第154章 封鎖を動かす者
翌朝、男は水路へ向かわなかった。
直人が机の上に広げたのは、北の水路周辺で集めた簡単な地図だった。荷役場、古い倉庫、商人たちが使う通路、そして昨日、荷車が事故を起こした場所。正確な測量図ではないが、人や荷物の動きを考えるには十分だった。
「昨日、通路を封鎖していた連中は、荷役場の人間なのか」
直人が尋ねた。
「わからない。ただ、作業員に指示を出す立場の人間が別にいた。事故のあとに来た連中は、さらに上の立場らしかった」
「役所かもしれない」
「可能性はある。でも、役所の人間なら、何を根拠に封鎖したのか確認する必要がある。荷役場の管理者なら、契約や荷の管理権限が関係するかもしれない」
男は地図の上に小さな印をつけた。
「どちらにしても、封鎖を決めた人間と、現場で命令を受けている人間は同じとは限らない」
直人はうなずいた。
「では、誰から調べる?」
「封鎖を決めた人間を直接探すより、封鎖によって困っている人間を探す」
男は地図の端を指した。
「通路が使えなければ、別の道を通る。別の道を通れば、余計な費用がかかる。荷物が遅れれば、約束を守れない人間が出る。誰かが必ず、その負担を引き受けている」
「その人間が、封鎖を解除させようと動く」
「あるいは、別の方法を見つける。その過程で、誰が本当に通路を支配しているのかが見えるかもしれない」
男は地図を畳んだ。
昨日のように、相手の用意した場所へ行って、目の前の荷物を追いかけるのではない。
今回は、封鎖された通路が周囲にどのような影響を与えるかを調べる。
その違いが、どこまで役に立つかはわからなかった。
だが、少なくとも、同じ場所を何度も見に行くよりは意味がある。
*
午前中、男は水路から少し離れた市場へ向かった。
そこで、荷物を運ぶ商人たちが集まっているのを見つけた。普段なら水路を使う者たちが、遠回りの道を選ばざるを得なくなっているらしい。
「一日でこれだけ余計にかかるのか」
商人の一人が、荷車の御者に尋ねた。
「道が混んでいる。戻って別の荷を積む時間もない」
「荷主に請求できるか」
「契約に書いていなければ無理だ。遅れた分の損失まで、こっちが払うことになる」
男は少し離れた場所で話を聞いた。
そのとき、荷物を積んだ小さな車が市場の入口で止められた。
通路の封鎖を知らせる札を持った男が、御者に何かを説明している。
「この先は通れない。迂回してくれ」
「ここは水路の入口じゃない。市場へ入るだけだ」
「封鎖区域に接続している。指示に従え」
「そんな話は聞いていない」
御者が抗議すると、札を持った男は通行を許さなかった。
周囲の商人たちが集まり始めた。
「昨日までは通れたぞ」
「どこの誰が決めたんだ」
「荷物が腐ったら、誰が補償する」
質問が重なる。
札を持った男は、同じ説明を繰り返した。
「決定事項だ。異議があるなら、管理所へ申し立てろ」
その言葉を聞いて、男は動いた。
「管理所はどこにある」
札を持った男がこちらを見た。
「お前も荷主か」
「違う。場所を聞いている」
「関係者以外には教えられない」
「申し立てを受け付ける場所なら、関係者以外に隠す理由はないだろう」
男は声を荒らげなかった。
札を持った男は、周囲の商人たちを見てから、渋々、南側の通りを指した。
「荷役組合の管理所だ。だが、今行っても無駄だぞ」
「それは向こうが決めることだ」
男は礼を言って、その場を離れた。
背後では、商人たちがなおも抗議を続けていた。
封鎖は水路の入口だけではなく、周辺の流通にも影響を広げ始めている。
それが当初から計画されていたのか、現場の者たちが過剰に対応しているだけなのかは、まだ判断できなかった。
ただ、通路を封鎖する命令が出たというだけで、周囲の人間が自分の仕事や生活を変えざるを得なくなっている。
その変化は、隠そうとしても隠しきれない。
*
