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観客のいない世界  作者: 亀


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第151章 次の封筒

翌朝、男が直人とともに記録を整理していると、入口の外で足音が止まった。


扉を叩く音はなかった。


直人が顔を上げたときには、足音はすでに遠ざかっていた。


「誰か来たのか?」


男は立ち上がり、入口を確認した。


戸口の脇に、薄い封筒が置かれていた。


差出人の名前はない。


宛名もない。


封筒の表には、以前受け取ったものと似た筆跡で、短い一文だけが書かれていた。


――旧管理区の記録を探すなら、北の水路へ行け。


男は封筒をすぐには拾わなかった。


周囲を見渡す。


通りには人がいる。荷車が行き交い、店の者が商品を運び、近くの建物では朝の作業が始まっていた。


誰も、こちらを気にしているようには見えない。


「またか……」


直人が近づいてきた。


「前の紙片と同じ人物からだと思うか?」


「まだ分からない。筆跡が似ているだけでは、同じ人間とは限らない」


男は封筒を拾い、開封する前に表と裏を確認した。


封は簡単に閉じられている。


中には、一枚の紙が入っていた。


そこには北の水路の位置を示す簡単な図と、いくつかの数字が記されていた。地名らしき文字もあったが、現在使われている呼び方とは少し違う。


男は図を見つめた。


旧管理区。


祖先が残した記録に、その言葉は何度も現れていた。


箱の中身はまだ確認できない。


しかし、箱に関係する記録が示す場所や名称は、現在の地図と一致しないことがある。


もし、この図が本当に旧管理区に関係しているなら、調べる価値はある。


「行くのか?」


直人が尋ねた。


「行く。ただし、今日すぐに中へ入るとは限らない」


男は紙を折り、封筒とは別に保管した。


「まず場所を確認する。以前の記録と一致する部分があるか、それから考える」


直人はうなずいた。


「俺はここに残る。箱と記録を見ておく」


「頼む。もし俺が戻らなかったら、勝手に箱を持ち出さず、これまでの記録を保管しておいてくれ」


直人の表情が変わった。


「戻らなかったら、というのは?」


「念のためだ。最近、調査の範囲が広がっている。相手が誰なのか分からない以上、何も起きないと決めつけることもできない」


直人はしばらく男を見ていたが、やがて答えた。


「分かった。だが、危険だと判断したら引き返せ。場所を見つけることと、無理に中へ入ることは別だからな」


「ああ」


男は必要な道具をまとめ、封筒に入っていた図を持って外へ出た。


⸻


北の水路は、市場から離れた場所にあった。


現在も使われている水路の一部は石で補修されていたが、その先には古い水門と、長く使われていないらしい通路が残っていた。


男は少し離れた場所から周囲を観察した。


人の往来は少ない。


水門の近くには資材置き場があり、数人の作業員が木箱を運んでいた。さらに奥には、古い建物が並んでいる。


男は封筒の図と実際の地形を照らし合わせた。


水門の位置。


曲がった水路。


三つに分かれる小道。


図に描かれた特徴は、いくつか一致していた。


だが、旧管理区の記録にある場所だと断定するには、まだ情報が足りない。


男は通路へ向かおうとした。


そのとき、資材置き場から怒鳴り声が聞こえた。


「それはこっちに運ぶなと言っただろう!」


一人の作業員が、別の男の腕をつかんでいた。


つかまれた男の足元には、小さな木箱が落ちている。箱の蓋が開き、中から金属製の部品がいくつか転がり出ていた。


「指示書には、この場所へ運べと書いてあったんだ」


「指示書が間違っているんだよ。ここに置かれたら、俺たちが責任を取らされる」


「だったら、指示した人間に言え。俺は運ぶように言われただけだ」


周囲の作業員は、二人を遠巻きに見ていた。


男はすぐには近づかなかった。


口論の内容だけでは、どちらが正しいのか分からない。荷物の配送先が変更されたのかもしれないが、単に指示が行き違っただけの可能性もある。


しかし、地面に転がった部品の形を見て、男は目を細めた。


以前、配送数量の不一致を調べていたときに見たものと、よく似ていた。


男は部品の種類を記憶し、作業員たちの様子を観察した。


やがて、資材置き場の奥から、身なりの整った男が現れた。


「何を騒いでいる?」


作業員の一人が、すぐに姿勢を正した。


「荷物の届け先が違います。こちらでは受け取れないと伝えたのですが、指示書にはここへ運べと書いてあるそうです」


身なりの整った男は、地面の部品を見た。


「指示書を見せろ」


作業員が紙を差し出す。


男は内容を確認し、眉をひそめた。


