3-2: 彼女の姿だけがない、つまりこれは
「何となくだけど、話の大元が挿げ変わっている感じがしてな」
俺がそう言うと、瑛里はしばらく黙っていた。
廊下の向こうでは、どこかの運動部がまとまって階段を駆け下りていく。まだ最終下校には遠い。放課後は始まったばかりだ。
「……うん」
やがて瑛里が言った。
「それ、ちょっと最初から並べ直した方がいいかも」
「最初から?」
真帆が訊く。
「森さんが何のために来たか、じゃなくて?」
「もーっと前ね」
俺も頭の中でさっきまでの話を巻き戻していた。
森深月が教室にいた。
森深月が階段を降りていた。
森深月の私物が机に戻っていた。
三つが整えられたように並んでいるから、三つとも本当らしく見える。
けれど。
「目撃情報の時系列を確認したいところだな」
俺が言うと、瑛里がこちらを見る。
「いつ見たか、って話?」
「まぁ、もちろんそれもだけど」
俺は首を振った。
「いつ、それが『森さんを見た』って話になったか……だな」
真帆が少し眉を寄せた。瑛里はニヤリと笑ったが。
「……違うの?」
「恐らく」
少なくとも、階段の話は違った。
○
もう一度、早坂くんのところへ戻る。
本人からすれば、ついさっき説明したばかりの話をまた聞かれるのだから、面倒に思われても仕方がない。
けれど早坂くんは、
「何か分かった?」
と、むしろ少し興味を持ったらしい。
「まだ」瑛里が答える。「だから順番だけ確認させて」
早坂くんが教室の中を見たのは四時五分頃。
森さんらしいカーディガンを着た女子が、森さんの席付近にいた。
そこで、『森、来てるのかな』と周囲に漏らした――という流れ。
「そのあと、誰に言ったか覚えてる?」
「誰っていうか……近くにいたやつ何人か。『今日休みじゃなかったっけ』みたいな話になって」
「それが四時十分より前?」
「たぶん。そのくらい」
つまり、その時点ですでに、『森さんが放課後に来ているかもしれない』という話は教室の外へ出始めている。
次に、俺たちは階段の目撃者を探した。幸いまだ同じ場所で雑談をし続けてくれていた。
「さっきも訊いたけど」
俺は念のため前置きする。
「階段で誰かを見たのは四時十五分くらい?」
「うん。そのくらい」
「そのときは森さんだとは思ってない感じ?」
「思ってないね」
「森さんが学校に来てるって聞いたのは?」
「そのあと」
「そのあとに、さっき見たのも森さんかもしれないって思った?」
「そう」
やはり、順番は変わらなかった。
俺は確認する。
「じゃあ、階段で森さんを見たから、森さんが学校にいると思ったわけじゃないよな」
「え?」
「森さんがいるって聞いたから、さっき階段にいた人が森さんだったかもしれないって思った」
「ああ、なるほど」
少し考えて、それから頷いた。
「……うん。そうだね」
嘘をついていたわけではない。
見たものを大げさにしようとしたわけでもない。
つまり、ただ先に答えを聞いてから、自分の記憶をそこへ当てはめただけ。解答を見ながらドリルを解いて分かった気になるのに似ているようなモノだ。
「目撃が三件あったから『森さんが来た』という話になったってわけじゃないんだ」
口にすると、瑛里が俺を見る。
「森さんが来たって話が出たから、二件目が『森さんを見た』ことになったんじゃないか?」
「……なるほど」
真帆が腕を組んだ。
「じゃあ、あれって二人が別々に森さんを見た証言じゃない?」
「少なくとも、独立した二票ではないね」
瑛里が言う。
一票目を聞いた人が、自分の持っていた曖昧な記憶を二票目に変えた。
二人とも同じ人間を見たのだから正しい、という補強にはならない。
