第145章 発注元の名前
翌朝、男は直人に前日の記録を預け、発注元を調べるために市場へ向かった。
昨日までに分かったことは、限られている。
ある工房で金属部品の不足が繰り返されていること。荷物を運ぶ人間と受け取る人間が、必ずしも同じ情報を共有していないこと。そして、同じ種類の部品が複数の工房へ運ばれていること。
この三つだけでは、何かの組織が関わっているとは言えない。
男は、工房の主人に正面から質問することを避けた。
調査している理由を説明できない状態で、突然、配送の不備について詳しく尋ねれば、相手に警戒される可能性がある。
そこで、まずは部品を扱う商店を回り、一般の取引として確認できる情報を集めることにした。
最初に訪れた店では、主人が帳簿を整理していた。
「この種類の部品は、最近よく売れているんですか?」
男が尋ねると、主人は棚に目を向けた。
「時期によるな。修理の仕事が増えれば、当然、注文も増える」
「複数の工房から注文が来ることもありますか?」
「そりゃあるさ。同じ部品を使う仕事なんて、いくらでもある」
男はうなずいた。
予想していたとおりの答えだった。
続いて、別の店でも同じ質問をした。
こちらの主人は、部品の種類によって仕入れ先が違うことを教えてくれた。さらに、同じ仕入れ先から購入していても、配送を担当する商人は毎回同じとは限らないという。
男は、その話を記録した。
配送する人間が変わること自体は、異常ではない。
重要なのは、誰が、どこから、何を、どのような条件で発注しているのかということだった。
昼近くになって、男は昨日の工房へ戻った。
入口では、職人が壊れた部品を分解していた。
男は、主人が仕事の手を止めたところで声をかけた。
「昨日、部品が足りないと話していましたね。以前にも同じことがあったと聞きました」
主人は男を見た。
「それがどうした?」
「原因が分かったのか気になりまして。もし差し支えなければ、発注元が変わったのかどうかだけでも教えてもらえませんか」
主人はすぐには答えなかった。
「お前は何者だ?」
「取引の流れを調べています。ただ、あなたの商売に口を出すつもりはありません。話せないことなら、無理に聞くつもりもありません」
男はそれ以上、説明を重ねなかった。
しばらくして、主人は作業台に置かれた伝票を手に取った。
「発注元は変わっていない。少なくとも、こちらが注文を出す相手は同じだ」
「配送する商人も同じですか?」
「いや。そこは何度か変わった」
「不足が起きたのは、その変更と同じ時期ですか?」
主人は伝票を見比べた。
「正確には覚えていない。だが、前に不足したときは、別の商人が運んできた」
男は、その言葉を記録した。
一つ目の不足と、二つ目の不足。
どちらも配送担当者が異なっていた可能性がある。
しかし、二回だけでは偶然との区別がつかない。
「伝票を確認してもいいですか?」
「何のために?」
「不足が起きた日と、配送担当者が変わった日を比較したいんです。個人の名前や取引額を記録する必要はありません」
主人は少し考えたあと、古い伝票を数枚取り出した。
「これだけだ。ほかのものは商人に返した」
男は許可された範囲で伝票を確認した。
日付。
部品の種類。
発注数。
受け取り数。
そして、配送を担当した商人の印。
男は、必要な項目だけを手元の紙に写した。
確認できた伝票は三枚しかなかった。
そのうち二枚では、発注数と受け取り数が一致している。
残る一枚では、発注数より受け取り数が少なかった。
その伝票に記された配送担当者は、昨日とは別の人物だった。
男は記録を終え、主人に礼を言った。
店を出てからも、すぐには結論を出さなかった。
配送担当者が異なるという共通点は見つかった。
だが、荷物を途中で紛失した可能性もあれば、工房側の記録に誤りがある可能性もある。
発注元が同じだからといって、発注元が不足に関わっているとも限らない。
次に必要なのは、同じ商人が運んだほかの荷物でも不足が起きているかどうかを確かめることだった。
⸻
午後、男は市場の広場で、再会した男と顔を合わせた。
相手は人混みを避け、建物の陰に立っていた。
「何か見つけたか?」
「発注元は変わっていなかった。ただ、配送担当者が何度か変わっている」
男は、確認できた範囲だけを説明した。
「不足が起きた伝票では、発注数と受け取り数が一致していなかった。次は、同じ配送担当者が別の場所でも荷物を運んでいるかを調べる」
相手はしばらく考えた。
