第十章 ~みるくま廃止決定~
みるくまの活動休止案が理事会にかけられるまで、残された時間は四日だった。
その四日間、広報備品室にはみるくまがいなかった。
白い頭部も、少し大きすぎる胴体も、壁際へ立てかけていた白い手足もない。棚の一角だけが不自然に空いていて、部屋へ入るたびにそこへ目が向いた。
それでも、放課後の備品室に人が集まらなくなったわけではない。
むしろ以前より多かった。
「学校説明会のアンケート、みるくまについて書かれているものだけ抜き出しました」
小日向ひまりが、コピー用紙の束を長机へ置く。
「全部で七十八件です。『緊張がほぐれた』『子どもが喜んでいた』『学校の雰囲気が伝わった』が多いです」
「ありがとうございます」
白雪は資料を受け取り、一枚ずつ確認していく。
その隣では、藤堂先輩がノートパソコンへ数字を入力していた。
「ひかり幼稚園からも園長先生名義で意見書をいただけることになったわ。商店街からは、会長さんと撮影予定だった店舗十三軒の連名」
「十三軒全部ですか?」
俺が尋ねると、藤堂先輩は頷いた。
「朝倉洋装店も入っているわよ」
「母親ですね」
「かなり長い文章だったわ」
想像できる。
頼んだ覚えはないが、話を聞けば真っ先に書きそうな人間だった。
窓際では、相川がホチキスを片手に資料をまとめている。
本来、みるくまの中身を知らない相川がここにいること自体、少し前なら考えられないことだった。
「なあ朝倉。これ、ほんとに一部ずつでいいんだよな?」
「理事一人につき一部。予備を二部」
「了解」
相川は返事をすると、再び紙を揃え始める。
事の始まりは、昨日の昼休みだった。
俺と白雪が教室で活動実績をまとめているところを相川に見つかり、事情を尋ねられた。みるくまが廃止される可能性が高いと説明すると、彼は詳しい理由を聞くこともなく言った。
『何か手伝えることある?』
着用者の秘密は話していない。
相川が知っているのは、俺と白雪がみるくまの存続活動へ関わっていることだけだ。
それでも十分だった。
放課後に資料を運び、学校説明会のアンケートを分類し、今日は印刷物の製本まで手伝っている。
「相川君」
白雪が呼ぶと、彼が顔を上げた。
「何?」
「昨日から、ありがとうございます」
「いいって。俺、小学校の頃に商店街でみるくま見てるし」
相川は気楽な口調で答えた。
「なくなるって聞くと、なんか嫌だしな」
白雪の手が止まる。
「何か、思い出がありますか?」
「そこまで大げさなのはないよ」
相川はホチキスを置き、少し考えた。
「小三くらいかな。商店街の祭りで迷子になってさ。親が見つかるまで、みるくまの横にいた」
俺と白雪は同時に彼を見る。
「みるくまが?」
俺が尋ねる。
「多分、中の人が係の人を呼んでくれたんだと思う。しゃべらないからよく分からなかったけど」
相川は笑った。
「俺が泣いてたら、横に座ってくれたんだよ。何もしてない。ただ、ずっと隣にいた」
白雪の表情が変わった。
幼稚園の遊戯室で、着ぐるみを怖がる柚葉から少し離れた場所へ座っていたみるくま。
白雪自身が昔、してほしかったこと。
相川もまた、同じような記憶を持っていた。
「それ、資料へ入れてもいいですか?」
白雪が尋ねる。
「俺の迷子話?」
「はい」
「別にいいけど、理事会で必要?」
白雪は少し考えてから答えた。
「必要だと思います」
その声には確信があった。
「数字だけでは、みるくまが残ってきた理由を説明できませんから」
俺たちが集めていたのは、人気を証明する数字だけではなかった。
学校説明会で、受験を前に不安になっていた女子中学生が、みるくまへ抱きしめられた後に笑ったこと。
幼稚園で、着ぐるみを怖がっていた柚葉が、自分から手を伸ばしたこと。
