第153章 水路の封鎖
翌朝、北の水路へ向かう前に、男は直人と二つの約束を決めた。
一つ目は、日が暮れるまでに戻らなければ、直人が箱と記録を別の場所へ移すこと。
二つ目は、誰かに追われても、相手を振り切るためだけに無理をしないことだった。
「昨日も、そう言っていたな」
直人が包帯の巻かれた手を見た。
「昨日は、戻れた」
「戻れたことと、次も戻れることは違う」
男は反論しなかった。
手のひらの傷は、物を強く握るとまだ痛んだ。走ることはできる。だが、長時間の格闘になれば不利になる。
それでも、水路へ行かないという選択肢はなかった。
昨日、木箱を運び出した者たちは、荷物を隠そうとしていたのか。それとも、誰かに見られることを前提に、別の場所へ運んでいたのか。
答えはまだない。
ただ、あの場所には、彼が追っているものと無関係ではない何かがあった。
男はいつもと違う道を選び、北の水路へ向かった。
水路に近づくにつれ、いつも聞こえる荷車の音が少なくなっていることに気づいた。
入口には、数人の男が立っていた。
「今日は通れない。向こうへ回れ」
一人が、荷物を運んできた商人に告げている。
「昨日までは通れたはずだ。こっちは今日中に届けなければならない」
「知らん。指示が出たんだ」
「誰の指示だ」
「責任者に聞け」
商人は不満を口にしながらも、荷車を引き返した。
男は少し離れた場所で足を止めた。
水路そのものが封鎖されたわけではない。人が歩ける脇道は残されている。だが、荷車が通る主要な通路だけが塞がれていた。
その先には、昨日見た荷役場がある。
男は入口の男たちを観察した。
武器を見せびらかしているわけではない。服装も、町の荷役人と大きく変わらなかった。だが、荷物を運ぶ者たちに指示を出し、通行を止める権限を持っている。
役所の人間なのか。荷役場の管理者に雇われた者なのか。それとも別の組織なのか。
外見だけでは判断できなかった。
男は正面から問い詰めるのをやめ、川沿いの細い通路へ回った。
そこには、古い石壁と倉庫の裏口が並んでいた。人が一人通れるほどの幅しかない場所もある。荷車は通れないが、徒歩なら先へ進める。
半分ほど進んだところで、怒鳴り声が聞こえた。
「止めろ! その荷は動かすな!」
直後、木材が地面を擦る音が響いた。
男が角を曲がると、倉庫の脇で荷車が傾いていた。積まれていた木箱の一つが落ち、車輪が石の溝にはまっている。
荷車を押していた若い男が、倒れた荷台と壁の間に足を挟まれていた。
周囲には四人ほどの作業員がいる。しかし、誰もすぐには近づこうとしなかった。
「車輪を持ち上げろ!」
「無理だ。荷が重すぎる!」
「先に上の箱を降ろせ!」
「触るなと言われているだろう!」
男は、最後の言葉を発した人物を見た。
きちんとした身なりの中年男だった。昨日、荷役場で配送先の変更について話していた男と、服装の雰囲気が似ている。
同一人物かどうかは、まだわからない。
「人が挟まれている」
男が言うと、中年男は振り返った。
「部外者は下がれ」
「先に荷をどかさなければ、足が潰れる」
「これは管理中の荷だ。勝手に触るな」
「では、あなたが助けるのか」
中年男は答えなかった。
荷車の下から、若い男の苦痛に耐える声が聞こえた。
「足が……抜けない……」
作業員の一人が、周囲を見回した。
「責任者の許可がなければ、荷を動かせない。もし中身が壊れたら、誰が責任を取るんだ」
その言葉で、男は状況の一部を理解した。
単なる事故ではない。
荷物を守ることが、挟まれた人間を助けることより優先されている。少なくとも、この場ではそうなっていた。
だが、荷物に何が入っているかはわからない。作業員たちが恐れているのが本当に荷の破損なのか、それとも別の何かなのかも不明だった。
男は中年男を見据えた。
「荷を壊さずに人を助ける方法を考えろ。時間がない」
「お前に命令される筋合いはない」
「命令ではない。選択肢を聞いている」
男は周囲を見た。
荷台の片側は石壁に寄りかかっている。反対側の車輪は溝にはまり、上の荷物が片側へ偏っていた。無理に持ち上げれば、残りの木箱まで崩れる可能性がある。
しかし、荷台の後方には、木箱を固定していた縄が垂れていた。
男は作業員に尋ねた。
「荷を積むとき、下に楔を入れたか」
「入れた。だが、車輪が溝に落ちて外れたんだ」
「予備は?」
「向こうの道具箱にある」
「二人で取ってきてくれ。もう一人は、あの長い木材を持ってきてほしい。荷台を持ち上げるためじゃない。傾きを止める」
中年男が遮った。
「勝手なことをするな!」
男はその声を無視せず、正面から返した。
「なら、別の方法を出してくれ」
短い沈黙が落ちた。
中年男は答えられなかった。
作業員の一人が、とうとう道具箱へ走った。もう一人も木材を取りに行く。
