第十二章 ~白雪玲奈は、着ぐるみを脱ぐ~
控室の扉を開けると、会場のざわめきが一気に大きくなった。
白雪は一度だけ立ち止まった。
さっきまでなら、ここでみるくまの頭部をかぶっていた。黒い丸い目と、少し垂れた左耳と、何があっても変わらない笑顔に自分の表情を隠してから、人前へ出ていた。
今は何もない。
白雪玲奈の顔が、そのまま外に出ている。
目元には泣いた跡が残っている。頬も少し赤い。完璧美少女と呼ばれている彼女なら、本来なら誰にも見せたくない状態だろう。
それでも白雪は、控室へ戻ろうとはしなかった。
「行きましょう」
彼女が言った。
「はい」
俺はその隣を歩く。
ステージ袖へ戻ると、藤堂先輩が観客へ事情を説明しながら時間をつないでいた。
『みるくまは安全上の理由により、今日はもうステージへ戻ることができません。ただ――』
そこまで話したところで、白雪の姿に気づく。
藤堂先輩が一瞬だけ驚いた。
白雪は小さく頷く。
言葉は交わさない。
それだけで、藤堂先輩は何をするつもりなのか理解したらしい。
『本人から、もう少しお話があります』
マイクを差し出す。
白雪は受け取った。
ステージへ出る直前、俺のほうを見た。
「朝倉君」
「何ですか」
「近くにいてください」
「もちろんです」
「見えなくても、です」
俺は少し考え、頷いた。
「ずっといます」
白雪の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
彼女は一人でステージ中央へ向かった。
観客席から拍手が起きる。
さっきまでみるくまが立っていた場所に、今度は白雪玲奈が立つ。
着ぐるみはない。
大きな白い身体も、笑顔のくまの顔もない。
制服姿の女子高校生が一人いるだけだ。
白雪は観客席を見渡した。
柚葉。
松葉杖を持った男の子。
学校説明会で出会った女子中学生。
相川。
小日向の祖父。
商店街の人たち。
母親。
そして、みるくまへ会いに来た大勢の人たち。
マイクを持つ手が少し震えていた。
それでも白雪は、隠さなかった。
「先ほど、みるくまは今日が最後の公式活動になる予定だとお話ししました」
会場が静かになる。
「そして私は、みるくまをなくしたくないと言いました」
一度、息を吸う。
「でも、一つだけ、まだ皆さんにお話ししていないことがあります」
俺の胸が少し早くなる。
何を言うつもりなのか、もう分かっていた。
「これまで、みるくまの中にいる人について聞かれたとき、私は何度もこう言いました」
白雪の口元に、わずかな苦笑が浮かぶ。
「『中の人はいません』と」
会場の一部から小さな笑いが起きた。
俺も、何度その言葉を聞いたか分からない。
みるくまに抱きしめられたときも。
都合の悪い行動を指摘したときも。
白雪はいつも、みるくまの中には誰もいないと言い張った。
白雪は少し間を置いた。
「でも、嘘でした」
観客席がざわつく。
「中の人は、います」
彼女は自分の胸元へ手を当てた。
「私です」
どよめきが起きた。
桜庭学園の生徒たちが特に驚いている。
相川は観客席で完全に固まっていた。
口を開けたまま、俺と白雪を交互に見ている。
おそらく、これまで俺が話していた「着ぐるみの動作確認」の意味を一気に理解したのだろう。
あとで面倒なことになりそうだった。
それでも今は、白雪から目を離せなかった。
「学校説明会でも、ひかり幼稚園でも、最近のみるくまの中に入っていたのは私です」
白雪の声は、最初より安定していた。
「秘密にしていたのは、特別な人間になりたかったからではありません。むしろ、その逆でした」
観客席を見る。
「みるくまを見る人にとって、中に誰がいるかは関係ないと思っていました。私が入っていても、別の誰かが入っていても、みるくまはみるくまでなければいけない。そう考えていました」
少し離れた場所で、小日向が静かに話を聞いている。
彼女も一度、みるくまの中へ入った。
同じ外見。
同じ白い身体。
それでも、俺にはまったく別の存在に見えた。
白雪も、最初はそれを受け入れられなかった。
「実際、私より前にも、何人もの人がみるくまの中に入っています。昔の写真を調べるまで、私はその人たちが何を考えていたのか知りませんでした」
スクリーンには、先ほど使われた古い写真がまだ映っている。
商店街。
学校。
病院。
違う時代のみるくまたち。
「でも、今日、分かった気がします」
白雪はスクリーンへ顔を向けた。
「中にいる人が違っても、全部同じである必要はなかったのだと思います」
俺は、備品室で交わした会話を思い出した。