商店街の店主たちが、久しぶりに地域の子どもたちがみるくまの名前を口にしていると喜んでいたこと。
そして相川のように、何年も前の小さな出来事を覚えている生徒がいること。
広報効果という言葉だけでは測れないものが、思っていた以上に残っていた。
「昔のみるくまって、今と中の人は違いますよね?」
小日向が尋ねる。
白雪の動きが一瞬だけ止まる。
「おそらく」
俺が代わりに答えた。
「十年以上使われているから、何人も入っていると思う」
「でも、似たことしてるんですね」
小日向は相川の証言を書き起こした紙を見る。
「泣いてる人の隣にいるとか、追いかけないとか」
白雪がゆっくり顔を上げる。
「みるくまは、昔からそういうキャラクターだったのかもしれません」
「設定資料には、そこまで書いてなかったですよね?」
「はい」
棚に保管されている古い設定資料には、『生徒を見守る白いくま』としか書かれていなかった。
見守るとは何をすることなのか。
具体的な決まりはない。
それでも歴代の着用者たちは、それぞれの考えで誰かのそばにいた。
そして今、白雪は見守りハグという形を作った。
「誰が最初に始めたのか、調べられますかね」
小日向の何気ない言葉に、白雪の視線が俺へ向く。
八年前、病院の非常階段で泣いていたみるくま。
そこにいたのは白雪だ。
ただし、彼女はあの日が初めてみるくまへ入ったと言っていた。
つまり、その前から「みるくまは誰かのそばにいるキャラクターだった」という可能性がある。
「今は理事会の資料を優先しましょう」
白雪が話を戻した。
「過去の記録は、存続が決まってから調べます」
存続が決まってから。
その言葉を、誰も否定しなかった。
俺たちはまだ、残せると思っていた。
少なくとも、話を聞いてもらうことはできると思っていた。
木曜日の夜までに、資料は完成した。
学校説明会の来場者アンケート。
幼稚園から届いた手紙の一部。
園長からの意見書。
商店街からの出演要望。
公式広報アカウントへの反応。
生徒から集めた、みるくまに関する記憶。
さらに、今後の安全対策案も作った。
着用時間を一回二十分以内に制限する。
必ず二十分以上の休憩を入れる。
気温と湿度によって活動時間をさらに短縮する。
着用者は主担当と補助担当の二名以上。
単独行動は禁止。
活動中は安全管理者が常に同行する。
体調不良の合図を統一し、着用者自身が続行を希望しても、安全管理者が中止を判断できる。
白雪が以前なら嫌がったであろう条件も、すべて本人が受け入れた。
「これなら、幼稚園のときのようなことは起きません」
白雪は完成した安全計画を見ながら言った。
「絶対とは言えません」
俺が訂正する。
「事故の可能性をゼロにはできません」
「そうですね」
彼女は素直に頷いた。
「でも、減らすことはできます」
「はい」
以前の白雪なら、絶対に大丈夫だと言い切ろうとしたかもしれない。
今は、自分一人ではどうにもできないことを認められる。
それだけでも大きな変化だった。
金曜日。
朝から雨が降っていた。
夏の終わりが近いとはいえ、空気はまだ湿っている。教室の窓には細かな雨粒が流れ、グラウンドでは体育の授業が中止になっていた。
理事会は午後三時から始まる。
俺たちが直接参加することはできない。
藤堂先輩が生徒会代表として意見書を提出し、黒岩先生が学校側の担当教員として活動実績を説明することになっている。
俺と白雪は通常どおり授業を受けるしかなかった。
それが、一番落ち着かなかった。
五時間目の数学。
白雪は普段なら教師より先に問題を解き終える。
今日は、同じ式を何度も書き直していた。
黒板を見る。
ノートを見る。
消す。
もう一度書く。
俺の席からでも、集中できていないことが分かった。
