第137章 見えているもの
青年が指定した店は、市場から二本ほど路地を入った場所にあった。
大通りから離れているため、人通りは少ない。だが、完全に人目がなくなるわけでもない。店の向かいには荷車を修理する小さな工房があり、裏手には別の通りへ抜ける細い道があった。
男は入口の前で足を止めた。
「ここでいいのか」
「何か問題でも?」
「いや。店を選ぶとき、何を基準にしているのかと思ってな」
青年は一瞬だけ店の周囲に目を向けた。
「食事ができること。話ができること。それから、長居しても不自然じゃないこと」
「最後の条件が必要なのか?」
「相手による」
青年はそう言って、先に店へ入った。
男はすぐには続かなかった。
店の中には客が四組。厨房に近い席では二人の商人が声を落として話し、窓際では荷運びらしい男が一人で食事をしている。店員は入口から最も遠い席の片づけに取りかかっていた。
男は人数を数えながら、入口と裏口の位置を確認した。
青年は壁際の席に座っていた。
「そこを選んだ理由は?」
男が向かいに腰を下ろすと、青年は水の入った器を机の中央へ寄せた。
「背後を気にしなくていいから」
「俺と同じだな」
「そうかもしれない」
青年は否定しなかった。
注文を済ませると、二人の間に短い沈黙が落ちた。
先に口を開いたのは青年だった。
「最近、何かを探しているらしいな」
「誰から聞いた?」
「市場に出入りしている人間から。武器の流れを調べていたことも、ある組織の本部へ一人で乗り込んだことも」
男の指が、器の縁で止まった。
そこまで知られているのなら、相手が何も知らないふりをしている可能性もある。
「それで、俺に何を聞きたい?」
「何を探しているのか」
「教える義理はない」
「もちろん」
青年はあっさりとうなずいた。
「なら、質問を変えよう。何を見て、次にどこへ行くか決めている?」
男は青年の顔を見た。
「目の前の情報だ」
「目の前にあるものを、全部見ているのか?」
「全部なんて無理だろう」
「なら、何を捨てている?」
男はすぐには答えなかった。
質問の意味が分からないわけではない。だが、何を答えれば相手の意図に届くのか判断できなかった。
青年は机の上に置かれた箸を一本、指先で軽く回した。
「例えば、今この店に入ってから、お前は何人の客を確認した?」
「四組。人数なら――」
「全員の顔を覚えているか?」
「いや」
「店員が何を運んだかは?」
「そこまでは見ていない」
「入口から裏口まで、誰が通った?」
男は黙った。
青年は笑わなかった。
「別に、覚えていないことが悪いと言っているわけじゃない。人間が一度に扱える情報には限りがある。問題は、何を拾って、何を見落としたのか、自分で把握しているかどうかだ」
料理が運ばれてきた。
青年は話を中断し、店員に礼を言ってから食事を始めた。
男も箸を取ったが、さきほどの言葉が頭から離れなかった。
自分はこれまで、目に入った情報をつなぎ合わせ、危険を予測し、次の行動を選んできた。市場で武器の流れを追ったときも、箱の記録を調べたときも、そうしていた。
だが、先日の追跡者との戦いでは、相手の動きを読むことだけで精いっぱいだった。
周囲の地形を利用できたから生き残れた。
もし、あの場所に崩れかけた壁も、不安定な木材もなかったら。
同じ方法で、次も生き残れる保証はない。
「お前は、何を見落としたと思う?」
男が尋ねると、青年は食事の手を止めた。
「さあ。俺はその場にいなかったからな」
「なら、どうして聞いた?」
「自分で考えたほうが、他人から答えをもらうより役に立つことがある」
「ずいぶん都合のいい教え方だな」
「教えているつもりはないよ」
青年は器を置いた。
「俺も、お前が何を考えているのか知りたいだけだ。お前が何を見て、どう動くのか。どこまで考えられて、どこから先は考えられないのか」
「それを知って、どうする?」
「それは、まだ決めていない」
男は相手を観察した。
質問は多い。だが、自分のことはほとんど話さない。敵意を隠しているのか、それとも本当に好奇心だけなのか、現時点では判断できなかった。
青年の能力も分からない。
ただ、こちらの返答を急かさず、答えの中にある不足を見つけるのがうまい。
