1-3: 消された名前
「でも、ファイルを消した人は、この部屋にいた」
瑛里の言葉が落ちたあと、古いノートパソコンのファンの音だけが残った。
それまでなら気にもしなかったような音が、やけに大きく感じられる。
澄香先輩は、真帆の前にある編集用の端末を見ていた。
宮坂くんは古い端末の前で身を縮めている。
真帆だけが、瑛里を見ていた。
「……誰が消したか、分かってるの?」
「ほとんど」
真帆の質問に、瑛里は即座に答えた。
「でも、順番に確認するね。違うところがあったら言って」
明るくからっとした普段の調子は残っている。
ただし、曖昧なまま流すつもりがないことも分かる声だった。
「最初に起きたのは、宮坂くんが古いノートパソコンを起動したこと」
「はい」
「そこには、小春さんの学校用アカウントがログインした状態で残っていた。ネットにつながっていない時期に行われた編集も、端末の中へ残っていた」
宮坂くんが頷く。
「午後五時、その編集内容が共有先へ同期された。だから、履歴には小春さんの名前と十七時という表示が出た」
「でも、小春先輩が文章を書いたのは、そのときじゃない」
「うん。現在は削除されている文章に付いていて、その文章は元原稿にしか残っていなかった。あの言葉は、今日書かれたものじゃない」
瑛里は真帆の画面に残る一文を見た。
『この物語から、私を消さないでください。』
「小春さんが以前書いた言葉が、今日の午後五時に届いた。それが最初の出来事」
小春本人がいなくても、過去の言葉だけが遅れて現れる。
怪現象の正体としては、それほど難しい話ではなかった。
けれど、あのタイミングで届いたからこそ、誰も偶然だとは思えなかった。
「その次に、掲載用の改稿版が消された」
瑛里は続ける。
「削除に使われたのは、小春さんの古い端末じゃない。真帆が使っていた編集用のパソコン」
「でも、真帆以外の誰かが触った可能性もあるでしょう?」
澄香先輩が言った。
真帆を庇おうとしたのか、それともまだ結論を受け入れられないだけなのか。
恐らくは、その両方なのだろう。
「あります。ただし、かなり低いです」
瑛里は部室の中を見回した。
「文章が表示されたとき、宮坂くんは古いパソコンの前にいた。圭吾と私は長机の反対側。榊原先輩は立ち上がったけど、編集用のパソコンには触れていない」
その通りね、と小さく澄香先輩が言った。
「真帆だけが、そのパソコンの前にいた。小春さんの名前が出たあと、原稿を閉じて、共有フォルダへ戻った」
俺もその動きを見ていた。
真帆はトラックパッドを二度叩いた。
そのあと、カーソルを動かして共有フォルダを開いた。
――そのときは、消えたファイルを探しているだけに見えた。
「削除する操作なんて、誰にも見えなかったよ」
真帆が言う。
「うん。だから、操作だけなら見落とした可能性もある」
瑛里はあっさり認めた。
「でも、真帆は誰より早く、何が消えたのか分かった」
「開いてたファイルなんだから、分かるでしょ」
「開いていたのは改稿版だよね」
「そうだよ」
「それなのに、真帆は『小春の原稿が消えた』と言った」
「……」
真帆が黙る。
澄香先輩と宮坂くんは、まだ意味が分からないようだった。
瑛里が俺を見る。
ここから先は、たぶん俺の役目だった。
「事件が起きる前、真帆は改稿版を小春の作品じゃないって言ってた」
俺は真帆へ言った。
「榊原先輩が読みやすくした方を見せるときも、『先輩が直した方』って呼んでた。元原稿と改稿後の原稿とでは、妙に呼び方をはっきり分けてたように感じてたんだが……」
「それは……」
「でも、消えたあとだけは、『小春の原稿』と呼んだ」
単なる言い間違いなら、それで済む話だった。
だが、真帆は編集担当だ。
元原稿と改稿版を取り違えるような人間ではない。
むしろ、誰よりもその違いにこだわっていた。
「お前は、消えたファイルを間違えたんじゃない。呼び方を変えたんだ」
