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観客のいない世界  作者: 亀


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第113章 死者が残した手紙

夜が深くなっても、高橋の屋敷から人がいなくなることはなかった。


近隣の住人たちは、亡くなった者たちの身元を確認し、医者は高橋のそばで治療を続けていた。


男主と直人は、屋敷の一室に置かれた机を挟んで向かい合っていた。


机の上には、現場で見つけた帳面や書類が並んでいる。


その多くは、日常生活に関する記録だった。


家計の出入り、古い品物の保管記録、過去に訪れた人間の名前。長い年月をかけて書き足されてきたらしく、筆跡も紙の種類も統一されていない。


男主は一冊の帳面を閉じた。


「今のところ、箱の行方につながるものは見つからないな」


「高橋さんが持っていた箱について、詳しい記録が残っていると思ったんだが」


直人が言った。


「残っていたとしても、襲撃者が持ち去った可能性がある。あるいは、最初から別の場所に保管していたのかもしれない」


「それにしても、家中をここまで荒らす必要があったのか?」


男主は、倒れた棚を見た。


「箱を探していたなら、見つかるまで探したんだろう。だが、どこを探したのか、何を持ち去ったのか、今の状態だけでは判断できない」


二人は、もう一度書類を整理した。


持ち主の名前が書かれたもの。


日付だけが記されたもの。


品物の種類が分からないもの。


それぞれを分け、後で確認できるようにした。


その作業の途中で、男主は手を止めた。


「……待ってくれ」


「どうした?」


男主は、先ほどから気になっていたことを思い出していた。


高橋の家族は、襲撃者たちに殺された。


箱は奪われた。


しかし、襲撃者が箱以外に何を持ち去ったのかは分かっていない。


家の中に残されたものを調べるだけでは、足りないのではないか。


「直人。遺体のそばに、身元を確認できるものが残っていないか、もう一度確認したい」


「何か探しているのか?」


「まだ分からない。ただ、家族の誰かが箱について何かを知っていたなら、持ち物に手がかりが残っているかもしれない」


直人は少し考え、うなずいた。


「分かった。医者と、身元を確認している人たちに話を通そう」


男主は机の上を片づけ、直人とともに廊下へ出た。


遺体は、身元を確認するために一室へ集められていた。


近隣の住人たちが、顔や衣服、身につけていた品物を確かめている。


男主は、現場を管理している年配の男に事情を説明した。


「亡くなった方々の持ち物について、箱に関係するものがないか確認したいのです。ただし、勝手に持ち出すつもりはありません」


男は男主の顔を見た後、静かにうなずいた。


「分かった。確認するだけなら構わない。だが、遺体を動かす必要があるなら、先に声をかけてくれ」


「ありがとうございます」


男主は直人と一緒に、一人ずつ確認していった。


衣服のポケットに入っていたのは、小さな財布や鍵、使い古された布袋などだった。


ある者は、家族の名前が書かれた札を身につけていた。


別の者は、仕事で使っていたと思われる道具を握ったままだった。


箱につながるものは見つからない。


男主は焦らず、確認を続けた。


そのとき、部屋の隅に横たわる若い男の遺体が目に入った。


衣服は血で汚れていたが、胸元に小さな布袋が残されている。


男主は管理をしている男に声をかけ、許可を得てから袋の中を確かめた。


中には、古い銅貨が数枚と、折り畳まれた紙が入っていた。


紙は血で汚れていたが、文字はかろうじて読めた。


男主は、最初の一行を見た瞬間、息を止めた。


そこには、男主自身の名前が記されていた。


「……俺の名前だ」


直人が隣からのぞき込んだ。


「どうして、お前の名前がここに?」


男主はすぐには答えなかった。


紙を広げる。


それは、男主に宛てられた手紙だった。


以前にも、男主は自分宛ての手紙を受け取ったことがある。


その手紙は、彼を特定の家へ導き、箱に関わる出来事のきっかけとなった。


今回見つかったものは、明らかに別の手紙だった。


紙質も、筆跡も違う。


そして、差出人の名前は書かれていなかった。


男主は、最初からゆっくりと読み始めた。


《この手紙を読んでいるなら、私たちの身に何かが起きたのだろう》


《直接会って話すつもりだったが、その機会が失われる可能性があるため、先にこれを残す》


男主は一度、文字から目を離した。


直人も黙っていた。


手紙は続いていた。


《あなたが、以前の手紙に従ってここまで来たのなら、これから記す場所へ来てほしい》


その下に、町から離れた場所の名前と、具体的な道順が書かれていた。


