エピローグ ~今度は私として~
待ち合わせの十五分前に時計台へ着くと、白雪――いや、玲奈はすでにそこにいた。
初めて二人で商店街を下見した日と、同じ場所。
煉瓦造りの時計台の下。
ただし今日は、生徒会の資料も、みるくまの撮影候補地を記した地図もない。
俺の鞄に入っているのは財布とスマートフォンだけだ。
玲奈も、透明なファイルを持っていなかった。
代わりに、小さな白い鞄を両手で持っている。
淡いクリーム色のワンピースに、水色の薄いカーディガン。髪は普段より少しだけ緩くまとめられ、耳元には以前と同じ小さな銀色の飾りが揺れていた。
学校でも文化祭でも見たことのない服装だった。
そして何より。
鞄には、小さな青い鈴がついている。
ちりん。
風に揺れ、小さな音がした。
八年間、みるくまの中へ隠されていた鈴。
今は、誰からも見える場所にある。
俺に気づいた玲奈が、少しだけ姿勢を正した。
「おはようございます、湊君」
まだ呼び慣れていないのか、一瞬だけ間があった。
「おはよう、玲奈」
俺が返すと、今度は玲奈の動きが止まる。
頬が少し赤くなった。
「まだ慣れません」
「慣れたいと言ったのは玲奈ですよ」
「分かっています」
名前で呼ばれるたびにこれでは、慣れるまでかなり時間がかかりそうだ。
時計を見る。
午前十時四十五分。
「今日も早いですね」
俺が言うと、玲奈は自分の腕時計を確認した。
「十時三十八分に到着しました」
「前より二分早い」
「今日は遅刻できませんから」
「下見のときも遅刻してませんでしたけど」
「今日は、その」
玲奈が言葉を止める。
「何ですか?」
「初めてですから」
「商店街は前にも来ましたよ」
「そういう意味ではありません」
分かっている。
ただ、本人の口から聞きたかった。
「何が初めてなんですか?」
玲奈の眉が寄る。
「分かっていて聞いていますね」
「確認です」
この言葉は、今まで何度も玲奈に使われた。
少しくらい返してもいいだろう。
彼女は周囲を一度確認した。
休日の商店街入口には、買い物客が行き交っている。俺たちの会話を気にしている人はいない。
それでも玲奈は、声を少し落とした。
「……デートです」
言った直後、顔を逸らす。
「聞こえましたか?」
「聞こえました」
「なら、二度は言いません」
「記念にもう一度」
「嫌です」
即答だった。
俺は笑いながら、時計台の下から歩き出す。
数歩進んだところで、隣に玲奈がいないことへ気づいた。
振り返る。
彼女はまだ時計台の下に立っていた。
「どうしました?」
玲奈は俺を見た後、自分の右手を見る。
そして、こちらへ手を差し出した。
「湊君」
「はい」
「前回は、人が多くてはぐれないためでした」
商店街を下見した日。
人混みの中で、玲奈から手を差し出された。
あのとき彼女は、安全な移動のためだと言い張っていた。
「今日は、それほど混んでいませんね」
俺が言うと、玲奈は頷く。
「はい」
「では、必要ありません」
彼女の手が少し下がる。
「そうですね」
声まで落ち込んだ。
「でも、つなぎたいなら別です」
玲奈が顔を上げる。
「……つなぎたいです」
今度は、誤魔化さなかった。
俺は彼女の手を取った。
細い指が、すぐに握り返してくる。
「これでいいですか?」
「はい」
「安全のため?」
「違います」
「業務?」
「違います」
「動作確認?」
「違います」
質問するたびに返事が速くなる。
「では?」
玲奈は少しだけ俺の手を強く握った。
「彼女だからです」
俺のほうが何も言えなくなった。
「湊君?」
「何でもありません」
「顔が赤いです」
「玲奈もです」
「私は知っています」
そこは認めるらしい。
二人で商店街へ入った。
以前は入口の幅を測り、店先の商品がみるくまへ当たらないか確認しながら歩いた道だ。
今日は、巻き尺を持っていない。
店へ入るたびに通路幅を記録する必要もない。
それだけで、同じ場所がかなり違って見えた。
最初に通りかかった花屋では、前回と同じ店主が店先へ立っていた。
俺たちを見つけると、すぐに笑顔になる。
「あら」
嫌な予感がした。
「今日は下見?」
玲奈の手が、俺の手の中で少しだけ固くなる。
「今日は違います」
俺が答える。
店主の笑顔がさらに大きくなった。
「じゃあ、デート?」
玲奈が固まった。
俺は隣を見る。
本人がどう答えるのか、少し待ってみる。
以前なら間違いなく、
『デートではありません』
と即答していた。
玲奈は口を開きかける。
止める。
もう一度、俺の手を握る。
「……はい」
小さな声だった。
店主が嬉しそうに両手を合わせる。
「やっと認めたのね」
「前回は、本当に活動でした」
玲奈がすぐに補足する。
「はいはい」
「本当です」
「今日は?」
「今日は」
玲奈の頬がさらに赤くなる。
「個人的な外出です」
どうしてそこだけ急に固い表現へ戻るのか。
店主は笑いながら、小さな白い花を一本取り出した。
以前ももらった花だ。
「今日はちゃんと彼から渡してもらおうかしら」
俺へ差し出してくる。
「またですか」
「今度は仕事じゃないんでしょう?」
逃げ道がなかった。
花を受け取り、玲奈へ向ける。
「どうぞ」
彼女は前回のように理由を尋ねなかった。
両手で受け取る。
