第九章 ~着ぐるみのいない放課後~
翌朝、白雪玲奈は俺より先に教室へ来ていた。
いつもなら窓際の席で本を読んでいる時間だったが、今日は鞄を机へ置いたまま立っている。教科書もノートも出されていない。
視線は、教室の入口へ向けられていた。
俺が入ると、白雪はすぐにこちらを見た。
「おはようございます」
「おはようございます。眠れましたか?」
「十分です」
答えはいつもどおりだった。
ただ、目の下には薄く疲れが残っている。
昨夜、青い鈴がなくなっていることが分かった。
空になった水色の布袋は旧校舎の三階で見つかった。そして小日向ひまりの証言から、昼休みに一年生の男子二人が袋を拾い、中に入っていた鈴を見ていたことも判明した。
今日、小日向に二人を確認してもらうことになっている。
白雪が普段どおり眠れたとは思えなかった。
「朝倉君こそ、眠れましたか?」
「俺は普通に」
「そうですか」
会話が止まる。
白雪は自分の席へ戻ろうとしない。
「何かありますか?」
俺が尋ねると、彼女は少し迷ってから声を落とした。
「鈴の件について、黒岩先生から連絡はありましたか?」
「まだです」
「私にもありません」
「朝のホームルームで話があるかもしれません」
「そうですね」
白雪は頷いた。
それでも動かない。
教室へ入ってくる生徒が増え始めたため、俺たちは自然に距離を取る必要があった。
以前なら、それだけで白雪は窓際の席へ戻っていただろう。
今日は違った。
「あの」
白雪が小さく呼び止める。
「何ですか?」
「鈴が見つかっても、昨日お話ししたことは」
言葉が途中で止まる。
八年前の夏。
桜庭総合病院の非常階段。
みるくまの中で泣いていた少女が白雪だったこと。
俺が彼女へ青い鈴を渡したこと。
白雪が、その出来事をずっと忘れずにいたこと。
鈴をなくしたことで、彼女は予定より早く過去を話してくれた。
「忘れませんよ」
俺が言うと、白雪の表情が少しだけ緩んだ。
「鈴が見つかったから、昨日の話はなかったことにする、とか言いません」
「そのようなことは言いません」
「なら大丈夫です」
「ただ」
白雪の声がさらに小さくなる。
「私が、みるくまの中で朝倉君に……その、少し距離が近かった理由については、まだ全部説明したわけではありません」
そこは昨日も曖昧にされた部分だった。
昔の恩人だと分かったから。
それだけではない、と白雪は言った。
「第四条ですね」
俺が答えると、彼女は安心したように頷いた。
「はい」
「自分で話せるときまで待ちます」
「ありがとうございます」
今のありがとうは、以前のように時間をかけなかった。
少しずつ、本心を言葉にすることにも慣れてきたらしい。
「朝倉、おはよう――って、何だ?」
相川の声が近づいた。
俺と白雪が同時に振り向く。
鞄を肩へ掛けた相川が、教室の入口で立ち止まっていた。
「朝から二人で普通に話してる」
「同じクラスだからな」
「その言い訳、そろそろ限界だと思う」
白雪は一瞬だけ俺を見た後、相川へ丁寧に頭を下げた。
「おはようございます、相川君」
「お、おはようございます」
予想していなかったらしく、相川のほうが姿勢を正した。
白雪はそのまま自分の席へ向かう。
数歩進んだところで、一度だけこちらを振り返った。
それから何事もなかったように席へ座り、教科書を取り出した。
相川はその一連の動きを見届けた後、俺の肩へ手を置いた。
「朝倉」
「何だ」
「俺の知らないところで、かなり進んでない?」
「何が?」
「その質問をする段階は、もう終わった気がする」
意味の分からないことを言いながら、相川は自分の席へ向かった。
朝のホームルームが始まる直前、黒岩先生が教室へ入ってきた。
出席簿を教壇へ置いた後、すぐに俺と白雪を見る。
「朝倉、白雪。昼休みに職員室へ来てくれ」
教室内の何人かがこちらへ視線を向けた。
俺は頷く。
白雪も同じように返事をした。
黒岩先生はそれ以上何も言わず、出席確認を始めた。
午前中の授業が、いつもより長く感じた。
俺が気にしても仕方がないことは分かっている。
それでも、青い鈴が今どこにあるのか考えてしまう。
白雪にとって、あれは単なる思い出の品ではない。
自分が完璧でなくてもいいと初めて認められた日の証。
そして、俺と白雪を八年前からつないでいたものだった。
鈴がなければ過去が消えるわけではない。
昨夜、俺はそう伝えた。
それは今も本心だ。
けれど、だからなくなっても構わないという意味ではない。
