第十一章 ~最後のステージ~
みるくまが学校へ戻ってきたのは、水曜日の放課後だった。
広報備品室の扉を開けた瞬間、白雪玲奈は俺より先に中へ入った。
部屋の中央には、大きな運搬用ケースが置かれている。
専門業者による修理と安全点検を終えたばかりで、ケースの側面には検査済みを示す書類が貼られていた。
「開けてもいいですか?」
白雪が黒岩先生へ尋ねる。
「そのために持ってきたんだ」
許可を得ると、彼女はケースの金具へ手を伸ばした。
一つ。
二つ。
三つ。
いつもの白雪なら迷いなく外すところだが、今日は妙に慎重だった。
最後の金具を外し、蓋を持ち上げる。
白い毛が見えた。
最初に現れたのは、丸い頭部だった。
黒い目。
水色のリボン。
少し垂れた左耳。
「変わっていません」
白雪が小さく言った。
「そこが最初の感想ですか」
俺が尋ねると、彼女は真剣な顔で頷いた。
「重要です」
業者は約束どおり、外見をできる限り変えずに修理してくれていた。
頭部内部の骨格は新しい素材へ交換され、クッションも調整されている。足底には滑りにくい素材が追加され、俺が仮に取りつけていた小型ファンも、配線ごと安全な位置へ固定し直されていた。
それでも外側から見れば、以前のみるくまとほとんど変わらない。
新品のようになったわけではない。
毛並みには、長く使われてきた跡が残っている。
左耳も、少しだけ垂れたままだ。
「朝倉」
黒岩先生が検査書類を俺へ渡す。
「一通り読んでおけ」
確認すると、安全に使用するための条件が細かく記載されていた。
一回の連続着用は原則二十分以内。
気温二十八度以上の場合はさらに短縮。
必ず補助者を配置する。
屋外での激しい動作は禁止。
頭部に強い衝撃があった場合は、その時点で活動を中止する。
内部骨格は補修されているものの、外装そのものの経年劣化は残っている。
安全に使える。
ただし、これから何年も使い続けることを前提にした修理ではない。
地域文化祭。
みるくま最後の公式活動。
その一日を終えるための修理だった。
「問題ありません」
俺が書類を閉じる。
白雪はすでに、みるくまの頭部を両手で持ち上げていた。
「白雪」
「何でしょうか」
「まだ着ないでください」
動きが止まる。
「どうしてですか?」
「俺が内部を確認します」
白雪は少し不満そうだったが、素直に頭部を戻した。
以前なら、自分で大丈夫だと判断して、そのまま着ていたかもしれない。
俺は内部の固定箇所を一つずつ確認する。
業者の作業に問題はなかった。
むしろ俺が直していた頃より、かなり安定している。
胸元の内ポケットも補修されていた。
白雪の青い鈴を入れる場所だ。
「ここは俺が作り直した部分を、そのまま残してくれたみたいです」
白雪が近づく。
「鈴を戻しても大丈夫ですか?」
「固定できるようになっています。ただ、今回はケースごと入れたほうが安全です」
「分かりました」
白雪は鞄から、小さな透明ケースを取り出した。
中には、八年前に俺が渡した青い鈴が入っている。
一度なくなり、ようやく戻ってきたものだ。
彼女はケースから鈴を出した。
ちりん。
小さな音が鳴る。
「入れます」
白雪は俺へ確認してから、内ポケットへ鈴を収めた。
留め具を閉じる。
もう一度、着ぐるみを軽く動かす。
外側へ音はほとんど漏れない。
それでも白雪は満足そうだった。
「これで、戻りました」
「何がですか?」
「みるくまです」
外見だけではなく、青い鈴まで戻ったことで、白雪にとってのみるくまが完成したのだろう。
「試着しますか?」
俺が尋ねると、彼女はすぐに頷いた。
「お願いします」
黒岩先生は呆れたように笑い、備品室を出ていった。
「無茶をするなよ」
「分かっています」
白雪の返事を聞いた先生が、扉を閉める。
俺は着ぐるみの胴体を広げた。
白雪が足を入れ、両腕を袖へ通す。
背中のファスナーを閉める前に声をかける。
「触ります」
「まだ言うのですね」
「最後まで言います」
その言葉を口にしてから、少し後悔した。
最後。
白雪も気づいたらしい。
一瞬だけ黙る。
「最後とは、まだ決めないと話しました」
「そうでした」
俺は言い直した。
「これからも言います」
白雪の口元が少しだけ緩んだ。
「はい」
背中のファスナーを閉め、固定ベルトを調整する。
最後に頭部をかぶせる。
留め具を固定すると、白雪玲奈の姿が消えた。
代わりに、白いくまが立っている。
みるくまが自分の両手を見る。
腕を上げる。
身体を左右へ揺らす。
慎重に一歩歩く。
もう一歩。
以前より頭部が軽くなったため、動作は安定していた。
「どうですか?」
俺が尋ねる。
みるくまが大きく丸を作る。
問題ないらしい。
続いて、両腕を自分の胸へ回した。
見守りハグの合図。
「戻ってきた直後からですか」
白い腕がこちらへ広げられる。
俺は頷いた。
みるくまがゆっくり近づいてくる。
白い身体に包まれた。
以前と同じ柔らかな感触。
頭部が俺の肩へ乗る。
