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観客のいない世界  作者: 亀


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第132章 箱のない男

「本当に、一人で行くのか」


直人は、机の上に置かれた箱を見つめながら尋ねた。


「一緒に行けば、向こうは二人まとめて捕まえようとするかもしれない。それに、箱まで奪われる危険がある」


男主は箱の蓋に手を置いた。


これまで調べてきた記録、古い契約に関する手掛かり、そして箱そのもの。


どれも、今の彼にとって簡単に失うわけにはいかないものだった。


「ここに置いていく。俺が戻るまで、誰にも渡さないでくれ」


「分かった。でも、何かあったらどうする」


「何かあったときのために、ここに置いていくんだ」


直人はしばらく黙っていた。


やがて箱を自分の手元に引き寄せ、短くうなずいた。


男主は箱だけでなく、持ち歩いていた記録や、調査に使っていた道具も直人に預けた。身分を示すものや、そのほかの重要な品も、必要最低限のものを除いて置いていく。


普段なら、手元にあるものが減るほど不安になる。


しかし今回は逆だった。


相手が何を狙っているのか、すでに分かっている。


箱だ。


ならば、箱を相手の手が届かない場所に置く。


それだけでも、相手の選択肢を一つ減らせる。


「夕方までに戻らなかったら、俺を探しに来るな」


「それは約束できない」


直人は即座に答えた。


男主は苦笑した。


「じゃあ、無理に約束しなくていい。ただ、箱を守ってくれ」


直人は返事をせず、箱の上に布をかぶせた。


それが、二人の間で交わした最後の確認になった。


男主は一人で出発した。


          *


殺手組織の本拠地は、町の中心から離れた場所にあった。


古い街道を外れ、使われなくなった倉庫や作業場が並ぶ一帯。人通りは少なく、建物の間隔も不自然なほど広い。


初めて訪れた者なら、目的の建物を見つけるだけでも時間がかかるだろう。


だが、男主は途中で何度か道を確認し、周囲の様子を観察しながら進んだ。


入口の近くに、男が二人立っていた。


「何の用だ」


「責任者に会いたい」


「名前は」


「名前を伝えれば、会わせてもらえるのか」


男の一人が眉をひそめた。


「ふざけるな」


「ふざけているつもりはない。そちらの組織について、話したいことがある」


二人は視線を交わした。


やがて一人が建物の中へ入り、もう一人が男主を見張った。


しばらくして、案内役が現れた。


「ついてこい。余計なことはするな」


男主はうなずき、建物の中へ入った。


廊下には窓が少なかった。


床板の軋む音が、歩くたびに響く。


すれ違う男たちは、誰も彼に話しかけなかった。ただ、こちらの顔を確認すると、何かを確かめるように視線を交わした。


ここでは、彼は客ではない。


最初から、逃がすつもりのない相手として扱われている。


通された部屋には、数人の男がいた。


その奥に、一人の男が座っていた。


年齢は簡単には判断できない。顔には目立った傷がなく、服装にも余計な装飾はなかった。


しかし、周囲の者たちは、その男が口を開くまで誰も話そうとしなかった。


それだけで、彼がこの場の責任者だと分かった。


「お前が、あちこちで我々のことを調べていた男か」


「調べていたのは、ある金属製の品についてだ」


「言い方を変えても同じことだ」


責任者は机の上で指を組んだ。


「それで、何をしに来た」


「あなたたちが、なぜその品を必要としているのか知りたい」


部屋の空気が変わった。


左右に立っていた男たちが、一歩ずつ距離を詰める。


責任者は、男主の顔を見たまま言った。


「お前が持っているものを、こちらに渡せ」


「何を指している」


「分かっているはずだ」


「分かっていることと、渡せるものがあることは別だ」


責任者の目が細くなった。


「なら、調べればいい」


合図とともに、男たちが男主の両腕をつかんだ。


抵抗する間もなく、背後に回される。


一人が懐を探り、もう一人が腰回りを確認した。持ち物を一つずつ取り出し、机の上に並べていく。


だが、そこに箱はなかった。


記録もない。