見つかるなら、必ず見つけたい。
昼休みのチャイムが鳴ると、白雪は誰よりも早く立ち上がった。
教室の入口で俺を待っている。
「行きましょう」
「昼食は?」
「後で食べます」
「急いでも結果は変わりません」
白雪の眉がわずかに動く。
「昨日も言われました」
「なら、先に少し食べてから」
「朝倉君」
「はい」
「今は、早く知りたいです」
昨日までなら、予定どおり昼食を済ませることを優先していたかもしれない。
今日は、自分の気持ちを先に言った。
「分かりました」
俺たちはそのまま職員室へ向かった。
黒岩先生は入口近くで待っていた。
その隣に藤堂先輩と、小日向もいる。
さらに少し離れた位置には、一年生らしい男子生徒が二人立っていた。
二人とも、顔色がよくない。
小日向が俺たちを見ると、小さく頷いた。
「昨日見たのは、この二人です」
男子生徒の一人が俯く。
もう一人は、何度も制服の袖を触っていた。
黒岩先生が俺たちを空いている面談スペースへ案内する。
全員が入ると、簡易的な仕切りが閉められた。
「まず、確認できたことだけ話す」
黒岩先生は二人の一年生を見る。
「昨日の昼休み、この二人が旧校舎の廊下で水色の袋を拾った。中に青い鈴が入っていたことも認めている」
白雪の手が動いた。
机の下で、指を強く握っている。
「鈴は?」
彼女が尋ねる。
男子生徒の一人が、鞄へ手を入れた。
小さな透明の袋を取り出す。
その中に、青いものが見えた。
白雪が息を呑んだ。
男子生徒は袋を机の上へ置く。
透明なビニール越しに、小さな鈴が見えた。
古びた青色。
俺の鞄についているものより、塗装が少し多く残っている。
形は同じだった。
白雪の視線が、鈴から離れない。
「確認していいか?」
黒岩先生が尋ねる。
彼女は頷いた。
先生が透明な袋から鈴を出し、白雪へ渡す。
彼女は両手で受け取った。
ちりん。
小さな音が鳴った。
俺の記憶に残っている音と同じだった。
白雪は鈴を掌に載せたまま、目を閉じる。
しばらくして、静かに息を吐いた。
「私のものです」
声は震えていた。
それでも泣かなかった。
今度は鈴が戻ってきたからかもしれない。
黒岩先生が一年生二人へ向き直る。
「二人から聞いた話も説明する」
鈴を持っていた男子が、先に頭を下げた。
「すみませんでした」
白雪が顔を上げる。
「俺たち、袋が落ちてたから拾って。中を見たら鈴が入ってて」
男子は言葉を詰まらせながら続けた。
「最初は、誰かのキーホルダーだと思いました。そしたら小日向さんに、勝手に開けるなって言われて」
「私が強く言いすぎました」
小日向が申し訳なさそうに割って入る。
「びっくりさせちゃって」
男子生徒は首を横へ振った。
「俺たちが悪いです。それで、先生に怒られると思って逃げました」
「なぜ袋だけ三階へ?」
俺が尋ねる。
もう一人の男子が答えた。
「屋上の近くに隠そうって言って」
「鈴は?」
「そのとき、こいつがポケットに入れてました」
隣の男子を指す。
鈴を持っていた生徒は、さらに俯いた。
「そのまま返すのが怖くなって。今日、先生に呼ばれるまで持ってました」
盗むつもりだったわけではない。
落とし物を勝手に開け、その後、怒られることを恐れて隠した。
褒められる行動ではない。
しかし悪意を持って、白雪の大切な鈴だけを狙ったわけでもなかった。
「どうして引き出しから袋が出ていたんですか?」
白雪が尋ねる。
黒岩先生が藤堂先輩を見る。
「それについては、別の原因が分かった」
藤堂先輩は申し訳なさそうに頭を下げた。
「私です」
「藤堂先輩が?」
白雪の声が変わる。
「昨日の昼休み、活動記録を取りに備品室へ行ったと話したでしょう。そのとき、引き出しの中に入っていた別の資料も必要になって、鍵を開けたの」
「でも、昨日は引き出しを開けていないと」
「そのこと自体を忘れていた。本当にごめんなさい」
藤堂先輩は頭を下げた。
「生徒会室へ戻る途中で電話がかかってきて、活動記録と水色の袋を一緒に机へ置いたまま部屋を出たみたい。袋を出した記憶もなかった」
「鍵は?」
俺が聞く。
「備品室の扉を閉めたけれど、施錠できていなかった。私の確認不足です」
それで話がつながった。
藤堂先輩が引き出しから資料を取り出した際、水色の袋まで机へ出してしまった。
電話で慌てて部屋を出る。
扉の鍵も不完全なまま。
その後、旧校舎へ来た一年生二人が、開いた扉の近くに落ちていた袋を見つけた。
拾った際に中身を確認し、小日向に注意されて逃げた。
袋は三階へ。