内部の骨組みやクッションを交換すると話したとき、白雪は不安そうに聞いた。
中身が変わっても、同じみるくまでいられるのか。
俺は、必要なところを直すことは別物にすることではないと答えた。
あのときは着ぐるみの修理について話しているつもりだった。
今になって、意味が変わって聞こえる。
「ある人に、言われたことがあります」
白雪が続ける。
「中身を直すことや、変えることは、別のものにすることではない、と」
一瞬、こちらを見る。
目が合った。
「私はずっと、変わることが怖かったのだと思います」
白雪はまた観客へ向き直った。
「失敗しない人でいなければいけない。人に迷惑をかけない人でいなければいけない。泣くより笑っていたほうがいい。助けてもらうより、自分でできたほうがいい」
教室の白雪玲奈。
誰にでも丁寧で、成績もよく、感情的にならず、何でも一人でできる少女。
周囲が知っていた白雪は、確かにそういう人間だった。
「そうしていれば、安心でした。誰にも心配をかけませんし、自分も傷つきにくいからです」
白雪は自分の制服の胸元へ触れた。
そのポケットの中には、青い鈴が入っている。
「でも、本当は違いました」
声が少し震える。
「怖いときは怖いです。嫌なことは嫌です。誰かにいてほしいと思うこともあります。一人ではできないことも、たくさんあります」
誰も笑わなかった。
会場は静かだった。
「みるくまの中なら、それを認められました」
白雪は少しだけ笑った。
「顔が見えないからです。中で泣いていても、外からは笑っているように見えます。誰かに抱きついても、みるくまだからと言えます」
俺のほうを見ないでほしい。
そう思った瞬間、白雪がこちらを見た。
観客席から俺たちの関係まで分かるはずはない。
それでも妙に落ち着かない。
「だから私は、みるくまにたくさんのものを預けてきました」
白雪の表情が柔らかくなる。
「泣きたい気持ちも。寂しい気持ちも。誰かにそばにいてほしい気持ちも」
一呼吸置く。
「好きな人に近づきたい気持ちも」
観客席から、小さなどよめきが起きた。
俺は思わず額を押さえたくなった。
そこまで言う必要があるのだろうか。
白雪はまだ俺を見ない。
耳だけが真っ赤になっていた。
「でも、それを全部みるくまのせいにしたままではいけないと思いました」
マイクを握る。
「今日、みるくまは壊れてしまったから、私はこの姿でここにいます」
白雪玲奈自身の姿。
「もし頭部が壊れていなかったら、私は今もみるくまの中にいたと思います。そして、最後まで顔を隠したままだったと思います」
一度、目を閉じる。
「だから、壊れたことがよかったとは思いません。でも、この姿で話す機会をもらえたことには、意味があると思っています」
白雪は目を開いた。
もう手は震えていなかった。
「私は、みるくまを残したいです」
はっきり言う。
「白雪玲奈として、残したいです」
大きな拍手が起きた。
白雪は深く頭を下げた。
まだ話は終わっていない。
彼女は拍手が落ち着くまで待ち、もう一度マイクを上げる。
「ただ、私一人が残したいと言っても、続けることはできません」
黒岩先生がステージ袖で腕を組んでいる。
藤堂先輩も真剣な表情で聞いていた。
「みるくまが廃止される理由も聞きました。古くなっていること。安全に使うには費用がかかること。活動が、特定の人に頼りすぎていること」
白雪は一つずつ、自分の言葉で説明した。
「その理由は、なくなっていません。今日優勝したからといって、安全になるわけではありません」
観客席の一部から、そうだよなという小さな声も聞こえる。
感情だけでは解決できない。
俺たちも分かっていた。
「だから私は、残してくださいとお願いするだけではなく、残せる方法を考えたいです」
白雪は藤堂先輩を見る。
「生徒会だけではなく」
小日向を見る。
「着る人だけでもなく」
俺を見る。
「修理する人だけでもなく」
そして、会場全体へ視線を向ける。
「みるくまを残したいと思ってくださる方と、一緒に」
一瞬、沈黙があった。
最初に手を上げたのは、商店街の花屋の店主だった。
「うちの商店街も手伝うよ!」
よく通る声が響いた。
隣から喫茶こひなたの店主も声を上げる。
「祭りに来てもらうなら、出演料くらい出すぞ!」
小日向の祖父らしい。
別の商店主が続く。
「毎年イベントに呼ぶなら、維持費の一部を商店街で出せないか相談しよう!」
観客席がざわつく。
今度は、ひかり幼稚園の宮本先生が手を上げた。
「幼稚園も、来年また来てほしいです!」
