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観客のいない世界  作者: 亀


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第146章 同じ印

翌朝、男は昨日の記録を持って市場へ向かった。


今日の目的は、配送を担当した商人の行動範囲を確認することだった。


特定の人物を追い回すのではない。どの商人が、どの種類の荷物を扱い、どこまで運んでいるのか。確認できる範囲で情報を集め、昨日の不足と照らし合わせる。


市場に着くと、男はまず、部品を扱う二軒の店を訪れた。


一軒目では、店主が帳簿を閉じながら答えた。


「その商人なら、以前はよく来ていたよ。最近は別の人間が荷物を運ぶことも増えたがな」


「何か理由があったんですか?」


「知らん。商人同士で仕事を融通することもある。こちらは荷物が届けば、それでいい」


二軒目でも、似たような答えが返ってきた。


配送担当者が変わることは、珍しいことではない。


男は店主たちの話を記録し、特定の商人だけを疑うような質問はしなかった。


その後、昨日の工房へ向かう途中、荷車が狭い路地の入口で止まっているのが見えた。


荷台には金属部品が積まれていた。


運搬人は、手元の伝票と荷物を交互に確認している。


「何か問題でも?」


男が声をかけると、運搬人は顔を上げた。


「届け先が違うらしい」


「伝票には何と?」


「この先の工房だ。だが、工房の人間は注文していないと言っている」


運搬人は伝票を見せなかった。男も無理に求めなかった。


「発注元に確認するんですか?」


「そうするしかない。俺が勝手に荷物を置いていくわけにはいかないからな」


運搬人は荷車を路地の外へ戻し、別の道へ向かう準備を始めた。


男は、その様子を見ながら考えた。


昨日の工房では、発注数と受け取り数が一致していなかった。


今日は、届け先そのものが違っていた。


どちらも配送に関する問題だが、原因が同じとは限らない。


男は運搬人の名前を聞かず、荷物の種類と時刻だけを記録した。


そして、工房へ向かった。


⸻


工房の主人は、昨日と同じ場所で作業をしていた。


男が届け先の違う荷車を見たと伝えると、主人は手を止めた。


「またか」


「以前にもあったんですか?」


「うちではない。だが、最近、似た話を聞いたことがある」


主人は作業台の上の部品を脇へ寄せた。


「注文していない品が届いたり、頼んだ数が足りなかったりするらしい。全部が同じ原因なのかは知らん」


男はすぐに記録を取った。


「その話は、どこで?」


「市場で聞いただけだ。どこの店かまでは覚えていない」


「分かりました。ありがとうございます」


男は、それ以上質問しなかった。


噂は、調査の出発点にはなる。


しかし、噂をそのまま事実として扱えば、無関係な人間まで疑うことになる。


今必要なのは、実際に起きた事例を、確認できる範囲で集めることだった。


工房を離れたあと、男は市場の掲示板を確認した。


商人たちが仕事を探したり、運搬を依頼したりするための告知が並んでいる。


その中に、最近更新された配送依頼があった。


依頼主の名前は、男がこれまで見たことのないものだった。


ただし、添えられた印には見覚えがあった。


男は少し離れた場所から、印の形を確認した。


昨日、伝票に押されていたものと似ている。


しかし、同じ印を使う商人が複数いる可能性もある。


男は掲示板の内容を記録し、依頼主の名前と印を分けて書き留めた。


今の段階では、両者が同じ取引に関係しているとは言えない。


それでも、比較できる新しい材料が一つ増えた。


⸻


昼過ぎ、再会した男が市場に現れた。


「何か見つけたか?」


「配送の行き違いが、ほかでも起きている可能性がある。ただ、今のところ、確認できたのは一件だけだ」


男は、掲示板で見つけた依頼の内容を説明した。


「この印が、昨日の伝票にあったものと似ている」


相手は記録を見た。


「同じものなのか?」


「まだ分からない。形が似ているだけだ」


「印を使っている商人を探せばいいんじゃないか?」


