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放課後には、まだ名前がない。  作者: 御子柴 流歌
第1話: 更新され、消えた原稿

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3/9

1-3: 消された名前


「でも、ファイルを消した人は、この部屋にいた」


 瑛里の言葉が落ちたあと、古いノートパソコンのファンの音だけが残った。


 それまでなら気にもしなかったような音が、やけに大きく感じられる。


 澄香先輩は、真帆の前にある編集用の端末を見ていた。


 宮坂くんは古い端末の前で身を縮めている。


 真帆だけが、瑛里を見ていた。


「……誰が消したか、分かってるの?」


「ほとんど」


 真帆の質問に、瑛里は即座に答えた。


「でも、順番に確認するね。違うところがあったら言って」


 明るくからっとした普段の調子は残っている。


 ただし、曖昧なまま流すつもりがないことも分かる声だった。


「最初に起きたのは、宮坂くんが古いノートパソコンを起動したこと」


「はい」


「そこには、小春さんの学校用アカウントがログインした状態で残っていた。ネットにつながっていない時期に行われた編集も、端末の中へ残っていた」


 宮坂くんが頷く。


「午後五時、その編集内容が共有先へ同期された。だから、履歴には小春さんの名前と十七時という表示が出た」


「でも、小春先輩が文章を書いたのは、そのときじゃない」


「うん。現在は削除されている文章に付いていて、その文章は元原稿にしか残っていなかった。あの言葉は、今日書かれたものじゃない」


 瑛里は真帆の画面に残る一文を見た。


『この物語から、私を消さないでください。』


「小春さんが以前書いた言葉が、今日の午後五時に届いた。それが最初の出来事」


 小春本人がいなくても、過去の言葉だけが遅れて現れる。


 怪現象の正体としては、それほど難しい話ではなかった。


 けれど、あのタイミングで届いたからこそ、誰も偶然だとは思えなかった。


「その次に、掲載用の改稿版が消された」


 瑛里は続ける。


「削除に使われたのは、小春さんの古い端末じゃない。真帆が使っていた編集用のパソコン」


「でも、真帆以外の誰かが触った可能性もあるでしょう?」


 澄香先輩が言った。


 真帆を庇おうとしたのか、それともまだ結論を受け入れられないだけなのか。


 恐らくは、その両方なのだろう。


「あります。ただし、かなり低いです」


 瑛里は部室の中を見回した。


「文章が表示されたとき、宮坂くんは古いパソコンの前にいた。圭吾と私は長机の反対側。榊原先輩は立ち上がったけど、編集用のパソコンには触れていない」


 その通りね、と小さく澄香先輩が言った。


「真帆だけが、そのパソコンの前にいた。小春さんの名前が出たあと、原稿を閉じて、共有フォルダへ戻った」


 俺もその動きを見ていた。


 真帆はトラックパッドを二度叩いた。


 そのあと、カーソルを動かして共有フォルダを開いた。


 ――そのときは、消えたファイルを探しているだけに見えた。


「削除する操作なんて、誰にも見えなかったよ」


 真帆が言う。


「うん。だから、操作だけなら見落とした可能性もある」


 瑛里はあっさり認めた。


「でも、真帆は誰より早く、何が消えたのか分かった」


「開いてたファイルなんだから、分かるでしょ」


「開いていたのは改稿版だよね」


「そうだよ」


「それなのに、真帆は『小春の原稿が消えた』と言った」


「……」


 真帆が黙る。


 澄香先輩と宮坂くんは、まだ意味が分からないようだった。


 瑛里が俺を見る。


 ここから先は、たぶん俺の役目だった。


「事件が起きる前、真帆は改稿版を小春の作品じゃないって言ってた」


 俺は真帆へ言った。


「榊原先輩が読みやすくした方を見せるときも、『先輩が直した方』って呼んでた。元原稿と改稿後の原稿とでは、妙に呼び方をはっきり分けてたように感じてたんだが……」


「それは……」


「でも、消えたあとだけは、『小春の原稿』と呼んだ」


 単なる言い間違いなら、それで済む話だった。


 だが、真帆は編集担当だ。


 元原稿と改稿版を取り違えるような人間ではない。