園長らしい女性も頷いている。
「地域交流の行事として、学校さんと正式に相談させてください」
学校説明会で会った女子中学生の母親も拍手をしていた。
相川が両手を口元へ当て、大きな声を出す。
「生徒だって手伝えるだろ!」
クラスメイトたちが笑いながら同意する。
「中身は秘密じゃなくなったし!」
「着たい人、募集すればいいじゃん!」
「ダンス部とか体育会系もいるし!」
小日向がステージ袖から大きく手を上げた。
「私、入れます!」
会場から笑いが起きた。
白雪も思わず笑った。
これまでの彼女なら、想定していない声が次々に飛んでくる状況を嫌がったかもしれない。
今は違う。
全部を自分で管理できなくても、笑っていた。
司会者が困りながらも楽しそうにマイクを持つ。
『ええと……これは、かなり大きな話になってきましたね』
会場が笑う。
『学校関係者の方、何かコメントはありますか?』
一斉に視線が黒岩先生へ向かった。
先生は露骨に嫌そうな顔をした。
それでも逃げずにステージへ出る。
「私は教員であって、理事会の人間ではありません」
最初に釘を刺した。
会場から少し笑いが起きる。
「ですから、ここで廃止決定を撤回するとは言えません」
白雪の表情がわずかに硬くなる。
黒岩先生は続けた。
「ただし、今日の結果と、今出た地域からの申し出は、廃止を決定した時点には存在しなかった条件です」
俺は顔を上げた。
「安全な運営方法が作れること。特定の生徒に依存しない体制を作れること。維持費について学校だけに負担を求めない方法があること。それらを具体的に示せるのであれば、再検討を求める材料にはなる」
白雪の目が大きくなる。
「本当ですか?」
思わず、いつもの声で聞いていた。
マイクがそのまま拾う。
会場からまた笑いが起きる。
白雪は頬を赤くしたが、訂正しなかった。
「可能性がある、と言っているだけだ」
黒岩先生は強調する。
「今の時点で、何も約束はできない」
「それで十分です」
白雪はすぐに答えた。
俺も同じだった。
完全に終わっていると思っていた。
それが、もう一度考えてもらえるところまで戻った。
なら、やることは決まっている。
白雪は観客へ深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
今度のありがとうは、何の迷いもなかった。
「みるくまのことを、こんなに見ていてくださって。本当に、ありがとうございます」
拍手が広がった。
一番前で柚葉が手を振っている。
「れいなおねえちゃん!」
白雪が顔を上げる。
柚葉は胸元で両腕を自分へ回した。
見守りハグの合図。
次に、白雪へ両腕を広げる。
みるくまにではない。
白雪玲奈へ向けて。
白雪は一瞬だけ動けなかった。
観客席とステージには距離がある。
すぐに抱きしめることはできない。
それでも白雪は、自分の胸元へ両腕を回した。
同じ合図を返す。
柚葉が笑った。
白雪も笑った。
今度は、くまの顔を借りていない。
白雪玲奈自身の笑顔だった。
その日の地域文化祭は、予定より少し長く続いた。
表彰式が終わった後も、みるくまのメッセージボードには新しいカードが増え続けた。
『優勝おめでとう』
『玲奈ちゃんもありがとう』
『みるくまを残してほしい』
『来年も会いたい』
中には、『中の人いたんだ!』と大きく書かれたものもあった。
白雪はそれを見つけ、しばらく無言になった。
「捨てますか?」
俺が聞くと、彼女は首を横へ振った。
「これも大切な感想です」
「中の人はいません、はもう使えませんね」
「そうですね」
白雪は少し寂しそうに答えた。
「困りますか?」
「少しだけ」
「便利でしたからね」
「都合が悪いときの逃げ道ではありません」
「かなり使っていました」
「忘れてください」
「今日、自分で忘れないでほしいような話をしていませんでしたか?」
白雪の耳が赤くなる。
ステージで「好きな人に近づきたい気持ちも」と言ったことを思い出したらしい。
さらに控室では、もっと直接的な言葉を聞いている。
『私の代わりに、朝倉君のことを好きになってくれて』
「朝倉君」
「はい」
「後でと言いました」
「まだ後では?」
白雪は返事をしなかった。
メッセージカードを整理する速度だけが急に上がった。
夕方になると、会場の片づけが始まった。
みるくまの頭部と胴体は、再び運搬ケースへ入れられた。壊れた固定部については専門業者へ送る必要がある。
今度は白雪も、以前ほど不安そうにはしていなかった。
「直りますか?」
業者の担当者へ尋ねる。
