第101章 空白を埋める者
翌朝、主人公は古物商から借りた帳簿の写しを机に広げた。
取引先の名前が記されていない期間は、半年ほど続いていた。
日付と金額は残っている。取引の種類を示す欄には、通常の商品の売買とは異なる記号がいくつか使われていた。
しかし、その記号が何を意味するのかは分からない。
「この半年間だけ、記録の仕方が違うんだな」
直人が帳簿をのぞき込んだ。
「前後の記録と比べると、確かに不自然ではある。ただ、これだけで特別な取引だったとは言い切れない」
主人公は日付を照合した。
以前に見つけた川瀬家の運送帳簿にも、同じ時期に通常とは異なる記録が残っていた。
三浦宗一郎の旧倉庫で地下空間が封鎖された時期とも、大きくは離れていない。
それぞれの記録は、少しずつ重なっている。
だが、同じ取引を示していると証明できるものは、まだ何もなかった。
「記録を残した人間が違う以上、表記の違いだけで同じ仕事だと決めることもできないか」
直人が言った。
「そういうことだ」
主人公は紙に三つの名前を書いた。
三浦宗一郎。
川瀬修一。
高瀬宗一。
それぞれの名前の横に、確認できた事実だけを短く記した。
三浦は旧倉庫を所有していた。
川瀬は倉庫を管理していた。
高瀬は別の商家で、運送の手配や預かり物の管理に関わっていた。
三人が互いに面識を持っていたかどうかは、まだ確認できていない。
同じ時期に似た記録が存在したことも、彼らが一緒に何かを運んだ証拠にはならなかった。
主人公は三つの名前を線で結ばず、そのまま残した。
「次は、高瀬が働いていた商家の取引先を調べよう。帳簿に名前が残っていれば、当時の関係者をたどれるかもしれない」
「名前のない取引はどうする?」
「後回しにはしない。ただ、先に名前のある取引先を確認する。比較できる記録が増えれば、空欄の意味も少しは考えやすくなる」
直人は納得したようにうなずいた。
***
昼過ぎ、二人は古物商から紹介された元商人の家を訪ねた。
家主はすでに商売を引退していたが、父親が使っていた古い帳簿を保管していた。
高瀬が働いていた商家とは、何度か取引をしたことがあるらしい。
主人公が名前のない取引記録について説明すると、家主はしばらく考えてから、奥の部屋へ向かった。
戻ってきた彼の手には、薄い帳面があった。
「父が使っていたものだ。役に立つかは分からないが、見てみるといい」
主人公は礼を言い、帳面を開いた。
そこには、通常の取引記録のほかに、日付と金額だけを記した行がいくつかあった。
そのうち二つは、古物商で見た記録と日付が近かった。
金額は一致していない。
記号も異なる。
ただし、帳簿に記された日付には数日のずれがあり、単純に無関係とも言い切れなかった。
「この記録について、何か聞いていませんか」
主人公が尋ねると、家主は首を横に振った。
「父は帳簿の話をあまり家ではしなかった。商売の記録だからな。私も、細かいことまでは知らない」
「この取引を担当していた人は?」
「父のほかにも何人かいたはずだが、今となっては分からない」
主人公は必要な箇所を写し取った。
新しい帳簿が見つかったことで、過去の記録を比較する材料は増えた。
しかし、箱に関する直接的な証拠はなかった。
地下空間から何かが運び出されたこと。
品名のない荷物が運送されたこと。
複数の商家に、通常とは異なる記録が残っていたこと。
それらは、依然として別々の事実だった。
主人公は、家主に帳簿を返した。
「ありがとうございました。もし後から何か思い出したことがあれば、連絡をいただけると助かります」
「分かった。何かあれば伝えよう」
二人は家を出た。
***
帰り道、直人が尋ねた。
「ここまで調べて、結局、箱に近づいているのか?」
主人公は少し考えた。
「近づいているかどうかも、まだ分からない」
「それでも続けるんだな」
「ほかに確実な手がかりがないからな」
主人公は歩きながら続けた。
「ただ、同じ時期に複数の商家で変わった記録が残っていることは分かった。次は、その記録が何を意味するのかを確かめる必要がある」
「もし、何の関係もなかったら?」
「そのときは、関係がなかったと分かるだけだ」
直人は苦笑した。
「簡単に言うな」
「簡単じゃないから、調べているんだ」
主人公はそう答えた。
遠回りになる可能性はある。
何日もかけて調べた結果、箱とは無関係だったと分かるかもしれない。
だが、確証のない推測を事実として扱えば、その後の調査まで間違った方向へ進むことになる。
今は、確実に言えることを一つずつ増やすしかなかった。
***
その日の夕方、榊原から短い連絡が届いた。
高瀬宗一について、追加の情報が見つかったという。
彼は商家を離れたあと、しばらく別の土地で暮らしていたらしい。しかし、その後の記録は途切れていた。
家族がいたかどうかも、現在どこにいるのかも分からない。
主人公は連絡を読み終え、返事を送った。
『分かった。見つかった記録を送ってほしい』
しばらくして、資料が届いた。
主人公は直人とともに確認したが、そこにも箱についての記述はなかった。
ただ、高瀬が最後に確認された場所は、以前に調べた商家の所在地から遠く離れていた。
彼が自分の意思で移ったのか、誰かに呼ばれたのか、事情があって逃げたのか。
何も分からない。
主人公は、その場所を地図に記した。
明日、そこへ向かうかどうかは、もう少し資料を確認してから決めることにした。
机の上には、今日までに集めた帳簿の写しが積み重なっていた。
記録は増えている。
しかし、箱の正体はまだ見えない。
主人公は最後の一枚をファイルに収め、表紙を閉じた。
今夜は、これ以上調べても新しいことは出てこないだろう。
明日は明日で、また別の記録を確かめる。
そう決めて、彼は部屋の灯りを消した。