教師には気づかれていない。
周囲の生徒にも。
おそらく俺だけだ。
休み時間になる。
白雪は席を立たなかった。
俺もすぐには近づかなかった。
教室には人が多い。
それでも、今は話しかけてもいい気がした。
前の席の相川が購買へ行ったのを確認し、俺は窓際へ向かった。
「白雪」
彼女が顔を上げる。
「何でしょうか」
「そこ、符号が逆です」
ノートを指差す。
白雪は自分の計算を見る。
「本当ですね」
「珍しいですね」
「少し考え事をしていました」
「少し?」
彼女は俺の言葉を無視し、消しゴムで式を消した。
「朝倉君は、気にならないのですか?」
「理事会?」
「はい」
「気になります」
「普通に授業を受けていました」
「何もできないので」
「そういうところが、少し羨ましいです」
白雪は消した式を書き直す。
「私は、何もできない時間が苦手です」
「知っています」
「失礼です」
「今まで何度も見ています」
青い鈴がなくなったときも、同じ場所を何度も探した。
幼稚園で体調を崩したときも、休むより先に次の活動を気にした。
何かをしていれば、不安を考えずに済むのかもしれない。
「できることは全部しました」
俺が言う。
白雪のペンが止まる。
「資料も作った。安全対策も考えた。幼稚園や商店街からも意見をもらった」
「それでも足りなかったら?」
「結果が出てから考えます」
「また、それですか」
「まだ決まっていないものを、先に失ったことにしないほうがいいです」
白雪は俺を見る。
「朝倉君は、ときどき簡単に難しいことを言います」
「白雪が難しく考えすぎるんです」
「それも失礼です」
今度は少しだけ笑った。
「放課後、備品室へ行きますか?」
俺が尋ねる。
「みるくまはいません」
「知っています」
「活動もありません」
「知っています」
白雪は一度窓の外を見た。
雨はまだ降っている。
「では、行きます」
短い返事だった。
理事会が終わったのは、午後五時を過ぎてからだった。
俺と白雪は備品室にいた。
活動資料はすでに整理され、やるべきことは残っていない。
それでも二人とも帰らなかった。
白雪は窓際の長椅子へ座り、幼稚園から届いた手紙を読み返している。
俺は長机で、みるくまが戻ってきた場合に必要になる補修箇所をノートへまとめていた。
仮定の作業だった。
戻ってくると決まっているわけではない。
それでも何かをしていたい気持ちは、俺も同じだったらしい。
午後五時十三分。
廊下から足音が聞こえた。
二人とも同時に扉を見る。
ノックが三回。
白雪が立ち上がる。
「どうぞ」
扉が開いた。
藤堂先輩と黒岩先生が入ってくる。
二人の表情を見た瞬間、結果が分かった。
誰も、すぐには話さなかった。
黒岩先生は扉を閉める。
藤堂先輩が、持っていた封筒を長机へ置いた。
白雪は立ったまま、二人を見ている。
「決まったのですか?」
自分から尋ねた。
藤堂先輩が頷く。
「決まったわ」
「結果を教えてください」
声は震えていない。
表情も崩れていない。
教室で見る白雪玲奈と同じだった。
黒岩先生が口を開く。
「理事会は、みるくまを今年度で廃止することを決定した」
部屋の中が静かになった。
窓の外では雨音が続いている。
俺は言葉を探した。
何も浮かばなかった。
白雪だけが、まっすぐ黒岩先生を見ている。
「今年度で、ということは」
「来年度以降、学校公式マスコットとして使用しない」
「着ぐるみは?」
「年度末をもって学校備品から除外する予定だ」
白雪の指先が動いた。
「廃棄ですか?」
「現時点では、その方針だ」
彼女の顔から少しずつ色が消えていく。
それでも、声だけは落ち着いていた。
「理由を教えてください」
藤堂先輩が封筒から書類を取り出す。
