第123章 残された記録
翌朝、男主は机の引き出しから身份牌の調査記録を取り出した。
寸法、重量、刻印の配置、表面の傷。
前日に整理した情報を見直しながら、彼は二つの選択肢を考えていた。
一つは、専門的な検査を受けること。
もう一つは、これまでに訪れた工房や商店の記録を、別の角度から調べ直すことだった。
「検査に出すなら、まず費用を確認したいな」
直人が言った。
「そうだな。検査を受けても製造元が分かるとは限らない。先に、今ある資料から何が分かるか考えよう」
男主は手帳を開き、これまで訪れた場所を順番に並べた。
最初の金属加工工房。
閉鎖された古い工房の跡地。
その工房に材料を納めていた商店。
さらに、閉鎖前後の取引記録が残っていた別の店。
これまでの調査では、古い工房が何らかの金属部品や加工品を扱っていたことまでは確認できた。しかし、身份牌を作ったという証拠はない。
そして、閉鎖後に似た加工品を購入していた店についても、古い工房の仕事を引き継いだとは確認できていなかった。
男主は、その店の記録に目を留めた。
「この店に、もう一度行ってみよう」
「また同じ帳簿を確認するのか?」
「帳簿そのものじゃない。前に確認したのは、古い工房が何を仕入れていたか、そして閉鎖後に似た品物がどこへ流れたかだ。でも、店の側に残っている情報は、それだけとは限らない」
直人は手帳を覗き込んだ。
「具体的には?」
「帳簿を管理していた人間だよ。当時の取引を覚えている人がいるかもしれない。それに、店が移転したとき、古い資料をどこへ持っていったのかも確認できる」
「覚えているとは限らないぞ」
「もちろん。だから、行って確かめるだけだ」
二人は必要な記録を持ち、店へ向かった。
店は以前の場所から移転していたが、商売自体は続いていた。
店主は男主の顔を覚えていたらしく、二人を見ると軽く頷いた。
「また何か分かったのか?」
「いえ、まだ製造元は特定できていません。ただ、以前見せていただいた古い取引記録について、もう少し確認したいことがあります」
男主は前回と同じように、調査の目的を説明した。
ただし、身份牌の持ち主や襲撃者については話さなかった。
「以前の帳簿に、古い工房との取引が残っていましたよね。あの工房が閉鎖した後、関連する資料がこちらに残っていないか知りたいんです」
店主は少し考えた。
「帳簿なら、倉庫に古いものがいくつかある。ただ、全部を整理しているわけじゃない」
「見せていただくことはできますか?」
「どの時期のものが必要なんだ?」
男主は手帳を開き、古い工房の取引が記録されていた年月を示した。
店主はその範囲を確認すると、奥の倉庫へ向かった。
しばらくして、薄い帳簿を一冊持って戻ってきた。
「これは以前の店から持ってきたものだ。該当する時期の記録が少し残っている」
男主は礼を言い、ページをめくった。
そこには、以前確認したものと似た取引が記録されていた。
金属部品。
加工品。
数量。
納品日。
しかし、具体的な品名や用途は書かれていない。
男主は焦らず、前後のページも確認した。
すると、ある時期を境に、取引相手の記載方法が変わっていることに気づいた。
以前は工房の名前が記されていたのに、その後は個人名らしき短い記載に変わっていたのである。
「この名前について、何かご存じですか?」
男主は該当箇所を指した。
店主は帳簿を覗き込み、目を細めた。
「古い記録だな……。名前だけでは、ちょっと分からない」
「工房の関係者だった可能性はありますか?」
「可能性ならある。ただ、うちでは材料や加工品を複数の相手に売っていたからな。工房の人間だったのか、別の業者だったのか、それだけでは判断できない」
男主はその名前を手帳に書き写した。
「この人について、ほかに記録はありませんか?」
「今すぐには分からない。帳簿を全部確認するなら時間がかかる。それに、個人名で取引していた相手は、別の店にも出入りしていたかもしれない」
「分かりました。今日は、この記録だけ確認できれば十分です」
男主は帳簿を閉じた。
店主は少し考えてから言った。
「一つ、覚えていることがある」
男主と直人は顔を上げた。
「その工房が閉鎖する少し前、店に来ていた人間がいた。工房の主人とは違う人物だったと思う。何度か古い注文について確認していた」
「どんな人物でしたか?」
「もう顔までは覚えていない。ただ、注文を受け取りに来たというより、過去の取引について調べているような様子だった」
「その人が、今の帳簿にある名前の人物かどうかは分かりますか?」
「分からない。今の話も、ずいぶん昔のことだ。確かな情報として扱わないでくれ」
男主は頷いた。
「もちろんです。思い出していただけただけでも助かります」
店主に礼を言い、二人は店を出た。
外へ出ると、直人がすぐに尋ねた。
「この名前を追うのか?」
男主は手帳を開いた。
「すぐには決めない。まず、名前が本当に人間を特定できるものなのか確認したい。同じ名前の人がいるかもしれないし、帳簿の記載自体が省略されている可能性もある」
「それなら、また別の店を回ることになるな」
「そうなるかもしれない。でも、今回は前と違う。少なくとも、調べる対象が一つ増えた」
男主は記録を見直した。
新しく分かったことは多くない。
工房の閉鎖前に、過去の取引を調べていた人物がいたらしいこと。
帳簿に、工房名とは異なる個人名らしき記載が残っていたこと。
ただし、その人物が身份牌を作ったのか、工房と関係があったのか、あるいは単に別の取引をしていたのかは分からない。
今の段階で、それ以上の意味を与えるべきではなかった。
宿に戻る途中、男主は連絡用の道具を取り出し、応援者に簡単な報告を送った。
『古い帳簿に、工房名とは別の個人名らしき記録があった。工房が閉鎖する前、過去の取引について尋ねていた人物もいたらしい。ただし、身份牌との関係は不明だ』
返事は少し遅れて届いた。
『その記録は、身份牌と結びつけられる段階ではありませんね。名前と時期を分けて記録し、確認できた事実と、まだ確認できていない推測を混同しないほうがよさそうです』
男主はその文章を読み、手帳に二つの項目を書き加えた。
確認できた事実。
確認できていない可能性。
今回の情報は、まだ前者にほとんど移せない。
それでも、手掛かりを一つ見つけたからといって、そこへすべてを結びつける必要はなかった。
男主は新しく得た名前を、調査記録の最後に書き加えた。
次に確認すべきことは、その名前がほかの取引記録にも現れるかどうか。
もし別の記録にも同じ名前があれば、当時どのような仕事をしていた人物なのか、少しずつ範囲を絞れるかもしれない。
反対に、ほかの記録が見つからなければ、それ以上追いかける価値があるかを改めて考えればいい。
男主は手帳を閉じた。
身份牌の調査は、まだ終わらない。
しかし、彼はもう、ただ似た刻印を探して町を歩き回っているわけではなかった。
今ある記録を使い、次に確認すべき事実を一つずつ選ぶ。
その積み重ねが、いつか身份牌の製造元や、使われていた目的へつながる可能性はある。
ただし、それが必ず持ち主へつながるとは限らない。
男主はそのことも、忘れずに記録しておいた。