男は痛む手をかばいながら、荷台の後方に回った。縄の結び目を確かめ、荷物の重心を見た。以前、工場で重い金属板を扱った経験が、こういう場面では役に立つ。
もっとも、今の荷物は金属板とは違う。
何が入っているかもわからない木箱を、乱暴に動かすことはできなかった。
「足を動かすな。今から少し揺れる」
男が声をかけると、挟まれた若い男は、苦しそうにうなずいた。
楔が届いた。
作業員たちが荷台の傾きを抑え、男は木材を支点にして、車輪にかかる力をわずかに逃がした。全員で少しずつ調整し、車輪の下へ楔を差し込む。
一度ではうまくいかなかった。
荷台が数センチ動き、上の箱が鈍い音を立てた。
「止めろ!」
中年男が叫んだ。
男も手を止めた。
箱が崩れる様子はない。だが、次に大きく動かせば、固定が外れる可能性があった。
「このままでは助けられない」
作業員が言った。
男は荷台の下を確認した。
「車輪を戻す必要はない。傾きを止めたまま、後ろを少しだけ浮かせる。挟まれている足が抜ける幅を作ればいい」
「そんなことをして、荷が崩れたらどうする」
中年男の声には、先ほどまでとは違う焦りが混じっていた。
男はその変化を覚えておいた。
「荷が大事なら、なおさら全員で慎重にやるしかない」
中年男は唇を結んだ。
やがて、彼は作業員たちに短く指示を出した。
「荷台を支えろ。上の箱には触るな」
許可が出ると、作業員たちは一斉に動いた。
荷台の後方がわずかに持ち上がり、挟まれていた若い男が足を引き抜いた。彼は地面に転がり、痛みに顔を歪めた。
骨が折れている可能性があった。
男は作業員に、無理に立たせず、足を動かさないよう伝えた。水と布を用意させ、近くの治療所へ人を走らせる。
若い男は、息を整えながら男を見た。
「ありがとう……」
「礼はいい。足を診てもらえ」
男が離れようとすると、若い男が服の袖をつかんだ。
「待ってくれ。あんた、昨日も水路にいた人だろ」
男は動きを止めた。
「俺を知っているのか」
「顔を見たわけじゃない。でも、あの荷を見ていた人がいるって、今朝、聞いたんだ」
「誰から?」
若い男は答えかけて、周囲を見た。
中年男がこちらを見ていた。
その視線に気づいた若い男は、口を閉じた。
男はそれ以上問い詰めなかった。
ここで聞き出そうとすれば、若い男が後から困ることになる。助けた直後に、相手を新たな危険へ押し込む必要はない。
男は立ち上がった。
その瞬間、入口のほうから複数の足音が聞こえた。
現れたのは、さきほど通行を止めていた男たちだった。その後ろには、荷役場の作業員とは違う服装の者もいる。
先頭の男が中年男に尋ねた。
「何があった」
「荷車の事故です。荷は無事ですが、部外者が勝手に手を出しました」
男は中年男の言葉を聞き、すぐに反論しなかった。
自分が何をしたかは、ここにいる全員が見ている。言い争いで状況が変わるわけではない。
先頭の男は、地面に置かれた木材と楔、そして救助された若い男を見た。
「お前は誰だ」
「通りかかっただけだ」
「通りかかっただけの人間が、管理中の荷に手を出したのか」
「人が挟まれていたからだ」
「荷が破損した場合、責任を取れるのか」
男は相手の目を見た。
「人が傷ついた場合、誰が責任を取る」
相手の顔が険しくなった。
周囲の作業員たちは、口を挟まない。
男はそこで、初めて気づいた。
彼らが守ろうとしているのは、荷物だけではない。
誰が決定権を持ち、誰が責任を負うのか。その境界そのものを守ろうとしているのだ。
現場の作業員は、荷を動かす権限を持たない。中年男は指示を出せるが、事故の責任をどこまで負うかは別の話になる。そして、今来た者たちは、さらに上の立場から、誰が何をしてよいかを決めようとしている。
その構造の中では、目の前で人が傷ついていても、誰かが許可を出すまで動けないことがある。
だが、それだけが理由とも限らない。
この荷に関しては、彼らの警戒が異様に強い。
男は先頭の男に尋ねた。
「ここを封鎖したのは、荷車の事故を防ぐためか」
「お前には関係ない」
「では、事故が起きた今、荷を運ぶのか。それとも、ここに置いたままにするのか」
先頭の男は答えず、後ろの者へ視線を向けた。
その一瞬の反応で、男は確信したわけではないが、一つの可能性を考えた。
彼らは、荷を早く動かしたいのかもしれない。
それなのに、表向きには通路を封鎖し、荷を守るために人の通行を止めている。
誰かの指示と、現場の都合が一致していない。
その食い違いを利用できるかどうかは、まだわからなかった。
「この者を連れていけ」
先頭の男が言った。
二人が近づいてきた。
男は逃げなかった。ここで抵抗すれば、救助した作業員たちまで巻き込まれる可能性がある。手の傷も完全には治っていない。
代わりに、彼は周囲を見て、通路の出口と人の配置を頭に入れた。
「どこへ連れていく」