「どうですか?」
くまの中から、小さな声が聞こえた。
「何が?」
「違いませんか?」
俺は少し考える。
外側は修理された。
内部の骨格も変わっている。
それでも。
「白雪のみるくまです」
白い腕へ少しだけ力が入った。
「本当に?」
「分かります」
「どこで?」
「秘密です」
俺が答えると、くまの頭が少しだけ離れた。
「第四条を使うのですか?」
「白雪だけの権利ではありません」
みるくまが、俺の肩を軽く叩いた。
それからもう一度だけ身体を寄せ、今度は自分から離れた。
「問題ありません」
白雪の声がくまの中から聞こえる。
「何が?」
「みるくまも、朝倉君も」
「俺は修理に出てませんよ」
「分かっています」
その日の放課後から、最後のステージへ向けた準備が始まった。
地域文化祭は、桜庭市民文化会館と隣接する中央公園を使って行われる大きな催しだった。
地域マスコットコンテストには、市内外から十二体のキャラクターが参加する。
商店街。
企業。
地域団体。
観光協会。
それぞれがステージで五分間の演技を行い、審査員の評価と来場者投票を合わせて順位が決まる。
俺たちに与えられた時間も五分。
短い。
けれど、みるくまが十二年以上存在してきた時間を伝えるには、十分ではなかった。
「全部入れようとすると、何も伝わらなくなります」
木曜日の放課後、俺が言うと、白雪はステージ構成案から顔を上げた。
長机には大量の案が並んでいた。
最初の三十秒で登場。
四十五秒踊る。
過去の写真をスクリーンに映す。
園児の手紙。
学校説明会。
商店街。
見守りハグ。
最後に観客からメッセージを集める。
小日向も頭を抱えている。
「五分って、短すぎません?」
「一曲踊ったら、半分近く終わります」
藤堂先輩も時計を見ながら答える。
「ほかのマスコットはどうするんですか?」
「ダンスや地域紹介が多いみたい。特産品をステージで紹介する団体もあるわ」
白雪は資料を見つめた。
「私たちは、みるくまが何をするキャラクターなのかを伝える必要があります」
「見守るくま」
小日向が答える。
「でも、ステージから五分見せるだけだと、見守る感じがしないですよね」
そのとおりだった。
みるくまの良さは、派手な動きではない。
相手を見つける。
待つ。
近づいてもいいか確認する。
必要なら抱きしめる。
必要がなければ、何もせず隣にいる。
それは大きなステージと相性が悪い。
「逆に、何もしない時間を作りませんか?」
俺が言うと、全員がこちらを見る。
「何もしない?」
白雪が尋ねる。
「みるくまがステージの中央に座るだけです」
「コンテストですよ?」
小日向が首を傾げる。
「最初に映像を流します」
俺は机の資料を一枚取った。
病院。
商店街。
学校行事。
過去のみるくまの写真。
そこに、最近の写真を重ねる。
学校説明会で、不安そうな女子中学生へ腕を広げているみるくま。
幼稚園で、柚葉から離れたところに座っているみるくま。
「昔から、みるくまが誰かの隣にいた写真を見せます。その後、今のみるくまがステージに座る」
「それだけ?」
白雪が聞く。
「会場の中から、一人だけ選ぶんです」
「誰を?」
「事前に決めません」
俺は続けた。
「みるくまが、その場で見つける」
ステージから観客を見る。
応援してくれている人。
緊張している子。
手を振りたいのに振れない人。
その中から白雪自身が一人を選ぶ。
「最後まで、みるくまらしくします」
白雪は黙っていた。
やがて、ゆっくり頷く。
「やりたいです」
「でも、本番で相手が見つからなかったら?」
小日向が尋ねる。
「その場合は、誰も選ばない」
俺が答えると、白雪も頷いた。
「無理に誰かへ近づけば、見守りハグではありません」
「コンテストでも?」
「コンテストだからこそです」
白雪の表情には迷いがなかった。
勝つために作ったみるくまではない。
見てもらうためだけのマスコットでもない。
最後まで、相手を優先する。
それで伝わらないなら、それまでだ。
ステージ構成が決まった。
最初の一分。
古い写真とともに、みるくまの活動を映像で紹介する。
次の一分。
小日向と園児役の生徒による簡単なダンス。
残り三分。
みるくまが観客を見る。
誰か一人を見つける。
必要なら見守りハグ。
最後に会場全体へ、両腕を広げる。
そのタイミングでスクリーンに表示する言葉も決めた。
『こんどは、あなたが誰かを見守る番。』
みるくまへ「ありがとう」を返す企画は、ステージ外で行うことにした。
会場入口に大きな白いボードを設置し、みるくまへのメッセージを書いたカードを来場者へ貼ってもらう。
五分のステージに詰め込むのではなく、その日一日を使って完成させる。
「最後に、このボードをみるくまへ見せたいです」
白雪が言った。
「誰が?」
小日向が尋ねる。
白雪は少し考える。
「朝倉君」
「俺ですか?」
「最初から一緒に活動しています」
「白雪が見ればいいのでは?」
「私は中にいるので、前が見えにくいです」
