第八章 ~消えた青い鈴~
翌日の放課後、広報備品室の鍵を開けたのは白雪だった。
俺は彼女のすぐ後ろに立ち、昨日と同じように長机の上へ鞄を置いた。
窓から入る夕方の光。
棚に並んだ活動記録。
壁際に置かれたみるくまの胴体と、その隣で笑っている白い頭部。
部屋の様子は、昨日帰ったときと何も変わっていないように見えた。
「先に鈴を確認します」
白雪は鞄を椅子へ置くと、迷わず棚の下段へ向かった。
昨日、小日向が試着を終えた後、みるくまの胸元から取り出したもの。
長い間、着ぐるみの内側へ隠されていた青い鈴。
俺は現物を見ていない。
白雪は俺に背を向けたまま鈴を取り出し、水色の布袋へ入れた。その袋を鍵つきの引き出しへしまい、何度も取っ手を引いて施錠を確認していた。
今日の予定は、胸元にある小さな内ポケットを補修し、鈴を安全に出し入れできるようにすることだった。
白雪が鞄から鍵を取り出した。
小さな金属音が鳴る。
鍵穴へ差し込み、右へ回した。
「開けます」
誰に確認するでもなく、彼女が口にする。
俺は少し離れたまま頷いた。
白雪は取っ手へ手をかけた。
引き出しが開く。
その直後、動きが止まった。
「どうしました?」
返事がない。
白雪は身体を屈めたまま、引き出しの中を見ている。
俺からは彼女の背中しか見えない。
「白雪?」
もう一度呼ぶ。
彼女はゆっくり右手を入れた。
活動記録を端へ寄せる。
予備の鍵が入った封筒を持ち上げる。
奥まで手を伸ばし、何かを探す。
それでも、目的のものは見つからないらしい。
白雪の動きが少しずつ速くなった。
「ありません」
声が聞こえた。
最初は意味が分からなかった。
「何が?」
「ありません」
白雪は振り返った。
顔から血の気が引いていた。
「鈴が、ありません」
俺はすぐに引き出しの前へ移動した。
中身は多くない。
学校行事の古い資料。
備品室の予備鍵。
みるくまの以前の補修記録。
消毒液の未開封ボトル。
そして、昨日白雪が置いたはずの水色の布袋は見当たらなかった。
「別の場所に入れた可能性は?」
「ありません」
白雪の返答は早かった。
「ここです。昨日、私がここへ入れました」
「その後、開けてませんか?」
「開けていません」
「藤堂先輩は?」
「分かりません」
白雪が鍵を握りしめる。
「でも、この引き出しの鍵は私と藤堂先輩、それから黒岩先生しか持っていません」
俺は引き出しを一度全部出した。
奥に落ちている可能性も考えたが、何もない。隙間にも手を入れる。薄い布袋なら奥へ滑り込んでいることもあるが、それらしい感触はなかった。
「昨日、袋に入れたところまでは覚えてますか?」
「覚えています」
白雪の声が硬くなる。
「水色の布袋へ入れて、紐を結びました。その後、引き出しの一番奥へ置きました」
俺も見ていた。
鈴そのものは見ていない。
けれど、白雪が両手で何かを包み、布袋へ入れたことは覚えている。
「鍵もかけました」
「何度も確認してましたね」
「朝倉君も見ていたでしょう」
「見ていました」
白雪はもう一度引き出しの中へ手を入れた。
同じ場所を探しても、結果は変わらない。
それでも、何度も確認せずにはいられないようだった。
「落ち着いて、昨日からの順番を確認しましょう」
俺が言うと、白雪がこちらを見る。
「落ち着いています」
明らかに落ち着いていない。
「昨日、小日向さんの試着が終わりました。その後、俺と白雪だけになった」
「はい」
「鈴が中にあると、別の人が着たとき危ないかもしれないと話した」
「分かっています」
「俺が向こうを向いて、白雪が鈴を取り出した」
「覚えています」
返事が少しずつ速くなる。
「布袋へ入れて、ここにしまった」
「そうです」
「その後――」
「分かっています!」
白雪の声が部屋に響いた。
俺は言葉を止めた。
彼女自身も、声を上げたことに驚いたようだった。
唇を閉じ、視線を下げる。
「すみません」
「大丈夫です」
「何度確認しても、同じです」
白雪は引き出しから手を離した。
「私は確かに、ここへ入れました」
「疑っていません」
「でも、ありません」
「だから探します」
「もし」
彼女が何かを言いかけた。
「もし、誰かが捨てていたら」
声が震えている。
俺は答えなかった。
簡単に大丈夫だとは言えない。
誰かが持ち出した可能性はある。
