第149章 帳簿を持つ男
翌朝、男は直人に今日の予定を伝えてから、市場へ向かった。
昨日、作業員から聞いた話では、配送先の変更を承認した人物は、帳簿を管理している責任者らしい。
しかし、その人物の名前も、普段どこで仕事をしているのかも分からない。
男はまず、配送を扱う商人たちが集まる場所へ足を運んだ。
朝の市場には、荷物を積み込む人間と、注文を確認する人間が入り交じっていた。
男は、昨日の配送依頼に関係する商人を知っている者がいないか、何人かに尋ねた。
最初の二人は知らないと答えた。
三人目の商人は、依頼書に記載されていた名前を聞くと、少し考えてから口を開いた。
「その名前なら、取引の帳簿を扱う人間がいたはずだ。だが、本人が直接荷物を運ぶことはない」
「その人に話を聞くことはできますか?」
「何の話だ?」
「配送記録の確認です。発注数と受け取り数が一致しない事例があり、変更の手続きについて知りたいんです」
商人は男を注意深く見た。
「取引相手なのか?」
「違います。ただ、確認できる範囲で、荷物の流れを調べています」
商人はしばらく黙っていた。
「なら、本人が話してくれるかどうかは分からんな。帳簿は商売の内側にあるものだ。関係のない人間に、簡単に見せるものじゃない」
「分かりました。無理に見せてもらうつもりはありません」
男が礼を言って立ち去ろうとすると、商人は付け加えた。
「市場の北側に、小さな事務所がある。そこに出入りしているかもしれない。ただ、俺が紹介したとは言わないでくれ」
男はうなずいた。
「ありがとうございます」
手に入ったのは、場所についての情報だけだった。
それでも、次に何をすべきかは分かった。
⸻
北側の事務所は、商店の間に挟まれた小さな建物だった。
入口には、取引の相談や帳簿の整理を請け負う旨が書かれた札が掲げられている。
男は中へ入り、受付の人物に事情を説明した。
「配送に関する記録について、確認したいことがあります。帳簿を管理されている方と話すことはできますか?」
受付の人物は、すぐには答えなかった。
「どの取引についてですか?」
男は、公開されている配送依頼の名前と、確認したい内容を説明した。
受付の人物は、手元の記録を調べた。
「その取引を担当している者がいるか、確認します。少々お待ちください」
男は椅子に座って待った。
しばらくして、奥の部屋から一人の男が出てきた。
年齢は四十代くらいに見える。身なりは整っていたが、特別に目立つものはない。
「私が帳簿の整理を担当しています。どのようなご用件でしょうか」
男は立ち上がり、挨拶をした。
「配送の数量と届け先の変更について、確認したいことがあります」
相手の表情が少し硬くなった。
「取引先の方ですか?」
「いいえ。現場で複数の配送上の不一致を確認したため、事実関係を整理しています。ただし、こちらに閲覧する権利がない帳簿を見せてほしいというつもりはありません」
帳簿を管理する男は、しばらく彼を見ていた。
「それなら、私がお答えできることは限られます。個別の取引情報は、依頼主の許可なく話せません」
「承知しています。では、一般的な手続きについて教えていただけませんか。配送先が変更された場合、通常はどのような記録が残るのでしょうか」
相手は、少しだけ警戒を緩めた。
「通常は、変更の指示を出した者と、その理由が記録されます。変更後の届け先も明記する必要があります。すでに荷物が出発している場合は、運搬人にも変更内容を伝えなければなりません」
「変更前の伝票は残るのですか?」
「原則として残します。変更の経緯を確認できなくなりますから」
男は、その内容を記録した。
「もし、受け取り数が発注数と一致しなかった場合は?」
「まず、受け取り側と運搬側で数量を確認します。そのうえで、積み込み時点の記録と照合します。原因が分からなければ、責任の所在も決められません」
「配送先の変更と数量不足が、同じ取引で起きた場合はどうなりますか?」
帳簿を管理する男は、少し考えた。
「それだけで、不正があったとは言えません。変更の理由と、荷物がどこで誰に引き渡されたのかを確認する必要があります」