「今回外れた部分だけなら、問題ありません。安全確認を含めても数日で」
「左耳は」
「変えません」
担当者のほうが先に答えた。
「先生からも朝倉君からも、何度も伺っています」
白雪は満足そうに頷いた。
完全に有名になっている。
片づけが終わる頃、黒岩先生が俺たちを呼んだ。
藤堂先輩、小日向も一緒だ。
「今日出た話を、形にするぞ」
先生は簡単なメモを見せた。
「理事会へ再審議を求めるなら、感想だけでは弱い」
「運営計画ですね」
白雪が答える。
「そうだ」
先生は項目を示した。
着用者の複数化。
安全管理者の配置。
専門業者による年一回以上の点検。
イベントごとの活動時間と休憩基準。
予算。
地域団体との連携。
さらに、卒業する生徒から次年度へ引き継ぐためのマニュアル。
「一週間で作る」
黒岩先生が言う。
「一週間?」
小日向が声を上げる。
「短くないですか?」
「熱が冷める前に出したほうがいい」
「先生も手伝いますか?」
俺が尋ねると、黒岩先生は嫌そうな顔をした。
「俺が言い出した形になっているが、基本はお前たちがやれ」
「逃げましたね」
「教員は忙しい」
「黒岩先生」
白雪が呼ぶ。
「何だ」
「お願いします」
真っすぐ頭を下げた。
先生は黙った。
白雪が誰かへ助けを求めることの難しさを知っている。
それでも彼女は自分から頼んだ。
「……安全面と学校側の書式は見る」
「ありがとうございます」
「藤堂」
「生徒会側は任せてください」
「小日向」
「着用者の育成案を作ります!」
全員の視線が俺へ向く。
「俺は?」
「補修と着ぐるみ管理」
白雪が即答した。
「やっぱりそこですか」
「最も詳しいので」
「卒業後は?」
俺が尋ねる。
白雪の動きが止まる。
今回の廃止理由の一つだ。
俺にしか直せない仕組みでは意味がない。
「俺以外でも管理できるようにします」
俺は続けた。
「補修そのものは業者へ任せる。日常点検だけなら、写真つきの手順書を作れば誰でもできます」
「朝倉君がいなくても?」
白雪が聞く。
「それが必要でしょう」
寂しそうな顔をされる。
「俺がいなくなると言っているわけではありません」
「卒業すれば」
「またそこまで考えるんですか」
白雪は少しだけ笑った。
「前にも話しましたから」
卒業しても話す。
活動がなくても会う。
何度確認すれば安心するのか分からない。
「白雪」
「何でしょうか」
「来年のことは、来年一緒に考えましょう」
彼女は俺を見る。
「はい」
今度はそれ以上尋ねなかった。
それからの一週間は、みるくまを動かしていた頃より忙しかった。
備品室には着ぐるみがいない。
代わりに、長机が紙で埋まった。
『みるくま運営ガイドライン』
『着用者安全確認表』
『イベント活動時間基準』
『緊急時対応フロー』
『着ぐるみ日常点検マニュアル』
『地域連携計画』
白雪は全体の運営体制をまとめ、藤堂先輩が生徒会の継承方法を作った。
小日向はダンス部や運動部へ声をかけ、来年度以降も着用者候補を募れる仕組みを考えた。性別ではなく体格と安全適性で選び、最低二名以上を登録する。
俺は着ぐるみ内部の写真を撮り、毎回確認する箇所を一覧にした。
ファスナー。
固定ベルト。
足底。
視界。
ファン。
頭部の留め具。
異常があれば素人が直そうとせず、専門業者へ連絡する。
「朝倉先輩が自分で直すのは禁止なんですか?」
小日向がマニュアルを見ながら尋ねる。
「簡単な縫製ならできますけど、卒業後も同じ基準で運用できないと意味がありません」
「朝倉君自身が例外になってはいけません」
白雪も同意した。
「以前は何でも一人で直してほしいような顔をしていたと思いますけど」
「考えが変わりました」
「成長しましたね」
「子ども扱いしないでください」
いつものやり取りが戻る。
違うのは、みるくまがいなくても同じ会話が続いていることだった。
商店街からは、正式な協力書が届いた。
地域イベントへ出演する場合、一定額の出演協力費を学校へ支払う。
その一部をみるくまの維持管理へ充てることを希望する。
ひかり幼稚園からも、毎年の交流行事として継続してほしいという文書が届いた。
文化祭の運営側からは、翌年の招待まで書かれていた。
優勝という結果も大きかった。
学校の公式広報アカウントは、これまでにない反応を集めた。
白雪がステージで正体を明かしたことまで話題になり、学校内でもみるくまを知らない生徒のほうが少なくなった。
そして金曜日。
俺たちは校長室へ呼ばれた。
俺。
白雪。
藤堂先輩。
小日向。
黒岩先生。