間違えて別の備品と一緒に移動した可能性もある。
けれど、捨てられたと決まったわけではない。
「まず、誰がこの部屋へ入ったか確認しましょう」
俺は立ち上がった。
「藤堂先輩と黒岩先生に聞きます」
「私も行きます」
白雪はすぐに鞄を持とうとした。
その手が震えている。
「白雪はここを探してください」
「一人で?」
「棚や机の下も見てもらったほうが早いです。俺は二人に確認して戻ります」
「でも」
「十分以内に戻ります」
白雪は迷っていた。
一人で残すことが正しいのか、俺自身も判断できない。
幼稚園で体調を崩しかけたとき、彼女は無理を隠した。
商店街で新しい着用者の話を聞いたときも、正しい答えを先に選び、自分の気持ちを後回しにした。
今も同じことをする可能性がある。
「やっぱり、一緒に行きましょう」
俺が言い直すと、白雪が顔を上げた。
「探さなくていいのですか?」
「一度、部屋を出ます」
「しかし」
「同じ場所を何度探しても、見つからないものは見つかりません。少し別のことをしたほうがいいです」
白雪は納得していない様子だったが、最終的には頷いた。
俺たちは備品室を出た。
白雪は扉へ鍵をかけた後、二度、三度と取っ手を確認する。
いつもより回数が多かった。
生徒会室では、藤堂先輩が一人で書類を整理していた。
俺たちが入ると、すぐに白雪の様子がおかしいことに気づいた。
「どうしたの?」
「引き出しを開けましたか?」
白雪は挨拶より先に尋ねた。
「広報備品室の?」
「はい。昨日の放課後から今日までに」
藤堂先輩は少し考える。
「私は開けていないわ。今日は昼休みに一度、部屋へ行ったけれど」
白雪の顔が上がる。
「入ったのですか?」
「活動記録を取りに行ったの。でも引き出しには触っていない」
「誰かと一緒でしたか?」
「一人よ」
「本当に?」
白雪の言葉に、藤堂先輩の表情が変わった。
疑われたことに怒ったのではない。
白雪がそこまで切羽詰まっていることに気づいたのだろう。
「玲奈。何がなくなったの?」
白雪は答えなかった。
俺を見る。
青い鈴について、藤堂先輩がどこまで知っているのか分からない。
「みるくまの中に保管していた、小さな私物です」
俺が代わりに説明した。
「昨日、安全上の理由で引き出しへ移しました。それがなくなっています」
藤堂先輩は少し考えた。
「水色の袋?」
今度は俺と白雪が同時に彼女を見る。
「見たんですか?」
白雪の声が強くなる。
「見たわ。昼休みに活動記録を探したとき、机の上に置いてあった」
「机の上?」
白雪の顔から、さらに色が消えた。
「引き出しの中ではなく?」
「そう。みるくまの頭の横に置いてあったと思う」
俺は藤堂先輩の言葉を頭の中で整理した。
昨日、白雪は間違いなく布袋を引き出しへ入れた。
今日の昼休みには、それが机の上へ出ていた。
つまり、その間に誰かが引き出しを開けている。
「藤堂先輩は袋に触れましたか?」
俺が尋ねると、彼女は首を横へ振った。
「玲奈のものだと思ったから。活動記録だけ取って、すぐに部屋を出たわ」
「そのとき、誰かとすれ違いませんでしたか?」
「旧校舎では誰にも会っていない」
白雪はすぐに生徒会室を出ようとした。
「玲奈」
藤堂先輩が呼び止める。
「一人で行かないで」
白雪の足が止まる。
「朝倉君と一緒に探して。私も黒岩先生へ確認するから」
「分かりました」
声は小さかった。
生徒会室を出た後、白雪は備品室ではなく職員室へ向かおうとした。
「黒岩先生は藤堂先輩が聞いてくれます」
俺が止める。
「でも、先生も鍵を持っています」
「だから、結果を待ちましょう」
「待っている間に、誰かが」
白雪の言葉が途切れた。
「誰かが、何ですか?」
彼女は廊下の床を見た。
「捨てるかもしれません」
「もう持ち出されているなら、今走っても同じです」
「それでも」
「白雪」
俺が名前を呼ぶと、彼女はようやくこちらを見る。
「一緒に探します」
「……はい」
「だから、一人で先に行かないでください」
以前なら、関係ありませんと言われていたかもしれない。
今回は、白雪は何も反論しなかった。
備品室へ戻る。
今度は、最初から順番に探した。
長机の上。
棚。
段ボール箱。
裁縫箱。
みるくまの胴体。
頭部の内側。
床。
カーテンの裏。
活動記録のファイル一冊一冊まで確認した。
水色の布袋は見つからない。
