2-1: 行方不明になった学級旗
帰りのホームルームが終わってから、もうずいぶん経っていた。
窓から差し込む光はまだ明るいが昼間ほどの勢いはない。廊下を行き交う生徒もだいぶ減り、代わりに遠くのグラウンドから運動部の掛け声が重なり合いながら聞こえてくる。どこが何を言っているかは、当然ながら良く解らない。
「圭吾、まだ帰らないの?」
「それ、五分前にも聞かなかったか」
「五分あれば人の予定は変わるかもしれないでしょ」
「俺の予定をなんだと思ってるんだ」
「流動的なもの」
「雑だな」
俺と瑛里は、二階の渡り廊下近くで特段の意味もなく時間を潰していた。
正確には、瑛里にはこのあと知り合いへ何か返すものがあるらしいし、俺も図書室へ寄った帰りだ。ホームルーム直後から今の今まで一緒に居たわけでも無ければ、今ここに居る時間も完全に意味がないわけではない。
どちらも今すぐ校門へ向かう理由も無かった。だから、こうして残っている。
たぶん俺たちの場合、こういう時間を予定として数えていないし、無駄だとも思っていないだけなのだと思う。
「横溝」
背後から名前を呼ばれた。
振り返ると、廊下の向こうから加納詠斗が歩いてくるところだった。
ちなみに同じクラスではない。選択授業で何度かグループが一緒になったことがあって、顔を合わせれば普通に話すし、小テストなどがあればその情報共有くらいはする程度の間柄だ。
しかし、ちょっと妙だ。
普段ならもう少し軽い調子で声をかけてくる男なのだが、今日は眉間に妙なしわが寄っている。
「何かワケアリ風味だけど、どうした」
「察しが良いな。……悪いけど、ちょっと変な相談していいか」
「変な相談なら、私も聞くよ」
俺が答えるより先に、瑛里が半歩前へ出た。
加納が露骨に怪訝な顔をする。
「そちらは……?」
そういえば、瑛里とはとくに面識が無かったか。
「瑛里はそういう話が大好きな奴なんだ、あんまり気にしなくてもいい」
「さすがに失礼じゃない? ……合ってるけど」
合ってるんだ、という加納のつぶやきは一旦無視しておく。
「まぁとにかく、圭吾に相談するとだいたい私にも届くことになってるから」
「配送経路みたいに言うな」
「どっちかというと、強制的カーボンコピーじゃないかしらね」
俺たちのどうでもいいやりとりで加納は一瞬だけ笑った。
ただし、すぐにその笑いは消えた。
そこまで見て、ようやく俺も姿勢を正す。どうやら本当に、笑い話ではないらしい。瑛里の軽い自己紹介を終えたところで本題に入ってやるべきだ。
「で、何があった」
加納は少しだけ声を落とした。
「施錠した教室から、学級旗がなくなった」
変な相談ではあった。
というより、聞いた瞬間には意味が分からなかった。
ヤバそうな雰囲気だけは掴めたが。
「それは、盗まれたってこと?」
瑛里が訊く。
「それすらも分からん。だから困ってるんだよね」
「教室に置いてあった?」
「筒に入れて、封もしてた。先生が窓も入口も確認して鍵をかけた。そのあと、先生がもう一回開けるまで誰も入ってない」
「それで、筒だけ残った?」
「いや」
加納は首を振った。
「筒も残ってた。封もそのまま。開けたら、中に旗がなかった」
なるほど。
それなら確かに、相談先を間違えたくなる程度には変な話だった。
○
加納のクラスへ向かう途中で、だいたいの事情を聞いた。
無くなったという学級旗は秋の体育祭で使うものだ。各クラス珠玉のデザインを考案しそれぞれで制作するというモノだが、加納のクラスでは今日の放課後にほぼ完成した。
完成した旗を筒へしまい、その筒へクラス名のラベルを貼って、蓋をテープで封じた。
担任が教室を出る際に、窓と出入口を確認して施錠。
ところが、それからしばらくしないうちに体育祭実行委員会から連絡があり、今日中に旗の大きさを確認して写真を撮りたいと言われた。
そこで担任が加納たちを呼び戻し、教室の施錠を解き、筒の封を切った。
――筒から出てきたのは、旗ではなく大きな濃紺の布だった。
「俺が保管場所とか先生への報告とかやってたんだよ」
加納が歩きながら頭を掻く。
「だから、なくなったなら俺の確認不足みたいになるし」
「加納くんが旗を隠したわけじゃないんでしょ?」
「もちろん」
「じゃあ、確認不足かどうかもまだ分からないよ」
瑛里はあっさり言った。
加納は納得していないようだったが、それ以上は何も言わなかった。
教室の前まで来る。扉は今は開いていた。中には数人の生徒と担任らしい男性教員が残っている。
机の上には蓋の外された細長い保管筒。その横には切られたテープと、折り畳まれた大きな濃紺の布が置かれていた。
窓は換気のためか開けられていた。後方の窓を覆う濃紺の暗幕が、入ってくる風にゆっくり揺れていた。
「横溝と連城。悪い、ちょっと見てもらいたい」
加納が言うと、教室にいた男子の一人がこちらを見る。
背が高く、いかにも運動をしていそうな体つきだった。
「加納、知り合い?」
「まあ、横溝は。連城は、……勝手に付いてきてくれた」
「連城瑛里です」
「勝手にってところは認めるんだな」
「私は認めてないよ」
いや、そこは認めろ。
そんなこんなで、加納が簡単にクラスメイトを紹介してくれた。
ガタイのいい男子は愛川駿介。
窓側で黙って立っている細身の男子が児玉好城。
