2-3: 見えなくなっていたモノは
瑛里が暗幕の裾を持ち上げた。
ぱちん、と小さな音がした。
「クリップね」
暗幕の裏側、窓枠に近いところへ留められていたものを、瑛里がひとつ外す。
金属部分には、乾きかけた濃い色の絵の具が薄く付着していた。
もうひとつ。
さらにもうひとつ。
固定が外れるたび、暗幕が少しずつ軽くなっていく。
「圭吾、そっち持って」
「はいよ」
瑛里と一緒に、重なっていた布を引き出した。
一見すれば、ただの濃紺。暗幕とほとんど変わらない。
けれど、それを床へ広げて裏返せば、答えはあまりにも分かりやすかった。
翼を広げた隼が現れる。
その周囲には、濃い色で塗り潰された羽根の跡。
「……あった」
加納が呆然と呟いた。
「ずっとここに?」
「うん」
愛川くんに答えながら、瑛里は外したクリップを掌に載せた。
「施錠したあとに消えたんじゃないよ。施錠する前から、ここに掛かってた」
教室から出ていない。
筒から抜かれてもいない。
そもそも筒へ入っていなかった。
密室から消えた旗なんて、最初から存在していなかったことになる。
「順番としては、たぶんこう」
瑛里が指を折る。
「まず児玉くんがこの旗を裏返して、暗幕と窓の間に重ねた。色が近いから、裏側ならぱっと見では分からない」
児玉くんは何も言わない。
「それから、旗の代わりに養生布を巻いて筒の中へ」
「俺がそれを見て、旗だと思ったってわけか」
加納が自分で続けた。
「愛川くんは、中を確認しないまま封をした」
愛川くんが苦い顔で頷く。
「先生は筒そのものを確認して教室を施錠した」
「だから、封をしたあとには誰も触ってない」
俺が言う。
「ただ、封をした時点でそもそもすでに中身が違ってたということ」
「そ」
小さく答えて瑛里が頷いた。
考えてみれば、妙な話ではない。
加納も愛川くんも、見ていないものを見たと言ったわけではない。
加納は濃紺の布を見た。
愛川くんはその布が入った筒を封じた。
先生は筒を確認した。
それぞれが、自分の見たものへ『学級旗』という名前を付けただけだ。
その名前だけが正確に、人から人へ渡っていった。
「児玉」
愛川くんが低い声で言った。確認するような響きだった。
「本当に、お前なのか」
児玉くんはしばらく広げられた旗を見ていた。
やがて、小さく頷く。
「……うん」
近藤さんが息を吐いた。
「私、知らないからね」
「分かってる」
児玉くんはすぐ答えた。
「近藤には何も言ってない」
「……何でこんなことしたんだよ」
愛川くんが訊く。
その声には苛立ちもあったが、それ以上に困惑が混じっていた。
「体育祭、潰したかったわけじゃないんだろ」
「そういうことじゃない」
「じゃあ何だよ」
「……明日の朝、ホームルームの前に戻すつもりだった」
「は?」
今度は加納まで声を上げた。
児玉くんはゆっくりと言葉を探す。
「朝なら、クラス全員いるから」
「だからって隠すか普通」
「分かってる」
「分かってるなら」
「今日中に確認されるなんて知らなかったんだ」
児玉くんの声が少しだけ強くなる。
「明日の朝まで誰も筒開けないと思ってた。その後で戻して、それから……もう一回、みんなに聞いてほしかった。猶予が欲しかったんだ。」
「それで旗を隠した?」
「うん」
言ってしまえば、浅慮な判断。
朝になれば何とかなる。翌日までバレなければ、話し合う時間ができる。
その間に何が起きるかまでは考え切れていない。不測の事態に直面してしまえばこの有様だ。
「近藤を庇ったのか?」
「違う」
愛川くんの疑問に、児玉くんはまたも即答した。近藤さんもそちらを見る。
「俺は、女子の案を残したかったわけじゃない」
一度、息を吸う。
「男子の案を消したかったわけでもない」
児玉くんは床に広げられた旗を見る。
「あれは最初から『分けて考えるような絵』じゃなかったんだ」
教室が静かになった。
児玉くんは話すことそのものに慣れていないようだった。それでも今度は途中で止めなかった。
「中央の隼だけ俺が描いたんじゃない。最初にみんなから、好きな色とか、入れたい形とか、いろいろ聞いただろ」
「ああ」
加納が頷く。
「羽根の色も、模様も、それで決めた」