途中、白雪はみるくまの胸元にある空の内ポケットへ何度も手を入れた。
そこから取り出したのだから、戻っているはずはない。
それでも探してしまうのだろう。
「白雪」
声をかける。
彼女はみるくまの胴体へ手を入れたまま答えなかった。
「一度休みましょう」
「必要ありません」
「必要です」
「まだ全部見ていません」
「全部見ました」
「箱の下は?」
「見ました」
「棚の奥は?」
「俺が確認しました」
「廊下に落ちているかもしれません」
「後で見ます」
白雪が立ち上がる。
「今、見ます」
「白雪」
腕をつかんだ。
彼女はすぐに振りほどこうとした。
「離してください」
「この状態で探し続けても、見落とします」
「見落としていません」
「同じ場所を何度も見ています」
「だったら、朝倉君は休んでいてください。私が探します」
「一人で探さない約束でしょう」
「約束していません」
「さっき、一緒に探すと話しました」
「今は状況が違います」
白雪はもう一度腕を引いた。
俺は離さなかった。
「痛いですか?」
「痛くはありません」
「なら、少しだけ止まってください」
「時間がありません」
「鈴は逃げません」
「なくなっています!」
白雪の声が響いた。
今度は、すぐに謝らなかった。
俺を見たまま、呼吸を乱している。
「なくなったんです」
声が小さくなる。
「ずっと、あそこにあったのに」
俺は手を離した。
白雪は腕を抱えるようにして、自分の胸元へ引き寄せる。
「何年も、なくさなかったのに」
「いつから持っていたんですか?」
問いかけると、白雪は唇を結んだ。
第四条。
いつか自分から話す。
俺たちはそう決めていた。
けれど今は、その約束を守ることで彼女を追い詰めている気がした。
「答えたくなければ、いいです」
俺が付け加えると、白雪は首を横へ振った。
「八年前です」
初めて、明確な答えが返ってきた。
「小学六年生の夏から」
八年前の夏。
桜庭総合病院。
夏祭り。
非常階段。
俺の鞄についていた、二つ一組の青い鈴。
頭の中で、ばらばらだったものが近づいていく。
「その鈴は」
続きを尋ねる前に、白雪が顔を逸らした。
「今は、そこまでです」
「分かりました」
俺はそれ以上聞かなかった。
白雪は長椅子へ座った。
背中を丸め、両手を膝の上で握る。
普段の彼女なら絶対に見せない姿勢だった。
俺も隣へ座る。
距離は少しだけ空けた。
幼稚園で柚葉がみるくまを怖がっていたとき、白雪は追いかけなかった。
声もかけず、離れた場所へ座った。
柚葉が自分から近づくまで、ただ待っていた。
今は、それを俺がする番なのかもしれない。
しばらく何も話さなかった。
窓の外から運動部の声が聞こえる。
時計の針が進む。
白雪は俯いたまま動かない。
五分ほど経った頃、彼女のほうから口を開いた。
「朝倉君」
「はい」
「どうして、何も言わないのですか?」
「何を言えばいいか分からないので」
「励ますとか」
「大丈夫だと言っても、鈴が見つかるわけではありません」
白雪が少し顔を上げる。
「探すと言っても、今は手がかりがない。だから、白雪が落ち着くまで待っています」
「私が落ち着かなかったら?」
「その場合も待ちます」
彼女はまた俯いた。
「柚葉さんのときと、同じですね」
気づいたらしい。
「白雪が教えてくれた方法です」
「私は何も教えていません」
「見ていましたから」
白雪の肩から、少し力が抜けた。
完全に落ち着いたわけではない。
それでも、先ほどのように今すぐ走り出しそうな状態ではなくなった。
「鈴がなくなったら」
彼女が言う。
「過去までなくなる気がします」
「なくなりません」
今度は、迷わず答えた。
白雪がこちらを見る。
「鈴がなくても、起きたことは変わらないでしょう」
「覚えていなければ?」
「白雪は覚えている」
「朝倉君は?」
言葉に詰まった。
俺は完全には覚えていない。
白いくまへ青い鈴を渡したこと。
泣いている相手へ、くまだって泣いていいと言ったこと。
それらは少しずつ思い出している。
けれど中にいた少女の顔も、名前も分からない。
「俺も、少しずつ思い出しています」
白雪の瞳が揺れる。
「病院の非常階段にいた白いくま。青い鈴を渡したこと。秘密にする約束をしたこと」
彼女の指が膝の上で動いた。
「それだけですか?」
「今は」
「中にいた人は?」