鈴だけは一人のポケットへ残った。
偶然が重なった結果だった。
白雪は鈴を両手で持ったまま、誰にも言葉を返さない。
怒っているのか。
安心しているのか。
どちらもあるのだと思う。
「白雪」
黒岩先生が静かに呼ぶ。
「今回の件は、学校側の管理にも問題がある。藤堂だけの責任ではない。旧校舎の備品室へ複数の生徒が出入りできる状態そのものを見直す」
白雪が顔を上げた。
「見直す、とは?」
「みるくまを、一度別の場所へ移す」
「どこへ?」
「新校舎の倉庫だ」
即座に、白雪の表情が変わった。
「嫌です」
全員が一瞬、黙った。
白雪自身も、自分が考えるより先に言葉を出したことに気づいたようだった。
以前の彼女なら、まず理由を聞いたはずだ。
学校側の判断を理解し、その後に自分の意見を出しただろう。
今日は違った。
「すみません」
謝った後も、白雪は言い直さなかった。
「移動させたくありません」
黒岩先生は怒らなかった。
「理由は分かる。ただ、今回は鈴だけで済んだ。もし着ぐるみ本体に悪戯されていたら、事故につながる」
「施錠方法を変えれば」
「それも検討する。ただ、もう一つ問題がある」
先生は机の上へ新しい書類を置いた。
「幼稚園で白雪が体調を崩しかけた件を受けて、理事会から専門業者による安全点検を行うよう指示が出た」
俺は書類へ目を通した。
着ぐるみの外装、内部骨格、視界、換気、難燃性、各部の劣化状態。
俺が修理できる範囲より、さらに詳しい検査が行われるらしい。
「いつですか?」
「今日の放課後に回収される」
白雪の手が止まる。
「今日?」
「検査には一週間程度かかる予定だ」
「商店街の撮影は?」
「検査結果が出るまで延期する」
「そんな」
白雪が言葉を失った。
ようやくみるくまの人気が戻り始めている。
学校説明会。
幼稚園。
次は商店街。
活動を続けなければ、九月末の評価までに十分な実績を作れない。
「一週間も活動を止めれば」
「安全確認が優先だ」
黒岩先生は譲らなかった。
「着ぐるみがなくても、広報活動そのものは続けられる。企画を考える時間に使ってくれ」
白雪は反論しようとした。
しかし、幼稚園で自分が倒れかけた事実がある。
安全を軽視するなと、俺自身も何度も言ってきた。
「分かりました」
最終的に、白雪は頷いた。
納得したわけではない。
受け入れるしかないと判断しただけだ。
一年生二人は改めて白雪へ謝った。
「本当にすみませんでした」
鈴を持っていた男子が、深く頭を下げる。
もう一人も続く。
「勝手に袋を開けて、隠して。ごめんなさい」
白雪はしばらく二人を見ていた。
掌の青い鈴を、一度握る。
「もう、しないでください」
「はい」
「誰かのものを勝手に開けることも。怖くなったからといって、隠すことも」
「はい」
白雪の声は厳しかった。
それでも、怒鳴ったり責め続けたりはしない。
最後に少しだけ表情を緩めた。
「返してくれて、ありがとうございます」
男子生徒が驚いたように顔を上げる。
俺も少し驚いた。
返したというより、先生に呼ばれて持ってきただけだ。
それでも白雪は、自分の手元へ戻ったことに対して礼を言った。
以前の彼女なら、必要な礼儀だから同じ言葉を使ったかもしれない。
今は違う。
大切なものが戻ったことを、本当に嬉しいと思ったから出たありがとうだった。
職員室を出ると、小日向が俺たちの後を追ってきた。
「白雪先輩」
廊下で呼び止める。
白雪が振り返る。
「私も、ごめんなさい」
「小日向さんが謝る必要はありません」
「でも、あのとき追いかければよかったです」
「一人で男子二人を追いかける必要はありません」
「先生にすぐ言えば」
「私も、何かあるたび自分一人で解決しようとして、朝倉君に何度も怒られました」
白雪は一瞬、俺を見る。
「ですから、小日向さんも無理をしないでください」
小日向は目を丸くした後、笑った。
「白雪先輩、変わりましたね」
今度は白雪が驚く。
「何がですか?」
「前に生徒会の説明会で会ったときは、もっと隙がない人だと思ってました」
「今も変わりません」
「そうですか?」
小日向は楽しそうに首を傾げる。
「今の白雪先輩のほうが、私は話しやすいです」
白雪は返事に困ったようだった。
「それ褒めてますからね」
小日向は念を押し、先に階段を下りていった。
俺と白雪だけが廊下に残る。
「褒められましたね」
俺が言うと、白雪は鈴を握った手を胸元へ寄せた。
「喜んでよいのでしょうか」
「完璧美少女ではなくなってきた、という意味では?」