それだけの理由ではない気がした。
「分かりました」
俺が引き受けると、白雪は満足そうに頷いた。
文化祭前日。
最後の練習を終えると、白雪はみるくまの頭部を棚へ戻した。
「明日ですね」
「はい」
「緊張していますか?」
「しています」
即答だった。
以前なら否定しただろう。
「珍しいですね」
「今は認めたほうが楽だと分かりました」
「成長しましたね」
「子ども扱いしないでください」
白雪はそう言いながら、少し笑った。
備品室には、俺と彼女しか残っていない。
藤堂先輩と小日向は、会場準備のため先に帰った。
黒岩先生も、学校側の書類を確認するため職員室にいる。
白雪は棚の前から動かなかった。
「どうしました?」
俺が尋ねると、彼女はくまの頭へ手を伸ばした。
少し垂れた左耳を撫でる。
「明日が、本当に最後になったら」
言葉が途切れた。
「最後かどうかは終わってから決める、と言いました」
「覚えています」
「なら、今は考えなくていいです」
「でも」
白雪は俺を見た。
「怖いです」
素直な言葉だった。
「明日が終わったら、みるくまを着る理由がなくなるかもしれません」
「はい」
「この部屋へ来る理由も」
「それは前にも話しました」
「分かっています」
彼女は両手を胸元で重ねる。
「それでも、何かが終わることは怖いです」
俺にも分かった。
終わらないものはない。
高校生活も。
活動も。
人との関係も。
形は変わる。
「白雪」
「はい」
「明日が終わったら、次のことを考えましょう」
「次?」
「業務ではない商店街とか」
彼女の頬が少し赤くなる。
「まだ覚えていたのですか?」
「忘れないと言いました」
「そうでした」
「みるくまミルクパフェも、もう一度食べるんですよね」
白雪はくまの耳を撫でたまま、小さく笑った。
「はい」
「では、明日で全部終わるわけではありません」
彼女はしばらく俺を見る。
「朝倉君」
「何ですか」
「明日も、始まる前に見守りハグをお願いします」
「本番前の確認?」
白雪は少し迷った後、首を横へ振った。
「私が緊張しているからです」
以前なら、みるくまが必要としていると言った。
今は、自分が必要としていると認めた。
「分かりました」
「ありがとうございます」
翌朝。
桜庭市民文化会館の前には、開場前から多くの人が集まっていた。
中央公園には色とりどりのテントが並び、飲食店や地域団体のブースから匂いと音楽が流れている。
ステージ脇には、参加するマスコットたちの姿が見えた。
巨大な鳥。
丸い猫。
野菜をモチーフにしたキャラクター。
観光地の名物をそのまま着ぐるみにしたようなものもいる。
「強そうですね」
小日向が控室の入口から外を見ながら言った。
「何が強いのですか?」
白雪が尋ねる。
「見た目です。あの鳥、羽が光ってますよ」
「みるくまには必要ありません」
「張り合わなくていいですよ」
白雪は平静を装っているが、他のマスコットをかなり気にしているらしい。
今日は体操着姿で、髪もいつものようにまとめている。
着ぐるみを着る前の準備はすべて終えていた。
俺は頭部内部を最終確認する。
固定金具。
ファン。
クッション。
青い鈴。
問題ない。
「白雪、体調は?」
「問題ありません」
「睡眠は?」
「六時間半です」
「朝食」
「食べました」
「水分」
「先ほど取りました」
「緊張」
白雪が一瞬、口を閉じる。
「しています」
小日向が笑った。
「そこも確認するんですね」
「今日は重要です」
俺は着ぐるみの胴体を広げた。
白雪が中へ入る。
固定ベルトを締める。
背中のファスナーを閉める。
最後に頭部を持ち上げる。
「白雪」
「はい」
「今日は、何かおかしいと思ったら絶対に止まってください」
「分かっています」
「ステージの途中でも」
「はい」
「優勝できそうでも」
白雪は少しだけ笑った。
「はい」
「最後の活動でも」
笑みが消える。
それでも彼女は頷いた。
「約束します」
頭部をかぶせる。
みるくまが完成した。
白いくまは一度、自分の両手を見る。
次に、俺へ向けて両腕を胸元で交差させた。
見守りハグの合図。
俺は頷く。
白雪がゆっくり近づく。
白い腕が身体を包む。
頭部が俺の肩へ乗る。
「緊張していますか?」
俺が小さく尋ねる。
くまの中から声が返ってきた。
「しています」
「少し楽になりました?」
数秒後。
「はい」
以前なら、本番前の動作確認だと言い張ったはずだ。
俺もそれ以上は言わなかった。
「白雪」
「何でしょうか」
「楽しんできてください」
白い腕に、少しだけ力が入った。
「朝倉君も、一緒です」
そうだった。
俺は裏方だと思っていた。
しかしこのステージを作ったのは、白雪一人ではない。
俺も。
小日向も。
藤堂先輩も。
黒岩先生も。
そして、みるくまへ関わった全員がいる。
「行きましょう」
白雪が俺から離れる。
控室の扉を開ける。
外では、地域文化祭が始まっていた。
みるくまのメッセージボードは、午前中だけで半分近く埋まった。
