3-1: ぼんやりとした影と形、それは人陰
帰りのホームルームが終わってから教室の空気が放課後のものへ変わるまでにはだいたい三分くらいかかるだろうか。
椅子や机が整理され、部活へ急ぐヤツ、あるいは帰路へと向かうヤツが鞄を肩へ引っ掛ける。そのあたりまで来れば、もう授業の続きみたいな顔をして席に残っているようなヤツはひとりもいなくなる。
もっとも、授業の続きを放課後の時間まで続けたい高校生なんて全国の高校生の1パーセントも居ないだろうけど。
今週割り当てられていた特別教室の清掃当番を終えて自分の教室に戻ってきたところでそこそこ良い時間にはなっていた。掃除を終えている教室には、それでもまだわりと生徒が残っている。自分も諸々の支度を済ませようかというところで、隣から声がした。
「圭吾、今日この後どうする?」
「どうするって?」
「放課後」
音もなく近くに来ていた瑛里が、さも当然のように聞いてくる。コイツはコイツで別の要件があったのだろうか。
「それを俺に聞く時点で、何かあるんじゃないのか」
「今のところは何もないよ」
意味深な言い方が好きなやつだ。
「じゃあ帰ればいいんじゃないか?」
「何もないからって、何も起きないとは限らないじゃん」
「……え、その発想で毎日生きてるの?」
得意げな瑛里の顔を見ながら俺が呆れていると、教室の後ろから別の声が飛んできた。
「だったらちょうどよかった。瑛里、何か起きてるみたいよ」
藤代真帆だった。
文芸部の一件の後、真帆はわりと恐縮したようなところがあったが、俺や瑛里が意図もせず大して変わらなかったのでその様子も徐々に解消されてきた感はあった。
そんな彼女もまたどこかに行って戻ってきたのだろうか。真帆は俺たちのところまで来ると、少しだけ声を潜めた。
「……今日休んでるはずの子が、放課後になって学校にいるって、どういうことだと思う?」
瑛里の目が分かりやすく輝いた。
「詳しく」
「食いつくの早いね」
「だって詳しく聞かないと分かんないし」
「普通はその前に怖がったりしない?」
「真帆がその顔で持ってきてる時点で、たぶん幽霊の類いなんかじゃないんでしょ」
どんな顔だよと思ったが、何となく解ってしまうあたり俺も俺だ。
持っていた鞄を机へ置く。どうやら帰宅時間は少し先送りになりそうだ。諦めの境地。
「で、誰?」
「森深月って子」
俺にはパッとそれらしき顔は思い当たらないし、まともに話した記憶はない。他クラスの女子なんてそんなもんだろうか。
「その子が『今日休んでるはずの子』ってこと?」
瑛里が言う。
「うん。朝からいない。クラスでも普通に欠席扱い」
「それが、放課後になって来た?」
「らしい」
らしい、か。
「真帆はその森さんとやらを見たのか?」
「見てないよ」
ウワサ話を聞きつけただけということか。
「じゃあ誰が?」
「最初に言い出したのは早坂くんだとか」
瑛里がすぐに立ち上がる。
「じゃ、早坂くんから聞こっか」
「あ、やっぱりそうなるんだ」
「他に何があるの?」
「帰るとか」
「圭吾なんて、とっくに鞄置いてるし」
「俺を巻き込めた証拠みたいに言うな」
結局、俺たちは真帆に案内されて、早坂くんを探すことになった。
○
早坂律はまだ自分の教室にいた。
突然やってきた俺たちに少しだけ身構えたものの、真帆が事情を話すとすぐに「ああ、その話」と納得した。
「森さんを見たんだって?」
瑛里が訊くと、早坂くんはほんの少しだけ首を傾けた。
「見た……っていうか」
その言い方を、俺は覚えておくことにした。
「四時過ぎくらいだったかな。廊下通ったときに、森の席の辺りに誰かいたんだよ」
「誰か?」
「女子であることは確かなんだけどな。後ろ向いてたし」
「ってことは、顔は?」
「見てない」
瑛里は矢継ぎ早に訊いていく。
「声は聞いた?」
「いや」
「じゃあ、なんで森さんだと思ったんだ?」
瑛里が訊くよりも早く、気になったことをぶつけてみる。その要素だけで個人を特定することなんてできるのだろうか。
「……カーディガン」
早坂くんは自分の腕の辺りを指した。
