を思い浮かべた。


南側の入口から荷役場へ向かう道は、昨日、札を持った男たちが通行を止めていた場所に近い。


「そのとき、誰が止めたのですか」


「顔は覚えている。だが、名前は知らない」


「もう一度、その人に会えますか」


商人は首を横に振った。


「会いたくないね。こっちは商売をしているんだ。誰かの争いに巻き込まれるつもりはない」


男はそれ以上求めなかった。


商人にとって、重要なのは通路の支配者を突き止めることではない。荷物を届け、代金を受け取り、取引を成立させることだ。


調査への協力を拒むのは、臆病だからとは限らない。協力したことで取引先を失うなら、彼には拒む理由がある。


男は、運送業者へ向き直った。


「現場の責任者に会うことはできますか」


「無理でしょう。あの人たちは、こちらの話を聞きません」


「それでも、もう一度行く必要があります」


「あなたが行って、何か変わるんですか」


男は即答しなかった。


変わる保証はない。


だが、誰も現場の判断を確認しないままなら、許可証を持っていても通れない状態が続く。


「変わるかどうかを確かめるために行きます」


          *


南側の入口では、昨日と同じように通行が制限されていた。


男が近づくと、見張りの一人が手を上げた。


「ここは通れない」


「荷車の通行許可を持っている者が、通行を止められたと聞きました」


「関係ない。下がれ」


「許可証の対象区域と、あなたたちが封鎖している区域が一致しているか確認したい」


見張りは男をにらんだ。


「お前は管理所の人間か」


「違う」


「なら、口を出すな」


男は、相手の腰に下げられた札を見た。


昨日、別の場所で見たものと同じ形式だった。ただし、細部に違いがある。札の端には、管理区域を示す印とは別の小さな刻印があった。


男はそれを記憶に留めた。


「その札は、誰が発行したものですか」


「質問は終わりだ」


見張りが近づいた。


男は退かなかったが、相手の身体に触れることもしなかった。


「俺は通路を通りたいわけじゃない。許可証を持つ者が通れない理由を確認したいだけだ」


「同じことだ」


「違う。通行を認めないなら、その根拠を示してほしい」


見張りの後ろから、別の男が現れた。


「何の騒ぎだ」


昨日、荷車の事故現場にいた先頭の男だった。


彼は男の顔を見ると、わずかに眉を動かした。


「またお前か」


「昨日の封鎖について、確認したいことがある」


「何度言えばわかる。ここはお前の仕事場ではない」


「通行許可がある荷物まで止めていると聞いた」


「安全確認が終わっていない」


「その確認は、いつ終わる」


「必要なときに終わる」


男は、その答えを聞いても表情を変えなかった。


「では、確認が終わるまで、荷物の損失は誰が負担する?」


先頭の男は黙った。


「許可証を発行した部署か。現場の管理者か。それとも荷主か」


「余計なことを考えるな」


「誰が負担するか決まっていないなら、現場の判断で他人に損失を押しつけていることになる」


「お前に何がわかる」


先頭の男が一歩近づいた。


男は相手の動きを見ながら、後ろにある狭い通路との距離を確認した。


昨日の傷は、まだ完全には治っていない。ここで戦えば、勝てる保証はない。


だが、先頭の男はすぐには手を出さなかった。


「管理所へ行け。ここで何を言っても変わらない」


「管理所は、現場の制限が通達の範囲を超えている可能性を確認している」


その言葉に、相手の表情がわずかに変わった。


男は見逃さなかった。


管理所が調査を始めていることを、この男は知らなかったのか。それとも、知っていて別の対応をしているのか。


まだ判断できない。


「それなら、管理所の結果が出るまで待て」


「待っている間に、取引が壊れたら?」


「それは荷主の問題だ」


男は相手を見つめた。


「通路を止めたのは、荷主ではない」


先頭の男の表情が硬くなった。


「帰れ」


今度は、二人の見張りが左右から近づいた。


男は抵抗せず、道を譲った。


ここで捕まることが目的ではない。


相手が何を知り、どの言葉に反応し、どこから先を答えなくなるのか。その境界は少しずつ見えてきていた。


ただし、境界を知ることと、それを利用できることの間には、まだ距離がある。


          *


その日の午後、男は管理所へ戻った。


前日に対応した女性担当者は、通行制限に関する追加の報告を受け取っていた。


「指定区域外まで制限が広がっているという話は、こちらにも届いています」


「現場の責任者は、通達に従っていると言っています」


「そのようですね。ただ、通達には、許可証を持つ荷物を一律に止めるとは書かれていません」


彼女は、書類を机の上に広げた。


「こちらから確認を求めましたが、現場側は安全確認の必要性を理由に、制限を継続しています」