「じゃあ残るのは、最初の早坂くんか」
真帆の言葉に、俺たちは早坂を見る。
「え、俺?」
「早坂くんが最重要参考人になった」
「おめでとう」
「あんまり嬉しくはないな……」
気持ちは分かる。訊いてくるヤツがあんなに目をギラつかせていたら、そりゃあ面倒だ。
○
「じゃあ、もう一回だけ」
瑛里が指を一本立てた。
「早坂くんが見たものを、見た通りに教えて」
「見た通り?」
「森さんだと思った理由じゃなくて。そのとき目に入ったものだけ」
早坂は少し考える。
「……女子がいた」
「うん」
「森の席の辺りに」
「うん」
「森がよく着てるカーディガン着てて」
「顔は?」
「見てない」
「声は?」
「聞いてない」
「森さん本人にしかない特徴は?」
「……そこまでは」
並べ直すと、ずいぶん違って聞こえる。
「じゃあ、早坂くんが森さんを見間違えたってこと?」
「んー」
真帆の疑問に、瑛里は首を傾けた。
「というより、最初から早坂くんは森さんを見てないんだよ」
「同じじゃないの?」
「ちょっと違う」
即答。
「『森さんを見たけど別人だった』って言うと、最初に森さんがいるでしょ?」
「まあ」
「でも早坂くんが実際に見たのって、森さんのカーディガンっぽいものを着た女子なんだよ」
「え」
「まぁ言われてみれば、そうだけど」
早坂くんも微妙な顔をしている。『どこが違うんだ』と腑に落ちてはいなさそうだ。
瑛里は少し考えてから、ぱん、と小さく手を打った。
「じゃあ、一回全部の目撃情報から『森深月』って名前を外してみよっか」
「全部?」
真帆が聞き返す。
「全部」
瑛里が俺たちを順に見る。
「最初の目撃。森さんが教室にいた、じゃなくて?」
はいどうぞ、とばかりに手を向けられた。俺が後を言え、ということらしい。
「森さんのカーディガンを着た女子が、森さんの席の近くにいた」
「次。森さんが階段を降りてた、じゃなくて?」
今度は真帆の番らしい。
「森さんのバッグを持った誰かが階段を降りてた」
「最後。森さんが机に物を戻した、じゃなくて? はい、早坂くん」
「お、俺? ……え、っと。森の私物が、机に戻ってた」
「はい、バッチリ。ということでちょっと考えてみよう」
しばしの沈黙。
これを破ったのは、真帆だった。
「……急に全部、普通の話っぽくなったね」
本当にそうだった。
名前を一つ抜いただけで、放課後にだけ現れた欠席者の怪談が、服とバッグと忘れ物の話へ縮んだ。
「じゃあ」
瑛里が楽しそうに言う。
「一個ずつ、持ち主と持ってた人を分けてみようか」
○
最初に見つかったのは辻村椎奈だった。
本人は俺たちの話を聞くより先に「あ、これ?」と、自分が着ていたカーディガンの袖を摘まんだ。
「深月のだよ、昨日借りたの」
あまりにもあっさりしていた。話が早い。
「今日返す予定だったとか?」
瑛里が訊く。
「そう。でも休んでたじゃん。持って帰るのも面倒だったし、そのまま着てた」
「四時過ぎに、森さんの席の辺りにいた?」
「いたよ」
「何してた?」
「配られてたプリント、机に入れてたんだ」
辻村さんは森さんの席の方を指す。
「休みの人の分、残ってたから。とりあえず入れとけばいいかなって」
俺と瑛里が顔を見合わせる。
時間も場所も服装も一致した。
つまり、早坂くんが見た女子は、おそらく辻村さんだ。
「え、待って」
話を理解したらしい椎奈が笑う。
「じゃあ私、深月にされたの?」
「一瞬だけね」
俺が答える。
「何それ」
「こっちが訊きたい」
カーディガンひとつで、最初の森深月が消えた。
○
「ほらね」
歩き出しながら瑛里が言う。
「早坂くんは森さんを見間違えたっていうより、森さんの服をちゃんと見てたんだよ」