五人で並ぶと、妙に緊張する。
白雪は一番落ち着いて見えた。
「緊張してませんか?」
小さな声で尋ねる。
「しています」
「見えません」
「認めれば楽になると学びました」
文化祭の前と同じ答えだった。
校長の机には、俺たちが作った資料が一式置かれている。
すべて付箋が貼られていた。
かなり読み込まれているらしい。
校長は六十代くらいの男性で、学校行事では何度か見たことがある。みるくまの名前が牛乳好きからついたという噂の原因になっている人物でもあるが、本当かどうかは知らない。
「まず」
校長が話し始める。
「地域文化祭の優勝、おめでとう」
俺たちは揃って頭を下げる。
「君たちの活動が、学校の広報に大きな成果をもたらしたことは、理事会も認めています」
白雪の手が膝の上でわずかに動く。
「さらに、地域から継続的な協力の申し出があり、安全管理についても具体的な計画が提出された」
校長は運営ガイドラインへ手を置いた。
「以前の廃止決定は、維持費、安全性、特定の人への依存という三点を主な理由としていました」
誰も話さない。
「今回の提案で、その前提が変わったと判断されました」
白雪の呼吸が止まったように見えた。
校長は一枚の書類を取り出した。
「本日の臨時理事会で、みるくまの廃止決定を撤回しました」
意味を理解するまで、一瞬かかった。
小日向が最初に反応した。
「本当ですか!?」
「小日向さん」
白雪が注意する。
けれど、その白雪自身も目を大きく見開いている。
「残るのですか?」
「公式マスコットとしては継続します」
校長が頷く。
「ただし、条件があります」
全員が姿勢を正した。
「今回提出された安全基準を守ること。着用者を複数登録し、単独で活動しないこと。着ぐるみは年一回以上、専門業者の点検を受けること。大規模な修理が必要になった場合は、その都度活動を停止すること」
「分かりました」
白雪はすぐに答えた。
「それから、現在の着ぐるみを永久に使い続けることはできません」
彼女の動きが止まる。
「外装にも経年劣化がある。安全上の寿命が来れば、新しい着ぐるみを製作することになる」
白雪は何も言わなかった。
以前なら、すぐに左耳の形を残してほしいと言っただろう。
校長も彼女の反応を待っている。
白雪は少し考えた。
「今のみるくまは、どうなりますか?」
「使用できなくなった時点で廃棄するのではなく、学校の広報資料として保存する案が出ています」
「保存?」
「過去の写真や活動記録と一緒に。十二年以上使われてきた学校の備品ですから」
白雪の表情が少し緩んだ。
「新しい着ぐるみは、今と同じデザインですか?」
「基本デザインは継承する予定です」
校長がわずかに笑う。
「左耳も少し垂らすよう、資料にかなり強く書かれていました」
俺を見る。
俺は白雪を見る。
「朝倉君」
「重要だと思ったので」
「ありがとうございます」
白雪は笑った。
以前の彼女なら、「同じみるくまではなくなる」と不安になったかもしれない。
今は違う。
「中身が変わっても」
白雪が小さく言った。
「同じみるくまでいられます」
俺にだけ聞こえる声だった。
「そうですね」
俺も答えた。
校長から正式な書類を受け取り、校長室を出る。
扉が閉まった瞬間だった。
「やったー!」
小日向が両腕を上げた。
廊下に声が響く。
「小日向さん、静かに」
白雪が注意する。
「白雪先輩も嬉しいでしょう?」
「もちろんです」
「全然見えません」
「学校ですから」
そう言いながら、白雪の口元は隠せていなかった。
藤堂先輩が彼女の肩へ手を置く。
「玲奈」
「はい」
「よかったわね」
白雪は先輩を見る。
数秒後、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「私だけじゃないでしょう」
「分かっています」
小日向にも頭を下げる。
「小日向さんも、ありがとうございます」
「私は着ぐるみに入っただけです」
「それが必要でした」
次に黒岩先生。
「先生も」
「俺は仕事を増やされた気しかしない」
「来年以降もお願いします」
「勝手に決めるな」
口では嫌がっているが、先生も少し笑っていた。
最後に、白雪は俺を見る。
「朝倉君」
「何ですか」
「ありがとうございます」
「俺は何も」
「一番たくさんあります」
即答だった。
「修理してくれました。見守りハグを一緒に考えました。私が無茶をしたら止めてくれました。鈴を探してくれました。泣いているとき、待ってくれました」
周囲に人がいる。
小日向も藤堂先輩も黒岩先生も聞いている。
