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観客のいない世界  作者: 亀


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第112章 世界を救う箱

榊原から渡された古い住所は、町の北側にあった。


街道から外れ、川沿いの道を進み、古い橋を渡る。そこからさらに歩くと、家々の間隔が徐々に広がり、手入れの行き届かない畑や、長く使われていない倉庫が目立つようになった。


男主は手元の紙を確認した。


「この先で間違いないはずだ」


直人が周囲を見回した。


「人の気配が少ないな。高橋という家が本当に残っているのか?」


「それを確かめに来たんだ。本人がいれば話を聞く。いなければ、移転先や連絡先を調べる。それだけだよ」


男主は紙を折り直して懐にしまった。


高橋宗一という名前は、榊原から聞いた古い調査記録の中に残っていた。


かつて箱の調査に関わっていた人物。


正式な報告を残さないまま、榊原たちの集まりから離れていった人物。


それ以上の情報はほとんどなかった。


高橋が何かを発見したのか、それとも調査に見切りをつけただけなのか。箱を持っていたのかどうかさえ、確かなことは分からない。


だからこそ、本人に会う価値があった。


二人はさらに奥へ進んだ。


やがて、道の先に古い屋敷が見えてきた。


高い塀に囲まれた屋敷だった。門の片側は傾き、庭木は伸び放題になっている。塀の一部には亀裂が走り、長い間まともな手入れがされていないことが分かった。


しかし、完全に放棄された建物にも見えなかった。


玄関の戸が半開きになっていたからだ。


「ここだな」


男主が言った。


直人は門の周囲を確認した。


「何かおかしい」


「何が?」


「門が壊れている。誰かが無理に入ったのかもしれない」


男主は、門の下に散らばる木片を見た。


確かに、自然に腐って崩れたというより、強い力を加えられたような割れ方をしている。


二人はすぐには中へ入らず、周囲を一周した。


塀の裏側にも、いくつかの傷が残っていた。庭へ続く小道には、泥が踏み荒らされた跡がある。


新しいものかどうかは、まだ判断できなかった。


「高橋さんの家で何かあった可能性がある」


男主は声を落とした。


「中を確認しよう。誰かが残っているかもしれない」


直人がうなずいた。


二人は門をくぐった。


庭には、倒れた植木鉢や割れた器が散らばっていた。玄関へ続く石畳には、泥のついた足跡がいくつも残っている。


男主は足元を確かめながら、玄関の前まで進んだ。


「高橋さん、いらっしゃいますか」


返事はなかった。


もう一度呼びかけても、屋敷の中は静まり返ったままだった。


男主は戸に手をかけ、慎重に押し開けた。


その瞬間、鼻を突く血の臭いがした。


男主は動きを止めた。


玄関の内側に、人が倒れていた。


その奥にも、別の人影が見える。


床には血が広がり、壁には刃物でつけられたような傷が残っていた。棚は倒れ、家具は壊され、引き出しの中身が無造作に床へ散らばっている。


直人が息をのんだ。


「……何があったんだ」


男主は答えられなかった。


目の前にあるのは、単なる盗難の跡ではなかった。


そこに暮らしていた人々が、抵抗する間もなく襲われたように見えた。


男主は倒れている人のそばに膝をつき、呼吸を確かめた。


反応はなかった。


別の部屋も確認した。


そこにも人が倒れていた。


男主は一人ずつ生存を確かめながら、屋敷の奥へ進んだ。


「誰かいませんか!」


直人が声を上げる。


返事はない。


廊下の奥へ進んだとき、男主は半分閉じた扉の向こうに人影を見つけた。


床に横たわる男だった。


男主はすぐに駆け寄った。


「聞こえますか!」


男は、かすかに顔を上げた。


額から頬にかけて血が流れ、衣服も赤く染まっていた。呼吸は浅く、目を開けていることさえ苦しそうだった。