「着てる人を見てなかっただけか」
「そういうこと」
間違っていたのは目撃した事実ではない。そこへ付けた名前だった。
そうなれば、次はバッグだ。
真帆に聞いて五十嵐涼を見つけると、こちらも話は驚くほど簡単だった。
「それなら昨日、森から預かった」
「バッグごと?」
瑛里が訊く。
「うん。中に先生へ持っていく資料が入ってたから」
――『明日、これを先生のところへ持っていって。コレごとで良いから』
そう頼まれていたらしい。
けれど頼んだ本人は翌日欠席してしまったため、五十嵐さんがそのまま資料を届けた。
「四時十五分くらいに階段を降りた?」
「降りたと思う。提出したあとだから」
「そのとき、バッグ持ってた?」
「空になったから、そのまま。……なかなかハズかったけどね、アレだから」
これも一致。
階段を降りていたのは五十嵐涼。
目撃者が確実に見たのは、森深月ではなく、森深月のバッグだった。
「バッグの持ち主とバッグを持ってる人が同じとは限らない」
俺が呟く。
「まぁ当たり前だけど」
「まぁね」
瑛里も言う。
「当たり前だから見落とすのかも」
それは少し分かる。
人は、わざわざ疑う必要のない前提を一番疑わない。
○
最後に残ったのは、机へ戻っていた私物だった。
こちらはもっと早かった。
席の近い生徒に聞いて回ると、「あ、それ置いたの私」とあっさり手が挙がった。赤星七月という女子だった。
「昨日、森が置きっぱなしにしてたの拾ってたんだけど、今日休みだったから。放課後に机へ戻しといた」
「朝にはなかった?」
「私が持ってたからね」
「森さんから何か頼まれた?」
「何も。勝手に戻しただけ」
それだけだった。
事件というには、あまりにも何も起きていない。
カーディガンを借りた辻村さん。
バッグを預かった五十嵐さん。
忘れ物を机へ戻した赤星さん。
別に誰も森深月になろうとしていない。
誰も森深月が学校へ来たように見せようとしていない。
全員、自分がすることを普通にしていただけだ。
「……全部あるじゃん」
教室を出たところで、真帆が言った。
「何が?」
「カーディガンも、バッグも、机に戻った物も」
俺は少し考える。
「森さん以外はな」
「ああ」
真帆が妙に納得した顔をした。
○
廊下の窓から差し込む光は、さっきより少しだけ低くなっていた。
最初にこの話を聞いたときは、朝から休んでいた女子生徒が、なぜか放課後にだけ現れたという話だった。
教室で見られた。
階段でも見られた。
本人の私物まで戻っていた。
それが今では――。
教室にいたのは辻村椎奈。
階段を降りていたのは五十嵐涼。
私物を机へ置いたのは赤星七月。
早坂律は、森深月の顔を見ていない。
その場では誰を見たのか特定してすらいなかったパターンすらあった。
誰も深月と話していない。
誰も深月本人を確かめていない。
なのに少し前まで、俺たちは三つの証拠があると思っていた。
「つまり――森深月を見たっていう人、ひとりもいないんじゃないか?」
「そうね」
瑛里はあっさり頷いた。
それなら次に出てくる疑問は、これまでなら決まっている。
誰がこんなことをしたのか。
何のためにこんなことをしたのか。
けれど。
椎奈は服を借りただけ。
涼は頼まれた資料を届けただけ。
忘れ物を戻した生徒も、それが一番自然だと思ったから戻しただけ。
早坂だって、自分がそう思ったことを口にしただけだ。
誰一人、森深月を作ろうとしていない。
瑛里は少しだけ考えてから言った。
「たぶん、この事件には犯人もいない」
「っていうか、そもそも」
「事件ですらない」
「だな」