「今日の資料は、すべて見てもらえたわ。学校説明会の反応も、幼稚園からの手紙も、商店街からの意見も」
「それでも、ですか」
「ええ」
藤堂先輩は苦しそうに答えた。
黒岩先生が説明を続ける。
「主な理由は三つだ。まず、着ぐるみそのものの老朽化。今日、検査業者から途中経過が届いた」
「検査結果は?」
俺が尋ねる。
「現状のまま長期使用することは推奨できない。頭部内部の骨格、足底、外装の一部に劣化がある。ただし、修理すれば使用自体は可能だ」
「なら」
白雪が一歩前へ出る。
「修理してください。必要な費用があるなら――」
言いかけて止まった。
以前なら、自分で払うと言ったかもしれない。
今は、それが正しい解決ではないと分かっている。
「費用だけが問題ではない」
黒岩先生は静かに続けた。
「二つ目は、今後の維持管理だ。専門点検、洗浄、消耗部品の交換。安全に使い続けるなら、毎年一定の費用と管理責任が必要になる」
「それは、新しいキャラクターでも同じでは?」
俺が尋ねる。
「着ぐるみを使うならな」
藤堂先輩が答えた。
「理事会が検討している新しい広報キャラクターは、基本的にイラストとデジタル展開を中心にするそうよ。着ぐるみは常設しない方針」
つまり、維持費そのものをなくす。
学校案内、公式サイト、動画、SNS。
現在の広報活動だけを考えれば、合理的な判断ではある。
「三つ目は?」
白雪が聞く。
黒岩先生が一瞬だけ言葉を選んだ。
「特定の生徒に依存しすぎていることだ」
白雪の表情が固まる。
「私ですか」
「白雪だけではない。朝倉の修理技術も含めてだ」
俺も予想していなかった。
「俺?」
「今回、みるくまが活動を再開できたのは、朝倉が内部を直したからだ。見守りハグや動作方法も、白雪と朝倉が中心になって作った」
「小日向さんもいます」
白雪が反論する。
「交代要員として育成中です」
「それでも、来年お前たちは三年生だ。その次は卒業する」
黒岩先生の言葉に、白雪が黙った。
「学校の公式広報を、毎年特定の生徒の善意と技能に頼る仕組みにはできない。理事会の判断は、そこにもある」
間違ってはいない。
だからこそ、反論が難しかった。
俺たちはみるくまを残そうとして、自分たちでできることを増やした。
修理。
安全管理。
演出。
地域との連携。
その結果、逆に「この二人がいなければ続けられない」と判断された。
「では」
白雪が静かに尋ねる。
「私たちが活動したことが、廃止の理由になったのですか?」
「違う」
黒岩先生はすぐに否定した。
「活動がなければ、もっと早く廃止されていた可能性が高い」
「でも、結果は同じです」
「玲奈」
藤堂先輩が呼ぶ。
白雪は彼女を見なかった。
「学校説明会で反応を得ても。幼稚園の子どもたちが手紙を書いてくれても。商店街から必要だと言ってもらっても」
一つずつ口にする。
「全部、意味がなかったのですか?」
「そんなことはない」
「なら、なぜなくすのですか?」
声が初めて揺れた。
藤堂先輩は答えられなかった。
黒岩先生も、すぐには言葉を返さない。
俺は白雪の横顔を見る。
青い鈴を失ったとき、彼女は取り乱した。
何度も同じ場所を探し、最後には屋上前の踊り場で涙を流した。
今は泣いていない。
泣けないのかもしれない。
「理事会の判断が、すべて正しいとは俺も思っていない」
黒岩先生が言った。
「ただ、学校として責任を負う以上、安全と継続性を無視することもできない」
「分かっています」
白雪が答える。
その言葉を聞いた瞬間、嫌な予感がした。
分かっています。
彼女が自分の気持ちを押し込めるとき、何度も使ってきた言葉だ。
「安全が大切なことも。予算に限りがあることも。私たちが卒業することも」
白雪は一度、目を閉じる。