俺のほうが恥ずかしくなってきた。
「白雪、続きは」
「まだあります」
「後でいいです」
「そうですか?」
白雪は少し考える。
「では、後で」
第十一章の控室でも同じことを言われた。
今度こそ逃げられない気がした。
その日の放課後、広報備品室へ行くと、修理を終えたみるくまが戻っていた。
見慣れた白いくま。
水色のリボン。
少し垂れた左耳。
棚の空いていた場所が埋まっている。
白雪は扉を閉めると、しばらくみるくまを見ていた。
「着ますか?」
俺が尋ねる。
「はい」
返事は迷いがなかった。
いつものように着ぐるみを準備する。
白雪が胴体へ入り、俺が背中のファスナーを閉める。
「触ります」
「これからも言うのですね」
「約束しましたから」
「はい」
固定ベルトを確認し、最後に頭部をかぶせる。
みるくまが立ち上がった。
完全に元どおりだった。
白いくまは自分の腕を確認した後、その場でゆっくり一回転する。
「跳ばないでください」
大きな丸が返ってくる。
分かっているらしい。
その後、みるくまは俺の前へ来た。
自分の胸元へ両腕を回す。
次に、こちらへ広げる。
見守りハグ。
俺は頷いた。
白雪が近づいてくる。
白い身体に包まれる。
何度も繰り返してきたことだった。
最初は、着ぐるみの中に白雪がいることすら知らなかった。
次は秘密を守るため。
その次は動作確認。
緊張しているから。
安心したいから。
ありがとうを伝えたいから。
理由は少しずつ変わった。
「白雪」
俺が呼ぶ。
くまの中から返事が来る。
「何でしょうか」
「今日は、何のハグですか?」
少し間があった。
「みるくまが、嬉しいからです」
「白雪は?」
以前なら、ここで話が終わっていた。
白いくまが黙る。
俺は急かさない。
やがて、白い腕が少し強くなる。
「私も、嬉しいです」
みるくまのせいにしなかった。
「よかったです」
俺が答えると、くまの頭が肩へ乗る。
しばらくそのままいた後、白雪は身体を離した。
そして、みるくまの頭部へ両手をかけた。
自分から外す。
初めて会った日とは違う。
暑さに耐えられなくなったわけでも、俺がいることを忘れたわけでもない。
白雪は自分の意思で頭部を持ち上げた。
中から、汗で少し前髪を濡らした顔が現れる。
頬は赤い。
それでも、俺から目を逸らさなかった。
頭部を長机へ置く。
次に胴体からも抜け出した。
制服姿の白雪玲奈が、俺の前に立つ。
「もう一度」
彼女が言った。
「何を?」
白雪は自分の両腕を胸元へ回した。
見守りハグの確認動作。
次に、俺へ腕を広げる。
「着ぐるみは脱ぎましたよ」
「分かっています」
「なら、これはみるくまではない?」
白雪は少しだけ迷った。
それから、はっきり答えた。
「はい」
「白雪玲奈?」
「はい」
俺は頷いた。
白雪が近づいてくる。
着ぐるみのときより、歩幅が小さい。
最後の一歩で少しだけ躊躇した。
それでも止まらない。
両腕が俺の背中へ回る。
白雪の額が肩へ触れる。
「今度は、何のハグですか?」
俺が尋ねる。
「確認ではありません」
「お礼?」
「それだけでもありません」
白雪の声が、近くから聞こえる。
「朝倉君」
「はい」
「文化祭の控室で、後でと言ったことを覚えていますか?」
忘れられるはずがない。
『私の代わりに、朝倉君のことを好きになってくれて』
「覚えています」
「忘れてほしいと言ったら?」
「忘れません」
「そうですよね」
白雪は少しだけ笑った。
「私も、もう忘れてほしくありません」
腕に力が入る。
「昔の私は、みるくまの中でしか朝倉君に近づけませんでした」
「はい」
「あなたが八年前の男の子だと分かったとき、嬉しかったです」
俺は何も言わず聞く。
「でも、それだけではありません」
ずっと白雪が隠してきた部分。
昔助けてくれた相手だから特別なのか。
それとも、今の俺に気持ちがあるのか。
「最初は、昔の朝倉君を重ねていたのだと思います」
白雪が話す。
「鈴を見て。名前を聞いて。病院のことを聞いて。あの日の人だと分かって」
「はい」
「だから、みるくまの中なら近づいてもいいと思いました」
白雪は一度、息を吸った。
「でも、一緒に修理して。幼稚園に行って。商店街を歩いて。私が無茶をするたびに怒られて」
「結構、怒ってましたね」
「怖かったです」
「そこまで?」
「嘘です」
少し笑う。
「嬉しかったです。私が大丈夫だと言っても、信じない人がいたことが」
肩へ寄せられた額が少し動く。
