第139章 知らない入口
市場の外れにある空き地で、青年は一人の男と向かい合っていた。
男は、少し前からこの時代にいる。
少なくとも、本人の記憶ではそうだった。
気がついたとき、彼は見知らぬ建物の中にいた。身につけていた服も、持っていた荷物も、以前のままだった。ただ、周囲の景色だけが違っていた。
最初は夢だと思った。
次に、何者かに連れ去られたのだと考えた。
だが、調べても手がかりは見つからなかった。自分がいた場所を特定できず、移動させられた経路も分からない。周囲の人間は、彼がこの時代で暮らしてきた者であるかのように接した。
やがて、彼は一つの結論を出した。
ここがどこであれ、戻る方法が分からない以上、まずは生きていくしかない。
その後、彼は自分の力が以前とは違う形で使えることに気づいた。
正確には、力そのものが増えたのか、使い方を理解できるようになったのか、それさえもはっきりしなかった。
ただ、以前なら届かなかった距離に手が届き、以前なら避けられなかった攻撃を避けられるようになった。
その変化を利用して仕事を得た。
仕事を通じて人脈を作り、競争の中で実績を積み上げた。
そして今、彼は一つの大きな組織に所属する、名の知られた人間になっていた。
「そろそろ時間だ」
向かいの男が言った。
彼は顔を上げた。
「今日の仕事は、例の計画か?」
「そうだ。お前には別の時代へ入ってもらう」
「また移動するのか?」
「そう聞いている」
向かいの男は、机の上に置かれた書類を彼へ渡した。
そこには、ある事業計画と対象となる人物についての情報が記されていた。彼が所属する組織は、別の組織が運営する事業に対抗するため、複数の人員を送り込むことを決めたらしい。
彼に与えられた役割も、その一つだった。
「移動する方法は?」
「こちらでは分からない。指定された場所へ行けば、担当者が案内する」
「誰が決めた?」
「上層部だ」
彼は書類を閉じた。
説明が足りない。
しかし、組織の上層部がすべてを明かすとは限らない。仕事を受ける以上、知る必要のある情報と、知らされない情報があることは理解していた。
「報酬は?」
「規定どおりだ。成果によって追加もある」
「分かった」
彼は立ち上がった。
それ以上、移動方法について尋ねても、目の前の男から答えは得られないだろう。
彼自身、以前にも似たような経験をしている。
ある日突然、見知らぬ場所に現れたこと。
自分の力が変化していたこと。
そして、その変化を誰かが説明してくれるわけではなかったこと。
今度こそ何かが分かるかもしれない。
そう考えたこともあった。
だが、これまでに得られたのは、仕事と地位、そして新しい力だけだった。
肝心の入口については、何一つ分かっていない。
⸻
同じころ、別の場所でも一人の男が準備を進めていた。
彼は、他の者とは異なる経緯でこの時代に来たと考えていた。
目を覚ました場所も、最初に出会った人間も違う。ここに至るまでの経験も、それぞれに異なっている。
だが、共通点が一つあった。
誰一人として、自分がどのようにここへ来たのかを説明できなかった。
彼らの中には、事故に遭ったと考える者もいた。
誰かに連れ去られたと疑う者もいた。
あるいは、自分の知らない技術によって移動させられたのだと推測する者もいた。
しかし、どれも確証には至らなかった。
そして、力を得た者たちの多くは、やがて自分の置かれた状況を利用するようになった。
帰る方法が分からないなら、今いる場所で地位を築く。
自分の力が変わったのなら、それを使って生き残る。
そうして積み重ねた結果が、現在の彼らの立場だった。
彼らはそれぞれの組織で評価され、競争に参加し、他者と争うようになった。
自分たちがなぜ選ばれたのか。
誰が最初に動かしたのか。
何のために、この時代へ送り込まれたのか。
そうした疑問を抱く者はいたが、答えを得られた者はいなかった。
それでも、彼らは仕事を続けた。
知らないことがあるからといって、すべてを放棄するわけにはいかなかった。
⸻
男は市場へ向かう途中、昨日の青年の言葉を思い返していた。
自分が何を守りたいのか。
その問いに対する答えは、まだ一つに定まっていない。
箱も、調査も、自分の命も、簡単には手放せない。
そして、殺手組織の本部で起きたことも、解決したわけではなかった。
あの電話の主は誰なのか。
なぜ自分を殺すなと命じたのか。
追跡者たちは、その後どうなったのか。
考えなければならないことは多い。
男は歩みを止めず、市場の入口を通り過ぎた。
そのとき、通りの向こうから聞き覚えのある声がした。
「……まさか、本当にここで会うとはな」
男は振り向いた。
そこに立っていたのは、かつて共に行動し、その後、別々の道を選んだ男だった。
以前よりも身体つきが変わっている。
身につけている服も違う。立ち姿には余裕があり、周囲の人間が彼を避けるように道を譲っていた。
男はしばらく相手を見つめた。
「お前……」
相手は、かすかに笑った。
「久しぶりだな」
男は一歩だけ近づいた。
「どうして、ここにいる?」
再会した男は、すぐには答えなかった。
その質問を受けることは、予想していたのかもしれない。
「俺にも、よく分からないんだ」
彼はそう言った。
「気がついたら、ここにいた。帰る方法も分からなかった。最初は、どうすればいいのかさえ分からなかった」
男は相手の顔を見た。
冗談を言っているようには見えない。
「それで、今は?」
「今は、仕事をしている」
「仕事?」
「ある組織に所属している。そこで力を手に入れた。以前の俺なら、できなかったこともできるようになった」
彼は手を握り、ゆっくりと開いた。
「だから、もう一度お前に会えたらと思っていた」
男は黙っていた。
かつて彼は、男のそばを離れた。
自分には助けられないと判断したからだ。
その決断が間違っていたのか、正しかったのか、今でも男には分からない。
だが、目の前にいる男は、以前とは違っていた。
「何をしに来た?」
男が尋ねると、相手はまっすぐに答えた。
「お前を助けに来た」
その言葉には、迷いがなかった。
しかし、男はすぐにはうなずかなかった。
「どうして今さら?」
「今なら、少しは力になれると思ったからだ」
「それだけか?」
相手の表情が、わずかに変わった。
彼には、ここへ来る前に与えられた役割がある。
この男に話せないこともある。
それでも、再び目の前に立った男を見て、彼は思った。
以前は何もできなかった。
今度は、違う。
「それだけじゃない。でも、今はまだ話せないこともある」
男は相手の目を見た。
その返答は、信用するには不十分だった。
だが、すべてを拒絶する理由にもならなかった。
「なら、まずはお前が何をできるのか見せてくれ」
男はそう言った。
「俺も、お前が何を考えているのか、これから確かめる」
相手は一瞬だけ目を見開いた。
それから、以前と同じように笑った。
「分かった。それでいい」
二人は並んで歩き始めた。
その再会が、どのような結果をもたらすのか。
男はまだ知らない。
そして、戻ってきた男もまた、自分がどのような経路でこの時代へ来たのか、その本当の理由を知らなかった。