荷役組合の管理所は、二階建ての建物だった。
入口には数人の人間が並び、机の上には書類が積み上がっていた。
男は受付で、北の水路の通行制限について申し立てたいと伝えた。
「荷主ですか」
「違う」
「運送業者ですか」
「違う」
受付の男は書類から顔を上げた。
「では、申し立てる資格がありません」
「資格がないなら、封鎖の決定を確認する方法はあるか」
「関係者以外には回答できません」
「関係者というのは、荷主と運送業者だけか」
「契約に関係する者です」
「通路を使えなくなったことで損害を受ける商人は?」
受付の男は一瞬、言葉に詰まった。
「その場合は、個別に相談してください」
「誰に?」
「担当者に」
「その担当者はどこにいる」
受付の男は、奥の部屋を指した。
男は礼を言い、奥へ向かった。
扉の前には、先客がいた。
昨日、荷役場で配送先の変更について話していた、あの身なりの整った中年男だった。
中年男も男に気づいた。
一瞬、表情が止まる。
「またお前か」
「ここで会うとは思わなかった」
「何の用だ」
「通行制限について確認しに来た」
中年男は、男の手に巻かれた包帯を見た。
「昨日の件で、まだ懲りていないのか」
「昨日の件があったから、確認に来た」
「余計なことをするな。お前には関係ない」
「それなら、なぜ俺がここに来たことを気にする」
中年男は返事をしなかった。
そのとき、奥の部屋から声がした。
「次の方、どうぞ」
中年男は扉を開ける前に、男へ顔を近づけた。
「ここで何を聞いても、お前の欲しい答えは出ない」
「それは、聞いてみなければわからない」
「忠告しているんだ」
「誰のために?」
中年男の目が細くなった。
だが、彼はそれ以上何も言わず、部屋の中へ入っていった。
男は廊下で待った。
しばらくして、中年男が出てきた。
手には何も持っていない。顔にも、話がまとまったような様子はなかった。
彼は男を見たあと、受付へ向かい、何かを短く伝えてから建物を出ていった。
男は、その背中を追わなかった。
昨日までなら、すぐに後を追っていたかもしれない。
しかし、相手の行き先を知ることと、相手が何を決められる人間なのかを知ることは別だった。
今は、こちらが知るべきことを先に確認する。
やがて、男の順番が来た。
担当者は、四十代ほどの女性だった。
彼女は男の話を聞き、少し考えてから答えた。
「北の水路の通行制限は、荷役組合が単独で決めたものではありません」
「では、誰が決めたのですか」
「共同管理区域の安全確認に関する通達を受けています。ただし、すべての通路を一律に閉鎖するよう指示されたわけではありません」
男は顔を上げた。
「すべてではない?」
「はい。指定された区域と、特定の荷役作業について制限するように、という内容です。現場でどこまで制限しているかは、こちらで確認する必要があります」
「市場の入口まで止められています」
担当者は眉を寄せた。
「そこは指定区域ではないはずです」
彼女は書類をめくり、別の紙を取り出した。
「ただ、通行制限の範囲について、現場から追加の報告が届いています。現在、確認中です」
「いつからですか」
「昨日の午後です」
男は、昨日の出来事を思い出した。
彼が北の水路で荷車の事故に遭遇したのは、その少し前だった。
偶然にしては、変化の起きる時期が近い。
しかし、それだけで、事故と封鎖が同じ目的で起きたと判断することはできない。
「その通達には、荷物の種類も指定されていますか」
担当者は少し警戒するように男を見た。
「なぜ、それを聞くのですか」
「昨日、ある荷物をめぐって事故が起きました。現場の人間は、その荷に触れることを強く警戒していた」
「荷物の内容を知っているのですか」
「知らない。だから確認したい」
担当者はしばらく考えたあと、首を横に振った。
