1-2: 書かれた時刻
「とりあえず、誰も端末には触らないで」
瑛里が言うと、真帆はトラックパッドから手を離した。
宮坂くんも、古いノートパソコンへ伸ばしかけていた指を引っ込める。
「触らないって、このままにしておくの?」
澄香先輩が訊いた。
「消えたファイルを戻すのは、確認が終わってからです。たぶん戻せますよね?」
「共有フォルダのごみ箱に残っていれば。しばらくは消えないはず」
「じゃあ、急いで復元しなくても大丈夫です。すぐ完全に消えるわけじゃないですよね?」
瑛里は文芸部員でもなければ、学校のシステム管理者でもない。
それでも部室にいた全員が、ひとまず彼女の言葉に従った。
こういうとき、瑛里は自分に権限があるような顔をしない。
ただ、今はそうした方がいいと全員に思わせる。
「最初に、小春さんが家から操作した可能性を考えよう」
「やっぱり、それが一番自然じゃない?」
真帆が言った。
「退部したあとも、共有フォルダの権限は残ってるんだよね」
澄香先輩が短く頷く。
「外す必要があるとは思っていなかったから。学校のアカウントも在学中はそのままだし、家から入ることはできる」
「パスワードを誰かに知られた可能性は?」
「学校から発行されたものを、最初のログインで自分で変更する決まりです」
宮坂くんが答えた。
「本人以外が知っているとしたら、小春先輩が教えたか、ログインしたままの端末を使ったか、だと思います」
その言い方に、全員の視線が再び古いノートパソコンへ集まる。
小春がよく使っていた端末。
学校のアカウントが残っていた端末。
そして午後五時まで、雲の印を回し続けていた端末。
疑うには、あまりにも形が整っている。
「宮坂くん。このパソコンを起動してから、何をしたか順番に教えて」
「順番に、ですか」
「覚えている範囲でいいよ。見たことと、たぶんこうだったと思うことは分けてね」
瑛里らしい注文だった。
宮坂くんは緊張した顔で、古い端末を見た。
「電源を入れて、学校のネットワークにつなぎました。アカウントは最初から入っていて、パスワードも求められませんでした」
「誰のアカウント?」
「柏木先輩のものです。右上に名前が出ていたので」
「それから?」
「共有フォルダを開きました。印刷したいファイルを探そうとしたんですけど、同期中という表示が出たので、先にプリンターの設定を確認しました」
「原稿は開いた?」
「開いてません。少なくとも、自分で選んではいません」
最後の言い方に、澄香先輩が反応する。
「自分で選んでは、って?」
「起動したとき、前に使っていた画面がいくつか復元されました。その中に原稿があったかもしれません。でも、すぐに設定画面へ切り替えたので」
瑛里が古い端末の画面を覗き込む。
「今、同期はどうなってる?」
「終わったみたいです」
「午後五時より前は、まだ同期中だった?」
「はい。チャイムが鳴る少し前までは、雲の印が回っていました」
瑛里は頷いた。
「じゃあ、確認してもらっていい? 操作するのは宮坂くんで。私たちは見るだけ」
宮坂くんが慎重に端末へ手を置く。
学校の共有ツールには、直前に同期した項目を表示する欄があった。
そこにはいくつかの画像や原稿ファイルと一緒に、小春の短編らしい項目が並んでいる。
同期完了時刻は、午後五時。
「これです」
宮坂くんが一つを指した。
「でも、更新時刻も五時になってます」
「その時刻は、何の時刻?」
瑛里が訊く。
「何の、って……更新された時刻じゃないですか」
「この端末から共有先へ反映された時刻かもしれない」
瑛里は真帆の前にある画面へ目を移した。
「さっきの文章をもう一度見せてもらえる?」
「触らないんじゃなかったの?」
「ファイルを削除しない範囲で、表示を切り替えるだけ。操作は真帆がして」
真帆は一瞬だけためらい、それから変更履歴を開いた。
柏木小春。十七時ちょうど。
『この物語から、私を消さないでください。』
「文章の横に、細い線があるよね」
瑛里が指差す。
「コメントや修正が、本文のどこに結びついているかを示す線です」
宮坂くんが説明する。
「でも、その先に文章がない」
俺が言うと、真帆が画面を少し上へ動かした。
「削除された部分に付いてるからだと思う。榊原先輩が直したときに、元の段落を消したんじゃないかな」
澄香先輩が原稿を覗き込む。
「その辺りは、かなり整理したから」
「このコメントが今書かれたなら、どうして今は存在しない段落に付けられたんだろう」
瑛里が言った。
誰も答えなかった。
現在の原稿へ新しく書き込んだのなら、現在残っている文章のどこかに結びつくはずだ。
だが、小春の言葉は、既に削除された文章の跡へ付いている。
「このコメント、付けられた文章の一部も残ってる」
真帆が変更履歴をさらに開いた。