 むしろ、誰よりもその違いにこだわっていた。


「お前は、消えたファイルを間違えたんじゃない。呼び方を変えたんだ」


 真帆の指先が、膝の上でわずかに動いた。


「小春本人が、自分の原稿を消したことにしたかったから」


 午後五時に小春の言葉が現れた。


 その直後に、小春の名前で掲載される予定だったファイルが消えた。


 それをすべて小春本人の行動に見せるためには、消えた改稿版もまた「小春の原稿」でなければならない。


「真帆」


 瑛里が呼ぶ。


「偶然あの文章が出たのを見て、咄嗟に改稿版を消したんだよね」


 しばらく、返事はなかった。


 窓から入る光はもう橙色というより、少しずつ灰色へ近づいていた。


「……小春が戻ってきたみたいに思った」


 真帆が、ようやく言った。


「画面に名前が出て、あの文章を見たとき、小春が今も怒ってるんだって思った。あれを載せるなって、小春本人が言いに来たんだって」


「それで消したの?」


 澄香先輩の声が硬くなる。


「先輩が止めないからです」


 真帆は顔を上げた。


「何度言っても、締切がある、読みやすくしただけ、作品を捨てたくないって。それで結局、小春がいないまま載せようとしてた」


「だからって、勝手にファイルを消していいわけじゃないでしょう」


「それを先輩が言うんですか?」


 真帆の声が初めて強くなった。


「小春の作品を勝手に変えた先輩が?」


 澄香先輩の表情が固まる。


「先輩が先に勝手なことをしたんです。私は、元に戻そうとしただけです」


「戻してないよ」


 瑛里が言った。


 大きな声ではなかったが、二人の言葉を止めるには十分だった。


「真帆が消したのは改稿版だけ。元原稿を小春さんへ返したわけでも、掲載するかどうかを小春さんに決めてもらったわけでもない」


 真帆が唇を結ぶ。


「小春さんが消したように見せて、掲載を止めようとした。それは、小春さんの意思を確認したことにはならないよ」


「でも、あの言葉は小春が書いたものだった」


「以前にね」


「意味まで変わるわけじゃない」


「変わるかもしれないでしょう」


 瑛里は画面上の一文を指した。


「小春さんがこの言葉を書いたとき、どの文章を読んで、誰に向けて、どんな気持ちだったのか。今ここにいる私たちは、全部は知らない」


 小春が書いた言葉だからといって、誰でも好きに使っていいわけではない。


 作品を守るための言葉を、本人の許可なく事件の演出に使えば、それもまた別の形で小春を置き去りにしている。


「どっちが先だったかで、あとから越えていいことにはならないよ」


 瑛里は真帆と澄香先輩を順に見た。


「榊原先輩が、小春さんの同意を取らずに作品を大幅に変えたこと」


 澄香先輩が目を伏せる。


「真帆が、小春さんの意思に見せかけて改稿版を消したこと」


 今度は真帆が視線を落とした。


「どちらも、小春さんのためだと思ってしたことかもしれない。でも、どちらも本人に決めさせてない」


 責任感と善意。


 言葉にすれば、どちらも悪いものではない。


 けれど、正しいつもりで相手の選ぶ場所まで奪えば、それはもう親切とは呼べない。


 澄香先輩が、ゆっくり息を吐いた。


「私は、あの作品がこのまま読まれずに終わるのが嫌だった」


 誰へ言うともなく、先輩は話し始めた。


「最初に読んだとき、きれいだと思った。でも、理解しきってもらえないのではとも思った。このまま載せたら、難しいで終わる人が多いかもしれない。それがもったいなくて」


 真帆は何も言わない。


「説明を足せば伝わると思った。救いがあれば、もっと多くの人が好きになってくれると思った。小春にも、読者に届いた方がいいって分かってもらえると思っていた」


 そこで、澄香先輩は一度言葉を切った。


「分かってもらうんじゃなくて、私が従わせようとしてたんだね」


 真帆が顔を上げる。


「……私もです」


 声はまだ硬かった。


「小春なら絶対に消すと思った。だから、そうした方が正しいって。小春の代わりにやったつもりでした」


「代わりにはなれないよ」


 俺は言った。


 真帆がこちらを見る。


「友達でも、先輩でも、編集担当でも。本人が決めるところの代わりにはなれない」


「圭吾まで正論を言うんだ」


「俺が普段は正論を言わないみたいに言うな」