「分かりません」
白雪は目を閉じた。
悲しそうにも、安心したようにも見える。
「すみません」
俺が言うと、彼女は首を横へ振った。
「朝倉君が謝ることではありません」
「大切なことなら、覚えていたかったです」
「大切だったのは、私にとってです」
俺はその言葉を聞き逃さなかった。
白雪も気づいたらしい。
目を開き、俺を見る。
「今、私にとってと言いましたね」
「……言いました」
「その鈴を渡されたのは、白雪ですか?」
長い沈黙が落ちる。
あと一言で答えが出る。
八年前、病院の非常階段にいた白いくまの中にいたのが白雪玲奈なら、これまでのすべてがつながる。
彼女が俺の鞄の鈴を見たとき、顔色を変えた理由。
初めてみるくまの中から「湊君」と呼んだ理由。
俺へだけ見守りハグの練習を繰り返した理由。
白雪は口を開いた。
「それは」
備品室の扉が強く叩かれた。
二人とも同時に顔を上げる。
「朝倉、白雪。いるか?」
黒岩先生の声だった。
俺が扉を開けると、先生の後ろには藤堂先輩も立っていた。
「先生、引き出しを開けましたか?」
白雪がすぐに立ち上がる。
「昨日の放課後から今日まで、一度も開けていない」
黒岩先生は明確に答えた。
「鍵も職員室の机に入れたままだ。貸してもいない」
「では、誰が」
「もう一つ確認した」
藤堂先輩が続ける。
「今日の昼休み、私が備品室へ行った後、小日向さんが旧校舎へ来ている」
白雪の表情が止まった。
「小日向さんが?」
「ダンス部の練習で使うスピーカーを取りに来たらしいわ。広報備品室の隣が、昔の演劇部倉庫でしょう。そこに予備のスピーカーがあるの」
「備品室には?」
「本人に聞いたところ、入っていないと言っている」
藤堂先輩は慎重な口調だった。
「ただ、廊下で広報備品室の扉が開いていたのは見たそうよ」
「開いていた?」
俺が聞き返す。
「昼休みに私が活動記録を持ち出した後、鍵をかけたつもりだった。でも、小日向さんが通ったときには少し開いていたそうなの」
「施錠し忘れた可能性がありますか?」
藤堂先輩は苦しそうに頷いた。
「あると思う」
白雪は何も言わなかった。
「小日向さんの話では、そのあと一年生の男子生徒が二人、旧校舎の廊下にいたらしい」
「誰ですか?」
俺が尋ねる。
「名前までは分からないそうだ。演劇部倉庫の前で話していたらしい」
黒岩先生が腕を組む。
「ただし、現時点で誰かを疑う理由はない。袋を見つけて、落とし物として別の場所へ届けた可能性もある」
「落とし物は?」
「職員室と事務室には届いていない。生徒会室にもない」
白雪が鞄を持った。
「旧校舎を探します」
「待て、白雪」
黒岩先生が止める。
「もう下校時刻が近い。人のいない場所を一人で探し回るのは認められない」
「朝倉君と行きます」
白雪は迷わず言った。
黒岩先生の視線が俺へ向く。
「俺も探します」
「分かった。ただし旧校舎内だけだ。暗くなる前に戻れ」
「はい」
「それから」
黒岩先生は白雪を見る。
「誰かが盗んだと決めつけるな」
「分かっています」
白雪の返事には力が入っていた。
旧校舎の廊下を、端から順番に確認した。
広報備品室の前。
隣の旧演劇部倉庫。
階段。
窓際。
掲示板の下。
清掃用具入れ。
布袋は見つからない。
途中、小さな水色のものを見つけるたびに、白雪が反応する。
落ちていたリボン。
古い画鋲のケース。
色褪せた紙片。
どれも違った。
一階から二階へ上がる。
旧校舎の二階は、さらに使われている部屋が少ない。放送部の倉庫と、行事用備品を置く部屋があるだけだった。
「小日向さんが見た一年生は、この辺りにいたのでしょうか」
白雪が廊下を見渡す。
「演劇部倉庫は一階なので、上までは来ていないかもしれません」
「でも、誰かが袋を拾って持ってきた可能性があります」
「確認しましょう」
俺たちは二階も探した。
何もない。
階段をさらに上がろうとしたところで、白雪が止まった。
「三階は?」
「使われてませんよね」
「だからこそ、誰かがいたら」
旧校舎の三階は立入禁止ではないが、ほとんど使用されていない。教室の多くは施錠され、廊下にも照明が一部しかついていなかった。
「黒岩先生には旧校舎内ならいいと言われています」
白雪は階段を上がる。
俺も後を追った。
三階の廊下は薄暗かった。
窓から差し込む夕方の光だけが、床を長く照らしている。