「理事会の判断は、合理的だと思います」
そこで終わるつもりなのだと分かった。
正しいことを理解し、自分を納得させる。
いつもの白雪玲奈へ戻る。
「白雪」
俺が呼ぶ。
彼女は目を開けた。
「何でしょうか」
「本当に、それでいいですか?」
「何がですか?」
「納得していますか?」
「納得するかどうかで、決定は変わりません」
「聞いているのは、白雪の気持ちです」
彼女の表情が揺れる。
藤堂先輩と黒岩先生は口を挟まなかった。
「どう思ってるんですか」
もう一度尋ねる。
白雪は机の上に置かれた廃止決定の書類を見る。
長い時間が過ぎた。
「嫌です」
小さな声だった。
「聞こえません」
白雪が俺を見る。
今度は、はっきり言った。
「嫌です」
その声が部屋に響く。
「廃止なんて、嫌です」
両手を強く握る。
「合理的でも、安全のためでも、学校の判断でも。私は嫌です」
涙はまだない。
代わりに、抑えていた感情が言葉になって出てくる。
「みるくまは、古いから必要ないものではありません」
白雪は棚の空いた場所を見る。
「新しいキャラクターのほうが広報に向いていると言われても、デジタルなら維持費が安いと言われても、それで同じものになるとは思いません」
誰も止めなかった。
「幼稚園で、柚葉さんはみるくまを怖がっていました。でも最後には自分から触ってくれた。学校説明会では、受験が怖くなった人が笑ってくれた。相川君は、小さい頃に迷子になったとき、隣にいてもらったことを覚えていました」
そして。
「私は八年間、みるくまに助けられてきました」
初めて、大人たちの前で口にした。
藤堂先輩が息を呑む。
黒岩先生も、わずかに目を細めた。
白雪は止まらなかった。
「私にとって大切だから残したい。それだけでは、学校の理由にならないことも分かっています」
声が震える。
「でも、大切だと思っている人がこれだけいるのに、数字にできないから必要ないと決めるのは、違うと思います」
俺は何も言わなかった。
白雪が自分で話している。
みるくまの中でもない。
俺と二人きりでもない。
自分の気持ちを隠さず、大人へぶつけている。
「私は、諦めたくありません」
白雪が黒岩先生を見る。
「決定した後でも、できることはありませんか?」
黒岩先生は長く息を吐いた。
「理事会の決定を、教員一人で覆すことはできない」
「分かっています」
「ただし」
先生は藤堂先輩を見る。
彼女が封筒の中から、もう一枚の書類を取り出した。
「完全に終わったわけではない」
白雪の顔が上がる。
「どういう意味ですか?」
「理事会は今年度での廃止を決めた。でも、即日活動終了ではないわ」
「年度末まで使用するのですか?」
「いいえ」
藤堂先輩は書類を俺たちへ向けた。
上部に、地域文化祭マスコット交流企画、と書かれている。
九月に市民文化祭と合同で開催される、地域マスコットコンテスト。
俺と白雪が最初から目標にしていたイベントだった。
「参加申請は、もう受理されています」
藤堂先輩が説明する。
「主催者側の印刷物にも、みるくまの名前が載っている。商店街からも、学校側へ参加を継続してほしいという要望が出た」
「では」
白雪が書類へ手を伸ばす。
「出られるのですか?」
「条件つきで」
黒岩先生が答えた。
「専門業者の修理と安全確認を完了すること。当日は着用時間を厳守すること。学校側の監督者が同行すること」
「それを守れば?」
「地域文化祭への参加を、みるくま最後の公式活動として認める」
最後。
その言葉だけが、重く残った。
「コンテストで優勝しても?」
白雪が尋ねる。
藤堂先輩の表情が曇る。
「現時点では、廃止決定は変わらない」
「結果に関係なく?」
「そう説明されているわ」
白雪は書類を見つめた。