「今は笑えない」


「だろうな」


 俺も笑えなかった。


 ただ、いつもの真帆が少しだけ戻ったことには安心した。


 瑛里は編集用の端末を見た。


「削除したファイルは、ごみ箱に残ってる?」


 真帆が小さく頷く。


「たぶん」


「じゃあ戻そう。ただし、掲載用のフォルダには戻さない」


「どうするの?」


「元原稿と改稿版を分けたまま保存して、顧問の先生にも事情を話す。そのうえで、小春さんへ渡す」


 澄香先輩が訊く。


「渡すって、原稿を?」


「『決める権利』をです」


 瑛里は答えた。


「元原稿をそのまま載せていいのか。修正するなら、どこまでなら本人が納得できるのか。今回は掲載を取り下げるのか。小春さんに、改めて決めてもらう」


「締切には間に合わないかもしれない」


「それなら、載せない方がいいです」


 澄香先輩はしばらく黙り、やがて頷いた。


「分かった。改稿版は掲載しない。明日、顧問の先生にも話す」


「私も話します」


 真帆が言った。


「消したことも、小春がやったように見せようとしたことも」


「そこは絶対に、ちゃんと話して。すべてを」


「分かってる」


 瑛里はようやく、少しだけ肩の力を抜いた。


 宮坂くんも息を吐く。


「宮坂くんは悪くないからね」


「でも……、僕がパソコンを起動しなければ」


「それを言ったら、古い端末を残していた人、ネットワークを作った人、午後五時にチャイムを鳴らした人まで責任を取ることになる」


「いや、チャイムは関係ないだろ」


「圭吾、私今良いこと言ってる途中だから」


「途中で広げすぎたから止めたんだよ」


 宮坂くんは、ようやく少し笑った。


 真帆はごみ箱から改稿版を戻し、掲載用とは別のフォルダへ移した。


 小春の元原稿も開かず、その隣へ並べる。


 二つのファイル名はよく似ていた。


 けれど、中に書かれているものは同じではない。


「……ねえ、瑛里」


 作業を終えた真帆が言った。


「怒ってる?」


「怒ってるよ」


 あっさりした答えだった。


「そっか」


「友達だから怒らない、とはならないでしょ」


「じゃあ、友達じゃなくなる?」


「それも別の話」


 真帆は目を丸くする。


「……圭吾も?」


「うん?」


「圭吾も、……その」


「想像に任せる」


「……そっか」


 瑛里は事実と解釈を分ける。


 たぶん、人間関係についても同じだった。


 ――『悪いことをした。だから、その人間のすべてが悪い』


 瑛里は、そんなふうにはつなげない。


 その点で言えば、俺も近しい考え方だった。


「明日、小春さんへ謝るんでしょ」


「うん」


「だったら、まずはそこから」


「瑛里も来てくれる?」


「頼まれたらね」


 真帆は俺を見る。


「圭吾も?」


「何で俺まで」


「一人呼ぶと二人来るんでしょ」


「……返品期限はまだ切れてないぞ」


 部室を出る頃には、廊下に西日はほとんど残っていなかった。


     ○


「これで解決かな?」


 階段へ向かいながら、俺は瑛里へ訊いた。


「……ファイルが消えた理由はね」


「え?」


「原稿が載るかは決まってないだろう」


 何なら今の文芸部にとっては、この後の方が解決までに時間を要するかもしれない。


「それは謎じゃなくて、小春さんが決めることだから」


 五時のチャイムから、まだそれほど時間は経っていない。


 それでも文芸部室へ向かう前と今とでは、同じ放課後には思えなかった。


「結局、今日の出来事は何て呼べばいいんだろうな」


「無理に呼ばなくていいんじゃない?」


 瑛里は階段を一段先に下りた。


「名前を付けると、それだけで分かった気になっちゃうこともあるから」


「……それもそうだな」


 退部した彼女の遠隔操作でもなかった。


 文芸部に残った幽霊でもなかった。


 過去から届いた言葉と、誰かを守りたかった二人の越権が、たまたま同じ時刻に重なっただけだ。


 謎には答えが出た。


 けれど、あの原稿が誰の手で、どんな形で『帚星』へ載るのかは、まだ決まっていない。


 この放課後には、まだ名前がなかった。


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