男はうなずいた。
それは、彼が今まで考えていたことと同じだった。
しかし、一般的な手続きが分かったからといって、実際の取引がその手順に従っていたかどうかは分からない。
「ありがとうございます。最後に一つだけ。変更の指示が現場に伝わっていなかった場合、どうやって確認するのでしょうか」
「変更を受け取った側の記録と、指示を出した側の記録を比較します。片方にしか記録がなければ、伝達に問題があった可能性があります」
男は礼を言った。
相手は個別の帳簿を見せてくれなかった。
それでも、確認するための手順は分かった。
男は、今後何を比較すべきかを整理しながら事務所を出た。
⸻
昼過ぎ、男は市場の外れで再会した男と合流した。
「帳簿を管理している人間と話ができた」
「何か分かったのか?」
「個別の取引情報は教えてもらえなかった。ただ、配送先の変更や数量不足が起きた場合、通常は複数の記録を照合するらしい」
男は、聞いた内容を説明した。
相手は少し考えてから言った。
「なら、変更前と変更後の記録を比較できれば、どこで食い違いが起きたのか分かるかもしれない」
「そうだな。ただ、実際の記録を確認するには、取引関係者の協力が必要になる」
「お前は、そこまで調べるつもりなのか?」
「今は、調べる価値があるかどうかを判断している段階だ。もし、関係者が協力してくれなければ、別の方法を考える」
相手はうなずいた。
「俺の仕事でも、現場の記録と管理側の記録を照合することがある。片方だけ見ていると、問題が起きた場所を間違えることがあるからな」
「お前の組織でも、似た問題を扱っているのか?」
「物流に限った話じゃない。複数の人間が関わる仕事なら、どこでも起こり得る」
それ以上、相手は詳しく話さなかった。
男も、無理に尋ねなかった。
「もし、俺が調べている取引について何か分かったら、教えてくれるか?」
「話せる範囲ならな」
「それでいい」
二人は、明日もそれぞれの立場で確認できる情報を集めることにした。
⸻
その日の夕方、帳簿を管理する男は、事務所に残っていた。
昼間に訪ねてきた若い男のことを思い返していた。
彼は、個別の帳簿を見せろとは言わなかった。
それでも、質問の内容は具体的だった。
配送先の変更。
数量の不一致。
変更の指示が現場へ伝わっていたかどうか。
どこかで、実際に問題が起きているのかもしれない。
しかし、確かなことが分からない段階で、誰かを疑うわけにはいかなかった。
彼は、自分が管理する記録を開いた。
今日の取引には、予定どおりに処理されたものもあれば、変更の手続きが必要になったものもある。
その一つに、最近、配送先の変更が続いている取引があった。
帳簿を管理する男は、変更前の記録を確認した。
そして、変更後の記録も確認した。
二つの記録は、完全には一致していなかった。
彼は、すぐに結論を出さず、該当する伝票を別にしておいた。
翌日、関係者に確認する必要がある。
⸻
夜、男は直人と記録を整理した。
今日分かったことは、配送先の変更や数量不足が起きた場合、通常は変更前後の記録を比較するということだった。
直人は、机の上の紙を見ながら言った。
「つまり、今の調査では、実際の伝票が必要になるんだな」
「ああ。ただ、誰かの帳簿を勝手に見ることはできない。関係者が協力してくれるか、正当な理由で確認できる機会を待つ必要がある」
「それまで、何もできないのか?」
「いや。今までに確認した事例を整理して、どの情報が不足しているのかを明確にしておく」
男は、記録の端に三つの項目を書いた。
変更の指示を出した者。
変更内容を受け取った者。
実際に荷物を受け取った者。
この三者の記録がそろえば、どこで食い違いが起きたのかを調べやすくなる。
ただし、記録が一致しないことが分かったとしても、それだけで誰かの意図まで証明できるわけではない。
男はその点も書き加えた。
調査は、少しずつ具体的になっている。
しかし、問題の全体像が見えたわけではなかった。
彼は明日の予定を確認し、記録を封筒へ戻した。
次に必要なのは、一般的な手続きではなく、実際の取引で何が起きたのかを示す情報だった。




