第136章 足りないもの
直人が包帯を巻き終えたころには、窓の外がすっかり暗くなっていた。
「手、動かせるか」
直人が尋ねた。
男は指をゆっくり曲げた。掌の傷が引きつり、鈍い痛みが走る。
「動く」
「なら、今日はもう休め。傷が開いたら、また面倒になる」
男は返事をせず、包帯を見下ろした。
あの狭い路地で、二人の追手に挟まれたときのことが、何度も頭をよぎっていた。
足場が悪かった。相手の動きを読めた瞬間もあった。運よく崩れた木材が間に入り、逃げ道ができた。
だが、それらの条件が一つでも違っていたら、どうなっていただろう。
相手がもう一人多かったら。
足を滑らせていたら。
最初の一撃を避けられなかったら。
答えは簡単だった。
今ごろ、ここには戻っていなかったかもしれない。
「直人」
「何だ」
「俺が今日、あそこから戻れなかったら、どうしていた」
直人の手が止まった。
「そんなことを聞いて、どうする」
「考えておきたいだけだ」
「箱を持って逃げる。お前が戻ってこなければ、俺一人でできることを考える。それだけだ」
直人は包帯の端を整えた。
「でもな、できれば次からは、そんな質問をさせるな」
男は小さくうなずいた。
直人はそれ以上、責めなかった。
そのことが、かえって胸に残った。
自分が生きて戻ることを、直人は当然のように待っていたわけではない。戻れない可能性も考え、その場合に何をするかまで考えていたのだ。
自分だけが危険を引き受ければいい。
以前は、そう考えることもあった。
しかし、自分が倒れれば、残された人間に何が起きるのか。箱を守る者がいなくなれば、どこまで話が進むのか。
一人で動くことと、一人ですべてを背負うことは違う。
男は卓上の記録を引き寄せた。
殺手組織の名前と所在地。武器の製造と供給に関わっていた仲介人の証言。箱を求めていた組織が、自分を殺さずに放したという事実。そして、直通電話から届いた、正体不明の女性の命令。
情報は増えた。
だが、自分の身を守る方法は、ほとんど増えていない。
敵の事情を知っていても、目の前の相手を止められるとは限らない。
相手の弱点を見つけても、そこまでたどり着けなければ意味がない。
「何か思いついたのか」
直人が向かいに座った。
「今まで、調べることばかり考えていた」
「それが悪いとは思わないが」
「悪くはない。でも、それだけじゃ足りない」
男は包帯を巻いた手を握り、すぐに力を緩めた。
「次に同じことが起きたら、今回と同じ方法で生き残れる保証はない。相手が増えたら終わりだ。場所が違っても、同じだろう」
「だから、強くなりたいのか」
「少なくとも、今よりは」
口にしてみると、思ったよりも単純な話だった。
何か特別な力を手に入れたいわけではない。
誰にも負けない人間になりたいわけでもない。
自分が選んだ行動を、最後まで実行できるだけの力が欲しかった。
そして、危険を前にしたとき、逃げるべきか、戦うべきか、誰かを頼るべきかを、自分で判断できるようになりたかった。
「誰かに教わるつもりか」
「教えてくれる人がいれば、話は聞く。ただ、何でも信じるつもりはない」
直人は少し考えたあと、うなずいた。
「それでいいんじゃないか。知っている人間と、信用できる人間は同じじゃない」
その言葉を、男は記録の余白に書き留めた。
翌日、男は傷の具合を確かめながら、以前から気になっていた場所へ向かった。
武器の流通経路を調べるため、何度か通った市場の近くだった。
仲介人から得た情報は、組織の名前と本拠地につながった。しかし、武器を製造した者、運んだ者、実際に使用した者の間には、まだ確認できていない部分がある。
一度にすべてを追うことはできない。
だから、まずは自分が安全に動ける範囲を把握し直すことにした。
道幅、出入口、人通り、周囲の建物。
以前なら、調査のために必要な情報だけを見ていた。
今は、自分がそこに立ったとき、どこから危険が来るのかも考える。
同じ道でも、見方を変えれば気づくことがあった。
市場の裏手に差しかかったところで、男は足を止めた。
壁際に、一人の青年が立っていた。
年齢は自分と大きく変わらないように見える。身なりは整っているが、目立つ装飾はない。市場を歩く人々の流れを眺めながら、時折、店先の商品に視線を向けていた。
こちらに気づくと、青年は軽く会釈した。
「少し、お時間をいただけますか」
男はすぐには近づかなかった。
「用件は?」
「あなたと話をしてみたいと思いまして」
「俺に?」
「ええ」
青年は笑った。
「少し前から、あなたのことを耳にしていました」
男の視線がわずかに鋭くなった。
「誰から」
「それを先に尋ねますか」
「知らない相手に声をかけられたら、普通は聞くだろう」
「確かに。失礼しました」
青年はあっさりと頭を下げた。
「ただ、今ここで名前を挙げても、あなたには確認する手段がないでしょう。それなら、先に話をして、お互いに判断したほうが早いと思ったのです」
理屈は通っていた。
だが、都合のいい理屈でもあった。
男は青年の手元を見た。武器らしいものは見えない。しかし、それだけで安全だとは判断できない。
「何を話したい」
「あなたが今、何を調べているのか。それから、これから何をしようとしているのか」
「それを知って、どうする」
「あなたと知り合っておきたいのです」
青年は市場のほうへ目を向けた。
「世の中には、知り合う前に相手を敵だと決めてしまう人もいます。反対に、少し話しただけで味方だと思い込む人もいる。私は、どちらも避けたい」
「それで、俺に近づいた?」
「そういうことです」
男は黙った。
言葉だけなら、悪くない。
しかし、相手が何を望んでいるのかは、まだ分からなかった。
「俺と知り合って、あなたに何の得がある」
青年はすぐには答えなかった。
やがて、口元の笑みを少しだけ薄くした。
「それを知るには、あなたのことをもう少し知る必要があります」
正直な答えにも、はぐらかしにも聞こえた。
男は、そのどちらなのかを決めなかった。
「俺も、あなたのことを知らない」
「ええ。ですから、まずは簡単なところから始めませんか」
青年は市場の入口を指した。
「何か食べませんか。話をするだけなら、立ち話より落ち着くでしょう」
男は青年を見たあと、周囲を確認した。
断ることはできる。
だが、相手が自分について何を知っているのか、どの程度の情報を持っているのかを確かめる機会でもあった。
危険があるからといって、すべての接触を拒めば、得られる情報も減る。
「分かった。ただし、俺からも質問する」
「もちろんです」
青年は先に歩き出した。
男は、すぐ後ろにはつかず、少し距離を置いて続いた。
まだ信用する理由はない。
だが、今すぐ敵だと決める理由もなかった。
その距離を保ったまま、男は初めて、自分とは異なるやり方で物事を見ている人間と向き合おうとしていた。




