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観客のいない世界  作者: 亀


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第138章 選ばされる前に

市場を離れてから、男はいつもより遠回りをして帰ることにした。


青年の言葉を確かめるためではない。


少なくとも、本人はそう考えていた。


普段使う道には、顔を覚えた店主がいる。荷物の受け渡しを見かけた場所もあり、これまでの調査で何度か通った路地もある。慣れた道なら、何が起きるかを予測しやすい。


だが、それは本当に安全だからなのか。


それとも、自分が知っている範囲でしか周囲を見なくなっているからなのか。


男は、普段なら通り過ぎる小さな工房の前で足を止めた。


入口には修理を待つ荷車が二台。職人が一人、車輪を外している。奥では別の男が木材を運び、通りに面した棚には金属製の部品が並んでいた。


特別なものはない。


それでも男は、しばらく様子を見た。


職人が作業に集中すると、木材を運ぶ男が入口を横切る。荷車の持ち主が戻ってくると、今度は職人が顔を上げ、短く言葉を交わす。


それぞれが別の仕事をしているように見えて、互いの動きによって作業の順番が変わっていた。


男はその関係を頭の中で整理しようとした。


しかし、途中でやめた。


ここで必要なのは、すべてを理解することではない。


自分が何を知りたいのかを決めることだ。


彼は工房を離れ、帰路についた。


その途中、背後から荷車の車輪が石を踏む音が聞こえた。


反射的に道の端へ寄る。


荷車はそのまま通り過ぎていった。


何も起きなかった。


男は歩きながら、自分がなぜ避けたのかを考えた。音を聞き、接近する物体があると判断し、接触を避けるために移動した。


そこには特別な技術などない。


だが、戦いの中では、似たような判断を何度も繰り返さなければならない。しかも相手は、こちらが何を見ているかを利用してくる。


見えたものだけに反応するのでは遅い。


かといって、見えないものをすべて敵だと考えれば、自分の判断そのものが動けなくなる。


その境目をどう見つけるか。


まだ答えはなかった。


⸻


翌日の昼過ぎ、男は再び市場へ向かった。


昨日の青年と会う約束はしていない。


会えれば話をする。会えなければ、それで終わりだ。


自分から相手を探し回るほど、信用したわけではなかった。


市場の入口で、男はいつもと違う人の流れに気づいた。


荷物を運ぶ人間が、普段よりも通りの中央へ寄っている。反対側では、数人の商人が一か所に集まり、道を塞がないよう互いに声を掛け合っていた。


その先で、荷車が横倒しになっていた。


車輪の片方が壊れ、積まれていた木箱が地面に散らばっている。持ち主らしい男が困った顔で荷物を集め、周囲の人間が手を貸していた。


事故そのものは珍しくない。


だが、男はすぐに近づかなかった。


荷車の向こう側にいる人間の動きを確認する。


助けている者は三人。荷物を拾っている者が二人。少し離れた場所から様子を見ている者が一人。


その男だけが、荷物ではなく、周囲の人間を見ていた。


視線が合った。


相手は一度だけ顔を背け、それから何事もなかったように歩き出した。


男は追わなかった。


追えば、相手が何をするつもりだったのか確かめられるかもしれない。しかし、そのために事故現場を離れ、相手の動きだけに注意を向けるのは危険だった。


それに、あの男がこちらを見ていた理由は分からない。


自分を知っているのかもしれないし、単に周囲を警戒していただけかもしれない。


男は事故現場から少し距離を取った場所に立ち、通り全体を見渡した。


すると、散らばった木箱の一つが、荷車の下へ滑り込んでいるのが見えた。


荷車の持ち主は気づいていない。


男は近づき、箱を引き出した。


「これも、あなたの荷物か?」


持ち主は驚いた顔で振り向いた。


「ああ、助かった。そこに入り込んでいたのか」


「車輪が壊れた原因は?」


「石に乗り上げたんだ。積みすぎていたのかもしれない」


男は壊れた車輪を見た。


原因を断定できるほどの知識はない。だが、荷物が偏って積まれていることは分かった。


「修理するまで、動かさないほうがいい」


「分かっている。ありがとう」


男はその場を離れた。


さきほどの不審な視線については、何も分からなかった。


しかし、相手を追うことだけが情報を得る方法ではない。目の前で起きていることからも、拾える情報はある。


