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観客のいない世界  作者: 亀


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第118章 金属に残された痕跡

翌朝、直人が宿の机に置かれた小さな牌を見つめていた。


牌は、昨日と同じ場所にあった。


男主は朝食を済ませると、紙に包んでいた牌を取り出し、窓際に置いた。朝の光が斜めに差し込み、表面に刻まれた浅い傷が浮かび上がる。


「これを調べるんだな」


直人が尋ねた。


「そうだ。いきなり持ち主を探すんじゃなくて、まずは物そのものを調べる」


男主は牌を指先で回した。


「材質、加工方法、刻印。それが分かれば、どこで作られた可能性があるのか、少しは絞れるかもしれない」


「榊原たちに聞くのは?」


「今はやめておく。あの人たちは、この牌について何か知っている可能性がある。でも、こちらから何度も尋ねれば、向こうが警戒するだけだ」


直人は頷いた。


二人が今持っているのは、小さな金属片ひとつだった。


持ち主の名前も、所属も、作られた時期も分からない。


これだけで相手の正体にたどり着けるとは思っていなかった。


それでも、調べられることはある。


男主は牌を布で包み直し、上着の内ポケットにしまった。


「まずは金属を扱っている人を探そう。見ただけで全部分からなくても、何を調べればいいかくらいは教えてくれるかもしれない」


二人は宿を出た。


町の通りには、朝から荷車が行き交っていた。商店の戸が開き、職人たちが仕事場へ向かっている。特別なことなど何もない、いつもどおりの朝だった。


男主は近くの金物店に入った。


店の主人は、二人の顔を一度見てから、カウンターの向こうで手を止めた。


「何をお探しで?」


「金属製の小さな牌について、少し調べたいんです。材質や加工方法が分かる人を探しています」


「売り物ですか?」


「いえ。すでに持っているものです」


男主は牌をすぐには見せず、まず尋ねた。


主人はしばらく考えたあと、店の奥にある棚を指した。


「ここで扱っているのは、主に一般向けの金物です。装飾品や特殊な刻印となると、私には分かりませんね。北通りに金属加工を専門にしている職人がいます。古い道具の修理も請け負っているはずです」


「ありがとうございます」


男主は礼を言い、店を出た。


一軒目で答えは得られなかった。


しかし、次に向かう場所は決まった。


北通りは、商店街から少し外れたところにあった。表通りよりも人通りが少なく、軒先には使い込まれた工具や金属部品が並んでいた。


紹介された工房は、通りの奥にあった。


扉を開けると、金属を削る音が響いていた。


作業台の前にいた職人は、二人に気づくと機械を止めた。


「修理の依頼か?」


「いえ、少し見ていただきたいものがあって」


男主はようやく牌を取り出した。


職人は受け取る前に、まず表面を眺めた。


「どこで手に入れた?」


「それは、今は話せません」


職人は男主を見たが、理由を問い詰めることはなかった。


「なら、分かる範囲で話そう」


職人は牌を受け取り、窓から入る光にかざした。次に裏返し、刻印の周囲をじっくりと観察した。


しばらくして、彼は作業台の上に柔らかい布を敷き、その上に牌を置いた。


「表面だけでは断定できない。見た目が似ている金属はあるし、長く使われていれば表面も変わる。削ったり、薬品を使ったりすれば、元の状態を損なうこともある」


「壊さずに調べる方法はありますか?」


「ある程度ならな。ただし、ここにある道具だけで、正確な成分まで保証することはできない」


男主は頷いた。


「それで構いません。まず、何が分かるのか知りたいんです」


職人は刻印を指で示した。


「この文字だが、一般的な装飾品の刻印とは少し違う。少なくとも、見栄えをよくするためだけに彫ったものではなさそうだ」


「どういう意味ですか?」


「溝の深さが均一じゃない。文字の線にも、一定の癖がある。手作業で彫った可能性はあるが、それだけでは判断できない。元になる型があったのかもしれないし、別の道具を使ったのかもしれない」


