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観客のいない世界  作者: 亀


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第133章 殺してはならない男

電話が鳴り続けていた。


組織の責任者は、部下から受話器を受け取ると、周囲にいた者たちを手で制した。


「私だ」


返事はなかった。


回線の向こうから聞こえるのは、わずかな雑音だけだった。


責任者は、もう一度口を開こうとした。


その前に、女の声がした。


「そいつには、まだ価値がある。殺してはいけない。」


声は落ち着いていた。


命令を伝えるためだけに、必要な言葉を選んでいるようだった。


責任者は一瞬、呼吸を止めた。


この回線を通じて連絡できる人物は限られている。


そして、今の言葉には、相談や交渉の余地がなかった。


「……承知いたしました」


彼は姿勢を正した。


「ご命令であれば、我々は無条件で従います」


返事はなかった。


通話は、そこで切れた。


責任者は受話器を戻し、しばらくその場に立っていた。


部下の一人が、おそるおそる尋ねた。


「責任者、いかがいたしましょう」


「殺すなという命令だ」


「では、解放するのですか」


「誰が、そう言った」


責任者は部下を見た。


「生かしておけという命令と、自由にしてよいという話は違う」


「では……」


「だが、ここに閉じ込めておいても意味がない。箱を持っていない人間から、これ以上何を奪う?」


責任者は窓のない壁を見つめた。


彼自身、まだ判断を決めかねていた。


男主が箱を持っていなかったことは、すでに確認できている。


しかし、どこに置いたのかは分からない。


誰に預けたのかも分からない。


本人が本当に何も知らない可能性は低いが、無理に問い詰めれば、今後こちらに協力する可能性まで失う。


そこへ、あの命令が届いた。


男を殺してはならない。


その理由も、命令を出した人物の正体も、責任者には知らされていない。


彼に許されているのは、命令に従うことだけだった。


「外へ出せ」


責任者は言った。


「表向きは、今回の件を終わりにする。ただし、二人つけろ。距離を保って追跡しろ。本人に気づかれても、こちらから手を出すな」


「承知しました」


「それから、あの男が誰と接触するのか確認しろ。箱の所在を突き止めることが先だ」


部下が退出した。


責任者は、閉じた扉を見つめていた。


あの男は、箱を持っていなかった。


それなのに、組織の外から命令が届き、殺すことすら許されなかった。


自分たちが積み重ねてきた仕事は、一体何のためだったのか。


その疑問を、彼は口にはしなかった。


          *


男主は、建物の外へ連れ出された。


入口にいた男たちは、先ほどまでとは違う態度で道を空けた。


誰も謝罪しなかった。


誰も事情を説明しなかった。


ただ、来たときと同じ門から出ていくよう促されただけだった。


「これで終わりか」


男主が尋ねると、案内役は冷たい声で答えた。


「少なくとも、今はな」


「ずいぶん曖昧だな」


「気に入らないなら、戻ってくればいい」


男主は答えず、門の外へ出た。


背後で扉が閉まる。


彼は歩きながら、建物の様子を振り返った。


何かがおかしい。


組織は箱を求めていた。


その箱を持っていない自分を、何度も調べた。


それでも、突然解放された。


相手の気が変わったのか。


別の事情が生じたのか。


あるいは、こちらを泳がせるつもりなのか。


どれも可能性としては考えられる。


だが、確かめる方法はなかった。


男主は歩く速度を変えず、街道へ向かった。


途中、何度か立ち止まり、店先で水を買い、道を尋ねるふりをして周囲を確認した。


露骨に後ろを振り返ることは避けた。


自分が追われていると確信できる証拠は、まだない。


それでも、警戒を解く理由もなかった。


          *


街道から外れた場所に、古い石垣と乾いた水路があった。


以前は荷車が通っていたらしいが、今では一部が崩れ、草木が伸びている。


男主は水路の脇を通りながら、足音に気づいた。


一つではない。


距離を置いて、二つの足音が続いている。


彼は立ち止まらなかった。


歩調を少しだけ変え、石垣の切れ目から先の地形を確認した。


前方には、狭い通路がある。


その先は崩れた斜面につながり、脇には古い資材置き場が残っていた。


逃げ道として安全とは言えない。


だが、広い街道で二人に挟まれるよりは、まだ選択肢がある。


男主は、何事もないように歩き続けた。


やがて背後の足音が速くなった。


「止まれ」


男主は振り返った。


二人の男が、少し離れたところに立っていた。


一人は腰に短い刃物を差している。


もう一人は、手に細い棒を持っていた。


どちらも、さきほどの組織で見た者ではない。


「何の用だ」


「聞きたいことがある」


「なら、あの建物の中で聞けばよかっただろう」


「お前が素直に話さなかったからだ」


男主は二人を交互に見た。


「責任者の命令か」


男たちは答えなかった。


その沈黙で、彼は十分だと思った。