真帆の指先が、膝の上でわずかに動いた。
「小春本人が、自分の原稿を消したことにしたかったから」
午後五時に小春の言葉が現れた。
その直後に、小春の名前で掲載される予定だったファイルが消えた。
それをすべて小春本人の行動に見せるためには、消えた改稿版もまた「小春の原稿」でなければならない。
「真帆」
瑛里が呼ぶ。
「偶然あの文章が出たのを見て、咄嗟に改稿版を消したんだよね」
しばらく、返事はなかった。
窓から入る光はもう橙色というより、少しずつ灰色へ近づいていた。
「……小春が戻ってきたみたいに思った」
真帆が、ようやく言った。
「画面に名前が出て、あの文章を見たとき、小春が今も怒ってるんだって思った。あれを載せるなって、小春本人が言いに来たんだって」
「それで消したの?」
澄香先輩の声が硬くなる。
「先輩が止めないからです」
真帆は顔を上げた。
「何度言っても、締切がある、読みやすくしただけ、作品を捨てたくないって。それで結局、小春がいないまま載せようとしてた」
「だからって、勝手にファイルを消していいわけじゃないでしょう」
「それを先輩が言うんですか?」
真帆の声が初めて強くなった。
「小春の作品を勝手に変えた先輩が?」
澄香先輩の表情が固まる。
「先輩が先に勝手なことをしたんです。私は、元に戻そうとしただけです」
「戻してないよ」
瑛里が言った。
大きな声ではなかったが、二人の言葉を止めるには十分だった。
「真帆が消したのは改稿版だけ。元原稿を小春さんへ返したわけでも、掲載するかどうかを小春さんに決めてもらったわけでもない」
真帆が唇を結ぶ。
「小春さんが消したように見せて、掲載を止めようとした。それは、小春さんの意思を確認したことにはならないよ」
「でも、あの言葉は小春が書いたものだった」
「以前にね」
「意味まで変わるわけじゃない」
「変わるかもしれないでしょう」
瑛里は画面上の一文を指した。
「小春さんがこの言葉を書いたとき、どの文章を読んで、誰に向けて、どんな気持ちだったのか。今ここにいる私たちは、全部は知らない」
小春が書いた言葉だからといって、誰でも好きに使っていいわけではない。
作品を守るための言葉を、本人の許可なく事件の演出に使えば、それもまた別の形で小春を置き去りにしている。
「どっちが先だったかで、あとから越えていいことにはならないよ」
瑛里は真帆と澄香先輩を順に見た。
「榊原先輩が、小春さんの同意を取らずに作品を大幅に変えたこと」
澄香先輩が目を伏せる。
「真帆が、小春さんの意思に見せかけて改稿版を消したこと」
今度は真帆が視線を落とした。
「どちらも、小春さんのためだと思ってしたことかもしれない。でも、どちらも本人に決めさせてない」
責任感と善意。
言葉にすれば、どちらも悪いものではない。
けれど、正しいつもりで相手の選ぶ場所まで奪えば、それはもう親切とは呼べない。
澄香先輩が、ゆっくり息を吐いた。
「私は、あの作品がこのまま読まれずに終わるのが嫌だった」
誰へ言うともなく、先輩は話し始めた。
「最初に読んだとき、きれいだと思った。でも、理解しきってもらえないのではとも思った。このまま載せたら、難しいで終わる人が多いかもしれない。それがもったいなくて」
真帆は何も言わない。
「説明を足せば伝わると思った。救いがあれば、もっと多くの人が好きになってくれると思った。小春にも、読者に届いた方がいいって分かってもらえると思っていた」
そこで、澄香先輩は一度言葉を切った。
「分かってもらうんじゃなくて、私が従わせようとしてたんだね」
真帆が顔を上げる。
「……私もです」
声はまだ硬かった。
「小春なら絶対に消すと思った。だから、そうした方が正しいって。小春の代わりにやったつもりでした」
「代わりにはなれないよ」
俺は言った。
真帆がこちらを見る。
「友達でも、先輩でも、編集担当でも。本人が決めるところの代わりにはなれない」
「圭吾まで正論を言うんだ」