「それは褒めていないのでは?」
「話しやすくなったそうです」
白雪は少し考えた後、困ったように笑った。
「なら、喜ぶことにします」
昼食を急いで済ませ、午後の授業を終える。
放課後。
俺と白雪は、いつもの広報備品室へ向かった。
扉を開ける。
部屋の中央には、大きな運搬用ケースが二つ置かれていた。
黒岩先生と業者らしい男性が、みるくまを梱包している。
白い胴体はすでに透明な保護袋へ入れられ、水色のリボンも崩れないよう固定されていた。
頭部だけが、長机の上に残っている。
笑っているみるくま。
白雪は入口で動きを止めた。
「もう、持っていくのですね」
業者の男性が頭を下げる。
「一週間ほどお預かりします。素材の状態によっては、もう少しお時間をいただく可能性があります」
「外見は変わりませんか?」
白雪がすぐに尋ねた。
「今回は検査だけです。補修が必要な場合は、学校さんへご相談してから作業します」
「左耳は」
「触らないでください、と先生から伺っています」
黒岩先生がこちらを見る。
「白雪が気にすると思って、先に伝えておいた」
「ありがとうございます」
白雪は頭を下げた。
その後、長机のみるくまへ近づく。
大きな白い頭部へ両手を添えた。
少し垂れた左耳を撫でる。
「一週間です」
誰に言うでもなく、小さく呟いた。
俺は少し離れて見ていた。
業者の男性も急かさない。
やがて白雪は手を離した。
「お願いします」
頭部が保護袋へ入れられる。
運搬ケースの中へ収められ、蓋が閉じられた。
金具が一つずつ固定される。
最後に、ケースそのものが台車へ載せられた。
みるくまが部屋を出ていく。
白雪は廊下まで見送った。
角を曲がり、白いケースが見えなくなるまで、そこから動かなかった。
「白雪」
黒岩先生が声をかける。
「今日はもう活動を終えていいぞ」
「商店街の資料を整理します」
「無理に残る必要はない」
「無理ではありません」
そう答えた白雪の顔を、先生は少しだけ見つめた。
それ以上止めることはしなかった。
「朝倉も、遅くなりすぎないようにな」
「はい」
黒岩先生が去る。
備品室に残ったのは、俺と白雪だけだった。
いつもと同じ部屋。
長机。
裁縫箱。
活動記録。
窓際の長椅子。
ただ、そこにあるはずの白いくまだけがいない。
棚には空いた場所が残っている。
思っていたより、部屋が広く見えた。
白雪は長机へ座り、商店街の資料を広げた。
「まず、延期後の撮影日を想定して、店舗ごとの順番を」
言いながら、ペンを持つ。
しかし何も書かない。
地図を見たまま、止まっている。
「今日は帰りますか?」
俺が尋ねると、彼女は首を横へ振った。
「作業があります」
「明日でもできます」
「一週間しかありません」
「検査が終わるまで、みるくまは戻ってきません」
白雪のペン先が、地図へ触れる。
「だからこそ、戻ってきたときにすぐ活動できるよう準備する必要があります」
「そうですね」
俺も向かい側へ座った。
白雪は撮影順を書き始める。
花屋。
時計店。
和菓子店。
喫茶こひなた。
朝倉洋装店。
商店街で一緒に下見をした場所が並んでいく。
俺たちが二人で歩いた日のことを思い出したのか、白雪の手が少し止まった。
「写真館もあります」
俺が言うと、彼女は一瞬だけこちらを見る。
「はい」
「あの写真、構図確認に使いましたか?」
「まだです」
「個人情報の管理中?」
「そうです」
白雪は地図へ視線を戻した。
「自宅で、適切に保管しています」
捨ててはいないらしい。
「俺も持っています」
「聞いていません」
「言っていませんでしたか?」
「記念にすると言っていたことは覚えています」
声は平静だった。
ただ、耳が少し赤い。
着ぐるみがなくても、以前より白雪の感情が分かるようになった。
嬉しいと、口元がわずかに緩む。
困ると、視線が横へ逃げる。
照れると、耳が赤くなる。
不安になると、指先が何かを探す。
今、その指が机の端へ伸びた。
普段なら、みるくまの白い手袋や毛並みへ触れていた場所だ。
そこには何もない。
白雪の指が、空を掴む。
本人も気づいたらしい。
手を膝へ戻した。
「落ち着きませんか?」
俺が尋ねると、白雪は少し迷ってから頷いた。
「部屋が静かです」
「いつも静かですよ」
「違います」
白雪は棚の空いた場所を見る。
「みるくまがいると、何もしていなくても、そこにいる感じがします」
「着ぐるみですよ」
「分かっています」
「でも、いないと寂しい?」