「森がよく着てるやつがあって、それを着てたから。それに背格好も似てたし、森の席の近くにいたし。だから森かな、って」
「なるほど」
それだけ状況証拠のようなモノが揃えば、そう思うのも不思議ではない。
「それで、森さんが来てるって言ったのか?」
俺が訊くと、早坂くんはまた少し考えた。
「いや。俺、最初はそこまで言ってないと思う」
「ん? 何て言った?」
「たぶん……『森、来てるのかな』とか。『今の森だった?』とか、そのくらい」
そうなってくると、話はだいぶ変わってくるのだが。
「断言はしてない?」
「さすがにしてない。だって顔見てないし」
そのわりには、俺のところへ届いた時点では、随分と立派な目撃証言になっていた。
気になるところではある。
「でもさ」
早坂くんが続ける。
「あとで階段でも見たってやついたじゃん。だから、やっぱ森だったのかなって」
どういうことだ――と思えば、瑛里が俺を見ていた。恐らくは俺と似た様な表情なのだろう、俺と視線が合ってワンテンポ遅れて小さく笑った。――俺の顔がオカシイとかいう理由で笑ったのなら許さんぞ。
が、とにかく今はそんなことなどどうでもいい。一件だけなら曖昧でも、別の場所でも見られているなら話は変わる。
「その階段の話、誰?」
真帆が名前を出した。
「まだ近くにいると思う」
話は、もう一件増えた。
○
二人目の目撃者がいたのは、階段近くの廊下だった。複数人居たので二人目という言い方は正確では無いかもしれないが些末だ。
聞けば、四時十五分頃に階段を下りていく人物を見たという。
「それは森さんだった?」
瑛里が訊く。
「たぶん」
「顔は?」
「ちゃんとは見てない。後ろからだったし」
まただ。
ただし、こちらにはもう一つ特徴があった。
「でも、バッグ持ってたから」
「バッグ?」
「森がよく使ってるやつ。あれ、結構分かりやすいでしょ」
訊けば、バッグ本体の色味やらはともかく、付けているぬいぐるみがやや独創的だとか。俺には解らない話だった。
とはいえ、教室ではカーディガン、階段ではバッグ。
顔を見ていないとはいえ、本人の持ち物が二ヶ所で確認されたことになる。
――けれど。
「そのときに、森さんだと思った?」
「え?」
突然俺に訊かれて困惑しているようだが、いちいち気にしないでおく。そんな時期は疾うに終わっている。
「階段で見た、その瞬間に」
相手は少し考えてから首を横へ振った。
「そのときは別に。誰かいるな、くらい」
「じゃあ、いつ森さんだと思った?」
「ああ……あとで、森が来てるって聞いて」
さらっとした答えだった。
「それで、じゃあさっき見たのも森だったのかなって」
瑛里が、一瞬だけ眉をひそめた。同時に、俺も何かが引っかかった。
ただ、まだ形にはならない。
何しろ教室でそれらしい姿が見られて、その後に本人のバッグらしき物まで移動している。
一応の証拠は出ているのだ。
「なるほどね」
瑛里はそれ以上追及しなかった。
俺たちは礼を言って、その場を離れた。
「二ヶ所かあ」
真帆が言う。
「これ、普通に森さん来てたんじゃない?」
「ま、可能性は否定しちゃいけないからね」
瑛里も否定しない。
俺も、その時点では強く反対できなかった。
○
三ヶ所目となる状況証拠が出てくると、さすがに可能性について語らざるを得なくなってくると言う話だ。
いつの間にやら森さんの机に、朝にはなかった本人の私物が戻っていた。俺たちが少々離れたところにいる間の出来事だとか。
「朝はなかったんだよね?」
瑛里が近くにいた生徒へ確認する。
「うん。少なくとも朝見たときは」
「これを森さんが置いたところは?」
「それは見てない」
また、『見ていない』だ。
けれど、教室に本人らしき女子がいた。
階段では本人のバッグらしき物が見られた。
朝にはなかった本人の私物が、放課後には机へ戻っている。
ここまで並ぶと、むしろ「本人はいなかった」と考える方が難しいようにも思えてくる。
「でも、なんでこの時間だけ?」
真帆が呟いた。