『ようちえんにきてくれてありがとう』
『受験、がんばります』
『小さいころ商店街で写真を撮りました』
『左耳がかわいい』
『なくならないで』
最後の一文を読んだ白雪は、着ぐるみの中からしばらくカードを見つめていた。
昼前には、ひかり幼稚園の子どもたちも来た。
柚葉は母親と手をつないでいる。
みるくまを見つけると、以前のように怖がることなく自分から走ってきた。
途中で、先生との約束を思い出したのか黄色い線の前で止まる。
胸元へ両腕を回す。
見守りハグの合図。
みるくまも同じ動きを返す。
柚葉が大きく頷いた。
白いくまがゆっくり近づき、小さな身体を抱きしめる。
「こんどは、ゆずはがぎゅってするって言ったの」
女の子はそう言いながら、みるくまの背中へ精いっぱい腕を回した。
「みるくまさん、ありがとう」
くまの肩が少し震えた。
白雪が泣いているのかもしれない。
けれど頭部は外さなかった。
今は悲しくて隠れているのではない。
みるくまとして、柚葉の前にいたいのだと思う。
学校説明会で最初に見守りハグを受けた女子中学生も来ていた。
母親と一緒だった。
「合格したら、また報告に来ます」
彼女は応援カードを今も持っているらしく、透明なスマートフォンケースの内側に入れていた。
商店街からは、花屋の店主と喫茶こひなたの店主、小日向の祖父まで来ている。
母親もいた。
「湊!」
遠くから大きく手を振る。
俺は気づかないふりをした。
「お母様です」
みるくまの中から白雪が小さく言う。
「見なくていいです」
「手を振っています」
「知っています」
みるくまは母親へ向け、大きく手を振った。
母親は俺より嬉しそうだった。
「玲奈ちゃん、かわいい!」
中身を知っている人間しか分からない声援を送る。
「後で注意してください」
白雪が言う。
「俺が?」
「ご家族でしょう」
「白雪の名前を叫ばないよう、事前に伝えておきます」
「もう叫んでいます」
幸い、周囲の人間は着ぐるみに向けたものだとは思っていなかったようだ。
午後二時。
地域マスコットコンテストが始まった。
俺たちは七番目だった。
ステージ袖で待ちながら、他のマスコットの演技を見る。
一体目は、地域の特産品を使ったクイズ。
二体目はダンス。
三体目は子どもたちと体操。
小日向がステージ袖で感心している。
「みんな、ちゃんと作り込んでますね」
「当然です」
白雪の声が、みるくまの中から返る。
「でも、私たちは私たちのやることをしましょう」
小日向が笑う。
「白雪先輩、さっきからすごく落ち着いてます」
白いくまが一度だけこちらを向く。
「緊張していますよ」
「見えません」
「みるくまですから」
その言葉を聞いて、少しだけ引っかかった。
みるくまだから。
以前なら、それは白雪が本心を隠すための言葉だった。
今日は違う。
今の彼女は、自分が緊張していることを認めた上で、みるくまとしてステージへ出ようとしている。
隠れるための着ぐるみではない。
誰かへ届けるための姿になり始めている。
「次、桜庭学園さんです」
スタッフが声をかける。
俺は白雪の頭部を最後に確認した。
「異常ありませんか?」
みるくまが丸を作る。
「ファンは?」
もう一度、丸。
「視界」
丸。
「無理しない」
白い手が俺の肩を軽く叩く。
分かっているという意味だろう。
ステージ上の司会者が紹介する。
『続いては、私立桜庭学園の公式マスコット――みるくま!』
音楽が鳴った。
みるくまがステージへ出る。
会場から拍手が起きる。
想像していたより大きな声だった。
「みるくまー!」
「がんばれ!」
「こっち向いて!」
白雪は立ち止まり、一度会場全体を見渡した。
それから大きく手を振る。
スクリーンに古い写真が映し出される。
十二年前の学校行事。
商店街の夏祭り。
桜庭総合病院。
過去のみるくまたち。
中に入っている人間は違う。
時代も違う。
それでも、白いくまは同じように誰かの隣に立っている。
ナレーションは藤堂先輩が事前に録音した。
『みるくまは、桜庭学園の生徒を見守る白いくまとして生まれました。』
写真が切り替わる。
迷子の子どもの隣に座っている昔のみるくま。
相川から借りた古い写真だった。
『手を振ることしかできません。言葉を話すこともできません。』
病院の夏祭り。
非常階段そのものは映っていない。
ただ、屋外で子どもたちに囲まれている白いくまがいる。
『だからこそ、誰かの言葉を聞くことを大切にしてきました。』
最近の写真へ変わる。
学校説明会。
幼稚園。
商店街。
『頑張っている人を見つけること。怖がっている人を急かさないこと。必要なら、そばにいること。』
小日向がステージへ出る。
音楽が明るいものへ変わった。
園児でも真似できる簡単なダンス。
みるくまと小日向が並んで両腕を上げる。
観客席の子どもたちも真似を始めた。
白雪の動きは派手ではない。
小日向ほど大きくもない。
それでも、俺には分かる。