白雪は否定しなかった。
「はい」
短い返事だった。
俺はその素直さのほうに驚いた。
「一週間です」
彼女が自分に言い聞かせるように続ける。
「たった一週間です」
「戻ってきたら、また抱きつけますよ」
白雪の動きが止まる。
「誰がですか?」
「みるくまが俺に」
「みるくまは、誰にでも平等です」
「まだその設定を続けますか」
「設定ではありません」
久しぶりに同じやり取りをした。
ただし、以前とは違う。
白雪はもう、自分が八年前のみるくまの中の少女だったことを話している。
俺へだけ距離が近かった理由にも、昔の思い出が関係していると認めている。
それでも最後の部分だけは、まだみるくまのせいにしたいらしい。
「では、この一週間は見守りハグなしですね」
俺が言うと、白雪の表情がわずかに曇った。
「活動がないので、必要ありません」
「そうですね」
「はい」
返事が少し遅かった。
俺は商店街の資料へ目を戻した。
数分、二人で作業する。
白雪は訪問順を修正し、俺は着ぐるみで移動する際の必要時間を書き込む。
普段と変わらない放課後のはずだった。
それでも、何かが足りない。
白雪も同じように感じているらしく、時々棚へ視線を向ける。
やがて彼女がペンを置いた。
「朝倉君」
「何ですか」
「一つ、確認してもいいでしょうか」
「どうぞ」
白雪はすぐには話さなかった。
両手を膝の上で重ねる。
「朝倉君は、みるくまがいなくても、この部屋へ来ますか?」
質問の意図が分からず、俺は彼女を見る。
「活動があるなら来ます」
「活動がなくなったら?」
「どういう意味ですか?」
「例えば」
白雪は棚を見る。
「検査の結果、みるくまが使えなくなった場合です」
その可能性は考えていなかった。
俺が直したとはいえ、みるくまは古い着ぐるみだ。
十二年以上使われている。
内部の一部は交換したが、外装や骨格そのものが安全基準を満たさないと判断される可能性はある。
「新しく作り直すことになるのでは?」
「理事会は、もともと廃止を検討しています」
「でも、最近は結果が出ています」
「安全面の問題が大きければ、それでも残すでしょうか」
白雪の声は静かだった。
青い鈴がなくなったときほど取り乱してはいない。
だからこそ、不安が深いように感じた。
「もし、みるくまがなくなったら」
彼女はもう一度尋ねる。
「朝倉君は、この部屋へ来る理由がなくなります」
その言葉を聞いて、ようやく質問の意味が分かった。
白雪が心配しているのは、着ぐるみだけではない。
みるくまがなくなれば、俺たちをつなぐ活動も終わる。
放課後に二人で会う理由がなくなる。
商店街へ行く理由。
幼稚園へ行く理由。
一緒に修理する理由。
全部、みるくまが作ったものだ。
「理由がないと、会えませんか?」
俺が尋ねると、白雪は目を伏せた。
「以前の私は、そう思っていました」
「今は?」
「分かりません」
「俺は、理由がなくても会えばいいと思います」
白雪が顔を上げる。
「同じクラスですし」
「それは学校にいる間だけです」
「卒業後も話すと言いましたよね」
商店街の下見が決まった頃、備品室でそんな話をした。
活動が終われば話さなくなるのか。
白雪が尋ねた。
俺は、卒業しても話すだろうと答えた。
その言葉を覚えているのだろう。
「覚えていましたか?」
白雪が聞く。
「白雪も覚えているでしょう」
「はい」
「なら、みるくまがなくても変わりません」
彼女はしばらく俺を見つめた。
「それは」
途中で声が小さくなる。
「白雪玲奈と、会うという意味ですか?」
「他に誰がいるんですか」
「みるくまではなく?」
「今、いませんから」
白雪が棚を見る。
空いている。
白いくまの頭も、胴体も、どこにもない。
「では」
彼女は少しだけ息を吸った。
「今日は、白雪玲奈として一緒にいてもいいですか?」
俺は答えに迷った。
意味は分かる。
ただ、言い方だけを聞けば、かなり特別な言葉だった。
「今までも白雪玲奈だったと思いますけど」
「そういうことを言っているのではありません」
少しだけ不満そうな顔をする。
「みるくまの活動ではなく、普通に話したいという意味です」
「分かりました」
「本当に?」
「はい」
「では、商店街の資料は一度片づけます」
白雪は迷いなくファイルを閉じた。
切り替えが早い。
「何を話しますか?」
彼女が尋ねる。
「普通の会話って、話題を決めて始めるものですか?」
「休日に友人と過ごす経験が少ないと、お話ししました」