「鈴をなくしたときも、私が落ち着くまで待ってくれました。みるくまがいなくなったときも、理由がなくても会えばいいと言ってくれました」
白雪の声が、少し震える。
「そのたびに、八年前の男の子ではなく、今の朝倉君を好きになりました」
胸の奥が強く鳴る。
白雪が身体を離した。
逃げない。
俺の前に立ち、目を見る。
「だから」
唇が少し震えている。
それでも自分で言う。
「みるくまが朝倉君を好きなのではありません」
白雪は胸元へ手を当てた。
「白雪玲奈が、朝倉湊君を好きです」
何度も聞きたかった答えだった。
それなのに、本当に言われると何を返せばいいのか分からない。
「何か、言ってください」
白雪の表情が不安に変わる。
「すみません」
「なぜ謝るのですか」
「こういうときの正しい返事を考えてました」
「正しくなくて構いません」
白雪が言う。
その言葉に、思わず笑った。
「白雪がそれを言いますか」
「今は、正しさより聞きたいことがあります」
「何ですか」
「朝倉君は、私のことをどう思っていますか?」
俺は白雪を見る。
学校で一番有名な完璧美少女。
最初は、それだけだった。
話すこともほとんどなかった。
それが、みるくまの頭が落ちた日から全部変わった。
真面目すぎる。
頑固。
無茶をする。
変なところで負けず嫌い。
甘いものが好きなのに業務だと言い張る。
みるくまの中では距離が近い。
着ぐるみを脱ぐと、急に何もできなくなる。
誰かに頼るのが下手で。
ありがとうを言うのも下手で。
それでも、少しずつ変わろうとしていた。
「俺も」
言葉にする。
「白雪が好きです」
彼女の目が大きくなる。
「昔の白雪だからではありません」
青い鈴の記憶は大切だ。
でも、それだけではない。
「今の白雪が好きです」
しばらく、彼女は何も言わなかった。
「本当ですか?」
「本当です」
「みるくまではなく?」
「白雪です」
「どちらも好きでも構いません」
「そこはいいんですか」
「みるくまも私ですから」
ようやく認めた。
俺が笑うと、白雪も笑った。
「では」
彼女は少しだけ姿勢を正す。
「確認します」
「まだ確認するんですか?」
「重要なことです」
「どうぞ」
白雪は緊張した表情で俺を見る。
「私たちは、今からお付き合いするという認識でよろしいでしょうか」
白雪らしい聞き方だった。
「契約書を作りますか?」
「必要であれば」
「必要ありません」
「では」
彼女の表情が不安になる。
「付き合いましょう」
俺が答えた。
白雪の頬が一気に赤くなる。
「はい」
それだけだった。
告白の返事としては、驚くほど短い。
けれど彼女は、今まで見た中で一番嬉しそうに笑っていた。
俺も、それで十分だった。
数秒後。
白雪がもう一度、両腕を広げる。
「またですか?」
「今度は、理由があります」
「何ですか」
「付き合い始めた記念です」
「そういうものですか?」
「私も知りません」
白雪は正直だった。
俺が頷く。
彼女が抱きついてくる。
今度は、みるくまの動きを真似しなかった。
ゆっくり待つことも、動作確認の合図もない。
少し照れながら、自分のやり方で俺へ腕を回した。
俺も初めて、背中へ腕を回す。
白雪の身体が一瞬だけ固くなる。
「嫌でしたか?」
「違います」
「では?」
「慣れていないだけです」
「俺もです」
「では、練習が必要ですね」
「何の?」
「これです」
抱きしめる力が少し強くなる。
「それを練習と言うと、またみるくまの頃へ戻りませんか」
「今は、白雪玲奈です」
「そうでした」
しばらくして身体を離すと、白雪は鞄から小さな透明ケースを取り出した。
青い鈴が入っている。
「一つ、お願いがあります」
「何ですか?」
「これを、鞄につけたいです」
今まで鈴は、みるくまの胸元へ隠していた。
誰にも見えない場所。
白雪だけが知っている場所。
「中に戻さなくていいんですか?」
「はい」
「なくさない?」
「絶対に、なくしません」
白雪は鈴をケースから出す。
「でも、取りつけ方が分かりません」
「紐をつければ簡単です」
俺は裁縫箱から細い水色のコードを取り出した。
鈴の金具へ通し、外れにくいよう二重に結ぶ。
白雪の鞄のファスナー部分へ固定する。
「これで大丈夫です」
彼女が鞄を軽く動かす。
ちりん。
音が鳴った。
俺の鞄についている鈴も揺れる。
ちりん。
二つの音が重なる。
「これまでは、隠しておきたかったんです」
白雪が自分の鈴へ触れる。
「誰かに見られたら、あの日のことまで知られてしまう気がして」
「今は?」
「知られても構いません」
少し考える。
「全部を話すつもりはありませんが」