「俺が普段は正論を言わないみたいに言うな」
「今は笑えない」
「だろうな」
俺も笑えなかった。
ただ、いつもの真帆が少しだけ戻ったことには安心した。
瑛里は編集用の端末を見た。
「削除したファイルは、ごみ箱に残ってる?」
真帆が小さく頷く。
「たぶん」
「じゃあ戻そう。ただし、掲載用のフォルダには戻さない」
「どうするの?」
「元原稿と改稿版を分けたまま保存して、顧問の先生にも事情を話す。そのうえで、小春さんへ渡す」
澄香先輩が訊く。
「渡すって、原稿を?」
「『決める権利』をです」
瑛里は答えた。
「元原稿をそのまま載せていいのか。修正するなら、どこまでなら本人が納得できるのか。今回は掲載を取り下げるのか。小春さんに、改めて決めてもらう」
「締切には間に合わないかもしれない」
「それなら、載せない方がいいです」
澄香先輩はしばらく黙り、やがて頷いた。
「分かった。改稿版は掲載しない。明日、顧問の先生にも話す」
「私も話します」
真帆が言った。
「消したことも、小春がやったように見せようとしたことも」
「そこは絶対に、ちゃんと話して。すべてを」
「分かってる」
瑛里はようやく、少しだけ肩の力を抜いた。
宮坂くんも息を吐く。
「宮坂くんは悪くないからね」
「でも……、僕がパソコンを起動しなければ」
「それを言ったら、古い端末を残していた人、ネットワークを作った人、午後五時にチャイムを鳴らした人まで責任を取ることになる」
「いや、チャイムは関係ないだろ」
「圭吾、私今良いこと言ってる途中だから」
「途中で広げすぎたから止めたんだよ」
宮坂くんは、ようやく少し笑った。
真帆はごみ箱から改稿版を戻し、掲載用とは別のフォルダへ移した。
小春の元原稿も開かず、その隣へ並べる。
二つのファイル名はよく似ていた。
けれど、中に書かれているものは同じではない。
「……ねえ、瑛里」
作業を終えた真帆が言った。
「怒ってる?」
「怒ってるよ」
あっさりした答えだった。
「そっか」
「友達だから怒らない、とはならないでしょ」
「じゃあ、友達じゃなくなる?」
「それも別の話」
真帆は目を丸くする。
「……圭吾も?」
「うん?」
「圭吾も、……その」
「想像に任せる」
「……そっか」
瑛里は事実と解釈を分ける。
たぶん、人間関係についても同じだった。
――『悪いことをした。だから、その人間のすべてが悪い』
瑛里は、そんなふうにはつなげない。
その点で言えば、俺も近しい考え方だった。
「明日、小春さんへ謝るんでしょ」
「うん」
「だったら、まずはそこから」
「瑛里も来てくれる?」
「頼まれたらね」
真帆は俺を見る。
「圭吾も?」
「何で俺まで」
「一人呼ぶと二人来るんでしょ」
「……返品期限はまだ切れてないぞ」
部室を出る頃には、廊下に西日はほとんど残っていなかった。
○
「これで解決かな?」
階段へ向かいながら、俺は瑛里へ訊いた。
「……ファイルが消えた理由はね」
「え?」
「原稿が載るかは決まってないだろう」
何なら今の文芸部にとっては、この後の方が解決までに時間を要するかもしれない。
「それは謎じゃなくて、小春さんが決めることだから」
五時のチャイムから、まだそれほど時間は経っていない。
それでも文芸部室へ向かう前と今とでは、同じ放課後には思えなかった。
「結局、今日の出来事は何て呼べばいいんだろうな」
「無理に呼ばなくていいんじゃない?」
瑛里は階段を一段先に下りた。
「名前を付けると、それだけで分かった気になっちゃうこともあるから」
「……それもそうだな」
退部した彼女の遠隔操作でもなかった。
文芸部に残った幽霊でもなかった。
過去から届いた言葉と、誰かを守りたかった二人の越権が、たまたま同じ時刻に重なっただけだ。
謎には答えが出た。
けれど、あの原稿が誰の手で、どんな形で『帚星』へ載るのかは、まだ決まっていない。
この放課後には、まだ名前がなかった。