誰かがいる気配はない。
一つずつ部屋を確認する。
扉が開く場所は、中まで見る。
閉まっている場所は、廊下から窓越しに確認する。
廊下の一番奥まで来たところで、白雪が足を止めた。
壁際に、小さなものが落ちていた。
水色だった。
白雪が走る。
「待って」
止める前に、彼女は拾い上げていた。
水色の布。
しかし、袋ではなかった。
細長い布切れ。
みるくまのリボンに使われているものと、同じような色だった。
「違いますね」
白雪の声から力が抜ける。
布切れを手に持ったまま、俯いた。
「戻りましょう」
俺が言う。
「まだ、屋上への階段があります」
「もう暗くなります」
「少しだけ」
「白雪」
「少しだけです」
声が弱かった。
俺は断れなかった。
三階の奥には、屋上へ続く階段がある。
扉自体は施錠されているため、外へ出ることはできない。その手前には、小さな踊り場があった。
そこまで確認して何もなければ、今日の捜索は終わりにする。
階段を上がる。
一段。
二段。
靴音が狭い空間に響く。
白雪が先に踊り場へ出た。
その瞬間、身体が止まった。
「朝倉君」
声が震えている。
俺は残りの階段を上がった。
屋上扉の前。
古い埃の積もった床に、何かが落ちていた。
小さな水色の布袋。
白雪が昨日使っていたものだった。
「ありました」
彼女が駆け寄る。
袋を拾い、紐をほどく。
逆さに振る。
何も出てこない。
中は空だった。
白雪の表情が消えた。
俺も袋を確認する。
底に穴はない。
紐も切れていない。
自然に鈴だけが落ちたとは考えにくい。
「袋だけ、ここに」
白雪が呟く。
誰かが中身を取り出した。
そう考えるのが自然だった。
「周りを探します」
俺は床へ視線を向けた。
階段の隅。
扉の下。
壁際。
埃の上には、人が歩いた跡が複数残っている。
古いものか今日のものかは判断できない。
白雪も探し始めた。
「鈴なら、転がっているかもしれません」
二人で踊り場を確認する。
何もない。
階段を一段ずつ降りながら探す。
それでも見つからない。
布袋だけが残されていた。
「どうして」
白雪が立ち尽くす。
「どうして袋だけ」
俺には答えられない。
「誰かが取ったのでしょうか」
「可能性はあります」
「鈴だけを?」
「何か分からず持っていったのかもしれません」
「でも、この袋をここへ捨てています」
白雪の声が少しずつ震える。
「落とし物だと思ったなら、袋ごと持っていくはずです。中を見て、鈴だけ取って、袋を捨てた」
「まだ決めつけないでください」
「他に何がありますか?」
答えられない。
白雪は空の袋を両手で握った。
「大切なものなのに」
その言葉と同時に、涙が落ちた。
彼女自身が一番驚いたようだった。
頬へ触れる。
濡れた指先を見る。
もう一粒、涙が落ちる。
「白雪」
俺が呼ぶと、彼女は顔を背けた。
「見ないでください」
「無理です」
「お願いです」
「みるくまはここにありません」
白雪の動きが止まった。
普段なら泣き顔を隠すため、くまの頭をかぶる。
手紙を読んで涙を堪えられなくなったときも、制服姿のまま大きな頭部だけをかぶっていた。
けれど今、隠れる場所はない。
「笑わなくていいです」
俺は言った。
病院の非常階段で、昔の俺が白いくまへ伝えた言葉と似ていた。
「大丈夫だと言わなくてもいい」
白雪の肩が震える。
「今は、泣いていいと思います」
彼女がこちらを向いた。
涙が頬を伝っている。
「それ」
声が掠れていた。
「昔も、言いました」
頭の奥で何かが弾ける。
夕暮れの非常階段。
笑っている白いくま。
俺の手の中にある青い鈴。
『くまだって、泣いていいだろ』
記憶の中の自分の声が、今までより鮮明に聞こえた。
白雪は俺を見ていた。
「朝倉君は、あのときも」
そこまで言い、彼女は口元を押さえた。
もう隠せない。
俺も、もう聞かないふりはできなかった。
「白雪だったんですね」
彼女は否定しなかった。
涙を拭うこともせず、ただ俺を見ている。
「病院の夏祭りで、みるくまの中にいたのは」
長い沈黙の後、白雪は小さく頷いた。
「はい」
答えが出た。
八年前。
桜庭総合病院。
非常階段で泣いていた白いくま。
その中にいた少女。
「私でした」
白雪玲奈は、初めて自分から過去を認めた。
胸の中に、驚きよりも納得が広がっていく。