俺たちは、コンテストで結果を出せば、みるくまを残せると思っていた。
それを目標に始めた。
今は違う。
優勝しても廃止。
負ければもちろん廃止。
最後の舞台は、存続をかけた挑戦ではなく、ただの別れになる。
「参加しない選択もできる」
黒岩先生が言った。
「今なら主催者へ事情を説明し、辞退することも可能だ。白雪、お前が無理をして出る必要はない」
彼女はすぐには答えなかった。
長机の上に置かれたコンテストの資料。
棚の空いた場所。
幼稚園から届いた手紙。
壁に貼ってある、過去のみるくまの写真。
一つずつ見ていく。
「出ます」
最後に、白雪は言った。
「玲奈」
藤堂先輩が心配そうに名前を呼ぶ。
「廃止が決まっていても?」
「はい」
「結果が変わらなくても?」
「はい」
白雪は俺を見る。
「最後だからこそ、出たいです」
迷いはなかった。
「今までみるくまを見てくれた人に、何も言わずにいなくなるほうが嫌です」
みるくまは話せない。
言葉を使わない。
それでも、最後に伝えられるものはある。
「朝倉君」
「はい」
「手伝っていただけますか?」
俺は少しだけ笑った。
「今さら聞くんですか?」
彼女の表情が緩む。
「正式な協力者ですから」
「そうでした」
「最後まで責任を持ってください」
最初に備品室で言われた言葉だった。
あの頃の俺は、学校説明会まで修理をするだけのつもりだった。
気づけば、幼稚園へ行き、商店街を歩き、青い鈴を探し、白雪の八年前の秘密まで知っている。
「最後とは、まだ決めません」
俺が言うと、白雪が首を傾げる。
「廃止は決定したと」
「決定したことと、納得することは別だと、さっき白雪が教えてくれました」
「私はそこまで言っていません」
「同じようなものです」
黒岩先生が小さく笑った。
「お前たちが何を考えているかは分からんが、規則を破るなよ」
「破りません」
「理事会へ勝手に乗り込むのも駄目だ」
「しません」
「署名を集めて校門を封鎖するのも」
「そこまでは考えてません」
「朝倉、お前は意外とやりそうだから言っている」
どんな評価をされているのか。
藤堂先輩も少しだけ笑った。
張り詰めていた空気が、ようやく緩む。
「修理の見積もりについては、学校側で対応することになっているわ」
藤堂先輩が言った。
「最後の活動として認めた以上、必要な費用は学校が負担する。ただ、すべて新品にするわけではない。安全に必要な部分だけ」
「左耳は?」
白雪がすぐに聞く。
黒岩先生が呆れたように息を吐く。
「業者にも伝えてある」
「形は変わりませんか?」
「変えない」
「毛の色も?」
「白雪」
「大切なことです」
「分かっている」
ようやく彼女らしい反応が戻った。
「戻ってくるのはいつですか?」
俺が尋ねる。
「早ければ来週の水曜日」
文化祭までは、まだ時間がある。
ただし、最後のステージに向けて準備できる期間は長くない。
「これまでと同じ内容では駄目だと思います」
白雪が言った。
「最後なら、今までのみるくまがしてきたことを全部伝えたい」
「踊りも?」
藤堂先輩が尋ねる。
「はい。でも、それだけではありません」
白雪は幼稚園から届いた手紙を一枚手に取った。
柚葉のものではない。
『みるくまさん そばにいてくれてありがとう』
と書かれた一枚だった。
「みるくまが、誰かのそばにいたことを見せたいです」
「ステージで?」
俺が尋ねる。
白雪は頷く。
「派手なことをするだけなら、小日向さんのほうが上手です」
「白雪先輩」
小日向が反論しようとする。
白雪は笑って首を横へ振った。
「悪い意味ではありません。だから、小日向さんにも協力してほしい」
「もちろんです」
「朝倉君にも」
「分かっています」
「藤堂先輩にも」