その疑問には、すでに答えらしきものまで用意されていた。
「そういえば森ちゃん、昨日、西尾さんと何かあったらしいよ」
近くにいた生徒が言った。
「西尾さん?」
「西尾まほろ。森さんと仲良い子なんだけど」
その『何か』とやらを詳しく聞けば、昨日大喧嘩というほどではないものの二人の間でちょっとした言い合いがあったようだ。
最後には森さんが、「もういい」と会話を切って、そのまま帰ったとか。
それだけのことだと言ってしまえばそれまでかもしれないが、人間は理由のない出来事を見て何かしらの理由を付けたくなれば、案外簡単に前日の出来事を引っ張ってくるらしい。
街頭インタビューのような話なのだから、存外そのようなものなのかもしれないが。
「じゃあ今日休んだのも、それで?」
「いや、そこまでは知らないけど」
「でも放課後に来たなら、西尾さんと話しに来たとか?」
なるほど、そう考えればその説明は妙に収まりが良かった。
ふたりが昨日揉めて、片方が今日休んだ。
それでも気になって、放課後にだけ学校へ来た。
もう片方と話そうとした。
――なるほど。
話だけなら、よくできている。
「西尾さん本人には?」
俺が訊く。
「もう話行ってると思うけど」
「え?」
ホラ、と背後を指差す瑛里。
運が良いのか悪いのか。つい先ほど女子生徒が教室に戻ってきたことは解っていたが、どうやらこの女子生徒が渦中の西尾さんらしい。
○
西尾まほろは、思っていたより普通に教室にいた。
ただ瑛里曰く、森深月の名前が出たあたりから、ほんの少し表情が固くなったようだ。――よくそんなところを見ていたものだ。俺はそもそも彼女が当事者のひとりという認識も無かったから、それを見極めるのは無理な話だ。
「森さんが来てるとかっていう話、聞いた?」
「聞いた」
「西尾さんと話しに来たんじゃないかって言ってる人もいるけど」
瑛里が慎重に訊く。
まほろは一度視線を落とした。
それから、小さく息を吐く。
「……だったら、私のところに来ればいいじゃん」
怒っているというより、困っているように聞こえた。
「昨日、ちょっと何かあったとかって話だけど。ああ、詳しく訊く気は無いよ、今は」
「……ちょっとね」
「森さんが今日休んだの、それが理由だと思う?」
今度はすぐ首を横に振った。
「分かんない。そこまでは」
けれど、その言葉とは関係なく、周囲ではもう筋書きが出来上がり始めている。
森さんは西尾さんと揉めて、それが理由で休んだ。
でも森さんは気になって放課後だけ来た。
西尾さんと話そうとしたけれど、結局話せなかった。
だから森さんはそのまま帰った――。
あまりにも綺麗な流れを目の当たりにしつつも、状況の整理は必要だろうということで、俺たちは西尾さんたちと別れて一旦廊下へ出た。
少し歩いてから、真帆が言う。
「結局、どう思う?」
「何が?」
「森さん。本当に来てたのか」
俺はすぐには答えなかった。
一応今までの話を全部巧いことつなげれば、一人の人間の行動としてきれいに成立する。
ならば当然考えるべきことはある。
「……森さんと実際に話したヤツって、いたっけ?」
「え?」
真帆が振り返る。
「今日の放課後。実際に森さんと話したヤツ」
「いない……かな」
「じゃあ顔をはっきり見たヤツは?」
「今のところ、いないねえ」
瑛里が答えた。
「だったら、ちょっと変じゃないか?」
俺が言うと、瑛里はすぐにこちらを見た。
「どの辺が?」
教室にいた姿よりも。階段を降りた姿よりも。机へ戻った物よりも。
もっと確かなことみたいに語られているものがある。
「森さんを見た話より、森さんが学校に来た理由の方に詳しくなっている気がするんだよな」
瑛里が黙った。
「顔を見たやつはいない。話したやつもいない。なのに、森さんがなんで来て、誰に会いたくて、なんで帰ったのかまで決まってる」
「……なるほど?」
瑛里の声が、少しだけ変わった。
たぶん、同じ場所に引っかかった。
誰も森深月の顔を見ていない。
なのに。
森深月が何を考えていたのかだけは、もうみんな知っていることになっていた。




