第105章 箱を手放す理由
榊原が指定した場所は、以前に箱の調査資料を見せられた建物だった。
主人公と直人が到着すると、榊原はすでに待っていた。
部屋には彼のほかに三人いた。以前、箱の受け渡しについて話した際にも姿を見せた者たちだったが、全員が同じ考えを持っているわけではないことを、主人公は覚えていた。
「今日は、保管している箱について話したい」
榊原は挨拶を済ませると、本題に入った。
「我々の手元には、まだ複数の箱がある。これまで君に渡したものとは別の箱だ」
主人公はうなずいた。
「それを、どうするかという話か」
「そうだ。君に渡す案が出ている」
向かいに座っていた男が、すぐに口を挟んだ。
「案が出ているだけだ。全員が賛成したわけではない」
男は主人公を見た。
「我々は何年もかけて箱を集めてきた。簡単に他人へ渡せるものではない。しかも、君が開け方を知っているわけでもない」
「それは事実だ」
主人公は反論しなかった。
「俺も、開け方を知っているとは言っていない。箱を渡してくれれば必ず答えが出る、と約束することもできない」
「なら、渡す意味がないだろう」
「そう考えるなら、渡さなくていい」
主人公の返事に、男は一瞬だけ言葉を止めた。
主人公は続けた。
「俺は箱を集めること自体を目的にしていない。調べるために必要なら受け取る。必要がないなら、無理に欲しいとは思わない」
直人は隣で黙っていた。
ここで主人公が箱を欲しがれば、相手は条件を引き上げるかもしれない。逆に、相手が手放したくないなら、話し合いはそこで終わる。
どちらにしても、主人公にできるのは、相手が何を望んでいるのかを聞くことだけだった。
榊原が口を開いた。
「我々が考えているのは、箱を手放すことそのものではない。今のやり方を続ける意味があるかどうかだ」
彼は机の上に一冊の記録帳を置いた。
「収集を始めた頃は、箱を集めれば、いずれ共通点が見つかると考えていた。実際、同じ印の箱はいくつも見つかった。しかし、組み合わせを変えても、調べる方法を変えても、目立った結果は得られなかった」
「だから、俺に渡す?」
「君は我々とは違う経路で箱を手に入れ、別の方法で調査を進めている。少なくとも、我々だけで調べていた時とは異なる情報が集まっている」
榊原は主人公を見た。
「君が答えを持っているからではない。こちらの調査が行き詰まっているからだ」
主人公はその説明を聞き、少し考えた。
相手は、彼に期待しているというより、今までとは違う可能性を試そうとしているのだろう。
箱を持ち続けても進展がない。
ならば、別の人間に調査を任せ、その結果を受け取る。
それは、榊原たちにとっても一つの選択だった。
「条件を聞かせてくれ」
主人公が言うと、榊原は手元の紙を差し出した。
条件は三つあった。
一つ目は、箱を渡したあとも、箱に関する新しい情報が得られた場合には互いに共有すること。
二つ目は、主人公が箱を調査する過程で得た記録のうち、箱の由来や機能に関係する情報を榊原の一団にも知らせること。
三つ目は、箱の所有者や保管場所に関する情報を、相手の了承なく第三者へ流さないこと。
主人公は一つずつ読んだ。
「二つ目については、どこまで共有するか決めておきたい。俺が別の調査で得た情報まで、全部渡すわけにはいかない」
「箱に関係する情報に限る」
榊原が答えた。
「それならいい。ただし、何が箱に関係するか、意見が分かれる場合はあるだろう」
「その場合は話し合う」
「三つ目も、例外は必要だ。調査のために別の人物へ確認しなければならないこともある」
「箱の所在を不用意に広めないという意味だ。必要な調査まで禁じるつもりはない」
主人公は紙の余白に、確認した内容を書き加えた。
直人がそれを見て言った。
「これなら、少なくとも何を約束したのかは分かるな」
榊原はうなずいた。
「最初から全面的に信用し合う必要はない。約束できる範囲を決めておけばいい」