「生徒会としてできることなら」
「黒岩先生も」
「俺まで出るのか?」
先生が嫌そうな顔をした。
「必要であれば」
「検討しておく」
断らなかった。
白雪は長机の中央へコンテストの資料を広げた。
さっきまで、みるくまの廃止決定が置かれていた場所だった。
「最後のステージを作りましょう」
言葉は強かった。
けれど俺は、その表現が気に入らなかった。
最後。
まだ終わっていない。
「白雪」
「何でしょうか」
「最後かどうかは、終わってから決めませんか」
彼女が俺を見る。
「でも、理事会は」
「分かっています」
決定は決定だ。
俺たちが勝手に変えられるものではない。
それでも、文化祭まで何週間もある。
みるくまを必要としている人もいる。
やれることが、本当に一つも残っていないとは思えなかった。
「今は、最高のステージを作ることだけ考えましょう」
俺が言うと、白雪はしばらく黙っていた。
やがて頷く。
「そうですね」
それから俺たちは、下校時刻ぎりぎりまで話し合った。
ただ踊るだけではない。
みるくまが長い間どんな場所へ行き、どんな人のそばにいたのか。
学校。
病院。
商店街。
幼稚園。
地域の祭り。
残っている写真をつなげる。
子どもたちの手紙を、許可を得た上で映像にする。
見守りハグも行う。
ただし、これまでとは少し違う形にする。
ステージから一方的に何かを見せるのではなく、会場にいる人たちにも参加してもらう。
「みるくまが抱きしめられる側になるのはどうでしょう」
小日向が提案した。
「抱きしめられる側?」
白雪が聞く。
「今までは、みるくまが誰かを応援してましたよね。でも最後なら、みんなからみるくまに『ありがとう』を返してもらうとか」
白雪の表情が止まった。
「例えば、カードに一言書いてもらって、ステージの周りに貼るんです」
小日向は身振りを交えて続ける。
「ハグは全員だと難しいけど、手を振ったり、カードを渡したりならできます」
「ありがとうを、返す」
白雪が小さく繰り返す。
俺は彼女を見る。
本心からの「ありがとう」を言うことが苦手だった白雪。
今では、少しずつ言えるようになった。
その彼女が、今度はみるくまへ感謝を返す側になる。
悪くない。
「やりましょう」
白雪が言った。
「みるくまが誰かを見守るだけではなく、みるくまを見ていた人もいたことを残したいです」
企画の中心が決まった。
時計を見ると、完全下校まであと十分しかない。
慌てて資料を片づける。
藤堂先輩と小日向が先に部屋を出る。
黒岩先生も職員室へ戻った。
最後に残った俺と白雪は、いつものように戸締まりを確認した。
棚の空いた場所へ、白雪の目が向く。
「来週には、戻ってきます」
俺が言う。
「はい」
「少しきれいになって」
「見た目は変えないようお願いしています」
「左耳も」
「絶対です」
そこまで重要なのかと思う。
けれど白雪にとっては、少し垂れた左耳も含めてみるくまだ。
俺たちは部屋を出た。
雨はまだ降っていた。
昇降口で傘を開く。
白雪も自分の傘を出した。
透明なビニール傘ではなく、濃い紺色の傘だった。
外へ出ようとすると、彼女が俺を呼び止める。
「朝倉君」
「何ですか」
白雪は鞄から、小さな透明ケースを取り出した。
中には、戻ってきた青い鈴が入っている。
「今日は、持ち帰るのですか?」
「はい」
「なくさないでください」
「朝倉君に言われたくありません」
「俺のほうは八年間残っています」
「私も八年間なくしませんでした」
「一日だけなくなりました」
白雪が不満そうな顔をする。
「私のせいではありません」
「分かっています」
彼女はケースから鈴を取り出した。
自分の掌へ載せる。
ちりん。
小さな音が、雨音の中に混ざる。
「朝倉君のも」