会場全体を見ている。
前列。
中央。
端。
立っている人。
座っている人。
一人ずつ確認するように、みるくまの顔が動く。
ダンスが終わった。
音楽が静かになる。
小日向がステージ袖へ戻る。
残されたのは、みるくまだけ。
白いくまはステージの中央へ座った。
何もしない。
最初、観客は戸惑っていた。
拍手も止まる。
司会者も口を挟まない。
俺たちは事前に、ここから先は何が起きるか決めていなかった。
白雪自身が、誰を見るか決める。
一秒。
二秒。
五秒。
みるくまは観客席を見ている。
前列で、柚葉が大きく手を振っている。
学校説明会で会った女子中学生もいる。
母親もいる。
相川もいる。
商店街の人たちもいる。
誰を選んでも、意味はある。
それでも白雪は動かなかった。
何かを探している。
やがて、みるくまの顔が一か所で止まった。
観客席の左端。
親子連れから少し離れたところに、一人の男の子がいた。
小学生くらいだろう。
両親らしい二人が立っている横で、少年だけが椅子へ座っている。
右足には装具がついていた。
松葉杖が、椅子の横へ立てかけられている。
俺の胸が一瞬、強く鳴った。
八年前の自分と重なった。
白雪も同じものを見たのだと思う。
みるくまがゆっくり立ち上がる。
ステージの端まで歩く。
男の子が顔を上げる。
しかし白雪は、両腕を広げなかった。
まず、自分の足を指差す。
次に、男の子の松葉杖を見る。
そして、その場へ座る。
観客席から小さな笑い声が起きた。
何をしているのか分からない人もいるだろう。
男の子も困った顔をしていた。
みるくまは、何もしない。
ただ同じ高さに近い位置で座っている。
しばらくして、少年の口元が少し動いた。
母親が何かを尋ねる。
少年は首を振る。
みるくまは待つ。
さらに数秒。
男の子が松葉杖を取った。
父親に支えられ、ゆっくり立ち上がる。
観客席の通路へ出る。
ステージ前まで歩いてくる。
みるくまは、そこで初めて自分の胸元へ両腕を回した。
見守りハグの合図。
次に、少年へ両腕を広げる。
男の子はすぐには頷かなかった。
みるくまも近づかない。
やがて、少年が小さく頷いた。
白雪が立ち上がる。
ステージ横の階段へ向かう。
俺も補助のため、一緒に動く。
一段。
二段。
段差の前で腕へ合図を送る。
みるくまが慎重に下りる。
少年の前まで来る。
白いくまは、無理に腰を落とさなかった。
相手が松葉杖を使っているため、姿勢を崩させないよう少し距離を残す。
少年が自分から一歩近づいた。
みるくまが優しく抱きしめる。
会場から拍手が起きた。
最初は小さい。
それが少しずつ広がる。
男の子は、みるくまの白い身体へ顔を埋めた。
何かを言った。
俺の位置からは聞こえない。
みるくまの肩が、ほんの少し動いた。
やがて少年が離れる。
顔には笑顔があった。
みるくまが大きく手を振る。
少年も松葉杖を片手で支えながら手を振った。
白雪がステージへ戻る。
残り時間は一分を切っていた。
スクリーンに最後の文字が出る。
『こんどは、あなたが誰かを見守る番。』
みるくまが会場へ向けて両腕を広げる。
大きな拍手。
俺はステージ袖から、メッセージボードを運んだ。
午前中から集められたカードで、白い面はほとんど見えなくなっている。
『ありがとう』
『また会いたい』
『大好き』
『なくならないで』
『そばにいてくれてありがとう』
俺はボードをみるくまの前へ向けた。
白いくまの動きが止まる。
着ぐるみの中から、白雪が読んでいる。
一枚ずつ。
すべてを見ることはできない。
それでも、言葉は伝わったはずだ。
みるくまが両手を胸元へ重ねた。
深く頭を下げる。
その瞬間だった。
小さな音がした。
ぱき。
俺だけが気づいたのかもしれない。
みるくまの頭部が、わずかに右へ傾いた。
俺の身体が先に動く。
白い肩へ手を置く。
「白雪」
声を落として呼ぶ。
返事はない。
観客からは、最後のお辞儀に見えている。
俺は頭部の首元へ手を添えた。
内部で何かがずれた感触がある。
「動かないでください」
みるくまの右手が、一度だけ俺の腕を叩いた。
合図。
異常がある。
俺はステージ袖へ向け、両手で中止のサインを出した。
音響スタッフがすぐに気づく。
司会者が前へ出た。
『みるくま、ありがとうございました!』
予定より十秒ほど早い。
それでも演技自体はほぼ終わっている。
会場から大きな拍手が起きた。
俺は白雪の肩を支え、ステージ袖へ誘導する。
「歩けますか?」
みるくまが一度頷く。
一歩ずつ進む。
階段は使わない。
袖側には段差のない退出経路がある。
控室へ入る。
扉が閉まった瞬間、俺は頭部を押さえた。
「外します」
白雪が何か言う前に、留め具を確認する。
右側の内部固定材が外れていた。
完全に折れたわけではない。
しかし、この状態で動かせば頭部がずれ、視界を塞ぐ可能性がある。
「頭を少し下げて」
白雪が従う。
ゆっくり頭部を持ち上げた。
中から汗に濡れた白雪の顔が現れる。