児玉くんの指が、塗り潰された周囲をなぞる。
「ここの赤は誰が言ったとか、この形は誰が出したとか、そういうの全部まとめて一枚になるようにした」
愛川くんは黙って聞いている。
「隼だけ残っても、俺には話し合いの結果が残ったことにならない」
「でも」
愛川くんがようやく口を開く。
「俺は、お前の絵が一番格好いいと思ったから残したんだぞ」
「それは、本当にありがたいと思ってる」
「だったら」
「だから、言えなかったんだ」
児玉くんは顔を伏せた。
「せっかく評価してもらえてるのに、違うって言うのも変だと思った。それに……」
「それに?」
「自分で描いた絵に、こういう意味があるとか説明するの、なんか」
言葉に詰まる。
「恥ずかしかった」
少しだけ、拍子抜けするくらい普通の理由だった。
けれど、たぶんそういうものなのだろう。
頭の中では大切なことほど、それを声にした瞬間に大げさに聞こえる気がする。
だから黙る。
黙った結果、相手には何も伝わらない。
「そこまで考えてたなら、最初に言いなよ」
俺の指摘に児玉くんがこちらを見る。
「言いにくかったのは分かる。照れくさいのも解るよ。でも、言葉で止められなかったからって、旗を隠していいことにはならない。自信持ってよ、カッコイイんだから」
「……うん」
「おかげで加納は自分の管理ミスだと思ったし、近藤さんは犯人扱いされかけた」
「それは、本当にごめん」
児玉くんは近藤さんへ頭を下げた。
「近藤が疑われるとは思ってなかった」
「それはほんとに迷惑」
近藤さんは即答した。児玉くんがさらに縮こまる。
「……でも」
近藤さんは一度だけ視線を逸らした。
「いろんなことが止まってくれたのは、ちょっと助かった」
それだけだった。
庇い合うでもない。仲直りの握手もしない。けれど、そのくらいで十分なのかもしれない。
「じゃあさ」
愛川さんが腕を組んだ。
「結局、俺らが全部悪かったってことか?」
「そういう話でもないかな」
瑛里がすぐに答えた。
「愛川くんは体育祭をちゃんと成功させたかった」
「……まあ」
「時間が足りないと思ったのも本当。遠くから見て目立つ旗にしたかったのも本当。材料を揃えたり、片づけたりしてたのも愛川くんでしょ?」
「ああ」
「そういうのも含めて、善いとか悪いとかを決めたいんじゃないの」
瑛里は変更前の写真をもう一度表示する。
「あんまり他のクラスのことに首突っ込むのは良くないとは思ってるけれど、ちょっとだけ確認したいことがあるのよね」
珍しく殊勝なことを前置きして、瑛里は続ける。
「いつ誰が、このデザインを変えるって決めたのか」
「それは」
愛川くんが言いかけて、瑛里の視線に射貫かれて止まる。
「みんなで決めたって言ってたよね」
「……うん」
「でも近藤さんは反対してた」
「うん」
「児玉くんも賛成してなかった」
「……うん」
「その場にいなかった人もいた」
愛川くんは答えない。
「黙ってた人もいたよね」
「いたと思う」
「じゃあさ」
瑛里はほんの少し首を傾げた。
「……『みんな』って、誰だったんだろうね」
誰も答えなかった。
「時間なかったんだよ」
しばらくして、愛川くんが言った。
「全員にもう一回聞いてたら、完成しなかったかもしれない」
「うん」
「だから、その場にいたやつで進めた」
「それ自体が絶対駄目だとは言ってないよ」
瑛里は言う。
「ただこの場合、『その場にいた人で進めた』と、『クラス全員で決めた』は同じじゃない」
近藤さんが小さく鼻を鳴らした。
「私の『もう好きにすれば』も、賛成に入れられてたんでしょ」
「……少なくとも、もう反対しないって意味だと思った」
愛川くんが答える。
「反対するのに疲れただけ」
近藤さんは言った。
「同意したわけじゃない」
「それは……悪かった」
愛川くんの謝罪は、驚くほど素直だった。
近藤も何も返さなかったが、少なくともさっきまでの険しさは少しだけ薄れた。
「俺もだな」
加納が言った。
「先生に、『変更で決まりました』って報告した」
「ああ」
「俺が決めたわけでもないのに」
加納は頭を掻いた。
「もう塗り始めてたし、近藤も帰ったし、愛川たちも作業続けてたから。決まったんだと思った」