「何が?」
「鳴らしてください」
言われるまま、鞄についている鈴を指で揺らす。
ちりん。
少し音の高さが違う。
同じ形でも、長い時間それぞれ別の場所で使われてきたからだろう。
白雪は二つの音を聞き、少し笑った。
「前は、同じ音だと思っていました」
「違いますね」
「はい」
「別物になりましたか?」
俺が何気なく尋ねる。
白雪は少し考えた。
「いいえ」
「音が違っても?」
「一緒だったものが、別々の時間を過ごしただけです」
彼女は自分の鈴を握る。
「それでも、対になっていることは変わりません」
その言葉が、なぜか胸に残った。
みるくまも同じなのかもしれない。
中に入った人間は、一人ではない。
時代によって動き方も違う。
白雪が作った見守りハグも、昔からあったものではない。
変わっている。
それでも、長い時間の中でつながっているものがある。
「みるくまも、そうかもしれませんね」
俺が言うと、白雪がこちらを見る。
「何がですか?」
「中身や活動が変わっても、全部つながってる」
相川が子どもの頃に会ったみるくま。
病院の非常階段にいた白雪。
学校説明会で受験生を抱きしめたみるくま。
幼稚園で柚葉が近づくまで待ったみるくま。
どれも同じではない。
でも、全部みるくまだ。
白雪は少し垂れたくまの左耳を思い浮かべるように、目を細めた。
「だから、なくしたくないです」
「はい」
「絶対に」
以前なら、俺は学校の決定だから仕方ないと言っていたかもしれない。
余計な争いには関わらない。
頼まれ事は断れるうちに断る。
それが俺の高校生活の方針だった。
今は、その三つとも守れていない。
「俺もです」
そう答えると、白雪が少し驚いた。
「朝倉君も?」
「なくなったら困ります」
「修理するものがなくなるから?」
「それもあります」
「それだけですか?」
商店街で、俺が白雪へ何度も聞いた言葉を、今度は彼女が使った。
俺は一瞬考える。
そして、正直に答えた。
「みるくまがなかったら、白雪とこんなに話すこともなかったので」
彼女の頬が少し赤くなる。
「それは、今後も話すと言っていました」
「だから、みるくまがなくなっても白雪との関係は変わらない。でも、出会わせてくれたものがなくなるのは嫌です」
白雪は何も言わなかった。
雨が傘を叩く。
昇降口の屋根から、大きな雫が地面へ落ちている。
「ありがとうございます」
彼女が言った。
迷いのない、本心からの言葉だった。
「今のは、何に対して?」
「全部です」
白雪はそれだけ答え、傘を開いた。
俺たちは並んで校門へ向かう。
途中、風が強くなり、白雪の傘が少し煽られた。
俺が支えようとすると、その前に彼女がこちらへ寄った。
二つの傘が触れる。
肩の距離が近くなる。
「濡れますよ」
俺が言う。
「朝倉君もです」
白雪は離れなかった。
校門を出る。
雨の中、二人で駅へ向かう。
みるくまは学校にいない。
そして今日、その廃止は正式に決まった。
それでも不思議と、四日前より絶望してはいなかった。
青い鈴をなくしたとき、白雪は過去まで消える気がすると言った。
けれど、なくなった鈴は戻ってきた。
失ったと思ったものが、必ずそのまま消えるとは限らない。
なら、今回もまだ終わりではない。
地域文化祭。
みるくまにとって最後と決められた舞台。
そこで何ができるのかは、まだ分からない。
ただ一つだけ決めた。
最後だから立つのではない。
最後にしないために、立つ。
白雪も、おそらく同じことを考えている。
駅へ向かう途中、彼女の鞄の中から青い鈴が小さく鳴った。
俺の鞄についているもう一つの鈴も、歩く振動で音を返す。
ちりん。
ちりん。
八年間、別々の場所で鳴っていた二つの音が、今は同じ道を歩いていた。