「医者を呼びます。少し待っていてください」


男主が立ち上がろうとすると、男の手が袖をつかんだ。


「……待て」


弱い力だったが、必死さが伝わってきた。


男主は再び膝をついた。


「あなたが高橋さんですか?」


男はわずかにうなずいた。


「榊原さんから、あなたのことを聞きました。以前、箱の調査をしていたと。私は、その件について話を聞きに来たんです」


高橋の目が動いた。


「……箱」


「はい。箱について、何かご存じなら教えてください。ただ、今は無理をしないでください」


高橋は苦しそうに息を吸った。


「遅かった……」


「何があったんですか?」


「奴らが……来た」


高橋の指が、男主の袖を強く握った。


「覆面をした……連中だ。何人もいた」


「何をされたんですか。何かを奪われたんですか?」


高橋は震える唇を動かした。


「箱を……持っていかれた」


男主の表情が変わった。


「箱?」


「うちの一族が……代々、保管していた箱だ」


男主は直人を見た。


直人もまた、言葉を失っていた。


高橋の一族が箱を持っていた。


榊原たちの記録には残っていなかった、別の箱。


あるいは、これまで調べてきた箱の流れから抜け落ちたものなのかもしれない。


だが、今はどちらなのか分からなかった。


「箱は、どこにあったんですか?」


男主は尋ねた。


「……隠していた。だが、奴らは場所を知っていた」


「誰が襲ったんですか?」


「分からない……顔は、覆われていた」


高橋は咳き込んだ。


直人がそばにあった布を取り、傷口を押さえようとしたが、高橋は首を横に振った。


「もう……いい」


「そんなことを言わないでください。まだ助かる可能性があります」


男主は声を強めた。


「あなたから話を聞かなければならないんです。箱を奪った連中が何者なのか、なぜあなたの家族を襲ったのか。何も分かっていません」


高橋は男主を見つめた。


その目には、恐怖と悔しさが混じっていた。


「……あれは」


彼は何度も息を吸い、途切れ途切れに言葉をつないだ。


「世界を救う……希望なんだ」


男主は黙った。


世界を救う希望。


あまりにも大きな言葉だった。


これまで男主が手にしてきたのは、古い箱と、断片的な記録、そして過去の契約について書かれた文章だった。


《契約終了後、権限を返却する》


《返却先が存在しない場合、接続は閉鎖される》


《後継者が存在する場合、権限の再申請を認める》


その記録から、何らかの管理権限や接続の仕組みが存在していたことは分かる。


しかし、それが世界を救うことにどうつながるのか、男主には見当もつかなかった。


「どういう意味ですか?」


男主は慎重に尋ねた。


「箱に何が入っているんですか?」


高橋は答えようとした。


しかし、喉から出てきたのは、かすかな息だけだった。


「頼む……」


高橋は男主の手をつかんだ。


「箱を……取り戻してくれ」


「分かりました。探します。だから、もう少しだけ話してください」


「必ず……」


高橋の目が揺れた。


「取り戻さなければ……ならないんだ」


「なぜですか?」


男主は身を乗り出した。


「箱がなければ、何が起こるんですか?」


高橋は口を開いた。


だが、声は続かなかった。


彼の体から、少しずつ力が抜けていく。


「高橋さん?」


男主は肩を支えた。


「高橋さん、聞こえますか!」


返事はなかった。


直人が脈を確認し、顔を上げた。


「まだある。だが、かなり弱い」


「医者を呼んでくれ。近くにいる人にも助けを頼むんだ」


直人はすぐに立ち上がった。


男主は高橋のそばに残った。


「箱は必ず探します」


彼は高橋に向かって言った。


「でも、何も分からないままでは取り戻せない。誰が奪ったのか、どこへ持っていったのか、何のために必要としているのか。だから、あなたには生きていてほしいんです」


高橋のまぶたが、かすかに動いた。


聞こえているのかどうかは分からなかった。


