1-1: 午後5時の修正
文芸部へ呼ばれたのは連城瑛里だけだった。
それなのに俺まで部室の前に立っている理由は、たぶん『いつものことでしょう』の一言であっさりと片づけられるのだろう。
「俺まで呼ばれた覚えはないんだけどな」
「でもついて来たのは圭吾でしょ?」
「『暇?』って訊かれたら、普通は用件があると思うだろ」
「文芸部まで一緒に歩くっていう用件はあったかもね」
「じゃあ今終わったじゃねえか。しかも『かも』かよ」
「かもかも」
「うるせえ」
そんな戯言を投げつけ合っているうちに、瑛里はもう扉を開けていた。
「いらっしゃい。……あれ。一人だけ呼んだはずなのに二人来た」
俺たちを迎えた藤代真帆は、驚いたというより納得したような顔をした。
肩までの髪を耳へかけながら、彼女は机の上に広げていた紙を脇へ寄せる。
ぱっと見た限りではあるが、どうやら文芸部誌『帚星』の試し刷りらしい。
「増えた一人は返品できるよ」
背後の俺を、親指ノールックで差してくる瑛里。
買われた記憶もないので、クーリングオフ制度の対象外のはずだが。
「返品期限は?」
「もう切れてる」
「じゃあ仕方ないね。圭吾も使おう」
俺の扱いが一気に備品レベルになった。しかも中古品で具合も良く無さそうな印象を持たれているらしい。
そんな真帆は笑いながら、二冊分の試し刷りを俺たちへ差し出した。帰らせないという意志はあるらしい。
長机には部誌の表紙案に、その目次、校正紙、付箋の束。西日が白いページを薄い橙色に変えていた。
学校祭で配布する『帚星』は、完成まであと一歩とのこと。
少なくとも表紙イラストの星が多すぎるかで悩める程度には平和らしい。
「表紙、どう思う?」
「『帚星』なのに、星がきれいに並びすぎてるかな」
「開始三秒で編集方針に喧嘩を売らないでくれる?」
「褒めてるよ。秩序ある宇宙」
「じゃあ圭吾は?」
「……この空間よりは秩序付いているとは思うが」
表紙の隅には、箒の尾を引く星が一つ。その周囲に小さな星が等間隔で散っている。
瑛里の言い分も分からなくはないが、俺には十分きれいに見えた。
「読みやすいし、手に取りやすいと思う」
「ほら。だから瑛里は自由枠、圭吾は現実枠ってこと」
「雑に使い分けるな。っていうか、俺に自由は無いのか」
そんなやり取りの少し向こうで、榊原澄香先輩が校正紙から顔を上げた。
「真帆。遊んでないで、紹介文も確認してもらって」
「遊んでません。割と信頼できる外部読者への聞き取り調査です」
「横溝君たちを外部扱いするなら、もう少し丁寧に扱ってあげて」
「え、何かそれ、内部だったら雑に扱ってもいい的な意味に聞こえるんですけど」
俺の返しに澄香先輩は笑わなかったが、怒ってはいないようだ。責任感が服を着ているような人で、今日はそこへ寝不足まで重ね着しているように見えた。作業が立て込んできているのだろう。
部室の奥では、一年生の宮坂奏太が棚の下段から古いノートパソコンを引っ張り出していた。分厚く見えるのは、昨今のモデルからすればかなり型落ちしている証拠か。
「それ、まだ動くの?」
真帆が訊くと、宮坂くんは頷いた。
「大丈夫そうです、起動はしました。今使ってるマシンがレイアウト作業中ですし、文書だけならこっちから試し刷りを出せないかと思って」
「あ、そうか。小春がよく使ってたやつだよね」
「そうなんですか?」
「ここ最近は誰も触ってなかったけどね」
宮坂くんが電源ケーブルをつなぐ。電源ボタンを押すと、少し間を置いて古い端末のファンが頼りなげに回り始めた。
「学校のアカウントは残ってました。ただ、ネットにつないだら雲のマークがずっと出続けていて」
「だったら同期待ちじゃない? 古そうだし、しばらく放っておけばいずれ終わると思うから、ちょっと様子見していた方が良い」
「分かりました」
宮坂くんは端末を机の端へ置き、プリンターの設定画面と格闘し始めた。そのやり取りを、俺は試し刷りのページをめくりながら聞いていた。
「次。これが問題の短編」
真帆が、開いたノートパソコンを俺たちの方へ向けた。
「問題って言い方はどうなの」
「実際、問題になってるからね。元の原稿は別に保存してある。今開いてるのは、部誌に載せるために榊原先輩が手を入れた方」
作者名は柏木小春。
俺たちと同じ二年生で、つい最近まで文芸部にいた生徒だ。
せっかくなので、元原稿と改稿版を読み比べてみる。
毎晩ひとつずつ町から名前が消え、主人公の少女だけがそれを書き残せる。ただし誰かの名前を残すたび、少女自身の存在が削られていく。
元の原稿は、しっかり行間までも読ませてくるような作品だった。惹きつける力があることに違いはないと思うが、それゆえに少しだけ読者を選ぶような内容だとも言えるかもしれない。
掲載用の原稿では、少女が助ける相手は幼馴染の少年だと明記され、会話と救いのある結末が加えられている。
「分かりやすくはなってるね」
瑛里が言った。
「でしょ?」
答えたのは澄香先輩だった。
「学校祭で配る部誌だから。途中で何が起きているのか分からなくなって、閉じられたら意味がない。最後まで読んでもらえる形にする必要があると思ったの」
「読みやすいです。でも、小春が書きたかったのは、たぶんそういうことじゃないです」