「それも一つの方法だ。ただ、先に別の伝票と比較したい。同じ印でも、使っている人間や目的が違うかもしれない」


相手は記録を返した。


「なら、比較できる資料を探す必要があるな」


「そうだな。ただし、誰かの帳簿を勝手に調べるつもりはない。公開されている依頼や、本人が話してくれた内容から確認する」


「分かった」


相手は少し考えたあと、付け加えた。


「俺のほうでも、仕事の範囲で確認できることがあるかもしれない。ただ、何でも自由に調べられるわけじゃない」


「無理に調べなくていい。お前の立場まで危うくする必要はない」


「……お前は、以前より人に頼るようになったな」


男は首を振った。


「頼ることと、相手に全部を任せることは違う。情報を持ち寄れば、比較できる範囲が広がる。それだけだ」


相手は何も言わず、記録を返した。


二人は、明日までに確認できた情報を持ち寄ることにして別れた。


⸻


その日の夕方、再会した男は、指定された場所で組織の担当者と会った。


担当者は簡単な報告を聞いたあと、一枚の紙を差し出した。


「現地で確認してほしい依頼がある」


男は紙に目を落とした。


そこには、複数の配送依頼が記載されていた。


そのうちの一件は、旧友が掲示板で見つけたものと同じだった。


彼は表情を変えず、内容を読み進めた。


「この依頼について、何を確認すればいいのでしょうか」


「依頼が実際に履行されているか。関係する商人が、指定された手順を守っているか。それを確認しろ」


「配送の行き違いについても?」


担当者は彼を見た。


「何か問題があるのか?」


「現地では、届け先の違いや数量の不足が起きているという話を聞きました」


「それがこの依頼と関係しているかどうかも含めて、確認すればいい」


担当者はそれ以上、説明しなかった。


男は紙を受け取った。


組織が同じ依頼に関心を持っている。


それは分かった。


しかし、なぜ関心を持っているのかまでは分からない。


旧友が調べていることを、組織が把握しているのか。


それとも、組織は別の理由でこの依頼を選んだのか。


今の段階では、どちらとも判断できなかった。


彼は指定された内容を確認し、報告の準備を整えた。


旧友に何も知らせずにいれば、自分の任務を進めやすいかもしれない。


しかし、後から自分の調査が旧友の行動を妨げていたと分かれば、協力関係そのものが崩れる可能性がある。


反対に、組織の指示をそのまま伝えれば、守秘義務に触れるおそれもあった。


彼は、まずは自分が直接確認できる事実を集めることにした。


何を知っているのか。


何を知らないのか。


何を伝えられるのか。


その区別を曖昧にしたまま、誰かに協力を求めるわけにはいかなかった。


⸻


夜、男は直人と記録を整理した。


今日の記録には、新しい項目が加わっていた。


届け先の違い。


発注数と受け取り数の不一致。


そして、複数の依頼に現れた、似た形の印。


直人はそれらを見比べた。


「同じ仕組みが動いている可能性はあるのか?」


「可能性はある。でも、まだ証拠が足りない」


男は紙を三枚に分けた。


一枚目には、直接確認した事実。


二枚目には、他人から聞いた話。


三枚目には、今後確認する必要があること。


「この三つを混ぜないようにしておく。あとで新しい情報が出たとき、どこから考え始めたのか分からなくなるからな」


直人はうなずいた。


男は最後に、掲示板で見つけた印の写しを確認した。


入口に置かれていた紙片の数字と記号とは、形が異なっている。


今のところ、両者を結びつける根拠はない。


男はそれぞれを別の封筒に戻した。


一つの謎を解こうとして、すべての出来事を同じ原因に結びつける必要はない。


関係があるものもあれば、無関係なものもある。


それを見分けるためには、焦らず、比較できる情報を増やしていくしかなかった。


男は明日の予定を記録した。


まずは、掲示板に掲載されていた依頼が実際に履行されたのかを確認する。


その結果によって、次に調べる相手も、必要な情報も変わってくる。


そして、その依頼を自分とは別の立場から調べている人間がいることを、男はまだ知らなかった。

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