第121章 帳簿の余白
翌朝、男主は昨日書き写した帳簿の記録を机に広げた。
古い工房が材料を仕入れていたことは分かった。しかし、納入された材料が何に使われたのかまでは記されていない。牌の製造に関係している可能性はあるが、現時点ではそれ以上でも、それ以下でもなかった。
直人は記録を覗き込んだ。
「この商店にもう一度行くのか?」
「いや。今日は、帳簿に出てきた別の名前を調べたい」
男主は記録の一か所を指した。
「材料を仕入れていたのは、あの工房だけじゃない。いくつかの取引先の名前が残っている。工房が閉じたあと、どこかが仕事を引き継いだのなら、別の取引先にも何か残っているかもしれない」
「同じ金属を扱っていた店を探すわけか」
「それもある。ただ、今は牌の材質が分からないから、材料だけで絞り込むのは難しい。まずは、工房と継続的に取引していた相手がいないか調べてみる」
男主は帳簿に書かれた店名をいくつか書き出した。
そのうち二つは、すでに廃業していた。残る一つは、今も商売を続けているらしい。
二人は朝食を済ませると、その店へ向かった。
店は町の中心部にあり、金属製品だけでなく、工具や部品も扱っていた。店内には新しい品物と古い品物が混在し、奥には修理を待つ道具が積まれている。
男主が店主に工房の名前を伝えると、店主は少し考えた。
「その工房なら、昔、何度か注文を受けたことがある。うちの先代が取引していた相手だな」
「どんな品物を扱っていたか、ご存じですか?」
「詳しくは知らない。うちは材料を売ることもあれば、完成品を仕入れることもあったからな。取引先ごとの記録も、全部が残っているわけじゃない」
男主は昨日と同じように、分かる範囲だけでよいと伝えた。
店主は奥から古い帳簿を持ってきた。
記録を調べると、確かにその工房の名前が何度か出てきた。しかし、昨日の商店の帳簿とは異なり、こちらには材料の種類が詳しく記載されていない。
注文品の名称も、単に「金属部品」「加工品」とだけ書かれている箇所が多かった。
「これでは、牌との関係は分かりませんね」
直人が言った。
「そうだな」
男主も否定しなかった。
それでも、帳簿の後半に、気になる記録があった。
工房との取引が途絶えたあと、別の店から似た種類の加工品を仕入れた記録が残っていたのである。
「この店は、どこにあるんですか?」
男主が尋ねると、店主は帳簿を確認した。
「名前は分かるが、今も営業しているかどうかは分からない。先代の時代の取引先だからな」
「この店が、工房の仕事を引き継いだ可能性はありますか?」
「可能性ならある。ただ、取引先が変わっただけかもしれない。工房の仕事を引き継いだ証拠にはならないよ」
男主は頷いた。
一つの記録から、分かることと分からないことを分ける。
それを繰り返すしかなかった。
店主に礼を言い、二人は外へ出た。
「また別の店か」
直人が少し疲れたように言った。
「今度は、行く前に場所と営業状況を確認しよう。無駄足を減らせるかもしれない」
「そうだな。先に聞いてみるか」
二人は近くの案内所へ向かい、記録にあった店の住所を確認した。
店は、町から少し離れた地区にあった。
ただし、現在も同じ場所で営業しているかは分からないという。
二人はその地区へ向かったが、到着した頃には午後になっていた。
住所の場所にあったのは、小さな倉庫と住宅だった。看板はなく、店として営業している様子もなかった。
男主は周囲を見回した。
「ここも閉じているのか」
直人が近くの住人に尋ねると、店は数年前に移転したらしいことが分かった。移転先までは知らないという。
「また振り出しか?」
直人が尋ねた。
「いや。少なくとも、ここで営業していないことは確認できた。これ以上、同じ場所を探し続ける必要はない」
男主は住所に印をつけた。
二人は近くの商店を数軒回り、移転先について聞いてみた。しかし、店名を知っている人はいても、現在の所在を知る人はいなかった。
日が傾き始めた頃、男主は調査を切り上げることにした。
宿へ戻る途中、直人が言った。
「今回の調査、最初に考えていたより時間がかかりそうだな」
「そうだな」
「身份牌ひとつで、ここまで店を回ることになるとは思わなかった」
男主は歩きながら答えた。
「だからといって、何でもかんでも調べ続けるつもりはない。今のところ、調べる価値があるのは、牌の加工方法と関係しそうな記録だ。関係が薄いと分かったら、そこで切り上げる」
「どこで切り上げるか、判断できるのか?」
「完全にはできない。ただ、確かめられることがなくなったら、別の方法を考える」
直人はそれ以上、何も言わなかった。
宿に戻ると、男主は今日の記録を整理した。
古い工房と取引していた商店があったこと。
工房の閉鎖後、別の店から加工品を仕入れた記録が残っていたこと。
その店は移転しており、現在の所在地はまだ分からないこと。
どれも、牌の製造元を示す決定的な情報ではなかった。
しかし、昨日までの調査とは違い、工房以外の取引先にも目を向ける必要があると分かった。
男主は、帳簿に記されていた店名をもう一度確認した。
今後、牌の材質や加工方法が判明すれば、取引記録を絞り込める可能性がある。
逆に、何も分からないまま店を回り続けても、同じような調査を繰り返すだけだ。
「明日は、工房に戻ってみようと思う」
男主が言うと、直人は顔を上げた。
「昨日の工房か?」
「そうだ。今日の記録を見せて、どの情報が役に立ちそうか聞いてみる。俺たちは金属加工の専門家じゃない。調べる方向がずれていないか、一度確認したい」
直人は頷いた。
「それなら、今日みたいに一日中歩き回ることも減るかもしれないな」
「そうなればいい」
男主は記録を閉じた。
その夜、応援者に報告を送ると、相手からも短い返事が届いた。
『記録が増えてきましたね。ただ、今の段階では、工房と牌が関係しているかどうかも確定していません。調査の途中で、別の可能性も残しておいたほうがいいと思います』
男主は画面を見つめた。
『分かっている。牌を作った工房だと決めつけているわけじゃない。今は、手掛かりが少ないから、確認できる範囲を調べているだけだ』
送信すると、返事はすぐには来なかった。
男主は少し考え、もう一度画面を開いた。
『ところで、あなたなら、この調査をどこまで続ける?』
既読の表示がついた。
しばらくして、返事が届いた。
『私なら、次の確認で何が分かるのかを考えます。分かることがほとんどないなら、いったん別の手掛かりに移ると思います』
男主はその文章を読んで、少し笑った。
自分も、同じことを考えていた。
『そうだな。明日、職人に相談してみる』
そう返して、男主は道具を置いた。
窓の外では、町の灯りが一つずつ増えていた。
身份牌の調査は、まだ終わらない。
だが、ただ記録を集めるだけでは足りないことも分かってきた。
手元にある情報を整理し、次に何を確かめればよいのかを判断する。
それが、今の男主にできることだった。




