第114章 死侍の待つ場所
翌朝、男主と直人は町を出た。
高橋の家に残された手紙には、待ち合わせ場所の名前と、そこへ至る道順が記されていた。地図に載っていない場所ではなかったが、近くに人の住む集落はなく、今ではほとんど使われていない古い街道の先にあった。
「本当に行くのか」
道の分岐点で、直人がもう一度尋ねた。
男主は手紙を折り畳み、懐にしまった。
「行く。誰かが俺に会うために、わざわざあんな手紙を残したんだ。高橋の家が襲われたことと無関係だとは思えない」
「罠かもしれない」
「その可能性もある」
男主はあっさり認めた。
「だから、罠じゃないと信じて行くわけじゃない。何があるのか確かめに行くんだ」
直人は小さく息を吐いた。
「お前は時々、危険だと分かっている場所にも普通に足を踏み入れるな」
「普通に足を踏み入れているつもりはない。怖いから、できるだけ準備している」
男主は腰に携えていた短い刃物を確かめた。直人も武器の位置を確認する。
二人は街道を外れ、木々の間を進んだ。
しばらく歩くと、周囲の景色が変わり始めた。
道の両側に生えていた木々は、ところどころ根元から折れていた。地面には古い車輪の跡らしき窪みが残り、その上を雑草が覆っている。風は吹いているのに、鳥の声が聞こえなかった。
やがて、斜面の向こうに石造りの建物が見えた。
かつては街道を監視するための施設だったのだろう。外壁は崩れ、門の片側は倒れていた。建物の奥には、屋根の半分が落ちた広い中庭がある。
手紙に記された場所は、そこだった。
男主は門の前で足を止めた。
「人がいるな」
直人が小声で言った。
男主にも分かった。
中庭の地面には、まだ新しい足跡がいくつも残っていた。崩れた壁の陰には、火を使った跡もある。ここは完全に放棄された場所ではない。
誰かが、彼らより先に来ている。
男主は門の外から中を見渡した。
「手紙を書いた人間かもしれない」
「そうでなければ?」
「そのときは、そのときだ」
そう答えたものの、男主はすぐには中へ入らなかった。
建物の窓、崩れた壁の隙間、二階の影。順番に目を向ける。しかし、動くものは見えない。
静かすぎた。
人がいる形跡はある。それなのに、人の気配がない。
男主は直人に目配せした。
二人は門をくぐった。
中庭に入った瞬間、背後で小さな音がした。
石を踏む音だった。
振り返ると、門の向こうに一人の男が立っていた。
黒い衣服。顔を覆う仮面。手には長い刃物を持っている。
その男の姿を認めた直人が、すぐに武器を抜いた。
「下がれ!」
叫び声と同時に、左右の崩れた壁の陰から、さらに数人が現れた。
二階の窓にも影が見える。
逃げ道を塞ぐように、仮面の男たちが少しずつ位置を変えていく。
男主は数を数えた。
正面に二人。右側に三人。左側にも二人。背後の門に一人。見える範囲だけで八人いた。まだ隠れている者がいるかもしれない。
全員が同じような衣服を身につけていたが、武器はそれぞれ異なっていた。
誰も名乗らない。
誰も余計なことを話さない。
彼らは、最初から男主たちを待っていた。
やがて、中庭の奥から一人の男が歩いてきた。
ほかの者よりも装備が整っている。顔を覆う仮面には余計な装飾がなく、腰には短剣と細身の剣を差していた。
男は二人の前で足を止めた。
「箱を渡せ」
声は低く、感情が読み取れなかった。
男主は相手を見返した。
「どの箱のことだ」
「お前が持っている箱だ」
「高橋の家にあった箱なら、俺は持っていない」
指揮役らしき男は、しばらく黙っていた。
「高橋家の箱だけの話ではない」
男主の表情がわずかに変わった。
相手は、自分がほかの箱を持っていることを知っている。
それだけではない。高橋家の事件が起こる前から、男主の行動を把握していた可能性がある。
「誰に頼まれた?」
返事はなかった。
「高橋家を襲ったのはお前たちか」
男は答えず、手袋をした指をわずかに動かした。
その動きに合わせ、周囲の仮面の男たちが一斉に構えを変えた。
男主は直人の位置を確認した。