「大丈夫ですか?」
「はい」
「首や頭に当たりませんでしたか?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「今度は本当です」
呼吸は乱れていない。
顔色も悪くない。
身体的には問題なさそうだった。
俺は頭部を机へ置く。
小日向と藤堂先輩が駆け込んできた。
「玲奈!」
「白雪先輩、大丈夫ですか?」
「怪我はありません」
白雪が答える。
俺は頭部の内側を確認した。
「固定材が一か所外れています」
「直せる?」
藤堂先輩が尋ねる。
「時間があれば。ただ、今日もう一度着るのはやめたほうがいいです」
白雪の顔が上がる。
「もう一度?」
「表彰式があります」
コンテスト終了後、上位三体はもう一度ステージへ上がる。
そのほかにも、参加マスコット全員が最後に並ぶ予定だった。
「出られませんか?」
白雪が尋ねる。
「安全上、無理です」
言い切る。
彼女は頭部を見る。
「数分だけでも」
「駄目です」
「歩くだけです」
「約束しましたよね」
白雪が口を閉じた。
本番前。
異常があれば止まる。
優勝できそうでも。
最後の活動でも。
約束した。
「分かりました」
悔しそうだった。
それでも受け入れた。
「私が代わりに入りますか?」
小日向が言う。
俺は首を横へ振る。
「中の人の問題ではありません。頭部そのものが危険です」
「では、表彰式は辞退?」
藤堂先輩が聞く。
「もし選ばれていたら、学校代表だけが出ることになると思います」
白雪は何も言わなかった。
ステージ外から、次のマスコットを紹介する声が聞こえる。
コンテストは続いている。
俺たちのみるくまの出番だけが、終わった。
「朝倉君」
白雪が小さく呼ぶ。
「何ですか」
「最後まで、できましたか?」
俺は答える。
「できました」
「予定より早く終わりました」
「伝えたいことは全部伝わったと思います」
「そうでしょうか」
「会場の拍手、聞こえていたでしょう」
白雪は頭部へ視線を落とす。
「聞こえていました」
「なら、十分です」
彼女は少しだけ笑った。
「朝倉君は、すぐ十分だと言います」
「足りないと思っていますか?」
白雪は答えない。
その表情を見る限り、何かが残っている。
ステージでの失敗ではない。
もっと別のものだ。
「まだ、何かしたかった?」
尋ねると、白雪はメッセージボードを見る。
そこには、たくさんのありがとうがある。
「私は」
言いかける。
そのとき、外から大きな歓声が聞こえた。
最後の参加マスコットの演技が終わったらしい。
司会者が投票方法を案内している。
結果発表までは三十分ほど。
「少し休んでください」
俺は白雪へ水を渡した。
彼女は素直に受け取る。
「朝倉君」
「はい」
「先ほどの男の子」
「足を怪我していた子?」
「はい」
「何か言ってました?」
白雪は水筒を持ったまま、少し笑った。
「また走れるようになると思う? と」
俺は言葉を止めた。
八年前の自分。
怪我をして、もう普通に走れないかもしれないと思っていた。
「白雪は何て答えたんですか?」
「みるくまは話せません」
「そうでした」
「だから、頷きました」
「無責任では?」
俺が言うと、白雪は首を横へ振った。
「大丈夫という意味ではありません」
「では?」
「応援する、という意味です」
それなら、いいと思った。
「昔の朝倉君は、私に大丈夫だとは言いませんでした」
白雪が続ける。
「泣いていいと言っただけです」
「自分も怪我してたので、大丈夫なんて言えなかったんだと思います」
「それが、よかったです」
彼女は水を一口飲む。
「今日、少し分かりました」
「何が?」
「みるくまが必要だった理由です」
俺は彼女を見る。
「白雪に?」
「私にも」
少し間を置く。
「でも、私だけではありませんでした」
会場の方向へ顔を向ける。
「みるくまは、何かを解決することはできません。怪我を治すことも、受験に合格させることも、怖いものをなくすことも」
「はい」
「それでも、そばにいることはできます」
白雪は自分の両手を見る。
今は白いくまの手ではない。
細い、人間の手だ。
「それなら」
彼女は何かを言いかけた。
外から、表彰式の案内が聞こえた。
『お待たせいたしました! 地域マスコットコンテスト、結果発表です!』
小日向が控室の扉へ駆け寄る。
「聞きましょう!」
白雪は立ち上がった。
みるくまの頭部を一度見た後、そのまま扉の近くへ移動する。
ステージの音声が控室まで聞こえる。
第三位。
観光協会の鳥型マスコット。
歓声。
拍手。
第二位。
隣町の商店街キャラクター。
さらに大きな歓声。
俺たちは誰も話さない。
「白雪先輩」
小日向が彼女の手を握る。
白雪は振りほどかなかった。
司会者の声が一段大きくなる。
『そして――今年の地域マスコットコンテスト、第一位は!』
間。
会場が静かになる。
『私立桜庭学園――みるくま!』
一瞬、意味が分からなかった。