これまでの調査で集めた資料も、箱に関係する品もない。


男主は、何も持っていなかった。


「ほかには」


「ない」


男の一人が、もう一度身体を調べた。


服の内側まで確認し、隠せそうな場所を探る。それでも、何も出てこない。


「嘘をついているんじゃないのか」


「何を持っていると言うんだ」


「箱だ」


「ここにはない」


男主は、それ以上説明しなかった。


箱を誰に預けたのか。


どこに置いたのか。


直人がどこにいるのか。


そんなことを口にする理由はなかった。


責任者は机の上に並んだ品を見下ろした。


「もう一度、調べろ」


命令は短かった。


二人が再び男主を連れ出し、別の部屋へ移した。


今度は、さらに厳しい捜索だった。


壁際に立たされ、服の縫い目まで確認される。靴も脱がされ、身につけているものを一つずつ調べられた。


結果は変わらなかった。


箱はない。


男主を連れ戻した部下が報告すると、責任者はしばらく何も言わなかった。


「本人が持っていないだけではありませんか」


部下の一人が言った。


「なら、どこにある」


「それは……」


「分からないから、今こうしているんだろう」


責任者の声に、苛立ちが混じった。


男主は、そのやり取りを黙って聞いていた。


相手は、箱を奪うつもりで自分を呼び出した。


だが、肝心の箱がない。


彼を殺せば、箱の所在を聞き出す機会を永遠に失うかもしれない。


ここで解放すれば、箱を取り戻すために使える手掛かりまで失う可能性がある。


拘束し続けるにしても、箱を持っていない人間を閉じ込めておくだけでは、問題は解決しない。


男主は、彼らの事情をすべて知っているわけではなかった。


ただ、目の前の男たちが、当初の予定どおりに事を進められていないことだけは分かった。


責任者が立ち上がった。


「お前は、なぜ一人で来た」


「直人を巻き込みたくなかった」


「直人?」


男主は答えなかった。


余計な情報を渡す必要はない。


責任者は彼をしばらく見つめ、それから部下に命じた。


「外へ出せ」


男主は、部下に腕をつかまれたまま立ち上がった。


「ここで終わりか」


「誰が終わりだと言った」


責任者の声が背後から飛んできた。


「お前が持っていないことは分かった。だが、持っていないからといって、知らないとは限らない」


男主は振り返った。


「俺が知っていることを話せば、帰してくれるのか」


「話す内容による」


「なら、話すことはない」


責任者は答えなかった。


部下たちが男主を廊下へ連れ出す。


扉が閉まる直前、男主は一度だけ室内を見た。


責任者はまだ机の前に立っていた。


その表情からは、怒りとも困惑ともつかないものが読み取れた。


男主は廊下を歩きながら、頭の中で状況を整理した。


ここに来る前、箱を手放すことには抵抗があった。


箱を失えば、これまで集めた情報を失うだけではない。自分が何を追っているのか、その根本にある手掛かりまで失うことになる。


しかし、箱を直人に預けたことで、少なくとも相手の要求をそのまま受け入れずに済んだ。


それでも、まだ安全ではない。


相手は彼を解放する理由を見つけていない。


そして、彼自身も、ここから無事に出られる保証を持っていなかった。


案内役が廊下の突き当たりで立ち止まった。


「ここで待て」


男主は足を止めた。


案内役は一度、周囲を確認した。


その直後、建物の奥から別の男が駆けてきた。


「責任者。外線です」


「誰からだ」


「分かりません。ただ……専用回線からです」


案内役の表情が変わった。


それまで男主を見下ろしていた目が、一瞬だけ揺れる。


「責任者に伝えろ。すぐに出るようにと」


男主は、その会話を聞いていた。


専用回線。


その言葉が何を意味するのか、彼には分からない。


だが、部下たちの態度が変わったことだけは分かった。


建物の奥で、足音が遠ざかっていく。


男主は壁際に立ったまま、静かに息を整えた。


ここで何が起きているのか。


誰が電話をかけてきたのか。


そして、自分は本当に、この場所から出られるのか。


まだ、何一つ分からなかった。

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