真帆の返事には勢いがなかった。
代わりに、何度も同じ場所を擦った跡のような疲れがあった。
溜め息を枕詞に、澄香先輩は言う。
「その話は、もう何度もしたよ」
「決まってないから、何度もしてるんです」
「締切は待ってくれないの」
「締切が来れば、本人の納得を飛ばしていいんですか」
「飛ばしてない。話し合った」
「それで結局口論になって、小春が辞めたんでしょう」
澄香先輩の指が、校正紙の端で止まった。
「……あのときは、私も言い方が悪かった。でも、作品を捨てたくなかったから直したの」
「小春を捨てないことと、小春の作品を作り替えることは、同じじゃないです」
部室には大声もなければ、机を叩く音もない。
それだけで、これが今日初めて始まった喧嘩ではないと分かった。
瑛里は画面と試し刷りを見比べて、首を傾げる。
「面白いかどうかと、小春さんの作品と呼べるかどうかは、別の質問じゃない?」
そして、こともなげに言い放った。
澄香先輩が瑛里を見る。
「どういう意味かしら?」
「改稿版が読みやすいことと、それが小春さんの書きたかったものではないことは、両立します。読みやすい。でも、別の作品になっている。そういう答えもあると思います」
澄香先輩は何も言わなかった。
読みやすくなったことは分かる。
けれど、改稿後のものを改稿前と同じ作品と呼んでいいかは、俺の感想だけで決めることではない。
「そもそも、柏木は掲載していいって言ってるんですか」
俺が訊くと、二人がほとんど同時に答えた。
「取り下げるとは聞いてない」
「載せていいとも聞いてない」
二人は互いを見て、また黙った。
退部した本人と、残された原稿。
そのあいだだけが、誰の手にも収まらず宙に浮いていた。
やがて真帆が画面を戻した。
「……とりあえず、紹介文を決めましょう。進められるところは進めないと」
「そうして」
澄香先輩も校正紙へ視線を落とす。
宮坂くんはまだ古い端末の前で、印刷設定の項目を一つずつ確認していた。
紙をめくる音とキーボードの音、古い端末の苦しそうなファンの音が戻ってきた。
そして、午後五時のチャイムが鳴った。
授業の終わりを知らせるものより短い、帰る生徒と部活などで残る生徒を分けるための合図だった。
その音が消えきる前に、真帆の前の画面が小さく揺れた。
「……あれ」
真帆が声を漏らす。
共有された原稿の右端に、見覚えのない表示が増えていた。
削除された段落へ結びつくように、細い線が伸びている。
「え?」
表示名は、柏木小春。
時刻は、十七時ちょうど。
その下に、一文だけが残されていた。
『この物語から、私を消さないでください。』
誰も動かなかった。
――柏木小春はここにいない。
それでも画面には、たった今彼女が書き込んだように、その名前が現れている。
「小春……?」
真帆の声が、さっきまでとは別人のように細くなる。
澄香先輩が立ち上がった。
「家から入ったの?」
「でも、共有権限は――」
「退部したあとも外してない。学校のアカウントは残ってるから、入ろうと思えば……」
「僕、何も触ってません」
宮坂くんが急に言った。
全員の視線が、古いノートパソコンへ向く。
画面の隅では、雲の形をした印がまだ回っていた。
「まだ誰も、宮坂くんが触ったとは言ってないよ」
瑛里が責めるでもなく言う。
「でも、このパソコン、小春先輩が使ってたって」
「うん。だから確認は必要だね」
真帆は画面へ視線を戻した。
トラックパッドを二度叩き、開いていた原稿を閉じる。共有フォルダの一覧が表示される。
何かを確かめるように、カーソルが動いた。
「……ない」
「何が?」
澄香先輩が机へ近づく。
「小春の原稿。掲載するはずだったファイルが、消えてる」
真帆がフォルダを二度更新しても、さっきまで開いていた改稿版は戻らなかった。
「小春が消したの?」
誰もすぐには答えなかった。
午後五時、退部した柏木小春の名前で文章が加えられ、その直後に掲載予定のファイルが消えた。
並べれば、答えは一つしかないように見える。
「待って」
瑛里の声が、それを止めた。
「今、私たちが実際に見たことは三つ」
「三つ?」
「午後五時に、小春さんの名前が画面へ表示された。あの文章が現れた。それから、掲載用のファイルがなくなった」
澄香先輩が眉を寄せる。
「だから、小春が書いて、そのまま――」
「それは、三つのことを同じ人がした、っていう解釈です」
誰かを疑う声ではなく、絡まった糸を一本ずつ机へ置くような声だった。
「小春さんの名前が出たから、小春さんが今書いた。文章が出た直後にファイルが消えたから、そのまま小春さんが消した。どっちも自然な考え方です。でも、自然だからって、事実とは限らない」
瑛里は古い端末を見て、それから真帆の画面へ目を戻した。
「同じ時刻に起きたからって、同じ人がやったとは限らないよ」
五時を過ぎても、学校はまだ放課後の途中にある。
けれど部室の空気は、チャイムの前とはまるで違っていた。
画面には今も、柏木小春の名前が残っている。
『この物語から、私を消さないでください。』
午後五時、退部した彼女が原稿を直した。
少なくとも、そのとき部室にいた全員が、最初はそう考えた。
ただ一人、連城瑛里を除いて。