次の瞬間、控室の外から大きな歓声が響いた。
「やった!」
小日向が飛び跳ねる。
「優勝です! 白雪先輩!」
藤堂先輩も笑顔になる。
「玲奈、やったわ!」
白雪だけが、動かなかった。
「白雪」
俺が名前を呼ぶ。
彼女はゆっくりこちらを見た。
「優勝しました」
自分で確認するように言う。
「はい」
「みるくまが」
「はい」
白雪の目に涙が浮かぶ。
今度は隠さなかった。
「よかった」
その一言と一緒に、涙が頬を伝った。
小日向が白雪へ抱きつく。
「おめでとうございます!」
「小日向さんも、一緒です」
「でも、中にいたのは白雪先輩です」
「ステージを作ったのは、皆です」
藤堂先輩も目元を押さえている。
俺は少し離れたところから見ていた。
最初にこの活動が始まったとき、白雪は地域マスコットコンテストで優勝すれば、理事会が廃止を考え直すかもしれないと言っていた。
そして今、優勝した。
しかし。
理事会はすでに廃止を決定している。
優勝しても、その判断は変わらないと伝えられている。
「表彰式」
白雪が言った。
全員の表情が変わる。
みるくまは出られない。
頭部が安全ではない。
「学校代表として、私が出るわ」
藤堂先輩が答える。
「玲奈は休んでいて」
「私も行きます」
「でも」
「着ぐるみは着ません」
白雪の言葉に、俺は顔を上げた。
彼女は涙を拭う。
「学校の生徒として、後ろに立つだけなら問題ありませんよね」
「それは」
藤堂先輩が考える。
規則上、禁止する理由はない。
「いいと思う」
俺が答えた。
白雪はこちらを見る。
「朝倉君も来てください」
「俺も?」
「一緒に作ったステージです」
断る理由はなかった。
俺たちはステージ袖へ向かった。
みるくまの頭部は控室へ残した。
白いくまはいない。
代わりに、白雪玲奈がいる。
司会者には事情を説明し、みるくまは機材トラブルのため表彰式へ出られないことになった。
藤堂先輩が学校代表としてステージへ上がる。
俺と白雪、小日向は少し後ろへ立つ。
観客席には、みるくまの姿を探している人が多かった。
「みるくまは?」
「出ないの?」
子どもたちの声が聞こえる。
柚葉も、母親の横で不思議そうにステージを見ている。
司会者が事情を説明する。
『みるくまは、安全上の理由により表彰式には登場できません。ですが、桜庭学園のみなさんにお越しいただいています!』
拍手。
白雪は頭を下げた。
賞状とトロフィーが藤堂先輩へ渡される。
司会者がマイクを向ける。
『優勝した感想をお願いします!』
藤堂先輩は一瞬だけ白雪を見る。
そして。
「このステージを作った本人から、お話しさせてもよろしいでしょうか」
白雪の顔が上がった。
「藤堂先輩」
「玲奈」
藤堂先輩は小さく笑う。
「あなたの言葉で話したほうがいいと思う」
司会者は少し驚いた様子だったが、マイクを白雪へ渡した。
突然のことだった。
何も準備していない。
白雪はマイクを両手で持つ。
観客を見る。
何百人もの視線。
着ぐるみはない。
笑ったままのくまの顔もない。
自分の表情を隠すものは、一つもない。
「……ありがとうございます」
最初の言葉は、小さかった。
それでも会場は静かだったため、十分に届いた。
「みるくまを応援してくださって、本当にありがとうございます」
白雪の声が少し震える。
「今日、みるくまはこの場に立つことができません。でも、たくさんの方に見ていただいて、優勝することができました」
観客席から拍手が起きる。
白雪は一度、言葉を止めた。
マイクを握る指へ力が入っている。
「みるくまは」
その先が続かない。
俺は横から彼女を見る。
白雪は何かと戦っているようだった。
言っていいのか。
言わないほうがいいのか。
完璧な学校代表として話すなら、ここで礼を言って終わればいい。
それが正しい。
けれど彼女は、何度も正しい言葉の後ろへ本当の気持ちを隠してきた。
「白雪」
聞こえるか分からないほどの声で呼ぶ。
彼女がこちらを見る。
俺は何も言わなかった。
待つ。
幼稚園で、みるくまが柚葉を待ったように。
青い鈴がなくなった日、俺が白雪の隣で待ったように。
今も、彼女が自分の言葉を見つけるまで待つ。
白雪は小さく息を吸った。
もう一度、観客席を見る。
「本当は」
声が変わった。
生徒会役員としての話し方ではない。
「今日が、みるくまの最後の公式活動になる予定です」
会場がざわついた。
藤堂先輩が目を見開く。
学校側から公表していない情報だった。
俺も驚いた。
白雪は続ける。
「桜庭学園では、今年度でみるくまを廃止することが決まっています」
観客席から声が上がる。
「え?」
「なくなるの?」
「どうして?」
子どもたちも周囲の大人を見る。
司会者が困った表情をした。
ステージ袖にいる黒岩先生も、こちらを見ている。
止めるなら今だ。
しかし先生は動かなかった。
白雪の話を聞いている。
「古い着ぐるみです。安全に使うためには修理も必要です。管理する人も必要です。学校の判断に、理由があることは分かっています」