「ここで個別の荷物についてお答えすることはできません。ただ、通行制限の根拠となる通達と、現場が実施している制限の範囲は、別々に確認する必要があります」
「つまり、現場が通達を拡大解釈している可能性もある」
「可能性はあります。ですが、現時点では断定できません」
男はうなずいた。
それ以上の情報を無理に聞き出そうとはしなかった。
この女性は、彼の疑問にすべて答えられる立場ではない。彼女が知っていることと、知らないことを区別する必要がある。
「確認が終わったら、結果は公開されますか」
「関係者への通知が先になります。公開できる内容については、その後に判断されます」
「わかりました。教えてくれてありがとう」
男が立ち上がると、担当者は少し意外そうな顔をした。
「あなたは、何を調べているのですか」
男は扉の前で足を止めた。
「古い記録につながる荷物を探している」
それは嘘ではなかった。
ただし、箱のことも、匿名の手紙のことも、ここでは話さなかった。
担当者は、それ以上尋ねなかった。
*
管理所を出た男は、すぐに直人のもとへ戻った。
今日わかったことは、三つあった。
通行制限は、荷役組合だけで決めたものではない。
当初の通達は、すべての通路を閉鎖する内容ではなかった。
そして、現場では制限の範囲が広がっている可能性があり、管理所もその事実を確認しようとしている。
「つまり、上からの命令と、現場で起きていることが一致していないのか」
直人が言った。
「まだ、そうとは決められない。追加の通達があった可能性もあるし、管理所がすべての情報を持っていない可能性もある」
「だが、調べる場所は見えてきた」
「そうだ。封鎖を命じた人間だけを探す必要はない。通達の範囲が、どこで、誰によって変わったのか。それを確認すればいい」
男は机の上に地図を広げた。
市場の入口、荷役組合の管理所、北の水路。
三つの場所を線で結ぶ。
だが、線の先にいる人間の顔は、まだ見えていなかった。
そのとき、外から足音が聞こえた。
直人が入口へ向かうと、若い使いが一通の書類を持って立っていた。
「荷役組合からです。北の水路の通行制限について、関係者へ確認を行うので、こちらの記録を提出してほしいとのことです」
直人は書類を受け取り、男へ渡した。
そこには、通行制限の対象区域と、確認のために提出を求める記録の種類が記されていた。
その末尾に、小さな文字で追記があった。
「指定区域外における荷物の移動についても、必要に応じて確認すること」
男は、その一文を何度も読み返した。
指定区域外。
昨日、荷車が事故を起こした場所は、通達に記された区域の外だった可能性がある。
だが、追記がいつ、誰によって加えられたのかは、書類だけではわからない。
男は直人に尋ねた。
「この書類を持ってきた人は、誰から受け取ったと言っていた?」
「管理所の受付だそうだ。詳しいことは知らないらしい」
男は書類を畳まず、机の上に置いた。
今度は、誰かが匿名の地図で彼を呼び出したわけではない。
彼が調べ始めたことで、相手側の手続きも動き始めたのだ。
それが、彼の調査を助けるためなのか、動きを制限するためなのか、それとも別の目的なのか。
まだわからない。
ただ一つ確かなのは、北の水路で起きていることが、単なる一つの荷物の問題ではなくなりつつあるということだった。
男は新しい記録用紙を取り出した。
今度は、荷物の行き先だけではなく、通達が出された時刻、現場で制限が始まった時刻、そして制限範囲が広がった時刻を分けて記録することにした。
誰かが規則を作る。
誰かが規則を運用する。
そして、誰かがその隙間で利益を得る。
その三者が同じ人間であるとは限らない。
男はペンを置いた。
次に動くときは、ただ情報を拾うだけでは終わらせない。
相手が何を守り、何を恐れ、何を手放せないのか。
それを見極めたうえで、自分が動かせるものを探すつもりだった。




