第135章 従う者たち
殺手組織の本拠地に、夜の静けさが戻っていた。
昼間、男主を連れてきた部下たちは、それぞれの持ち場へ戻っていた。建物の外では見張りが交代し、廊下には足音だけが時折響いている。
責任者は執務室に一人で座っていた。
机の上には、男主について調べた報告書が置かれている。
これまでの行動、訪れた店、接触した人物。そして、金属製の品に関する調査を続けていたこと。
記録には、分かっていることだけが書かれていた。
肝心の箱の所在は分からない。
本人が誰に預けたのかも分からない。
追跡に出した二人からも、まだ報告が届いていなかった。
責任者は報告書を閉じた。
あの男を殺さずに解放しろという命令には従った。
だが、箱を手に入れるという目的は果たせていない。
命令に従ったことと、仕事を終えたことは別だった。
机の端に置かれた電話に目を向ける。
昼間の専用回線とは別の電話だった。
こちらは、彼が必要なときに連絡を取るためのものだ。
責任者は受話器を取り、あらかじめ決められた番号を押した。
数回の呼び出し音のあと、相手が出た。
「どうした」
聞こえてきたのは、低く落ち着いた男の声だった。
責任者は背筋を伸ばした。
「本日の件について、ご報告がございます」
「本日の件?」
相手は、すぐに話の内容を理解したようだった。
「例の男か」
「はい」
「それで、どうなった」
責任者は一度、言葉を選んだ。
「対象を本拠地へ連れてきました。しかし、箱は所持しておらず、身体を調べても発見できませんでした。その後、専用回線から命令があり、対象を解放いたしました」
「箱を持っていなかった?」
「はい」
「お前たちは、何をしていたんだ」
声の温度が変わった。
「箱を持っている可能性があるから捕らえたのだろう。持っていないと分かったなら、所在を聞き出す方法を考える。それだけのこともできないのか」
「申し訳ございません」
「謝罪を聞きたいわけではない」
電話の向こうで、何かを置く音がした。
「それで、なぜ解放した」
「専用回線から、殺してはならないとの命令がございました」
「誰からだ」
「お声だけでは、判断できませんでした」
「……そうか」
短い沈黙があった。
時代反派は、専用回線の性質を知っていた。
あの回線を使える人物は限られている。
そして、昼間にその回線を使う理由がある人物も。
「その命令には従ったのだな」
「はい。ご命令に従い、対象を解放しました」
「ならば、それ以上の問題はない」
責任者は、わずかに眉を動かした。
「しかし、箱はまだ手に入っておりません」
「それは、お前たちの仕事だ」
相手はあっさりと言った。
「命令に従ったことを理由に、仕事ができなかった言い訳をするな」
責任者は黙った。
言い返すことはできた。
箱を持っていない人間から、箱を奪うことはできない。
命令がなければ、もっと強い手段を取れたかもしれない。
だが、そんな説明をしても、相手が納得するとは思えなかった。
「それから、二人を追跡に出しました」
「追跡?」
「対象の行動を確認し、箱の所在につながる情報を得るためです。殺害は命じておりません」
「それで、報告は」
「まだ届いておりません」
電話の向こうで、深いため息が聞こえた。
「……まったく、こんな小さな仕事にいつまでかかっている。お前たちは猪と変わらんな」
責任者の指が、机の縁を強く押した。
一瞬だけ、言葉が喉まで上がってきた。
自分たちは、長い間この仕事を続けてきた。
命令されたことを実行し、問題が起きれば処理し、表に出せない仕事まで引き受けてきた。
それでも、成果が出なければ無能と呼ばれる。
命令どおりに動けば、自分で考えろと言われる。
自分の判断で動けば、勝手なことをするなと責められる。
どこまで働けば、認められるのか。
その答えを、彼はまだ得られていなかった。
「……今後は、より慎重に対処いたします」
結局、口から出たのはそれだけだった。
「当然だ」
相手は続けた。
「もう一つ、昼間の専用回線についてだ」
責任者は顔を上げた。
「今回、命令を出した人物については、詮索するな」
「承知しております」