だから、最初に俺の青い鈴を見たとき、彼女はあれほど動揺した。
だから、俺を下の名前で呼んだ。
だから、みるくまの中では最初から距離が近かった。
「最初から、気づいていたんですか?」
「確信したのは、鈴を見たときです」
「それより前は?」
「名前を聞いたときに、もしかしたらと思いました」
「朝倉湊という名前を覚えていた?」
白雪は首を横へ振った。
「あの日、名前を聞いていません」
「では」
「お母様が、あなたを探している声を聞きました」
記憶が少しずつ埋まっていく。
非常階段の向こう。
誰かが俺を呼んでいた。
『湊!』
母親の声だったのかもしれない。
「ずっと覚えていたんですか?」
「忘れたことはありません」
白雪は空の布袋を胸元へ抱えた。
「あの鈴が、証拠でした」
「証拠?」
「私が、あの日のことを夢で作ったのではないという証拠です」
彼女は涙を拭った。
「朝倉君にとっては、忘れてしまう程度の出来事だったかもしれません。でも、私は違いました」
胸が痛んだ。
「すみません」
「謝らないでください」
白雪はすぐに言った。
「覚えていてほしくて助けてもらったわけではありません」
「でも」
「あの日、私は泣いていました」
彼女は屋上扉へ背中を預けた。
「家族のことで、少し嫌なことがあって。夏祭りでは子どもたちの前に出なければいけなかったのに、どうしても笑えなくなりました」
「それで、非常階段へ?」
「はい」
「どうしてみるくまに入っていたんですか?」
「母が病院の関係者でした。急に担当者が来られなくなり、体格の近かった私が、ほんの短い時間だけ代役を頼まれました」
小学六年生の少女を着ぐるみに入れるのは、今なら安全上認められないだろう。
当時は、短時間だけという判断だったのかもしれない。
「大人たちは、私ならできると思っていました」
白雪が続ける。
「成績もよく、言われたことは守り、失敗もしない。だから、みるくまにも入れるでしょう、と」
今の白雪玲奈を作っているものが、すでにその頃からあった。
「でも、中で泣いた」
「はい」
「俺が来た」
「はい」
白雪の口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かぶ。
「朝倉君は、泣いているのかと聞きました」
「覚えています」
「私は否定しました」
「くまの手で」
「はい」
涙を流しながら、白雪は笑った。
「なのに、朝倉君は、泣いている音がすると言いました」
「子どもだったので、遠慮がなかったんだと思います」
「今もあまり変わっていません」
否定できない。
「それから、鈴をくれた」
俺が言う。
白雪が頷く。
「あれを持っていれば、今日泣いたことは秘密にすると」
「そんな意味でしたね」
「そして」
白雪は俺を見る。
「くまだって、泣いていいと言いました」
今度は、記憶がはっきり戻った。
俺は怪我をしていた。
走れなくなるかもしれないと不安だった。
大人たちは大丈夫だと言った。
白いくまは、笑っていた。
中では泣いていた。
俺は、その姿が自分と似ていると思ったのかもしれない。
「その言葉に、救われました」
白雪の声が静かになる。
「私が初めて、大丈夫と言わなくても許された瞬間でした」
鈴が、ただの思い出ではない理由が分かった。
彼女にとっては、自分が完璧でなくてもいいと認められた日の証だった。
「だから、ずっとみるくまの中へ?」
「はい」
白雪は空の袋へ視線を落とした。
「中に入るたび、鈴の音が聞こえました。誰にも見せる必要はありませんでした。私だけが知っていればよかった」
「俺が同じ鈴を持っていた」
「最初は、信じられませんでした」
「だから聞いたんですか。入院していた時期や、病院の名前を」
「はい」
今まで不自然に感じていた質問の理由がすべてつながる。
「では、みるくまの中で俺に甘かったのも」
言いかけると、白雪の頬が赤くなる。
「それは」
先ほどまで泣いていたのに、急に視線を逸らした。
「昔会った相手だと分かったから?」
「すべてが、それだけではありません」
「すべて?」
「今は聞かないでください」
「第四条ですか?」
「第四条です」
こんな状況でも、そこは使うらしい。
白雪は涙を拭い、少し呼吸を整えた。
「話すつもりではなかったんです」
「鈴が見つかるまで?」
「少なくとも、もう少し先まで」