「安全確認の対象は、何ですか」


「特定の荷役作業と、その周辺区域です」


「荷物の種類は指定されていますか」


「一部の作業については、指定があります。ただし、詳細は関係者以外にお伝えできません」


男はうなずいた。


ここで無理に詳細を聞き出しても、相手の立場を困らせるだけだ。


「現場の責任者が、通達の範囲を広げている可能性はありますか」


担当者は、すぐには答えなかった。


「可能性はあります。しかし、現場には現場の事情があります。危険があると判断した場合、一定の範囲で通行を止めること自体は認められています」


「では、その判断が妥当かどうかは、誰が確認するのですか」


「管理部署です。必要があれば、別の担当者を派遣します」


「その確認を求めることはできますか」


「荷主や運送業者など、直接影響を受ける関係者から申立てがあれば、手続きを進められます」


男は考えた。


自分が申立てをする資格はない。


だが、実際に損失を受けている商人や運送業者はいる。


彼らに無理に協力を求めるのではなく、何ができるかを伝えることはできる。


「申立てをした人間が、不利益を受ける可能性はありますか」


担当者は、男の質問の意味を理解したようだった。


「手続き上、申立てを理由に不利益な扱いをしてはならないことになっています。ただ、実際にどのような影響が生じるかまで、私が保証することはできません」


「わかりました」


男は礼を言い、管理所を出た。


制度があることと、それを利用した人間が安全でいられることは同じではない。


だからといって、制度に意味がないわけでもない。


誰が申立てをするか。どの記録を添えるか。どこまでの事実を確認できているか。


それによって、相手が取れる対応は変わる。


男は、市場で会った商人たちの顔を思い出した。


彼らが望んでいるのは、正しさを証明することではない。荷物を届け、損失を減らし、次の取引を守ることだ。


その目的を無視して協力を求めても、誰も動かないだろう。


          *


夕方、男が直人のもとへ戻ると、机の上に見慣れない小さな木片が置かれていた。


「これは?」


「市場の商人から預かったものだ」


直人は木片を指で押さえた。


「君が今朝話していた荷物の件で、商人たちが荷役組合へ申し立てるかどうか相談していたらしい。そのとき、一人がこれを見せてくれた」


木片には、浅い刻印があった。


男は顔を近づけた。


見覚えのある形式だった。


北の水路で見た、荷車の側面に取り付けられていた札。そして、封鎖を指示していた男たちが持っていた札。


同じ印ではない。


しかし、刻印の外側にある線の形が似ていた。


「どこから手に入れた?」


「商人が、荷物を受け取ったときに渡されたものだと言っていた。通行許可とは別の、荷物の識別に使う札らしい」


男は木片を手に取らず、机の上で向きを変えて観察した。


「その商人は、これが何を示しているか知っているのか」


「荷物の管理番号だと思っていたそうだ。ただ、今回の通行制限が始まってから、同じ刻印を見かける回数が増えたと言っていた」


男は、記録用紙を取り出した。


木片の刻印を描き写す。


まだ、箱に関係する印だとは言えない。古い管理区の記録とも一致していない。単に、荷物の管理に使われている印かもしれない。


それでも、これまで別々に見えていたものの間に、初めて比較できる形が現れた。


通行制限の札。


荷物の識別札。


そして、北の水路で運ばれた木箱。


三つが同じ仕組みに属しているのかどうか、調べる価値はある。


「商人は、明日も話をしてくれるか」


直人が尋ねた。


「わからない。無理に頼むつもりはない」


男は木片の写しを記録の横に置いた。


「ただ、次に調べる場所は決まった」


「どこだ?」


「通行許可を発行したところと、荷物の識別札を管理しているところ。その二つが同じ組織なのか、別々なのかを確認する」


直人は少し考えてから言った。


「もし、別々だったら?」


「どこかで情報を受け渡しているはずだ。少なくとも、誰かが荷物を識別し、誰かが通行を認め、誰かが現場で止めている」


男は木片を見つめた。


「その三つの役割が、どこでつながっているのかを探す」


外では、荷車が石畳を通る音がしていた。


北の水路の封鎖は、まだ解除されていない。


誰が何を守ろうとしているのかも、わからないままだ。


だが、男はもう、ただ匿名の手紙に導かれて現場を訪れるだけではなかった。


相手の仕組みを知り、その仕組みの中で自分が動かせるものを見つける。


それができなければ、どれだけ記録を集めても、相手の都合で選ばれた情報を受け取るだけになる。


男は記録用紙を閉じた。


翌日、彼は初めて、相手が用意した場所ではなく、自分が必要だと判断した場所へ向かうつもりだった。

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