「では、最近見た映画とか」
「最近は見ていません」
「好きな音楽」
「決まったものはありません」
「食べ物」
「特にありません」
「みるくまミルクパフェ」
白雪の眉が動いた。
「それは、おいしかったです」
「好きな食べ物、あるじゃないですか」
「一度食べただけです」
「また食べたい?」
彼女は少し迷った後、頷いた。
「はい」
「では、次に商店街へ行ったら食べましょう」
「業務ですか?」
俺が答える前に、白雪自身が口を閉じた。
以前なら必ず活動だと言い張ったはずだ。
「今の質問は撤回します」
彼女が言う。
「どうして?」
「次は、業務ではないかもしれないと話しました」
時計台の下で交わした会話。
小日向が新しい着用者候補だと知らせに来る直前、白雪は確かにそう言った。
「覚えていたんですね」
「私が言ったことです」
「では、業務ではない日に行きますか」
白雪の頬が少し赤くなる。
「検討します」
「まだ検討中ですか」
「心の準備が必要です」
「商店街を歩くだけですよ」
「朝倉君は、私にとって初めてのことが多すぎます」
突然の言葉だった。
俺は返事を止める。
白雪自身も、少し驚いた顔をした。
「初めて?」
尋ねると、彼女は視線を逸らした。
「休日に男の人と二人で出かけたことも。家族以外の人と手をつないだことも」
「見守りハグは?」
「みるくまです」
「今さらそこだけ分けますか」
「分けます」
白雪は譲らない。
「それに」
まだ続くらしい。
「自分が泣いているところを、同年代の人に見られたのも初めてです」
昨日、旧校舎の屋上前で、白雪は青い鈴の入っていない袋を握りしめて泣いた。
着ぐるみはなかった。
逃げることも、隠れることもできなかった。
「後悔してますか?」
俺が尋ねると、白雪は首を横へ振った。
「恥ずかしいです」
「それは分かります」
「でも」
彼女は自分の手元を見る。
青い鈴は、小さな透明ケースに入れている。今度は鞄の内ポケットへしまい、ファスナーも閉めていた。
「朝倉君だったから、よかったと思います」
胸の奥が大きく鳴った気がした。
白雪は顔を上げない。
本人もかなり思い切って言ったのだろう。
「俺も、話してくれてよかったです」
答えると、彼女の肩が少し緩んだ。
「ありがとうございます」
「一日の回数制限は?」
「もう、ありません」
ついに撤廃されたらしい。
「でも、言いたくないときは言いません」
「それでいいと思います」
会話が途切れる。
以前なら、沈黙が少し気まずかったかもしれない。
今はそうでもない。
みるくまがいない備品室。
着ぐるみの動作確認も、補修作業もない。
ただ向かい合って座っている。
それでも帰ろうとは思わなかった。
白雪も同じようで、時計を気にする様子はない。
「朝倉君」
少しして、彼女がまた呼ぶ。
「はい」
「昨日、昔のことを思い出したと話していました」
「非常階段のこと?」
「はい」
「全部ではありませんけど」
「もう一つ、覚えていませんか?」
「何を?」
白雪は迷った。
「鈴を渡した後のことです」
記憶を探す。
白いくまが隣に座っている。
俺が鈴を渡す。
泣いてもいいと言う。
その後。
柔らかな白い腕。
温かい身体。
「抱きしめられた」
口にすると、白雪の顔が赤くなった。
「覚えていましたか」
「今、思い出しました」
「そうですか」
彼女はどこか嬉しそうだった。
「あのとき、どうして抱きしめたんですか?」
「それは」
白雪の視線が泳ぐ。
「子どもだったので」
「俺も子どもでした」
「嬉しかったからです」
小さな声だった。
「何が?」
「泣いてもいいと言われたことが」
白雪は机の上で指を重ねる。
「あのときの私は、誰かに大丈夫と言ってほしかったのではありません。頑張れとも、笑ってとも言ってほしくなかった」
「何も言わずにいたほうがよかった?」
「最初は、そう思いました」
「でも鈴を渡した」
「はい」
「だから抱きしめた?」
白雪が頷く。
「ありがとうを、うまく言えませんでしたから」
プロローグの記憶では、くまの中から小さな声でありがとうと聞こえた。
「あのときは、言っていたと思います」
「一度だけです」
「昔から回数制限が?」
「違います」
白雪が少し笑った。
「あれが、私にとって最初に難しかったありがとうだったのかもしれません」
本心から感謝すると、その人を必要としていることを認めてしまう。
だから白雪は、特別なありがとうほど言いにくい。
その始まりが、八年前の俺だった。
「それで」