「これは古い指示だ。変更後の書類が届いているはずだが?」


「届いていません」


「そんなはずはない。昨日、手続きを済ませたと聞いている」


その言葉を聞いた瞬間、男は考えた。


昨日。


配送先の変更。


変更後の記録。


これまで調べてきた事例と、似た構造だった。


だが、まだ同じ取引だとは限らない。


身なりの整った男は、作業員に向き直った。


「荷物をいったん戻せ。確認が取れるまで、ここには置くな」


「しかし、運搬費はどうなりますか?」


「あとで処理する」


作業員は不満そうだったが、指示に従い始めた。


男は、その場を離れようとした。


すると、資材置き場の入口にいた若い作業員が、こちらを見ていることに気づいた。


目が合うと、若い作業員は一瞬だけ視線をそらした。


そして、周囲に聞こえないほどの声で言った。


「あなたも、あの箱を探しているんですか?」


男の足が止まった。


「何のことだ?」


若い作業員は、すぐには答えなかった。


彼は資材置き場の奥を気にしている。


誰かに聞かれることを恐れているようにも見えたが、男にはまだ判断できなかった。


「ここでは話せません。夕方、水門の向こうに古い倉庫があります。そこへ来てください」


「なぜ俺に話す?」


「あなたが何を調べているのか、少しだけ知っています」


若い作業員は、それだけ言うと荷物を持ち上げ、ほかの作業員たちの中へ戻っていった。


男はその背中を見送った。


匿名の手紙に導かれて来た場所で、箱について知っているという人間に出会った。


偶然なのか。


誰かが自分をここへ導いたのか。


そして、目の前の配送問題は、祖先が残した記録と本当に関係しているのか。


今の時点では、何一つ確かではない。


男は水門と古い倉庫の位置を記録した。


そのうえで、封筒の図をもう一度確認した。


図に描かれた水路の曲がり方は、目の前の景色と一致している。


そして、図の端には、小さな数字が三つ並んでいた。


男はその数字を見て、以前箱に関する記録で見た番号を思い出した。


完全な一致ではない。


それでも、無視できない共通点だった。


⸻


夕方、男は約束の場所へ向かう前に、少し離れた場所から倉庫を確認した。


倉庫の扉は閉じられていた。


周囲に人影はない。


だが、建物の脇には新しい車輪の跡が残っている。最近、荷物を運び込んだ可能性があった。


男は近づくのをやめた。


相手が何者なのか分からない。


倉庫に何があるのかも分からない。


そして、自分がこの場所へ来ることを誰かが予測していた可能性もある。


男は、約束の時間まで少し離れた場所で待つことにした。


日が傾き始めたころ、倉庫の扉が開いた。


出てきたのは、昼間の若い作業員ではなかった。


二人の男が、木箱を一つ運び出している。


木箱は小さかったが、二人は慎重に扱っていた。


一人が周囲を確認し、もう一人が荷車へ箱を載せる。


その動きには、慣れた手順があった。


男は姿を隠したまま、荷車の行き先を確認しようとした。


その瞬間、背後で小石が転がった。


振り返る。


通路の奥に、人影が立っていた。


男が相手の顔を確認するより先に、その人物は静かに告げた。


「そこにいると、見つかるぞ」


男は身構えた。


声の主は、昼間の若い作業員ではなかった。


暗がりの中で、相手の顔ははっきり見えない。


「誰だ?」


返事はなかった。


代わりに、倉庫のほうから足音が近づいてきた。


男はすぐに判断した。


ここに留まれば、倉庫から出てきた者たちと、背後の人物の両方に挟まれる可能性がある。


彼は水路沿いの狭い通路へ移動した。


背後から追ってくる足音はない。


しかし、男は走るのをやめなかった。


角を曲がり、石壁の陰へ身を寄せてから、ようやく後方を確認した。


誰もいない。


倉庫の明かりも、木箱を運び出した男たちの姿も、ここからは見えなくなっていた。


男は呼吸を整えながら、今日の出来事を頭の中で整理した。


匿名の手紙。


旧管理区を思わせる地図。


配送先の食い違い。


箱について知っているという作業員。


そして、倉庫に出入りする正体不明の人間。


それぞれが同じ問題につながっているとは限らない。


だが、少なくとも一つだけ分かったことがある。


自分は、ただ記録を探しているだけではない。


誰かが、自分に何かを見つけさせようとしている可能性がある。


その目的が箱を集めさせることなのか、それとも別の何かなのか。


男はまだ知らなかった。


ただ、次に進む前に、今日見たものを一つずつ確かめる必要があった。


そして今度は、相手が用意した道筋を、そのまま歩くつもりはなかった。

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