さらに、短い一文が添えられていた。


《そこには、あなたに会うべき人間がいる》


男主は、もう一度その文章を読んだ。


会うべき人間。


誰のことなのか。


高橋なのか。


箱を奪った者たちなのか。


あるいは、これまでの調査とは別の事情で、自分を待っている人間がいるのか。


手紙には、それ以上の説明がなかった。


「誰が書いたんだろうな」


直人が尋ねた。


「分からない。ここに倒れている人の誰かが書いたのかもしれないし、別の人間が託したのかもしれない」


「どうして、お前の名前を知っている?」


男主は手紙を見つめた。


それが、最も気になる点だった。


自分が箱を調べていることを知っている人間は、すでに何人かいる。


榊原たちもそうだ。


だが、この手紙を書いた人間が、どこまで事情を知っているのかは分からない。


高橋が男主の訪問を予想していたのか。


それとも、男主がここへ来ることを別の誰かが知っていたのか。


今の情報だけでは、判断できなかった。


「この場所、さっき机のそばで見つけた紙に書かれていた場所と同じだ」


直人が言った。


男主は、懐から先ほど見つけた紙を取り出した。


そこには、短く《約束の場所》と書かれていた。


二枚を並べて確認する。


確かに、場所は一致していた。


しかし、二枚の紙は同じものではない。


一枚は、約束の場所を示す短いメモ。


もう一枚は、男主の名前が記された手紙だった。


「つまり、誰かがこの場所を指定していたということか」


直人が言った。


「そう考えるのが自然だな。ただ、誰が、何のために約束したのかは分からない」


男主は二枚の紙を折り畳んだ。


高橋は、箱が奪われたと話した。


そして、箱を取り戻してほしいと頼んだ。


その直後に見つかった、男主宛ての手紙。


偶然として片づけるには、気になる点が多すぎた。


だが、手紙の内容をすべて信用する理由もなかった。


「行くのか?」


直人が尋ねた。


男主は、すぐには答えなかった。


「まずは高橋さんの様子を確認する。意識が戻れば、この手紙について聞けるかもしれない」


「もし、戻らなかったら?」


「そのときは、手紙に書かれた場所を調べる」


直人は眉をひそめた。


「罠かもしれないぞ」


「その可能性はある」


男主は、手紙を懐にしまった。


「だから、行くなら準備をする。場所について調べられることは調べるし、何も分からないまま一人で飛び込むつもりはない」


直人は、少しだけ表情を和らげた。


「それならいい」


二人は、再び高橋のいる部屋へ戻った。


医者はまだ、彼の治療を続けていた。


高橋の呼吸は浅く、顔色も悪い。


男主はそばに立ち、静かに声をかけた。


「高橋さん。あなたの家族の持ち物から、私宛ての手紙が見つかりました」


返事はない。


「手紙には、ある場所へ来るように書かれていました。あなたは、その場所をご存じですか?」


高橋の指が、わずかに動いたように見えた。


男主は身をかがめた。


「高橋さん?」


しかし、それ以上の反応はなかった。


医者が男主に目配せをした。


今は、無理に話しかけるべきではない。


男主は静かに身を引いた。


手紙の内容を、今ここで確かめることはできなかった。


屋敷の外へ出ると、夜風が頬を撫でた。


遠くで、誰かが話す声が聞こえる。


人々は、亡くなった者たちの身元を確認し、明日の対応について相談していた。


男主は手紙を取り出し、もう一度、場所の名前を確かめた。


ここからは、かなり離れている。


道中に集落は少なく、近くに宿があるかどうかも分からない。


そして、手紙を書いた人間が本当にそこで待っているという保証もない。


それでも、箱を取り戻すために必要な情報が、そこにある可能性はあった。


男主は手紙をしまった。


「直人」


「何だ?」


「明日の朝、まずは町で場所について調べよう。誰かが知っている場所なら、少しは情報が得られるはずだ」


「分かった」


直人はうなずいた。


男主は、暗くなった屋敷を振り返った。


高橋の家族は殺され、箱は奪われた。


その一方で、男主の名前を知る誰かが、次に向かうべき場所を残していた。


なぜ自分なのか。


誰が、何を待っているのか。


そして、箱を奪った者たちは、その場所と関係しているのか。


答えは、まだ何もない。


男主は手紙の存在を、榊原にも伝えることにした。


ただし、手紙の指示に従うかどうかは、情報を集めてから決める。


高橋が託した箱を探すこと。


そして、自分宛てに残された手紙の意味を確かめること。


その二つが、これからの行動を決めることになる。


夜は、まだ明けそうになかった。

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