俺は少し迷った後、尋ねる。
「今も、同じなんですか?」
白雪の笑みが消える。
「何がですか?」
「ありがとうが言えないとき、抱きしめる」
彼女の耳が一気に赤くなる。
「違います」
「みるくまでは、かなり多かったです」
「動作確認です」
「見守りハグができてからは?」
「活動に必要な――」
白雪が言葉を止めた。
自分でも苦しい説明だと分かったのだろう。
「全部ではありません」
「では、一部は?」
「第四条です」
逃げた。
「分かりました」
俺が素直に引くと、白雪は少し驚いたようだった。
「聞かないのですか?」
「自分で話せるときまで待つと決めましたから」
「そうでした」
「ただ、みるくまがいない間は抱きつけませんね」
冗談のつもりだった。
白雪は答えなかった。
俺は気にせず、机に残っていた裁縫道具を片づける。
数秒後。
椅子が小さく動く音がした。
白雪が立ち上がっていた。
「どうしました?」
「確認します」
「何を?」
彼女は答えず、俺の正面へ移動する。
両腕を自分の胸元へ回した。
見覚えのある動き。
次に、俺へ向けて広げる。
「見守りハグ?」
白雪は頷かなかった。
「みるくまはいませんよ」
「分かっています」
「では、白雪玲奈として?」
彼女は赤くなったまま、ゆっくり頷いた。
俺のほうが動けなくなる。
以前にも、白雪自身として抱きつかれたことはある。
小日向がみるくまを試着した後。
商店街で手をつないだこともある。
幼稚園で体調を崩したときには、俺の肩へ頭を預けた。
それでも今回は、どれとも違った。
緊急事態でもない。
動作確認でもない。
周囲に誰もいないとはいえ、着ぐるみをかぶって逃げることもできない。
白雪玲奈自身が、最初から自分の意思で両腕を広げている。
「断っても構いません」
彼女が言う。
見守りハグのルールどおりだった。
俺は小さく頷いた。
白雪が一歩近づく。
もう一歩。
動きは、みるくまのときと同じようにゆっくりだった。
俺が後ろへ下がらないことを確認している。
最後の距離まで来ると、白雪の両腕が背中へ回った。
額が俺の肩へ触れる。
制服越しに、彼女の体温が伝わってきた。
「見守りハグの練習ですか?」
俺が尋ねると、白雪は肩に顔を寄せたまま答えた。
「今日は、違います」
「では?」
「ありがとうございます」
答えになっていないようで、俺には分かった。
鈴を一緒に探したこと。
過去を思い出したこと。
彼女が泣いている間、そばにいたこと。
そして今日も、みるくまがいなくても会うと言ったこと。
言葉だけでは足りないから、抱きしめている。
八年前と同じだった。
「どういたしまして」
俺はそれ以上聞かなかった。
白雪の腕に、少しだけ力が入る。
「朝倉君」
「はい」
「今、みるくまがなくても変わらないと言いましたね」
「言いました」
「覚えていてください」
「白雪も忘れないでください」
「私は忘れません」
その言葉には妙な説得力があった。
八年間、一度会っただけの相手との約束を覚えていた人間だ。
「朝倉君は忘れる可能性があります」
「今回のことは忘れません」
「本当ですか?」
「鈴をもう一つ持たせますか」
白雪が小さく笑う。
肩に顔をつけたままなので、表情は見えない。
けれど笑ったことは分かった。
「今度は、なくさないものにします」
「何ですか?」
「まだ考えていません」
ようやく白雪が身体を離した。
顔は赤い。
視線も合わない。
それでも、みるくまの頭を探すことはしなかった。
そのまま自分の席へ戻る。
「今のことは」
言いかける。
俺は続きを待つ。
「忘れないでください」
以前なら「忘れてください」と言ったはずだ。
変わったのは、たった一語。
それだけで、今までとは全く違う意味になった。
「分かりました」
白雪は満足したように頷いた。
下校時刻が近づき、俺たちは資料を片づけた。
棚の空いた場所は、最後まで気になった。
それでも、部屋を出るときの白雪は、みるくまが運び出された直後より落ち着いていた。
扉へ鍵をかける。
一度だけ取っ手を確認する。
昨日までなら、二度三度と引いていたかもしれない。
「一回でいいんですか?」
俺が尋ねると、白雪は鍵を鞄へしまった。
「確認しましたから」
「成長しましたね」
「子ども扱いしないでください」
旧校舎の廊下を並んで歩く。
階段を下りようとしたところで、白雪が足を止めた。
壁には、学校行事の古い写真が何枚か貼られている。
その一つに、数年前の文化祭で撮られたみるくまの姿があった。