「事情を聞くだけだ」
「なら、ここで聞けばいい」
「決めるのはお前ではない」
男は一歩だけ後ろへ下がった。
相手の一人が腕をつかもうとした瞬間、荷車のそばで木が大きく軋んだ。
全員の視線がそちらへ向いた。
傾きを止めていた楔が、石の溝から少しずれていた。
作業員が叫ぶ。
「荷台が動く!」
男は、つかまれかけた腕を引き、荷車の後方へ走った。
誰かが怒鳴ったが、聞いている余裕はなかった。
荷台が再び傾けば、残っている木箱が落ちる。近くには、まだ立ち上がれない若い男もいる。
男は木材をつかもうとして、傷ついた手に鋭い痛みを感じた。
力が入らない。
一瞬だけ、判断が遅れた。
その隙に、別の作業員が木材を押さえた。さらに二人が加わり、荷台の動きが止まる。
男は歯を食いしばり、片手で楔を押し戻した。
今度は、作業員たちも手を離さなかった。
荷台が安定したあと、男はその場に片膝をついた。手のひらの傷が開き、包帯に血がにじんでいた。
先頭の男が、しばらく彼を見下ろした。
「お前は、何を探している」
男はすぐには答えなかった。
ここで箱のことを口にすれば、相手が何を知っているかにかかわらず、余計な情報を渡すことになる。
「昨日、ここで運ばれた荷物の行き先を知りたい」
「それだけか」
「今は、それだけだ」
先頭の男は、男の顔を見たまま黙っていた。
やがて、彼は周囲の者たちに告げた。
「今日はこの者を連れていくな。事故の報告を先にまとめろ」
意外な指示だった。
男は警戒を解かなかった。
助かったのではない。相手が、今は別のことを優先しただけかもしれない。
先頭の男は続けた。
「ただし、明日以降、この水路に近づくな」
「理由は?」
「警告だ」
「誰からの?」
男の問いに、相手は答えなかった。
彼らは荷車と木箱の周囲に人を配置し、救助された若い男を治療所へ運ぶ準備を始めた。
男は、すぐにその場を離れなかった。
救助した相手が連れていかれないことを確認し、作業員たちが自分たちの判断で荷を支え続けているのを見届けてから、ようやく裏道へ向かった。
水路を離れたところで、彼は壁に手をついた。
息が荒い。
傷が痛む。
何も手に入らなかったわけではない。だが、昨日よりも状況は悪くなった。
荷物の行き先はわからないまま。封鎖の理由も不明。誰が指示を出しているのかも、まだ特定できない。
それでも、彼は一つのことを理解した。
この場所では、荷物を動かす権限を持つ者と、実際に荷物を扱う者が分かれている。そして、その間にいる人間たちは、何かを失うことを恐れている。
その恐れが、荷そのものに向けられているのか。
それとも、荷が運ばれることで明らかになる何かに向けられているのか。
そこを見極める必要があった。
男は傷ついた手を布で押さえ、帰路についた。
遠くで、水路の封鎖を告げる声が響いていた。
その日の夕方、直人は男の血のにじんだ包帯を見て、何も言わずに新しい布を用意した。
男は起きたことを順番に話した。
直人は最後まで聞き、机の上に置かれた記録を見た。
「つまり、箱の行き先を探しに行ったら、別の荷物をめぐって人が傷つきかけた」
「そうだ」
「そして、君はまた、そこに首を突っ込んだ」
男は少し考えた。
「見捨てれば、荷は守られたかもしれない。でも、あの人の足はどうなっていたかわからない」
「それを責めているわけじゃない」
直人は包帯を巻き終えた。
「ただ、相手は君が何を探しているか、気づき始めている可能性がある」
「わかっている」
「なら、次は相手が用意した場所へ行くんじゃなく、相手が動かざるを得ない場所を探そう」
男は直人を見た。
それは、これまでとは違う考え方だった。
匿名の手紙に導かれ、現場を見に行き、そこで見つけたものを追いかける。
そのやり方では、いつも相手が選んだ場所と時間で動くことになる。
箱を集めることが目的なら、箱につながる情報を追う必要はある。
しかし、情報を持つ者が相手の都合で動いているのなら、こちらもまた、相手の都合を利用しなければならない。
「明日は水路へ行かない」
男は言った。
直人が顔を上げる。
「それでいいのか」
「今は、向こうが俺を近づけたくない理由を調べる。荷の行き先だけじゃない。誰が通路を封鎖できて、誰が封鎖を解除できるのか。その違いを探す」
彼は、匿名の封筒に描かれた粗い地図を取り出した。
数字の並びは、古い記録にある表記と似ている。しかし、完全には一致しない。
それを同じものだと決めつけることはできない。
だが、誰かが彼に北の水路を見せたかったのだとすれば、そこで起きたことまで、すべて偶然とは限らない。
男は封筒を裏返し、何も書かれていない面を見つめた。
「次は、俺が選ぶ」
その言葉は、誰かへの宣言ではなかった。
自分が次に何をするかを、初めて自分自身に確認するための言葉だった。




