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観客のいない世界  作者: 亀


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第120章 閉じられた工房

翌朝、男主は直人とともに、町の南側へ向かった。


昨日、職人から教えられた三つ目の場所は、現在では工房として営業していない。かつて金属製品の加工を請け負っていたらしいが、いつ閉じたのか、誰が仕事を引き継いだのかまでは分かっていなかった。


「閉店した工房の跡地に行って、何か見つかると思うか?」


道中、直人が尋ねた。


「建物が残っているかも分からない。だから、最初から跡地に何かあるとは考えていない」


「じゃあ、何を探す?」


「その工房が、いつまで仕事をしていたのか。誰が経営していたのか。仕事を引き継いだ人がいるなら、どこへ行ったのか。まずはそこからだ」


男主は歩きながら、昨日書き留めた住所を確認した。


調査を始めてから、まだ二日しか経っていない。


身份牌の材質も、刻印の由来も、製造元も分からないままだった。だが、製造元が分からないなら、製造元にたどり着くまでの経路を調べればいい。


必ず見つかるとは限らない。


それでも、何もせずに答えを待つよりは確実だった。


二人がたどり着いたのは、商店街から外れた古い住宅地だった。


道沿いには小さな家や倉庫が並び、ところどころに、長い間使われていないと思われる建物が残っている。


目的の場所には、工房らしい看板はなかった。


建物の入口には板が打ちつけられ、窓も閉じられていた。外壁は色あせ、軒先には古い荷車の車輪や壊れた木箱が積まれている。


男主は建物の前で立ち止まった。


「ここで間違いないのか?」


直人が住所と建物を見比べた。


「番地は合っている」


男主は周囲を見回した。


人の気配はない。


入口を勝手に開けるわけにもいかなかった。中に設備や記録が残っている可能性はあるが、それを確かめる権利が自分たちにあるわけではない。


「近所の人に聞いてみよう」


二人は隣の家を訪ねた。


出てきたのは、年配の女性だった。


男主は事情を説明し、以前この場所に金属加工の工房があったかどうかを尋ねた。


女性は建物のほうを振り返った。


「ああ、昔は工房だったね。ずいぶん前の話だけど」


「いつ頃まで営業していたか、ご存じですか?」


「正確な年は覚えていないよ。私がここに越してきた頃には、もう店じまいの準備をしていたからね」


「その後、誰かが仕事を引き継いだのでしょうか」


女性は少し考えた。


「道具を運び出している人はいたよ。親戚なのか、弟子なのか、そこまでは知らないけれど。建物の中身はほとんどなくなったんじゃないかな」


男主は礼を言った。


建物の中に記録が残っている可能性は低そうだった。


それでも、道具を運び出した人間がいたことは分かった。


「その人たちが、どこへ行ったかは分かりませんか?」


「さあね。荷車で運んでいたから、この近くの人だったのかもしれないけれど」


それ以上のことは分からなかった。


二人は別の家でも話を聞いたが、得られた情報は似たようなものだった。


工房は閉鎖された。


道具は運び出された。


誰かが仕事を引き継いだ可能性はある。


しかし、時期も人物も特定できない。


男主は通りの端にある石段に腰を下ろし、手帳を開いた。


「どうする?」


直人が尋ねた。


「次は、道具を運び出した先を探す」


「手掛かりがないのに?」


「手掛かりがないわけじゃない。少なくとも、工房の設備はどこかへ移された可能性がある。全部処分されたのか、別の工房で使われているのか。それを確認する必要がある」


「でも、誰が運び出したか分からない」


「だから、ここだけを調べ続けても仕方がない」


男主は手帳を閉じた。


「この工房が取引していた店や、仕事を依頼していた商人がいれば、そちらに記録が残っているかもしれない」


直人は納得したように頷いた。


「つまり、工房そのものじゃなくて、工房と関わっていた人間を調べるわけか」


「そういうことだ」


二人は近くの商店を訪ねることにした。