そのことを確認できただけでも、無駄ではなかった。


「昨日より、周りを見るようになったな」


突然、横から声がした。


男が振り向くと、青年が立っていた。


「見ていたのか?」


「今、来たところだ」


「どこまで本当なんだ?」


「今のは本当だよ」


青年は悪びれずに答えた。


男は相手をしばらく見たあと、尋ねた。


「さっき、向こうにいた男を見たか?」


「どの男だ?」


「事故現場から離れていた男だ。俺たちのほうを見ていた」


青年はすぐには答えなかった。


「見ていたかもしれないな。だが、何かしたのか?」


「分からない」


「なら、今の段階では、それだけだ」


男は眉をひそめた。


「気にしなくていいということか?」


「気にすることと、決めつけることは違う」


青年は市場の奥へ目を向けた。


「相手が何者なのか分からないなら、分からないまま扱えばいい。警戒は続ける。でも、相手が敵だと決めつけて行動を変える必要はない。少なくとも、今すぐはな」


男は先ほどの男が消えた方向を見た。


追跡しなかったことが正しかったのかどうかは、まだ分からない。


もし本当に自分を狙っている人間なら、見逃したことが後で問題になるかもしれない。


だが、何の根拠もないまま追いかけていれば、相手の用意した場所へ誘導される可能性もあった。


どちらを選んでも、失うものはある。


「結局、何をすればいい?」


「自分で決めるしかないだろう」


青年は答えた。


「俺は、お前の代わりに危険を選べない」


その言葉には、突き放すような響きがあった。


男は不快に思うより先に、その意味を考えた。


この青年は、答えを教えるために近づいてきたわけではないのかもしれない。


少なくとも、今のところは。


「なら、一つだけ教えてくれ」


「何を?」


「自分で決めるために、最初に確認すべきことは何だ?」


青年は少し考えた。


「自分が何を守りたいのか、じゃないか」


「それだけか?」


「それだけで全部が決まるわけじゃない。だが、それが分からなければ、何を失ってもいいのかさえ判断できない」


男は黙った。


箱を守りたい。


調査を続けたい。


自分を殺そうとした組織の正体も知りたい。


そして、次に襲われたときには、運だけに頼らず生き残りたい。


守りたいものは一つではなかった。


それぞれを守ろうとすれば、別のものを危険にさらす場合もある。


だからこそ、状況に応じて何を優先するか決めなければならない。


「俺は、まだ決めきれていない」


男がそう言うと、青年はうなずいた。


「なら、今は決めきれていないことを覚えておけばいい」


「ずいぶん簡単に言うな」


「簡単じゃないから、忘れないほうがいいんだ」


青年は歩き出した。


男はその背中を見ながら、昨日と同じ疑問を抱いた。


この男は、なぜ自分にここまで関わるのか。


ただの好奇心にしては、質問の仕方が具体的すぎる。何かを確かめているのは間違いない。


だが、それが自分の能力なのか、調査内容なのか、それとも別の何かなのかは分からなかった。


男は青年のあとを追わず、別の道へ向かった。


誰かの言葉を、そのまま正解にするつもりはない。


役に立つ部分だけを拾い、実際に使えるかどうかを確かめる。


それもまた、自分で決めるために必要なことだった。


その日の帰り道、男は一度だけ足を止めた。


背後から足音が聞こえたからだ。


振り向く前に、音の間隔を確かめる。


近づいている。


しかし、速くはない。


男はすぐには走らず、道の脇にある店の窓へ視線を移した。ガラスに映る人影は一つ。距離はまだある。


男は歩調を変えず、次の角を曲がった。


そこには左右に分かれる道があった。


右は普段使う道。左は少し遠回りになるが、人通りの多い通りへ出られる。


男は左を選んだ。


しばらく歩くと、背後の足音は聞こえなくなった。


振り返っても、追ってくる人影は見えなかった。


相手が本当に自分を追っていたのかどうかは、分からない。


男はそれ以上、考え続けるのをやめた。


確かめられないことを、確かめられたかのように扱わない。


そして、次に同じことが起きたときには、今日より多くの情報を集める。


まだ弱い。


判断を誤る可能性もある。


それでも、自分の選択を他人に預けるつもりはなかった。

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