二人で八人以上を相手にするのは難しい。しかも、相手は無秩序に武器を振り回す集団ではない。互いの位置を崩さず、こちらが動けばその隙間を埋められるように立っている。
訓練されている。
そう考えた瞬間、男主の背中に冷たい汗が流れた。
「最後に聞く」
指揮役の男が言った。
「箱を渡すか。ここで死ぬか」
男主は、すぐには答えなかった。
持っている箱を渡せば、今まで調べてきた記録も、手掛かりも失うことになる。
だが、拒めば命を失うかもしれない。
相手の目的も、背後にいる人間も分からない。ここで戦ったとして、勝てる保証はどこにもなかった。
それでも、箱を渡せばすべてが終わるとは限らない。
一つを渡した後、次の箱を要求される可能性もある。箱の所在を知る者が残っている限り、彼らが追跡をやめるとは思えなかった。
男主は息を吸った。
「断る」
直人が横目で男主を見た。
指揮役の男は、わずかに首を傾けた。
「理由を聞こう」
「お前たちが誰なのかも、何のために箱を欲しがっているのかも分からない。そんな相手に渡せるものか」
「ならば、ここで終わりだ」
男が手を上げた。
次の瞬間、左右から二人が同時に動いた。
男主は反射的に身を引いた。刃が頬のすぐ横を通り過ぎ、背後の石壁にぶつかって火花を散らす。
ほとんど同時に、もう一人の刃が腹部を狙ってきた。
男主は腰をひねってかわしたが、衣服が裂け、脇腹に熱い痛みが走った。
「くっ……!」
直人が横から割り込み、男主を狙った相手の腕を弾いた。
金属音が中庭に響く。
「一人ずつ相手をするな! 囲まれるぞ!」
直人の声が飛んだ。
男主は返事をする余裕もなく、迫ってきた敵の手首をつかんだ。相手の勢いを利用して身体をずらし、肩でぶつかるようにして距離を作る。
相手は倒れなかった。
男主の腕を振りほどき、短い刃を逆手に持ち替える。
その動きに迷いはなかった。
男主は後退しながら、足元の石を踏み外した。
身体が傾いた瞬間、敵の刃が肩口をかすめる。
痛みをこらえて体勢を立て直す。しかし、正面の敵を避けた先には別の男がいた。
逃げ道を作らせない配置だった。
彼らは男主をすぐに殺そうとしているのではない。
動きを制限し、抵抗する余地を削り、最終的に箱を奪うつもりなのだ。
そう理解しても、状況は何も好転しなかった。
直人も二人を相手にしていた。攻撃を受け流してはいるが、少しずつ中庭の端へ追い込まれている。
「直人!」
男主が叫ぶ。
直人は答える代わりに、迫る刃を弾き返した。
指揮役の男は、まだ動いていなかった。
ほかの者たちの戦いを見ながら、二人の動きを観察している。
まるで、結果が決まっていることを確かめているかのようだった。
男主は歯を食いしばった。
ここで倒れれば、箱を奪われるだけでは済まない。
高橋家で何が起きたのかも、誰が手紙を残したのかも分からないままになる。
彼は迫る敵の腕を押し返し、崩れた壁へ向かって走った。
逃げるためではない。
少なくとも、今の場所に立ち続けていては、全方向から攻撃されるだけだった。
壁際なら、背後から迫られる危険を減らせる。
だが、そこへ移動する前に、横から飛び込んできた男が進路を塞いだ。
刃が振り下ろされる。
男主は腕で受けようとせず、身体を低くして地面へ転がった。
石片が頬に当たり、皮膚が切れた。
立ち上がる間もなく、別の足が腹部へ飛んできた。
男主は両腕を交差させて受け止めたが、衝撃で背中を石壁に打ちつけた。
肺から空気が押し出される。
視界が一瞬、白くなった。
敵の影が近づく。
男主は壁に手をつき、どうにか身体を起こした。
その向こうで、指揮役の男が静かに告げた。
「抵抗をやめろ。箱を渡せば、これ以上は苦しませない」
男主は血のにじむ頬を手の甲で拭った。
「……その言葉を信じる理由がない」
指揮役は、今度こそ剣を抜いた。
「ならば、確かめる必要もない」
彼が一歩踏み出した。
周囲の仮面の男たちも、同時に動き始めた。
男主は、直人の姿を探した。
直人もまた、こちらを見ていた。
二人とも無事ではない。
そして、戦いはまだ始まったばかりだった。