白雪は写真を見た。
「一週間後、戻ってきますよね」
「検査に問題がなければ」
「問題があったら?」
また同じ質問だった。
俺は今度は迷わなかった。
「直せるなら直します」
「直せなかったら?」
「別の方法を考えます」
「廃止と言われたら?」
「白雪は、なくしたくないんですよね」
彼女は頷く。
「なら、一緒に反対します」
「理事会を相手に?」
「これまで活動してきた記録があります。学校説明会のアンケートも、幼稚園の手紙もある。商店街からも依頼が来ています」
「それでも無理だったら?」
「そのとき考えます」
「また無責任です」
「まだ起きていないことの答えまで、全部用意するほうが無理です」
白雪は写真のみるくまを見つめた。
「朝倉君は、怖くないのですか」
「何が?」
「なくなることが」
質問は、みるくまについてだけではない気がした。
「怖いですよ」
正直に答えた。
白雪がこちらを見る。
「だから、なくならないようにするんでしょう」
彼女はしばらく何も言わなかった。
やがて、静かに頷く。
「そうですね」
二人で階段を下りる。
新校舎へ戻る途中、藤堂先輩が向こうから歩いてきた。
手には、理事会から届いたらしい封筒を持っている。
「ちょうどよかった。二人を探していたの」
「何かありましたか?」
白雪が尋ねる。
藤堂先輩はすぐには答えなかった。
表情が硬い。
「今日、みるくまを検査へ出したでしょう」
「はい」
「それとは別に、理事会で今後の広報方針について臨時の話し合いがあったそうなの」
白雪の顔から、先ほどまでの柔らかさが消える。
「廃止についてですか?」
「まだ決定ではないわ」
藤堂先輩は先にそう言った。
その言い方だけで、良い話ではないことが分かった。
「幼稚園での体調不良、着ぐるみの老朽化、今回の備品室の管理問題。この三つを理由に、みるくまの活動そのものを年度末まで休止する案が出ている」
「年度末まで?」
白雪の声が低くなる。
「九月末の再評価は?」
「活動を休止するなら、評価そのものを行わない可能性がある」
「それでは」
白雪が言葉を失う。
九月末までに結果を出せなければ廃止。
その条件で、俺たちは活動してきた。
ところが活動そのものを止められれば、結果を示すことすらできない。
「いつ決まりますか?」
俺が尋ねる。
藤堂先輩は封筒を見た。
「次の理事会。今週の金曜日」
今日が月曜日。
残された時間は四日しかない。
白雪が俺を見る。
不安は隠れていなかった。
みるくまは今、この学校にいない。
検査業者のもとにある。
そして戻ってくるより先に、活動そのものが終わるかもしれない。
「何かできることはありますか?」
白雪が藤堂先輩へ尋ねる。
「生徒会として、意見書は提出できる。活動実績もまとめられる。幼稚園や商店街からの反応も資料になると思う」
「作ります」
白雪は即答した。
「今日から」
「玲奈」
藤堂先輩が止める。
「一人で全部やろうとしないで」
白雪は口を閉じた。
以前なら「大丈夫です」と答えただろう。
今は、俺を見る。
その意味は分かった。
「俺もやります」
「私も手伝うわ。小日向さんにも、ダンス部側の意見を書いてもらえるか聞いてみる」
藤堂先輩が頷く。
白雪は両手を握りしめた。
「ありがとうございます」
今度も、迷わなかった。
「みるくまを、なくしたくありません」
その言葉も、もう隠さなかった。
俺は壁に貼られた古い写真を見る。
白いくまは、何年も前から同じ顔で笑っている。
中に誰がいても。
何が起きても。
笑顔だけは変わらない。
けれど俺はもう知っている。
その中で泣いていた少女がいたことを。
着ぐるみの中でしか、本当の自分を出せなかった少女がいたことを。
そして今、その少女はみるくまがいない場所で、自分の言葉を使って助けを求めている。
「白雪」
俺が呼ぶと、彼女がこちらを見る。
「今度は、みるくまを俺たちが助ける番ですね」
白雪は少し驚いた後、写真へ視線を向けた。
それから、ゆっくり頷いた。
「はい」
旧校舎の廊下には、もう白いくまはいない。
それでも俺たちは、同じ場所に立っていた。
みるくまがいなくても。
活動が終わるかもしれなくても。
二人をつないでいたものが、着ぐるみだけではなくなっている。
そのことを、俺はようやく理解し始めていた。
そして四日後。
俺たちが集めた言葉や記録とは関係なく、理事会から一つの決定が下されることになる。
みるくまの存続そのものを揺るがす、最悪の決定が。