古い工房が営業していた時代を知る商店は、今では数が限られていた。店主が代替わりしていたり、商売そのものをやめていたりする店もあった。


それでも、何軒かを回るうちに、ひとつの名前が出てきた。


かつて金属製品の材料を卸していた商店だった。


現在の店主は、父親の代から続く帳簿を保管しているという。


男主が工房の名前を伝えると、店主は奥から古い帳簿を持ってきた。


「ずいぶん昔のものだ。全部が残っているわけじゃないぞ」


「構いません。確認できる範囲だけで十分です」


店主は帳簿を開き、該当する時期の記録を探した。


紙は黄ばんでいたが、取引先の名前や日付は読み取れる。


しばらくして、店主が一つの欄を指した。


「これだな。この工房に材料を卸していた記録がある」


男主は身を乗り出した。


そこには、工房の名前と、複数回にわたる材料の納入記録が残っていた。


しかし、品物の用途までは書かれていない。


材料の種類と数量、取引の日付、代金の記録だけだった。


「この頃は、何を作っていたんですか?」


「帳簿だけじゃ分からないね。材料を何に使ったかまでは、普通は記録しないから」


男主は記録を丁寧に書き写した。


何か特別な金属を使っていたのか。


それとも、一般的な材料を使っていたのか。


現在の帳簿だけでは判断できなかった。


それでも、工房が実際に材料を仕入れていた時期を確認できた。今後、牌の材質が判明した場合、比較するための情報になる可能性がある。


男主は店主に礼を言い、帳簿を返した。


店を出ると、直人が言った。


「製造元の手掛かりが出ると思ったが、結局、取引の記録だけだったな」


「それでも、記録が残っていたのは大きい」


「何が大きいんだ?」


「今のところ、牌に使われた金属が何なのか分からない。もし後で材質が分かれば、この工房が扱っていた材料と照合できる。今は役に立たなくても、捨てる必要はない」


男主は手帳をしまった。


「ただし、この工房が牌を作ったと決まったわけじゃない。材料を仕入れていたというだけだ」


直人は笑った。


「そこはずいぶん慎重だな」


「そうしないと、都合のいい情報だけをつなげてしまうからな」


二人は宿へ戻った。


その夜、男主は今日の記録を整理した。


閉鎖された工房の跡地。


道具を運び出した人物がいたという証言。


材料を卸していた商店の古い帳簿。


どれも、身份牌の製造元を直接示すものではない。


だが、調査を続けるための材料にはなる。


男主は応援者に報告を送った。


『閉鎖された工房を調べたが、建物にはほとんど何も残っていなかった。ただ、以前の取引先が古い帳簿を保管していた。工房が材料を仕入れていた時期と、取引の記録は確認できた』


返事はしばらくして届いた。


『それなら、記録は残しておいたほうがいいですね。今すぐ結びつかなくても、後から別の情報と照合できるかもしれません』


男主は画面を見つめた。


『そうする。ところで、こういう調査は得意なのか?』


送信してから、男主は少し考えた。


これまで相手は、情報を整理する方法や、調査の進め方について的確な意見をくれていた。


しかし、その理由を本人から聞いたことはない。


画面に既読の表示がついた。


返事はなかった。


男主はしばらく待ったあと、別の文章を送った。


『答えたくないなら、無理に答えなくていい。また何か分かったら連絡する』


それ以上、相手を問い詰めることはしなかった。


男主は記録を閉じ、机の上に身份牌を置いた。


今日、分かったことは限られている。


製造元はまだ分からない。


材料の種類も不明だ。


だが、少なくとも調査の対象は少しずつ広がっていた。


工房の名前だけではなく、その取引先、材料の仕入れ、道具の移動。


次に確認するべきことが、一つずつ見えてきている。


男主は牌を布で包み、引き出しにしまった。


明日は、古い帳簿に残っていた取引先をもう少し調べるつもりだった。


それが身份牌につながる保証はない。


それでも、手元にある情報を一つずつ確かめていくしかなかった。

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