直人が身を乗り出した。


「同じものを作った工房を探せますか?」


「同じものを作った工房、か」


職人は少し考えた。


「この牌ひとつで、そこまで特定するのは難しい。ただ、似た加工をする職人や、同じ型を使った工房なら、探す手掛かりはあるかもしれない」


男主はその言葉を頭の中で整理した。


持ち主を直接探すことはできない。


しかし、加工の特徴から製造方法を絞り、同じ方法を使った工房を探すことなら可能かもしれない。


「この刻印を、もう少し詳しく見ていただけませんか」


「今日は無理だ。別の仕事が残っている。預けるなら数日は必要になるし、調べても確かな答えが出るとは限らん」


男主はすぐには返事をしなかった。


牌を預けるということは、手元から離すということだ。


相手が信用できないと言っているわけではない。それでも、今の自分には、この小さな物品がどれほど重要なのかさえ分かっていなかった。


失ってよいものかどうかも、判断できない。


「預けずに、こちらで見学することはできますか?」


職人は男主を見た。


「時間はかかるぞ」


「構いません。できる範囲でお願いします」


職人は少しだけ笑った。


「なら、まずは表面を拡大して見るところからだ。成分分析とは違うが、加工の跡を調べるには役に立つ」


男主は礼を言った。


工房を出る頃には、昼が近づいていた。


大きな進展があったわけではない。


牌の持ち主は分からず、作られた場所も特定できていない。刻印の意味も不明なままだ。


だが、調査を始める前と比べれば、少なくとも一つ変わったことがある。


男主は、次に何を確かめればよいのかを知った。


「このまま工房を回るのか?」


直人が尋ねた。


「いや。まずは今日聞いたことを整理する。似た加工をする工房を探すにしても、手掛かりが曖昧なままでは無駄足になる」


「慎重だな」


「慎重というより、手元にある情報が少ないだけだよ」


男主は歩きながら答えた。


「分からないことを、分かったことにして進めたくないんだ」


宿へ戻ると、男主は紙を広げ、職人から聞いた内容を書き出した。


材質は未確定。


刻印には手作業、あるいは型を使った加工の可能性がある。


製造元の特定は困難。


次に必要なのは、加工の特徴をもう少し具体的に把握すること。


書き終えたところで、男主は連絡用の道具を手に取った。


応援者に報告するべきだろうか。


しばらく考えたあと、短い文章を送った。


『牌を金属加工の職人に見てもらった。材質はまだ不明。刻印には特徴があるらしいが、製造元を特定できるほどではない。まずは加工の跡を詳しく調べることになった』


返事はすぐには来なかった。


男主は道具を机に置き、記録の整理に戻った。


やがて、画面に新しい通知が表示された。


『その進め方でいいと思います。今は持ち主を当てようとするより、確認できる特徴を増やしたほうがいいです。』


男主は文章を読み、少し考えてから返した。


『そうだな。ところで、あなたはどんな人なんだ?』


送信したあと、男主は画面を見つめた。


今まで何度も相談してきた。


相手の考え方も、問題の整理の仕方も、少しずつ分かってきたつもりだった。


それなのに、相手がどんな場所で暮らし、どんな仕事をし、どんな人間なのかは知らない。


しばらくして、既読を示す表示がついた。


しかし、返事はなかった。


男主は画面を閉じかけて、もう一度開いた。


何か事情があるのかもしれない。


そもそも、相手が自分のことを話さなければならない理由もない。


男主は追及しなかった。


『分かった。また調査が進んだら連絡する』


そう送ると、道具を机の端に置いた。


窓の外では、夕方の人々がそれぞれの家へ帰り始めていた。


男主は机の上の牌を見た。


小さな金属片ひとつ。


そこから分かったことは、まだわずかだった。


それでも、明日やるべきことは見えている。


まずは刻印の特徴を記録する。


それから、同じ加工を扱う工房を探す。


答えが見つかる保証はない。


だが、今の自分にできることは、確かな情報を一つずつ積み上げることだった。

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