第134章 戻る場所
町へ続く道に出たとき、男主は一度、足を止めた。
右手の掌から血がにじんでいた。膝を曲げるたびに鈍い痛みが走り、服の脇は裂けたままだった。
二人の追手を振り切った。
少なくとも、今のところは。
しかし、それを勝利と呼ぶ気にはなれなかった。
相手が倒れた瞬間、彼は何も考えられなくなっていた。自分が何をしたのか、相手がどうなったのか、確かめる余裕すらなかった。
ただ、あの場にとどまれば自分が殺されるかもしれないと思い、動いた。
それだけだった。
男主は近くの水場で掌を洗った。
傷口に水が触れ、思わず顔をしかめる。持っていた布を細く裂き、手に巻きつけた。傷を完全に処置できるわけではないが、何もしないよりはましだった。
次に、服の裂け目を確認した。
刃物が当たった場所は浅く切れている。深い傷ではなさそうだった。
それでも、あと少し位置が違っていればどうなっていたか分からない。
男主は布を結び直し、再び歩き始めた。
直人のいる場所までは、まだ距離がある。
途中で別の追手に見つかる可能性もあった。だからといって、遠回りを続けて体力を失うわけにもいかない。
彼は人の多い道を選び、何度か店先に立ち寄った。
買い物をするふりをしながら、後方を確認する。
誰かが同じ場所に何度も現れないか。
自分の歩調に合わせて距離を保つ者はいないか。
今のところ、不自然な動きは見つからなかった。
だが、追手がいないと断言できるほどの確信もなかった。
男主は歩き続けた。
*
直人は、約束した場所で待っていた。
遠くから男主の姿を見つけると、すぐに立ち上がった。
「おい、どうしたんだ、その格好は」
男主は返事をする前に、周囲を確認した。
「ここで待っていたのか」
「言われたとおりだ。箱も、預かったものも無事だ」
直人はそれから、男主の手と服を見た。
「何があった」
「追われた」
「誰に」
「組織の人間だと思う。二人いた」
直人の表情が変わった。
「二人? それで、どうしたんだ」
「……何とかした」
男主は短く答えた。
それ以上、詳しく話す気にはなれなかった。
あの場面を言葉にすれば、自分がまだ震えていることまで認めなければならない気がした。
直人も、無理に問い詰めなかった。
「先に座れ。手当てをする」
二人は人目につきにくい場所へ移動した。
直人が水と清潔な布を用意し、男主の掌を洗い直す。傷口に残っていた汚れを取り除き、布を巻き直した。
「深くはないが、しばらく無理をするな」
「分かっている」
「本当に分かっているのか?」
直人が顔を上げた。
男主は答えず、巻かれた手を見つめた。
「……あそこで、死ぬかと思った」
ようやく出てきた言葉だった。
直人の手が止まった。
男主は、普段なら自分がそんなことを口にするとは思っていなかった。
怖くなかったわけではない。
ただ、怖いと認めたところで、状況が変わるわけではないと思っていた。
けれど、今は違った。
刃物が迫ってきたとき、自分にはそれを確実に防ぐ方法がなかった。
相手が足を滑らせなければ。
木材が崩れなければ。
自分の判断がほんの少し遅れていれば。
そう考えると、偶然に助けられた部分がいくつもあった。
「次も同じように切り抜けられるとは思えない」
男主は言った。
「だから、次はどうするか考えないといけない」
直人は布の端を結び、静かに答えた。
「まずは、生きて戻ってきたことを考えろ」
男主は顔を上げた。
「反省するのは、そのあとでも遅くない」
直人は立ち上がり、預かっていた荷物を取りに行った。
戻ってきた彼は、箱と記録を一つずつ確認できるよう、机の上に並べた。
「ほら。全部ある」
男主は箱を見た。
出発する前と、何も変わっていない。
箱の蓋にも、目立った傷はなかった。
記録も、道具も、預けたものはすべて残っていた。
それを見た瞬間、男主の肩から少しだけ力が抜けた。
自分が傷を負ったことよりも、失わずに済んだことの方が、今は大きかった。
「ありがとう」
「礼を言うのは、まだ早い」
直人は箱を元の場所へ戻した。
「お前が何を見つけてきたのか、まだ聞いていない」