表向きは解放された。


だが、組織が自分を自由にするつもりはない。


「箱はどこにある」


刃物を持った男が尋ねた。


男主は答えなかった。


「誰に預けた」


もう一人が距離を詰める。


「答えろ」


「知らない相手に、どうして教える必要がある」


次の瞬間、男が踏み込んできた。


男主は横へ身をかわした。


刃物が服の脇をかすめる。


避けきれなかった布が裂け、肌に熱い痛みが走った。


男主は後退した。


戦うつもりなどなかった。


二人を相手に正面から勝てるとは思っていない。


だが、ここで背を向けて走れば、追いつかれる可能性が高い。


彼は崩れた石垣の方へ移動した。


相手が追ってくる。


細い通路では、二人が横に並ぶことはできない。


先に来た男が刃物を振り上げた。


男主は腕で受けず、石垣の陰へ身体を滑り込ませた。


刃が石に当たり、乾いた音が響く。


その隙に、男主は相手の腕を押し返した。


体勢が崩れた男の肩が、後ろにいたもう一人にぶつかる。


二人の動きが、一瞬だけ止まった。


男主はその間に走った。


しかし、数歩進んだところで、崩れた資材に足を取られた。


身体が傾き、手をついた拍子に掌を切った。


痛みをこらえて立ち上がる。


背後から足音が迫ってくる。


男主は狭い通路を抜け、斜面の脇にある古い作業場へ入った。


そこには、壊れた木材や石材が積まれていた。


足元は不安定で、走るには危険な場所だった。


追ってきた二人も、速度を落とした。


男主は積み上げられた木材の向こうへ回り込み、崩れかけた板を押した。


木材が大きな音を立てて傾いた。


一人が反射的に身を引く。


もう一人は避けきれず、足元を崩して膝をついた。


男主はその隙に、近くにあった太い木片をつかんだ。


刃物を持つ男が起き上がり、再び迫ってくる。


男主は木片を振り回した。


狙いは正確ではなかった。


相手の腕に当たったのか、木片が弾かれ、男主の手から離れた。


だが、その一瞬で相手の踏み込みが鈍った。


男主は身体をぶつけるようにして相手を押し、崩れた石材の間へ追い込んだ。


二人はもつれ合い、足場の悪い斜面へ転がった。


男主自身も膝を打ち、息が詰まった。


立ち上がろうとしたとき、もう一人が背後から腕をつかんできた。


男主は反射的に振りほどいた。


その勢いで相手が足を滑らせ、崩れた木材の下へ倒れ込む。


短い呻き声が聞こえた。


刃物を持った男が、再び立ち上がろうとしていた。


男主は地面に落ちていた石を拾った。


手が震えていた。


相手を殴り倒せる自信などない。


ただ、次に刃物を振られれば、今度こそ避けきれないかもしれない。


男が近づいてくる。


男主は石を投げた。


狙った場所には当たらなかったが、男が反射的に顔をかばった。


男主はその隙に距離を詰め、相手の腕を押さえた。


二人は足場を崩しながら斜面を転がった。


最後に聞こえたのは、石がぶつかる鈍い音だった。


          *


男主は、しばらく動けなかった。


息を吸うたび、胸の奥が痛む。


掌から血が流れていた。


膝も擦りむき、服は泥で汚れている。


彼はゆっくりと身体を起こした。


最初に、周囲を確認する。


一人目は、石材の脇に倒れていた。


二人目も、木材の下で動かなくなっている。


生きているのか、死んでいるのか。


近づいて確認する余裕はなかった。


男主は、落ちていた刃物を遠くへ蹴り飛ばした。


そして、立ち上がろうとした。


足に力が入らない。


壁に手をつき、何度か呼吸を整えてから、ようやく身体を支えることができた。


勝った、とは思わなかった。


ただ、まだ動ける。


それだけだった。


彼は作業場を離れ、来た道とは別の方向へ進んだ。


追手がほかにもいる可能性を考え、何度も周囲を確認した。


しばらく歩いたところで、ようやく人の往来がある道に出た。


そこで初めて、彼は自分の手が震えていることに気づいた。


恐怖が遅れて押し寄せてきた。


刃物が服を裂いた瞬間。


足を取られた瞬間。


相手が目の前まで迫ってきた瞬間。


どれも、ほんの少し判断が遅れていれば、今とは違う結果になっていたかもしれない。


男主は壁に背を預け、目を閉じた。


長く休んでいるわけにはいかない。


直人のところへ戻らなければならない。


箱は無事なのか。


組織は直人の存在を知っているのか。


追手が自分を見失っただけなのか、それとも、まだどこかで待ち伏せしているのか。


確かめるべきことはいくつもあった。


それでも、今の彼にできることは限られていた。


男主は服の裂け目を押さえ、再び歩き始めた。


殺手組織の本拠地から離れていくにつれ、建物の影が少しずつ薄くなっていった。


彼はまだ知らなかった。


自分を殺してはならないと命じた人物が誰なのかも。


あの命令が、どのような力関係の中で発せられたのかも。


ただ一つ分かっていたのは、組織が自分を簡単には諦めないということだった。


そして、箱を守るためには、これからも自分自身が生き残らなければならない。


男主は、痛む足を引きずりながら、直人との合流場所へ向かった。

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