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観客のいない世界  作者: 亀


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第116章 調べてはならないもの

男主が榊原のもとを訪ねたのは、翌日の午後だった。


傷の処置を終えたものの、脇腹にはまだ鈍い痛みが残っていた。腕を動かすたびに傷口が引きつる。直人も無理をすれば動けないわけではなかったが、二人とも本調子にはほど遠かった。


それでも、男主には確かめたいことがあった。


懐から取り出したのは、あの場所で見つけた小さな牌だった。


高橋家を襲った仮面の集団。箱を要求した指揮役。そして、負傷した仲間を残して撤退した者たち。


彼らの行動には、場当たり的なところがほとんどなかった。


自分たちの目的を知られることを避け、必要以上の情報を残さず、不利になれば撤退する。少なくとも、昨日の戦いを見る限り、彼らは命令だけに従って無謀な行動を取る集団ではなかった。


だからこそ、男主は牌を無視できなかった。


榊原の一族は、以前から箱に関する情報を集めていた。男主も彼らと情報を交換し、一部の箱を受け取っている。


箱そのものについては何も分からなかったが、長年にわたって調査を続けてきた彼らなら、この牌について何か知っているかもしれない。


応接室に通されると、榊原は男主の傷を見て眉をひそめた。


「ずいぶん派手にやられたようだな」


「少し失敗しました」


「少し、か」


榊原はそれ以上、傷について追及しなかった。


男主も、戦いの詳細を最初からすべて説明するつもりはなかった。まずは牌を見せ、相手の反応を確かめることにした。


「これについて、何かご存じありませんか」


榊原は差し出された牌を受け取った。


表面を確認し、裏返し、刻印の周囲を指先でなぞる。


その動きが止まった。


ほんの一瞬だった。


しかし、男主は見逃さなかった。


榊原は牌を机の上に置き、すぐには口を開かなかった。


「どこで手に入れた?」


「高橋家の箱が奪われたあと、指定された場所へ行きました。そこで、仮面をつけた集団に襲われました」


「何人いた?」


「少なくとも八人。見えていた範囲だけです」


「全員、仮面を?」


「はい。指揮役らしい男もいました」


榊原は腕を組んだ。


「それで、勝ったのか」


「全員を倒したわけではありません。何人かは負傷して倒れ、残りは撤退しました」


「追わなかったのか?」


「追える状態ではありませんでした。こちらも傷を負っていましたから」


男主は事実だけを答えた。


榊原はしばらく考え込んでいたが、やがて牌を男主のほうへ押し戻した。


「これは、ここで見なかったことにしたほうがいい」


男主は牌に目を落とした。


「何か分かったんですか」


「分かったことと、君に話せることは別だ」


「つまり、ご存じなんですね」


榊原はすぐには否定しなかった。


その沈黙だけで、男主には十分だった。


ただし、榊原がどこまで知っているのかは分からない。刻印の意味を知っているだけなのか、それとも牌を持つ者たちについて何らかの情報を持っているのか。


今の段階では判断できなかった。


男主は椅子に座り直した。


「俺は、彼らの正体を知りたいんです。高橋家が襲われた理由も、どうして俺が狙われたのかも分かっていません」


「箱を持っているからだろう」


「それは分かっています。でも、なぜ俺が箱を持っていると知られているのか。高橋家を襲った者たちと、以前から俺の行動を知っていた者たちは同じなのか。そこが分からないんです」


榊原は男主を見つめた。


「君は、どこまで調べるつもりだ?」


「分かりません。調べてみなければ、どこまで分かるのかも判断できませんから」


「その考え方は、いつか君を危険な場所へ連れていく」


「もう連れていかれました」


男主は自分の傷を軽く指した。


榊原は笑わなかった。


「今回のような危険とは、少し違う」


彼は牌を指先で押さえた。


「君が相手にしている者たちは、箱を欲しがるだけの盗賊ではないのだろう。少なくとも、君の話を聞く限り、組織的に動いている。目的が何であれ、必要なときには引き際を見極める。そういう相手だ」