「第四条は残りますか」
「残します」
そこは変わらないらしい。
「でも、この鈴を持っていることは、もう隠しません」
白雪は俺の鞄の鈴を見る。
「八年前にもらった、大切なものですから」
「俺も、理由を知ったので大切にします」
「今までは大切ではなかったのですか?」
「古いキーホルダーとしては大切でした」
「それは少し不満です」
「八年前のことを忘れていたので」
「知っています」
白雪は少しだけ頬を膨らませた後、すぐに笑った。
棚には、みるくまがいる。
白い顔。
少し垂れた左耳。
いつも変わらない笑顔。
けれど、もう白雪がそこへ隠れなければ話せないことは減っている。
「朝倉君」
「何ですか」
「次の日曜日、空いていますか?」
「今のところ」
「商店街へ行きたいです」
「みるくまの下見?」
白雪は首を横へ振った。
「活動ではありません」
「業務でもない?」
「違います」
少しだけ緊張した顔になる。
「今度は、私として行きたいです」
俺は、すぐに答えた。
「行きましょう」
白雪の表情が明るくなる。
「十一時に時計台でよろしいですか?」
「前と同じですね」
「比較しやすいので」
「何を比較するんですか」
「業務とデートの違いです」
本人の口から、ついにデートという言葉が出た。
「白雪」
「何でしょうか」
「今、普通にデートと言いましたよ」
彼女の顔が一瞬で赤くなる。
「聞き間違いです」
「久しぶりに使いましたね、それ」
「朝倉君」
「はい」
「今日は、もう帰りましょう」
白雪が鞄を持つ。
青い鈴が鳴る。
逃げるように扉へ向かうが、途中で立ち止まった。
振り返る。
「湊君」
俺は少し驚いた。
教室でも放課後でも、彼女は基本的に朝倉君と呼んでいた。
昔の記憶に引っ張られたときや、感情が緩んだときだけ出る呼び方だった。
「何ですか」
白雪は少し迷った。
「これからは、そう呼んでもいいですか?」
「もちろん」
「では」
彼女は、今度は意識して言う。
「帰りましょう、湊君」
「はい、玲奈」
白雪――いや、玲奈の動きが止まった。
「今」
「嫌でしたか?」
「心の準備が」
以前、同じことを言っていた。
俺は笑う。
「まだできてない?」
玲奈は顔を赤くしたまま、首を横へ振った。
「違います」
一度、深く息を吸う。
「慣れます」
「無理しなくても」
「慣れたいです」
言い切った。
「その呼び方が、嫌ではないので」
俺たちは並んで備品室を出た。
玲奈が鍵をかける。
取っ手を一度確認する。
以前のように何度も引かない。
旧校舎の廊下を歩く。
二人の鞄から、青い鈴が交互に鳴る。
ちりん。
ちりん。
みるくまは、備品室に残っている。
それでも俺たちは一緒に帰る。
修理するものがなくても。
活動がなくても。
秘密を守るためでもない。
白雪玲奈は、もう着ぐるみを脱いでいる。
そして俺も、みるくまがいなければ彼女のそばにいる理由がなくなるなどとは、もう思わなかった。
廊下の突き当たりで、玲奈が俺の制服の袖をつかんだ。
「どうしました?」
「人が来ました」
向こうから部活動帰りの生徒が歩いてくる。
「秘密にするんですか?」
尋ねると、玲奈は自分の手を見る。
以前なら、すぐに離したはずだった。
彼女は少し迷った。
それから袖を離し、代わりに俺の手を握った。
「いいえ」
驚いて彼女を見る。
頬は真っ赤だった。
それでも離さない。
すれ違った生徒たちが、こちらを二度見する。
明日には、何か噂になっているかもしれない。
玲奈も分かっているはずだ。
「大丈夫ですか?」
俺が聞く。
彼女は小さく笑った。
「大丈夫ではありません」
正直だった。
「とても恥ずかしいです」
「離しますか?」
「嫌です」
即答だった。
そのまま手をつないで階段を下りる。
白雪玲奈は、もう何かを演じているときだけ本音を言う少女ではなかった。
完璧ではない。
まだ怖がる。
まだ照れる。
都合が悪くなると、ときどきみるくまのせいにしたくなる。
それでも、自分の言葉で言えるようになった。
怖い。
嫌だ。
寂しい。
ありがとう。
そして。
好き。
八年前。
病院の非常階段で、白いくまの中から聞こえた小さな「ありがとう」から始まったものが、ようやくここまで来た。
校舎を出ると、夕方の空が赤く染まっていた。
玲奈が隣を歩く。
鞄の青い鈴が鳴る。
俺の鈴も答える。
二つの音は、もうまったく同じではない。
別々の場所で、別々の時間を過ごしたから。
それでも今は、同じ方向へ進んでいる。
俺は玲奈の手を握り直した。
彼女も、同じように握り返した。