「どうして?」
「朝倉君が自分で思い出すかもしれないと思っていました」
白雪は俺を見た。
「思い出してくれたら、あの日のことが朝倉君にとっても少しは残っていたのだと思えます」
「残っていました」
俺は答えた。
「全部ではないけど。白いくまが泣いていたことも、鈴を渡したことも、秘密の約束をしたことも」
「私だとは分からなかった」
「顔を見ていませんから」
白雪は少しだけ笑った。
「そうでした」
「白雪は頭を外さなかった」
「泣いた顔を見られたくなかったので」
「今は見ました」
彼女の笑顔が消える。
俺は慌てて言葉を続けた。
「でも、何も変わりません」
「何がですか?」
「白雪が白雪であることです」
昔、くまの中で泣いていたこと。
今、青い鈴を失って泣いたこと。
それを見たからといって、彼女への印象が悪くなるわけではない。
むしろ、ようやく学校で見せる姿と、みるくまの中で見せる姿が、一人の白雪玲奈としてつながった気がした。
「完璧じゃなくても、白雪でしょう」
彼女は何も言わなかった。
ただ、目元へまた涙が浮かぶ。
「また泣いてます」
俺が言うと、白雪は今度は隠そうとしなかった。
「朝倉君のせいです」
「すみません」
「謝らないでください」
「どちらですか」
少しだけ笑いが混ざった。
白雪も、涙を流したまま笑った。
そのとき、階段の下から足音が聞こえた。
俺たちは同時に顔を上げる。
誰かが上がってくる。
白雪は反射的に目元を拭った。
いつもの表情へ戻ろうとしている。
「無理に隠さなくても」
「学校です」
その一言で、白雪玲奈が戻った。
完全ではない。
目は赤いし、頬にも涙の跡が残っている。
それでも背筋を伸ばし、呼吸を整える。
階段から現れたのは、小日向だった。
「朝倉先輩? 白雪先輩?」
俺たちを見つけ、驚いた顔をする。
「こんなところで何してるんですか?」
白雪は答えなかった。
小日向の視線が、彼女の手にある水色の布袋へ向く。
「あ」
小さな声が漏れた。
俺はその反応を見逃さなかった。
「小日向さん。この袋を知っていますか?」
尋ねると、彼女はすぐに頷いた。
「はい。昼休みに見ました」
白雪が顔を上げる。
「どこで?」
「一階の廊下です」
「備品室ではなく?」
「はい」
小日向は俺たちの表情を見て、何か重要なものだと気づいたらしい。
「演劇部倉庫へスピーカーを取りに行ったとき、広報備品室の前に落ちていました」
「拾いましたか?」
「拾おうとしました。でも」
小日向は言葉を止めた。
「一年生の男子が二人いたんです。一人が先に拾って」
「その人たちは?」
白雪の声が強くなる。
「一組の男子だと思います。名前は知りません」
「その後、この袋をどうしたか見ましたか?」
「中を開けていました」
俺と白雪は顔を見合わせる。
「何か入っていた?」
俺が尋ねると、小日向は頷いた。
「鈴です」
白雪の手が震えた。
「青い?」
「はい。小さい青い鈴でした」
やはり、袋の中には鈴があった。
「その男子は、鈴を持っていったんですか?」
「分かりません」
「どうして?」
「私が注意したら、二人とも逃げたんです」
小日向は申し訳なさそうに俯いた。
「袋はその場に落ちていたと思ったんですけど、スピーカーを持って戻ったときにはなくなっていて。落とし物なら誰かが拾ったと思っていました」
「顔は覚えてますか?」
「たぶん」
小日向は頷いた。
「明日なら、一年一組へ行けば分かると思います」
白雪がすぐに階段を降りようとする。
俺は腕をつかんだ。
「今日はもう帰っています」
「部活動で残っているかもしれません」
「まず黒岩先生に伝えます」
「でも」
「誰かを問い詰める前に確認します」
白雪は何かを言い返そうとした。
しかし、先ほど黒岩先生から「盗んだと決めつけるな」と言われたことを思い出したのだろう。
悔しそうに唇を結ぶ。
「分かりました」
小日向が心配そうに白雪を見る。
「あの鈴、大切なものだったんですか?」
白雪は空の袋を握った。
いつもの彼女なら、大丈夫だと答えただろう。
心配をかけないように笑い、何でもないものとして扱ったはずだ。
けれど今日は違った。
「はい」
はっきり答えた。
「とても大切なものです」
小日向の表情が変わる。
「ごめんなさい。私、もっと早く先生に言えば」
「小日向さんのせいではありません」
白雪は首を横へ振った。