「念のために言っておく。あの回線を使ったのは、運営者の中でも重要な立場にある方だ。今日は、こちらの家に客として滞在されていた」
責任者は、受話器を持つ手に力を込めた。
運営者。
その言葉について、彼は以前から断片的な説明を受けていた。
人の時代を観察し、介入し、時には通常の権力では扱えない事柄にまで影響を及ぼす存在。
しかし、その全体像を知っているわけではない。
どのような階層があり、誰がどの権限を持ち、どこまでが許されているのか。
詳しいことは、ほとんど知らされていなかった。
「その方の命令であれば、今後も従います」
「そうしてくれ。こちらにも事情がある」
時代反派は、そこで少し言葉を切った。
「……まったく、あの方はいつも自分の都合で決める」
それは、先ほどまでの叱責とは違う声音だった。
露骨な反抗ではない。
だが、完全に納得している者の言葉でもなかった。
責任者は、その変化を聞き逃さなかった。
ただし、何も尋ねなかった。
相手がどのような立場の人物に不満を抱いているのか。それを詳しく知ろうとすることが、自分にとって得になるとは限らない。
この仕事を長く続けてきたからこそ、聞かない方がよいことがあるのを知っていた。
「ご意向、承知いたしました」
「箱の件は引き続き調べろ。ただし、対象を勝手に殺すな。余計な問題を増やすな」
「承知しました」
「報告は以上か」
「はい」
「では、切る」
通話が終わった。
責任者は、受話器をゆっくり戻した。
しばらく、机の上を見つめていた。
命令を出す側は、いつも簡単に言う。
探せ。
手に入れろ。
殺すな。
失敗するな。
だが、実際に動くのは自分たちだ。
相手が何を持っているのか分からないまま追い、与えられていない情報を推測し、限られた手段で結果を出さなければならない。
そして、うまくいかなければ責任だけが残る。
彼は引き出しを開け、古い書類を一枚取り出した。
そこには、組織の過去の活動記録が記されていた。
長年にわたる協力。
何度も繰り返された任務。
表に出ることのない成果。
その一つ一つに、彼らが費やした時間と人員があった。
しかし、そうした記録が、今の自分たちの立場を変えてくれるわけではない。
彼は書類を引き出しへ戻した。
今はまだ、動くべきではない。
少なくとも、箱の所在を突き止めるまでは。
*
同じ頃、時代反派は電話を切り、窓の外へ目を向けていた。
屋敷の一室には、来客のために整えられた茶器が置かれていた。
その部屋は、すでに静まり返っている。
昼間、専用回線を使用した人物は、今もこの家に滞在している。
だが、時代反派はその人物が何を考え、どこまでの情報を把握しているのか、すべてを知っているわけではなかった。
今回の命令についても、なぜあの男を生かしておく必要があるのか、詳しい理由までは聞かされていない。
それでも、命令には従う。
少なくとも、表向きは。
彼は机に戻り、別の書類を開いた。
そこには、殺手組織とは関係のない研究記録が置かれていた。
古い技術の記述。
再現できなかった実験。
使用条件を特定できず、何度も中断された研究。
それらは、まだ完成にはほど遠かった。
しかし、彼は研究をやめるつもりはなかった。
今の権力だけでは、できることに限界がある。
どれほど多くの人間を従わせても、どれほど長く時代を支配しても、手の届かないものは残る。
もし、その限界を越える手段があるのなら。
彼は書類を閉じた。
この研究について、知っている者は限られている。
そして、今の段階では、誰にも知られるわけにはいかなかった。
時代反派は、机の上の灯りを落とした。
一つの電話が終わっただけで、何かが解決したわけではない。
殺手組織は箱を手に入れていない。
運営者の命令の理由も、完全には分からない。
そして、自分が進めている研究も、まだ思いどおりには動いていなかった。
それでも、彼はそれぞれの問題を別々に扱うことにした。
一度にすべてを動かせば、どこかで無理が生じる。
まずは、箱の行方。
次に、必要な技術。
その先にあるものについては、まだ誰にも話すつもりはなかった。