決めた人間が見当たらないのに、決まったことだけは存在していた。
得てして学校生活ではそう珍しい話でもない。何なら俺も今までに何度か見てきた場面ではあった。
声の大きい誰かが言う。
何人かが頷く。何人かは黙る。疲れた誰かが諦める。
その場にいなかった人は、あとで決まったことだけを知らされる。
そうして最後には、『みんなで決めました』という標語のようなモノが出来上がる。
それは筒へ入った濃紺の布と、少し似ていた。
――見たものに、それらしい名前が付いただけのように。
「で」
愛川くんが瑛里を見る。
「どうすればいい?」
「知らないわよ」
「え」
あまりにも即答すぎて、愛川くんも二の句が継げなかった。
瑛里は笑う。
「旗を見つけるところまでは手伝えるけど、どんな旗にするかは私たちが決めることじゃないよ。言ったでしょ、『他のクラスのことに首突っ込むのは違う』って」
自分で張っておいた伏線を即座に回収しながら瑛里は言った。妙に殊勝なことを言うと思えば、こういうことか。
「でも、元のやつに戻せば」
「それが全員の意見なの?」
愛川くんが口を閉じる。
「今のデザインが駄目とも、元へ戻すのが正しいとも、私たちには決められない」
瑛里は床の旗を見る。
「そこは、ちゃんとクラスで決めて」
加納が長く息を吐いた。
「……明日の帰りのホームルーム」
「ん?」
「先生に時間もらおう」
加納は、少しだけ疲れた顔で笑った。
「今度は、一人ずつに訊いていく」
「大変そうね」
「誰のせいでこんな話になってると思ってるんだ」
「さぁて、ね」
その程度の軽口が戻ったところで、その日の話は終わった。
○
数日後。
帰りのホームルームを終えて廊下へ出たところで、待ち構えていたらしい加納に呼び止められた。
「横溝、連城。ちょっと時間良いか?」
「また変な相談?」
瑛里が訊く。
「いや、今日は報告だ」
加納はスマートフォンを取り出した。
「旗のデザインが、しっかりと決まったってことを」
画面に映っていたのは、最初の旗とも、変更後の旗とも違っていた。
中央の隼は残っている。
一度塗り潰された部分も、完全には消されていない。暗い背景や影として使われ、その上に簡略化された羽根が新しく描かれている。
さらに周囲には、小さな羽根や印がいくつも散っていた。
「これは?」
「最後に全員でひとつずつ足した」
加納が言う。
「色でも模様でも、好きなのでいいって」
「児玉くんがまとめたの?」
「基本は。でも今回は途中でちゃんと確認した」
「愛川くんとか近藤さんとかは?」
「普通に意見言ってた。……まぁ、ちょっとうるさかったけど」
「聞こえてたら怒られるぞ」
「本人たちにも言った」
加納は意外に骨のあるヤツだった。
「昨日より時間はかかったけど、言ったとおり、今回は全員に聞いた。欠席してたやつにも今日確認した」
「じゃあ、今度は本当に総意ってことか」
俺が言うと、加納は苦笑した。
「総意って、面倒だな」
「ひとつにまとめるんだ、そりゃあ時間かかるものなんだろ」
「間違いないな」
「あ、そうか」
うんうんと頷いていた瑛里が何かに気付いたらしい。
「何だ?」
「旗のデザインの前に、改めて決め方を決め直したから、全部がバッチリ決まったんだねーって思って」
「まぁ、そうかもしれないな」
「手順と手続きも大事ってことだな」
加納は最後に「ありがとな」と言って、今度こそ満足そうに去っていった。
俺と瑛里はその背中を見送る。
なくし物を見つけるより、誰も決めていない総意を解体する方が、たぶんずっと面倒だ。
でも、一度ばらばらにしてしまえば、誰がどこを持っていたのかは確かめられる。
あとは、自分たちで組み直せばいい。
「ところで圭吾」
「何だ」
「私たちの間で意見が割れたらどうする?」
「割れてから考える」
「多数決は?」
「二人で多数決するな」
「じゃあじゃんけん?」
「加納のところの結果を見て導くのがそれかよ」
瑛里が笑った。
俺も、たぶん少し笑った。
まあ、そのときになったら考えればいい。
今のところ俺たちは、意見が割れる前から隣にいることだけは、わざわざ決める必要もないらしい。