やがて直人が近隣の住人を連れて戻ってきた。医者を呼ぶ者が出ていき、屋敷の中は慌ただしくなった。


男主は少し離れ、周囲を見渡した。


家族の遺体。


荒らされた部屋。


奪われた箱。


高橋は、その箱を世界を救う希望と呼んだ。


そして、箱を取り戻してほしいと頼んだ。


男主は、箱がどのようなものなのかさえ知らない。


それでも、目の前で起きたことを無視することはできなかった。


高橋の一族が箱を持っていたこと。


何者かが、その箱を狙って襲撃したこと。


襲撃者たちは、箱の価値を知っていた可能性が高いこと。


まずは、この三つを確かめる必要がある。


「直人」


男主は、戻ってきた直人に声をかけた。


「高橋さんが意識を取り戻すまで、ここを離れない。家の中も、無理に動かさず確認しよう。何か手がかりが残っているかもしれない」


「分かった。だが、箱を追うなら、急いだほうがいいんじゃないか?」


「急ぐ必要はある。でも、相手の行き先も分からないまま走っても、何も見つけられないかもしれない」


男主は屋敷の奥を見た。


「まずは、ここで何が起きたのかを確認する。高橋さんが話せるようになれば、もっと詳しいことが分かるかもしれない」


直人は短くうなずいた。


二人は再び屋敷の中へ入った。


書斎の棚は倒れ、机の引き出しは開け放たれていた。床には帳面や手紙が散乱している。いくつかは破られ、別のものは踏みつけられていた。


男主は、紙片を一枚ずつ確認した。


大半は日常的な記録だった。


金額、日付、品物の受け渡し。


箱に関係するかどうかさえ分からないものばかりだった。


それでも、捨て置くことはできなかった。


男主は必要な範囲で記録を取り、後で高橋に確認できるように整理した。


そのとき、机の脚のそばに、一枚の紙が挟まっていることに気づいた。


ほかの紙とは違い、何度も折り畳まれた跡があった。


男主はそれを拾い上げた。


紙の表には、短い文字が書かれていた。


《約束の場所》


その下には、町から離れた場所の名前が記されていた。


男主は眉をひそめた。


高橋の家族が襲われる前に、誰かと会う約束をしていたのだろうか。


それとも、箱に関係する何らかの連絡なのか。


紙には、それ以上の説明がなかった。


男主は、すぐに紙を懐へしまった。


このことは、高橋が意識を取り戻したら確認する必要がある。


今の段階で、勝手に意味を決めることはできなかった。


日が暮れ始めた頃、医者が男主たちを呼んだ。


「意識は戻っていない。今夜が山になるかもしれん」


男主はうなずいた。


高橋はまだ生きていた。


だが、目を覚ます保証はない。


男主は、手元の紙をもう一度確認した。


《約束の場所》


箱を奪った者たちと関係があるのか。


高橋が残したものなのか。


それとも、別の誰かが置いたのか。


まだ分からない。


しかし、少なくとも、調べるべきものが一つ増えた。


男主は直人に紙を見せた。


直人は内容を確認し、顔を上げた。


「この場所を調べるのか?」


「高橋さんが目を覚ませば、まず本人に聞く。もし聞けなかったら、紙に書かれた場所を確認する」


「危険かもしれないぞ」


「分かっている。だから、先に周囲の情報を集める。何も確認せずに行くつもりはない」


男主は紙を折り直した。


高橋の家族を襲った者たちは、まだどこかにいる。


奪われた箱も、見つかっていない。


そして、世界を救う希望という言葉の意味も分からない。


今あるのは、断片的な情報だけだった。


男主は、もう一度高橋のいる部屋を見た。


「高橋さん。あなたが話せるようになったら、必ず続きを聞きます」


答えはなかった。


それでも男主は、その言葉を口にした。


箱を取り戻すためにも。


高橋が託そうとしたものを知るためにも。


ここで起きたことを、ただの記録の一つにして終わらせるわけにはいかなかった。

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