男主は椅子に腰を下ろした。
「組織の責任者には会えた。だが、話はほとんど進まなかった」
「箱を要求されたのか」
「ああ。何度も調べられた。でも、俺が持っていないと分かると、向こうも困っていた」
「それなのに、解放された?」
「そうだ」
男主は、建物の中で起きたことを順に説明した。
責任者が箱を要求したこと。
何度も身体を調べられたこと。
それでも箱が見つからず、相手が判断に迷っていたこと。
そして、建物の奥から電話が入ったあと、態度が変わったこと。
「電話?」
直人が尋ねた。
「専用回線だとか言っていた。誰からだったのかは分からない」
「その電話が原因で、解放された可能性があるのか」
「あると思う。でも、確かなことは何もない」
男主は考え込んだ。
電話の前と後では、組織の態度が明らかに違っていた。
偶然にしては、変化が大きすぎる。
誰かが彼を殺さないよう命じた。
そう考えるのが自然だった。
しかし、なぜなのか。
箱を持っていない彼を生かしておくことに、どんな価値があるのか。
あるいは、箱とは別の理由があるのか。
答えは見つからなかった。
「追手は、その命令を知らなかったのかもしれないな」
直人が言った。
「あるいは、知っていても、命令の範囲を自分たちに都合よく解釈したのかもしれない」
男主はうなずいた。
どちらもあり得る。
ただ、追手が二人だったことから考えると、少なくとも組織は彼を完全に自由にするつもりではなかった。
「これからどうする」
直人が尋ねた。
男主はすぐには答えなかった。
殺手組織の責任者に会ったことで、新しい情報は得られた。
しかし、肝心の箱の所在を明かさずに済んだだけで、組織との問題が解決したわけではない。
むしろ、相手が自分を追い続ける可能性は高くなった。
今までのように、記録を調べ、店を訪れ、関係者に話を聞く。
それだけでは、もう足りないのかもしれない。
「まず、今回のことを整理する。誰が何を知っていて、何を知らないのか。それを分けたい」
「また記録か」
「記録だけじゃない。相手の行動もだ」
男主は机の上の紙を一枚引き寄せた。
「箱を求めていたこと。俺が持っていないと分かったとき、向こうが困ったこと。電話のあとに解放されたこと。そして、解放したあとも追手をつけたこと」
一つずつ、書き留めていく。
「少なくとも、あの組織は箱を欲しがっている。だが、俺を殺すことには何か問題があるらしい」
「その理由が分かれば、次の手も考えられる」
直人が続けた。
「そうだ」
男主はペンを置いた。
まだ分からないことばかりだった。
それでも、何が分からないのかを整理することはできる。
それが、今の自分にできる仕事だった。
*
その夜、男主はすぐには眠れなかった。
手の傷が脈打つたびに、昼間の出来事がよみがえる。
刃物が迫った瞬間。
足元が崩れた瞬間。
相手を押し返しながら、自分も地面に倒れた瞬間。
彼は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
生きて戻れた。
箱も守れた。
だが、次も同じ結果になる保証はない。
自分には、まだ足りないものが多すぎる。
体力も、戦う技術も、相手の行動を読むための経験も。
そして何より、危険が起きてから対応するのでは遅い場合がある。
次に同じような状況になったとき、逃げる道を先に確保できるか。
相手の人数や位置を、もっと早く把握できるか。
そもそも、危険な場所に入らずに情報を得る方法はないのか。
男主は、思いついたことを記録に残した。
今すぐ答えが出るわけではない。
それでも、今日の失敗や偶然を、ただの恐怖で終わらせたくなかった。
やがて、外が静かになった。
男主は箱の置かれた部屋を確認し、扉を閉めた。
組織の責任者も、電話をかけてきた人物も、まだ何も分からない。
だが、今回のことで一つだけ、はっきりしたことがある。
箱を守るだけでは足りない。
箱を狙う者たちから、自分自身も守れるようにならなければならない。
男主は灯りを消した。
眠りにつくまで、しばらく時間がかかった。