「だから、余計に調べる必要があると思っています」


「調べれば、相手が何者なのか分かるとは限らない」


榊原の声が少し低くなった。


「こちらが何を知ろうとしているのかを、相手に知られるだけかもしれない」


男主は黙った。


榊原の言葉は、単なる脅しには聞こえなかった。


以前、箱を巡る争いに関わったときも、榊原たちは情報の扱いに慎重だった。必要なことは話すが、確かめられないことは断言しない。知っていても、話さないことがある。


それは男主も理解していた。


しかし、今回は少し様子が違う。


榊原は、牌の正体を説明しようとしないだけではなかった。男主が調査を続けること自体を止めようとしている。


「榊原さん」


男主は、慎重に言葉を選んだ。


「あなた方も、この牌の持ち主と関係があるんですか」


榊原の目がわずかに細くなった。


「なぜ、そう思う?」


「牌を見たとき、反応が変わりました。それに、俺が何をしたのかを聞いたあと、すぐに調べるなと言った。何も知らないなら、そこまで止める必要はないと思ったんです」


「君は、相手の反応から答えを引き出そうとする癖があるな」


「それしか手掛かりがないこともあります」


「だが、反応があったからといって、君の推測が正しいとは限らない」


榊原は牌を机の中央へ戻した。


「私たちは、君が思っているほど何でも知っているわけではない。知っていることにも、話せることと話せないことがある。それだけだ」


男主は、その答えを聞いても納得できなかった。


しかし、これ以上問い詰めても、榊原が口を開くとは思えなかった。


「では、一つだけ聞かせてください」


「何だ?」


「この牌について調べることが、あなた方にとっても危険なんですか」


榊原は長い間、男主を見つめていた。


やがて、ゆっくりとうなずいた。


「そうだ」


それは、今回初めて得られた明確な答えだった。


男主は顔を上げた。


「どうしてですか」


「君に説明できる範囲を超えている」


「俺が知らないことを知ると、あなた方にも不都合があるということですか」


「そういう単純な話でもない」


榊原は声を荒らげなかった。


むしろ、これまで以上に慎重に話していた。


「私たちには、私たちの立場がある。過去に結んだ約束もあれば、現在の生活を守るために維持している関係もある。君が知らないところで、多くの人間が互いの利益を調整しているんだ」


「それが、箱の件と関係している?」


「これ以上は聞かないでくれ」


榊原ははっきりと言った。


「君が箱を調べること自体を、私は止めていない。君には君の目的があるし、私たちもそれを理解している。だからこそ、これまで情報を交換してきた」


彼は一度、言葉を切った。


「だが、この牌の持ち主を追うことは、箱の由来を調べるのとは違う」


「何が違うんですか」


「箱について調べるのなら、記録を集め、過去の所有者をたどり、残された資料を照合すればいい。時間はかかるが、調査の範囲を自分で決められる」


榊原は男主の目を見た。


「しかし、人間の組織を追い始めれば、君が調べる側でいられるとは限らない。向こうが君を調べる側に回ることもある」


男主は、昨日の戦いを思い出した。


仮面の男たちは、彼が持つ箱の存在を知っていた。


そして、箱を渡さなければ殺すと告げた。


だが、不利になったと判断すると、負傷した仲間を残して撤退した。


あの行動は、彼らが命を軽んじているわけではないことを示していた。彼らにも判断基準があり、損失を避けるための計算がある。


それならば、彼らを動かしている側にも、同じような計算があるのだろう。


男主は牌を見つめた。


「俺は、誰かを脅したいわけでも、あなた方の関係を壊したいわけでもありません。ただ、自分が何に巻き込まれているのか知りたいんです」


「それは分かっている」


榊原は静かに答えた。


「だから、忠告しているんだ」


彼は机の上に置かれた牌を、男主の側へ押し戻した。


「その牌を持って帰りなさい。こちらでは預からない。君が持っていること自体を、私たちが知らないことにするつもりもない」


男主は牌を受け取った。


「それでも、調べるなということですか」


「少なくとも、今はやめておけ」


榊原は言った。


「君にはまだ、箱のことだけでも調べるべきことが残っている。正体の分からない相手を追いかけ、何を守り、何を恐れているのかも分からないまま踏み込めば、君だけでは済まなくなる」


その言葉には、榊原自身の事情も含まれているように思えた。


彼らは、箱に関わる情報を持ち、過去から続く何らかの関係の中で生きている。もしその関係が外部に漏れれば、彼ら自身も無傷ではいられないのだろう。


だが、男主には、その先を確かめる手段がなかった。


榊原がすべてを話せば、何かが分かるかもしれない。


しかし、話さない理由があることも、今のやり取りから伝わってきた。


「分かりました」


男主は牌を懐にしまった。


榊原は少し意外そうに彼を見た。


「納得したのか?」


「納得したわけではありません。ただ、あなたが話せないことまで、ここで無理に聞き出すつもりはありません」


男主は立ち上がった。


「忠告は覚えておきます。でも、箱の調査までやめるつもりはありません」


「それでいい」


榊原はそれ以上、引き止めなかった。


部屋を出る前、男主は一度だけ振り返った。


「榊原さん。もし今後、俺が調べていることで、あなた方に危険が及びそうになったら、教えてください。少なくとも、知らずに巻き込むことは避けたいです」


榊原はすぐには答えなかった。


やがて、短くうなずいた。


「分かった。話せる範囲であればな」


男主は部屋を出た。


廊下を歩きながら、懐の牌に触れる。


榊原は何かを知っていた。


しかし、その情報を共有すれば、彼ら自身の立場が危うくなる可能性がある。彼らは箱の調査には協力できても、背後にある人間関係のすべてを明かすことはできない。


それは、男主が求める情報と、榊原たちが守らなければならないものが、必ずしも一致しないということだった。


外に出ると、直人が待っていた。


「どうだった?」


「調べるなと言われた」


直人は眉を上げた。


「理由は?」


「詳しくは話せないらしい。ただ、調べれば俺たちだけの問題では済まなくなる可能性があるそうだ」


「それで、やめるのか?」


男主は少し考えた。


「牌の持ち主を追いかけるのは、いったん保留にする」


「箱の調査は?」


「続ける。あの人も、箱を調べること自体を止めたわけじゃない」


直人はうなずいた。


二人は歩き始めた。


男主の手元には、依然として何の説明もない牌が残っていた。


その持ち主を追えば、何かが分かるかもしれない。


しかし、その先には、榊原たちが恐れる何かがある。


男主はまだ、その正体を知らなかった。


そして、知らないまま進むことと、知ろうとして危険を招くことのどちらが自分にとって現実的なのか、今すぐには判断できなかった。


彼は牌を懐の奥へしまい、まずは箱に残された記録へ戻ることにした。

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