少し離れた席に座っている女子が近藤愛桜。
そして担任教諭。
先生には加納が事情を説明してくれたらしく、俺たちが少し状況を確認すること自体には問題ないようだった。
「先生が最後に鍵をかけたんですよね」
瑛里が尋ねる。
「ああ。窓も確認した。筒が教室にあるのも見ている」
「筒の中身も?」
「いや。そこまでは確認していない」
「鍵は?」
「職員室へ持って戻った。もう一度開けるまで、私が持っていたよ」
それだけ確認すると、先生は実行委員側への説明があるらしく教室を出ていった。
瑛里は筒の横にある濃紺の布へ目を落とす。
「これが入ってたもの?」
「そう」
加納が答える。
濃紺の布は、広げてみるとかなり大きい。これが旗の裏側だと言われても、少なくとも俺なら遠目では疑わないだろう。
「そもそも、どんな旗だったんだ?」
「あ、写真ある」
加納がスマートフォンを出した。
画面に映った旗は思っていたよりずっと手が込んでいた。
濃紺の地に中央を大きく横切る隼。翼を広げたその周囲に、赤や黄色、白、青といったさまざまな色の羽根が飛んでいる。羽根には一本ずつ少し違う模様が入っていた。
「これ、完成したときの写真?」
「最初のやつだね」
答えたのは児玉くんだった。声は小さかったが、妙に耳に残った。
――最初のやつ、とは。
「この後変えたんだよ」
愛川くんが説明を引き継ぐ。
「周りがちょっとごちゃついてたから。体育祭だし、遠くから見たらもっと力強い方がいいんじゃないかって話になって」
加納が別の写真を表示する。
中央の隼は同じだ。
ただ、その周りを飛んでいた色とりどりの羽根の大半が濃い色で塗り潰されている。
結果として、隼だけがくっきり浮かび上がっていた。
「児玉の隼は残したんだ。ここが一番格好よかったし」
愛川くんは率直に言ったが、児玉くんはとくに何も言わなかった。
ただ、少なくとも褒められた人間の顔には見えなかった。
「ただ、その変更に近藤が反対した」
加納が言うと、近藤さんが眉を寄せる。異論はあるらしい。
「反対したっていうか、勝手に決めるのがおかしいって言っただけ」
「勝手ってわけじゃないだろ。あの場にいたみんなで話したじゃん」
愛川くんが返す。
「私は賛成してない」
「近藤はそうだけど」
「だったら『みんな』じゃないでしょ」
ぴしゃりと言われて、愛川くんが口を閉じた。
加納が困ったように続ける。
「近藤は、『誰が変えていいって決めたの』とか、『今いる人だけで決め直していいことじゃない』とか言ってて」
「事実だけど?」
「最後に『もう好きにすれば』って言って出てった」
近藤さんは否定しなかった。腕を組み、視線だけを逸らす。
「それで、旗がなくなったと分かったとき――」
愛川くんが言いにくそうに続けた。
「近藤、ちょっと安心した顔したんだよ」
「何でも勝手に決めつけないで。そんなくだらないことまでそっちに決められたくないんだけど?」
こりゃあなかなかの強さ。だが、だからといって、犯人扱いするのは乱暴が過ぎる。
「近藤さんが教室を出たあと、旗は?」
瑛里が訊いた。
「普通にあったよ」
これに対して加納がすぐ答えた。
「変更したやつが完成したのはそのあとだし。何人も見てる」
「近藤さんは戻ってきた?」
「戻ってない」
ならば、少なくとも近藤さんが怒って持ち去ったわけではない。
もちろん、誰かに頼んだ可能性まで考えれば話は別だ。
だが、今のところそれを示すものは何もない。
「完成してからは?」
瑛里が訊く。
「窓際に掛けて乾かしてたな」
愛川くんが答えた。
「児玉が、乾いたら片づけとくって」
全員の視線が児玉くんへ向くと、彼は一度だけ頷いた。
「言った」
「それで俺が先生に呼ばれて、ちょっと教室を出た」
加納が続ける。
「愛川たちも道具洗いに行ってた。戻ってきたときには、児玉が旗を巻いて筒に入れてた」
「俺がそのあと蓋して、テープ貼った」
愛川くんが筒を指す。
「だから間違いなく旗は中に――」
「ちょっと待って」
瑛里が遮った。愛川くんではなく、加納を見ながら。
「加納くん。児玉くんが旗を筒へ入れるところを見たんだよね?」
「ああ」
「それは、どんなふうに?」
「どんなって……巻いて」
「隼は見えた?」
「いや。裏向きだったから」
「縁とか、紐とかは?」
「そこまでは、見てないけど」
加納の返事を聞きながら、俺はさっきから引っかかっていたものの形が、ようやく分かった気がした。
加納は嘘をついていない。
たぶん一度も。
ただし、見たモノと、そこから考えたモノを、同じ文章として構成している。
「加納」
「何だ?」
「お前が見たのって、旗の裏側とかじゃないんじゃないか?」
加納が眉を寄せる。
「濃紺の布を見て、それを旗の裏側だと思ったんじゃないのか」
一瞬、誰も何も言わなかった。
瑛里が筒の横の濃紺の布を見る。
それから、窓際の暗幕へ視線を移した。
「旗が教室から消えた、っていうのは」
瑛里が言った。
「まだ決まってないよ」
「どういう意味だ?」
愛川くんが訊く。
瑛里は開いた筒を指先で軽く示した。
「教室の外へ出た人を探す前に、加納くんに確認したいことがあるの」
いつもの明るい声だった。
ただ、その目だけはもう、次の問いを見つけている。
「旗が、本当にこの筒の中へ入ったのかどうかを」