主人公はその言葉に異論を唱えなかった。
互いに相手の事情をすべて知っているわけではない。
これからも、意見が食い違うことはあるだろう。
それでも、調査を進めるために必要な条件を決めることはできる。
***
話し合いがまとまりかけたところで、先ほど反対していた男が再び口を開いた。
「まだ納得できない。もし君が箱を開ける方法を見つけたら、我々は結果を聞くだけになる。長年集めてきたものを渡して、何も得られない可能性もある」
「その可能性はある」
主人公は答えた。
「逆に、俺が箱を持っていても、何も分からないかもしれない」
「それでは、我々が譲る理由にならない」
「なら、譲らなければいい」
主人公は同じ言葉を繰り返した。
「俺は、あなたたちが箱を集めてきた事情を否定しているわけじゃない。手放したくないなら、それも一つの判断だ。ただ、持っているだけで調査が進むわけでもない」
男は不満そうな表情を崩さなかった。
その隣に座っていた年配の女性が、静かに口を開いた。
「私たちは、箱を守るために集めてきたわけではないでしょう。最初は、何が入っているのかを知りたかった。それが、いつの間にか箱を集め続けること自体が目的になっていた」
「だが、外へ出せば失われるかもしれない」
男が反論した。
「ここに置いておいても、失われる可能性はあるわ」
女性は淡々と言った。
「管理する人間が変われば、保管場所も変わる。記録が失われることもある。私たちがいつまでも同じ人数で続けられる保証もない」
男は口を閉じた。
そのやり取りを聞きながら、主人公は彼らの事情を考えていた。
榊原の一団は、箱の秘密を知りたいという目的で集まった。
しかし、長い年月が経つうちに、箱を集めてきたこと自体が彼らの活動の中心になっていたのかもしれない。
それを手放すことは、単に物を譲るというだけではない。
これまで続けてきた活動の形を変えることでもある。
主人公には、彼らに代わって決めることはできなかった。
榊原は、反対していた男に視線を向けた。
「全ての箱を渡す必要はない。まずは、こちらで選んだ箱を渡す。残りは保管を続け、調査結果を見てから改めて考える。それならどうだ」
男はすぐには答えなかった。
やがて、記録帳を閉じた。
「……一度だけだ。何も進展がなければ、残りを渡す話は白紙に戻す」
「分かった」
榊原はそれ以上、説得しなかった。
***
最終的に、榊原たちは保管していた箱の一部を主人公へ渡すことに決めた。
数は多くない。
外観の異なる箱が数個、布に包まれて机の上に並べられた。
主人公は一つずつ確認し、印や傷、これまでの保管記録を記録した。
「受け取ったからといって、すぐに開けられるわけじゃない」
主人公は念を押した。
「分かっている」
榊原が答えた。
「我々も、何年も開けられなかった」
主人公は箱を荷物へしまった。
これで、彼の手元にある箱はさらに増えた。
だが、箱の数が増えたことと、答えに近づいたことは同じではない。
今回の受け渡しは、互いに相手を信用した結果ではなかった。
榊原たちは、自分たちの調査が行き詰まったために別の方法を試す。
主人公は、調査に必要な箱を受け取り、その結果を共有する。
それだけの約束だった。
建物を出ると、直人が尋ねた。
「これから、どうする?」
「まずは、箱の記録を整理する。今まで調べたものと、今回受け取ったものを区別しておきたい」
「全部まとめて試すのか?」
「いや。いきなり組み合わせるより、まずは一つずつ確認する。榊原たちが試した方法と重なるかもしれないが、記録があるなら、同じことを何度も繰り返す必要はない」
直人はうなずいた。
主人公は荷物の重みを確かめた。
新しい箱が増えた。
それだけだった。
まだ、何が入っているのかも分からない。
それでも、これまで自分たちだけで追っていた箱の調査に、別の収集者たちの記録と協力が加わった。
今までとは違う結果が出るかどうかは、これから確かめるしかなかった。