コメント欄の上には、それが結びついていた一文の断片が薄い文字で表示されている。
真帆は机の上の元原稿を取り、同じ一文を見つけた。
「これ、元原稿にしかない文章だ。改稿版からは消えてる」
「ということは、改稿される前に付けられた言葉だ」
俺が言うと、瑛里が小さく頷いた。
「小春さんは、午後五時にこの文章を書いていない。もっと前、まだこの文章が原稿に残っていた頃に書いてる」
「じゃあ、どうして今になって出てきたの?」
澄香先輩の声には、困惑よりも焦りが混じっていた。
宮坂くんが古い端末を見る。
「オフラインだったから、だと思います」
「説明して」
「ネットにつながっていない間に行った編集は、端末の中へ一時的に保存されます。そのあと接続すると、共有先と内容を合わせるんです。ずっと使っていなかったなら、前に保存されたものが今日になって送られた可能性があります」
「つまり、小春さんが昔書いた言葉を、このパソコンが今日届けた」
瑛里がまとめる。
「はい。たぶん」
「そこは、まだ可能性だね。ただ、少なくとも午後五時に小春さんが書いた証拠ではなくなった」
俺はもう一度、画面上の時刻を見る。
十七時ちょうど。
それは書かれた時刻ではない。
届いた時刻だった。
考えてみれば、画面に表示された数字が何を意味するのか、俺たちは最初から確かめていなかった。
「それなら、小春が家から入ったわけじゃないの?」
真帆が言った。
「文章についてはね」
瑛里が答える。
「でも、ファイルが消えたことは別に考えないといけない」
「同じ人がやったとは限らない、か」
「そういうこと」
瑛里は共有フォルダの画面を見た。
「消えたのは、どのファイル?」
「部誌掲載用の改稿版」
真帆が答えた。
「元原稿は?」
「別のフォルダに残ってる。そこにはないから、消されたのは改稿版だけ」
俺は真帆を見る。
さっき彼女は、こう言った。
小春の原稿が消えてる。
その前には、澄香先輩が直したものを、小春の作品とは呼べないと言っていた。
なのに、事件が起きたあとだけは、それを小春の原稿と呼んだ。
言い間違いといえば、それまでだ。
だが、真帆は部誌の編集を担当している。元原稿と改稿版を、誰より区別して扱っていたはずだった。
「真帆」
「何?」
「さっき、小春の原稿が消えたって言ったよな」
「言ったけど」
「消えたのは、先輩が直した方なんだよな?」
一瞬だけ、真帆の返事が遅れた。
「……そうだよ。小春の名前で載せる予定の原稿だから、そう言っただけ」
不自然な答えではない。
少なくとも、言葉だけなら。
「……」
瑛里が無言で俺を見た。
俺が何に引っかかったのか、訊かなくても分かっている顔だった。
ただし、今はまだ何も言わない。
「削除されたのは、文章が表示された直後で間違いない?」
瑛里が全員へ訊くと、澄香先輩が頷いた。
「その前までは、真帆が開いていた」
「俺も、開いてたところまでは見てる」
それを受けて瑛里が頷き、こちらに視線を飛ばしてくる。
その意図は簡単に解る。
「文章が出て、みんなが古いパソコンを見て、それから真帆が共有フォルダへ戻った」
「そのときには消えてた」
俺の答えに、さらに真帆が続ける。
瑛里は端末の画面を確認する。
「共有ツールの簡単な履歴だと、削除した人の名前までは出ないんだね」
「顧問の管理画面なら分かるかもしれないけど、今は先生いません」
宮坂くんが答える。
「でも、この学校の共有ツールは、どの端末から操作されたかも残ってます」
「端末まで?」
「学校の備品を管理するためらしいです。端末ごとに名前が振られているので」
画面の端に、小さく端末情報が表示されていた。
削除操作が行われたのは、真帆が使っていた編集用ノートパソコン。
古い端末でも、小春が家で使っている端末でもない。
今、この部室にある端末だった。
真帆の顔から、わずかに色が消えた。
「これって……」
「小春さんが家から削除したわけじゃない」
瑛里が言った。
「少なくとも、この記録が正しければね」
「でも、そのパソコンはずっとここにあった」
澄香先輩が、真帆の前の端末を見る。
「文章が出たとき、みんな古い方を見てた。誰かが触ったとしても――」
「この部屋にいた人だけです」
宮坂くんが言ったあと、自分の言葉に怯えたように口を閉じた。
瑛里は責めるような視線を誰にも向けなかった。
ただ、事実だけを置いた。
「午後五時に、小春さんは何も書いていない」
窓から差し込む光は、さっきより少し低くなっていた。
「でも、ファイルを消した人は、この部屋にいた」
文芸部の部室には、俺たちを含めて五人。
そのうち一人が、小春の過去の言葉が現れた直後に、改稿版を消した。
偶然届いた文章と、ファイルの削除。二つの出来事をつないだのは、この部屋にいた誰かだった。