「見たことを教えてくれて、ありがとうございます」
自然に出た言葉だった。
小日向も俺も、少し驚いた。
白雪自身も気づいたようだが、訂正はしなかった。
「必ず見つけましょう」
小日向が言う。
白雪は小さく頷いた。
「はい」
三人で一階へ戻り、黒岩先生と藤堂先輩へ事情を説明した。
一年一組の男子については、翌朝、小日向に確認してもらうことになった。
先生からは、本人たちへ直接問い詰めないよう念を押された。
「落とし物を拾っただけかもしれない。まず事実確認をする」
黒岩先生の言葉に、白雪は不満を見せながらも従った。
下校時刻を過ぎ、俺たちは学校を出た。
小日向は途中まで方向が同じだったが、駅前で別れた。
残された俺と白雪は、いつもの駅へ向かう。
夕方というより、もう夜に近い。
街灯が点き始め、店の窓から光が漏れている。
白雪は空の布袋を鞄へしまわず、手に持ったままだった。
「明日、見つかるといいですね」
俺が言うと、彼女は頷いた。
「見つからなかったら?」
「そのときは、また探します」
「それでも見つからなかったら?」
「それでも、なくなったことにはしません」
白雪がこちらを見る。
「どういう意味ですか?」
「白雪が覚えている。俺も思い出した。それで十分だとは言いません。でも、鈴がなくなっても、あの日まで消えるわけではありません」
彼女はしばらく俺を見ていた。
「朝倉君」
「はい」
「もう一つの鈴は、今も持っていますか?」
「鞄についています」
俺は鞄についた古い鈴を見せた。
長年使っているため、青い塗装はほとんど剥げている。
白雪が指先を伸ばす。
触れる直前で止まった。
「触ってもいいですよ」
俺が言うと、彼女はそっと鈴を手に取った。
ちりん。
小さな音が鳴る。
白雪は目を閉じた。
八年前、非常階段で聞いたものと同じ音。
「片方は、ここにあります」
俺が言う。
白雪が目を開く。
「もう片方も見つけます」
「はい」
「それまでは、これを預けますか?」
「え?」
「俺がなくす可能性もありますけど」
白雪はすぐに首を横へ振った。
「朝倉君が持っていてください」
「どうして?」
彼女は鈴から手を離した。
「二つとも私が持っていたら、約束にならないからです」
「約束?」
白雪は少し照れたように視線を逸らした。
「昔、秘密にすると約束したでしょう」
「はい」
「一つずつ持っているから、約束の印だったのだと思います」
俺は自分の鞄の鈴を見る。
今まで、古いキーホルダーの一部でしかなかった。
意味を知ると、同じものには見えなかった。
「では、なくさないようにします」
「絶対に」
「できるだけ」
「絶対です」
白雪の口調が強くなる。
「分かりました。絶対に」
俺が言い直すと、彼女はようやく満足したように頷いた。
駅へ着く。
改札を通り、ホームへ向かう。
白雪は今日、俺の袖をつかまなかった。
手もつながなかった。
その代わり、いつもより近い位置を歩いている。
電車を待つ間、彼女が小さく言った。
「朝倉君」
「何ですか」
「今日は、ありがとうございました」
今度は迷わなかった。
「鈴を探してくれたことも。私が落ち着くまで待ってくれたことも」
「見つけてないので、お礼は早いです」
「それでもです」
白雪は俺を見る。
「それから、覚えていてくれて」
胸の奥に、少し重いものが残った。
俺はすべてを覚えていたわけではない。
それでも彼女にとっては、断片だけでも意味があるらしい。
「思い出せてよかったです」
俺が答えると、白雪は小さく笑った。
「私もです」
ホームへ電車が入ってくる。
風が吹き、白雪の黒髪が揺れた。
そのとき、彼女は俺の鞄についている鈴をもう一度指先で鳴らした。
ちりん。
一つだけの音。
本来なら、もう一つの鈴がある。
同じ音で応える、青い鈴が。
それは今、誰かの手の中にあるのかもしれない。
あるいは、どこかへ捨てられているのかもしれない。
それでも、今日一つだけ確かなことが分かった。
白雪玲奈と俺は、高校で初めて出会ったわけではない。
八年前の夏。
病院の非常階段で、俺たちはすでに出会っていた。
そして白雪は、俺が忘れていた約束を、一人でずっと守り続けていた。
青い鈴と一緒に。
その鈴を失ったことが、この先、俺たちの関係まで変えることになるとは、このときの俺はまだ考えていなかった。