白雪の声は震えていた。
「でも」
言葉が詰まる。
彼女はマイクを持ったまま、会場入口に置かれたメッセージボードを見る。
たくさんのありがとう。
なくならないで。
また会いたい。
「私は、なくしたくありません」
はっきり言った。
会場が静かになる。
「今日、優勝したからではありません。みるくまが人気になったからでもありません」
白雪の目に、また涙が浮かぶ。
「昔、私はみるくまに助けてもらいました」
俺だけが、その本当の意味を知っている。
白雪自身がみるくまの中で泣いていたこと。
白いくまの姿を借りて、初めて弱い自分を認められたこと。
「誰にも言えないことがあったとき。笑いたくないのに、笑わなければいけないと思っていたとき。みるくまが、私に必要でした」
観客には、すべての意味は分からないだろう。
それでも言葉は届いている。
「そして今日まで活動してきて、私以外にも、みるくまを必要としてくれた人がいることを知りました」
柚葉を見る。
松葉杖の少年を見る。
学校説明会で会った女子中学生。
相川。
商店街の人たち。
「だから」
白雪は言葉を止めた。
ステージ袖の方向を見る。
控室には、頭部が壊れたみるくまがいる。
白雪の顔に、何かを決めた表情が浮かんだ。
彼女は藤堂先輩へマイクを返した。
「少しだけ、待っていてください」
「玲奈?」
白雪は俺を見る。
「朝倉君」
「何ですか」
「一緒に来てください」
俺たちはステージを降りた。
控室まで、白雪は一言も話さなかった。
扉を開ける。
長机の上で、みるくまの頭部が笑っている。
少し垂れた左耳。
黒い丸い目。
固定された笑顔。
白雪はその前に立った。
両手で、白い頭部を持ち上げる。
「白雪?」
彼女はくまの顔を見つめた。
長い間。
やがて、静かに言った。
「ずっと、この中にいればいいと思っていました」
俺は何も言わない。
「みるくまなら、泣いても誰にも分かりません。抱きしめても、私ではないと言えます。好きな人のそばにいても、みるくまだからと言えます」
最後の言葉だけ、少し声が小さくなった。
聞き返さなかった。
今は、それより大切なことがある。
「でも」
白雪は頭部を長机へ戻す。
「今日、みるくまはステージに戻れません」
「はい」
「それなら」
彼女は俺を見る。
泣いた跡が残っている。
それでも隠そうとはしていなかった。
「私が、行きます」
「白雪玲奈として?」
「はい」
迷いはなかった。
「みるくまが言葉を話せないなら、私が代わりに話します」
「正体が知られるかもしれません」
「分かっています」
「中に入っていたことも?」
「はい」
「本当にいいんですか?」
白雪は一度、くまの頭を見る。
そして、少しだけ笑った。
「怖いです」
以前の彼女なら、大丈夫だと言った。
今は違う。
「でも、もう隠れたまま終わりたくありません」
白雪は胸元へ手を当てた。
その向こうには、八年前から持ち続けた青い鈴がある。
今日は着ぐるみの内ポケットへ入れたままだ。
「朝倉君」
「はい」
「鈴を取ってください」
俺はみるくまの頭部の内側へ手を入れ、ポケットを開いた。
青い鈴を取り出す。
白雪へ渡そうとする。
彼女は首を横へ振った。
「朝倉君が持っていてください」
「俺が?」
「一つずつ持つ約束です」
俺の鞄には、もう一つの青い鈴がついている。
「二つとも俺が持ったら、一つずつではありません」
「では」
白雪は少し考える。
俺の鞄から古い鈴を外した。
自分の鈴と並べる。
二つの青い鈴。
八年間、別々の場所にあったもの。
彼女は片方を俺へ戻し、もう片方を自分の制服のポケットへ入れた。
「これでいいです」
「はい」
白雪はみるくまの頭部へ両手を添えた。
くまの顔は笑っている。
いつもと同じ。
「ありがとう」
白雪が言った。
みるくまへ向けて。
「今まで、私の代わりに笑ってくれて」
声が震える。
「私の代わりに、泣いていることを隠してくれて」
両手が白い毛を撫でる。
「私の代わりに、朝倉君のことを好きになってくれて」
今度は、はっきり聞こえた。
俺の思考が止まる。
白雪も、自分が何を言ったのか分かっている。
頬が赤くなっている。
それでも訂正しない。
みるくまのせいにもしない。
「白雪、今」
「後です」
彼女がすぐに止める。
「今は、後にしてください」
「分かりました」
胸が落ち着かない。
しかし今は、本当に後だ。
白雪は大きく息を吸う。
長机から手を離す。
みるくまの頭部へ背を向ける。
扉の向こうから、まだ観客のざわめきが聞こえている。
待っている。
みるくまが戻ってくるのを。
しかし白いくまは戻れない。
代わりに行くのは、その中に隠れていた少女だ。
白雪は控室の扉へ手をかけた。
「朝倉君」
「はい」
彼女は振り返る。
不安も、緊張も、全部顔に出ている。
それでも、笑おうとはしなかった。
「私、みるくまを脱ぎます」
白雪玲奈はそう言って、自分の手で扉を開けた。