それが経験によるものなのか、別の理由があるのかは分からなかった。
食事を終えた青年は、代金を机に置いて立ち上がった。
「少し歩かないか」
「どこへ?」
「市場の外れまで。帰る道は、お前が決めればいい」
男はすぐには立たなかった。
相手の提案に従う理由はない。だが、断る理由もまだ見つかっていない。
「分かった。ただし、俺が帰ると言ったら終わりだ」
「異論はない」
二人は店を出た。
市場の外れへ向かう道には、荷車が何台も停まっていた。道幅は狭く、荷物を運ぶ人間が互いに譲り合いながら通り抜けている。
青年は歩きながら、何でもないように尋ねた。
「前から来る荷車と、後ろから走ってくる人間。どちらを先に警戒する?」
「状況による」
「具体的には?」
男は道を見た。
前方の荷車は速度が遅く、御者も周囲を確認している。後方の足音は速いが、近づいているだけで、こちらに向かっているとは限らない。
「荷車が道を塞ぐ位置と、走ってくる人間の進路を見る。どちらも俺に接触する可能性があるなら、まず逃げ道を確保する」
「その逃げ道が荷物で塞がれていたら?」
「別の場所を探す」
「その間に、相手が動いたら?」
男は眉を寄せた。
青年は歩みを緩めた。
「一つずつ正解を探すと、判断が遅れることがある。だから、状況を一つに決めつけない。荷車が止まる可能性、走ってくる人間が通り過ぎる可能性、別の誰かが道を塞ぐ可能性。それぞれを考えながら、今できる行動を選ぶ」
「そんなことを全部考えていたら、何もできなくなる」
「だから、全部を同じ重さで考えないんだ」
青年は前方を指した。
荷車の脇に、木箱が積まれている。積み方が不安定で、上の箱がわずかに傾いていた。
「例えば、あの箱が落ちる可能性はある。でも、今すぐ落ちると決めつける必要はない。近くを通るときに距離を取ればいい。予測は、未来を言い当てるためだけにあるんじゃない。危険が起きても対応できる余地を残すためにも使える」
男は傾いた箱を見た。
青年が言い終える前に、荷車の御者が荷物を動かした。木箱が揺れ、上の一箱が滑りかける。
近くにいた荷運びの男が、とっさに肩を入れて支えた。
大きな音はしなかった。
荷車はそのまま進み、通りは再び人の流れを取り戻した。
男は、荷運びの男が箱を支えたことよりも、その直前に御者が荷物の位置を変えたことを思い返した。
箱が落ちるかどうかだけを見ていたら、御者の動きを見落としていたかもしれない。
「お前は、いつもそんなふうに考えているのか?」
「いつもじゃない。俺だって見落とす」
青年は肩をすくめた。
「ただ、見落としたときに何が起きるかは、できるだけ考えるようにしている」
男はその言葉を頭の中で繰り返した。
強くなること。
そのために、誰かから技を教わることばかり考えていた。
だが、技を身につけても、使う場面を間違えれば意味がない。相手の動きを読めても、周囲の変化に気づかなければ、逃げることすらできない。
必要なのは、単純に戦う力を増やすことだけではなかった。
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「お前は、どうしてそこまで俺に興味がある?」
青年はすぐには答えなかった。
市場の喧騒が遠くなり、道の向こうに人の少ない広場が見えてきた。
「お前が、自分の持っているものを十分に使えていないように見えるからだ」
「俺の何を知っている?」
「まだ、ほとんど何も知らない」
青年は正面から男を見た。
「だから、確かめている」
男は相手の目を見返した。
信用するには情報が足りない。だが、警戒するだけで切り捨てるには、得られるものがあるかもしれなかった。
「次も会うつもりか?」
「お前が嫌なら、無理には誘わない」
「俺はまだ答えていない」
「それでいい」
青年はそれ以上、何も求めなかった。
広場の入口で、二人は別れた。
男は青年が去っていく背中を見送ったあと、来た道を振り返った。
今日、得られたのは新しい技でも、敵の正体でもない。
自分が何を見ているのかだけでなく、何を見ていないのかを考える視点だった。
それが本当に役に立つかどうかは、次の危険に直面したときに分かる。
男は歩き出した。
今度は、目の前の道だけではなく、その先で道がどう変わるかも考えながら。