「配送担当者が原因だと考えているのか?」
「まだ考えていない。比較する対象を決めただけだ」
「もし、ほかの場所でも不足が起きていたら?」
「その場合は、配送担当者が関わっている可能性が高くなる。ただし、それでも本人が意図的にやったとは限らない」
相手は小さく笑った。
「前よりも、ずいぶん慎重になったな」
「以前は、慎重でなくても済むと思っていたわけじゃない。調べる前に決めつけても、何も解決しないと分かってきただけだ」
男は、記録をしまった。
「ところで、お前の仕事はどうなっている?」
相手の表情がわずかに変わった。
「来週から本格的に動くことになった」
「この地域で?」
「ああ」
「俺の調査と重なる可能性はあるか?」
「あると思う。ただ、どこまで重なるかは、まだ分からない」
男は相手を見た。
彼が所属する組織は、以前からこの地域に何らかの関心を持っていたらしい。
だが、相手自身も計画の全容を知らないと言っている。
その説明を信じるかどうかは、まだ決められない。
「もし、俺の調査とお前の仕事が衝突したら?」
「そのときは、状況を見て判断する」
「お前の組織の指示と、俺の安全が両立しない場合は?」
相手はすぐには答えなかった。
「……そのときは、俺自身が決めなければならないだろうな」
「そうか」
男はそれ以上、問い詰めなかった。
相手にも、組織の中で守らなければならない立場がある。
しかし、その事情を理解することと、自分が不利益を受け入れることは別だった。
二人は、翌日もそれぞれの情報を持ち寄ることだけを確認して別れた。
⸻
その日の夕方、再会した男は、組織から指定された場所へ向かった。
担当者はすでに到着していた。
「現地での確認は進んでいるか?」
「まだ準備段階です。対象地域の物流について、情報を集めています」
「なら、これを見ておけ」
担当者は一枚の書類を渡した。
そこには、複数の工房と商人の名前が記されていた。
再会した男は、書類の上から順番に目を走らせた。
その中に、旧友が調査している工房の名前があった。
彼は表情を変えないまま、書類を読み進めた。
工房の名前の横には、短い指示が添えられていた。
今後の動向を確認すること。
必要に応じて、取引関係者へ接触すること。
現地で得た情報を、指定された経路で報告すること。
それ以上の説明はなかった。
「この工房を優先して調べる必要があるんですか?」
彼が尋ねると、担当者は答えた。
「優先順位は状況による。ただし、見落とすな」
「分かりました」
「現地で知り合いができても、個人的な関係と仕事を混同するな。お前には、お前の役割がある」
再会した男は書類を受け取った。
「承知しました」
担当者は、ほかの仕事の話へ移った。
会話が終わるまで、彼は余計な質問をしなかった。
外へ出たあと、彼は書類の内容をもう一度思い返した。
旧友の調査対象と、自分の任務が重なっている。
偶然かもしれない。
しかし、偶然だと決めつける根拠もなかった。
彼には、まだ選べる行動がいくつもある。
組織の指示に従い、工房の情報を集めることもできる。
旧友に何も知らせず、個人的な協力関係を続けることもできる。
あるいは、両方を続けながら、衝突が起きない方法を探すこともできる。
ただし、すべてを同時に満たせる保証はなかった。
彼は書類をしまい、指定された次の連絡場所へ向かった。
⸻
夜、男は直人と一緒に、今日の記録を整理した。
「発注元は同じで、配送担当者が変わっていた。今のところ、分かったのはそこまでだ」
直人は記録を見ながら言った。
「次は、配送した側を調べるのか?」
「ああ。ただし、特定の人間を疑って追いかけるつもりはない。同じ商人が運んだほかの荷物について、公開されている範囲で確認する」
「もし、情報が手に入らなかったら?」
「別の方法を考える。必要なら、この調査自体をいったん止める」
直人はうなずいた。
男は記録を閉じ、机の隅に置かれた紙片の写しへ目を向けた。
数字と記号は、今日確認した伝票とは一致していない。
今のところ、関連を示すものはなかった。
彼は写しを元の封筒へ戻した。
明日、調べるのは配送担当者の仕事の範囲だ。
その人物がどこから荷物を受け取り、どこまで運んでいるのか。
そこが分かれば、次の判断ができる。
男は灯りを消す前に、翌日の予定をもう一度確認した。
調査は、ようやく一つの具体的な問いにたどり着いた。
荷物は、どこで不足したのか。
その答えが分かるまでは、誰かを犯人にするつもりはなかった。