白い花びらを少し見つめた後、俺へ視線を戻した。
「ありがとうございます」
迷いのない言葉だった。
「どういたしまして」
「これは、店主さんからですけど」
「そこは言わなくていいでしょう」
玲奈が小さく笑う。
花屋を離れてもしばらく、彼女は白い花を手に持ったままだった。
「鞄に入れなくていいんですか?」
「前回、お母様に水色のリボンを結んでいただきました」
「覚えています」
「あれも、まだ家にあります」
「花が?」
「押し花にしました」
初めて聞いた。
「そこまでしてたんですか」
「何か問題がありますか?」
「ありません」
むしろ、少し嬉しい。
玲奈は自分の行動が特別だと思っていないらしい。
商店街を歩く。
時計店。
和菓子店。
玩具店。
以前、みるくまが通れるかどうかばかり見ていた場所を、今日は普通に眺める。
途中、和菓子店の前で玲奈が足を止めた。
ショーケースには、みるくまを模した最中が並んでいる。
以前は試作品だったが、正式に商品化されたらしい。
白い皮。
黒い目。
水色のリボン。
そして左耳だけが少し垂れている。
「直っています」
玲奈が嬉しそうに言った。
「左耳?」
「はい」
「買いますか?」
「少し気になります」
「では」
「でも、先に予定があります」
玲奈は鞄からスマートフォンを取り出した。
「予定?」
「今日の行程をまとめました」
嫌な予感がする。
画面を見せてもらう。
十一時、時計台集合。
十一時十五分、商店街散策。
十一時四十五分、写真館。
十二時十五分、喫茶こひなた。
十三時三十分、自由時間。
十四時三十分、再び商店街散策。
「デートにも予定表を作ったんですか」
「時間を無駄にしないためです」
「自由時間までありますけど」
「予定外の希望が出た場合に対応できます」
「それ、自由なんですか?」
玲奈は真剣だった。
「七分程度の遅れまでなら、十三時三十分から吸収できます」
「遠足のしおりみたいですね」
「初めてなので、失敗したくありません」
その言葉で、からかう気が少し薄れた。
玲奈にとって、誰かと休日を過ごすこと自体が慣れていない。
まして、恋人との最初のデートだ。
正解を用意しておきたいのだろう。
「玲奈」
「はい」
「予定どおりじゃなくても大丈夫ですよ」
彼女の指が止まる。
「前にも同じようなことを言われました」
「何度でも言います」
「失敗しても?」
「デートの失敗って何ですか?」
「会話が続かないとか。行きたい場所が違うとか。食事がおいしくないとか」
「それで別れるんですか?」
玲奈の表情が固まった。
「別れません」
「なら、大丈夫でしょう」
即答だった。
俺は少し笑う。
「今のは玲奈が言ったんですよ」
「何がですか?」
「別れないって」
言葉の意味に気づき、玲奈の頬が赤くなる。
「少なくとも、今日の予定が多少崩れた程度では、という意味です」
「十分です」
「湊君は?」
「同じです」
玲奈は予定表を閉じた。
「では、和菓子店へ寄ります」
「予定外ですよ」
「自由時間を十一時十二分から使用します」
まだ時間管理はやめないらしい。
みるくま最中を二つ買い、店を出る。
玲奈は紙袋を大切そうに持っていた。
「一つは食べないんですか?」
「家で保存します」
「食べ物ですよ」
「写真を撮ってから食べます」
少し安心した。
次の目的地は、写真館だった。
前回と同じ店主が、俺たちを見るなり笑顔になる。
「来たね」
「こんにちは」
玲奈が丁寧に頭を下げる。
「今日は構図確認?」
玲奈の動きが止まる。
この商店街の大人たちは、なぜ全員同じ質問をするのだろう。
「違います」
今度は俺より先に答えた。
「今日は、写真を撮りに来ました」
店主が嬉しそうに頷く。
「二人で?」
「はい」
「記念写真?」
玲奈が一瞬だけ俺を見る。
「はい」
もう逃げなかった。
店の前ではなく、店内の小さな撮影スペースへ案内された。
背景は白。
椅子が二脚。
店主がカメラを準備する。
「好きなところに並んで」
玲奈は俺の隣へ立った。
肩の距離は十五センチほど。
「もう少し寄って」
前回と同じ指示だった。
玲奈が一歩近づく。
肩が触れた。
「もっと」
玲奈の眉が少し動く。
それでも反論しない。
さらに半歩。
腕まで触れる。
「いいね。じゃあ、お嬢さん」
店主が言う。
「今日は彼氏の横なんだから、自然に笑って」
玲奈の顔が真っ赤になる。
前回は、
『彼氏ではありません』
と即座に否定した。
今日は否定できない。
「……はい」
頑張って笑おうとする。
結果、教室で見る完璧な笑顔に近くなった。
店主がカメラから顔を離す。
「違う違う」
「何がでしょうか」
「その笑顔じゃない」
玲奈が困った顔をする。
「自然に、と言われましても」
「彼の顔を見てみたら?」
玲奈がこちらを見る。
目が合う。
急に、数日前の備品室を思い出した。
『白雪玲奈が、朝倉湊君を好きです』
あのときの玲奈の顔。
そして俺が返事をした後、嬉しそうに笑った顔。
玲奈も同じことを思い出したのかもしれない。
表情が少しずつ緩んだ。
頬は赤いまま。
でも、目元が柔らかい。
シャッター音が鳴る。
「今の」
店主が満足そうに頷いた。
「それでいい」
写真を確認する。
俺と玲奈が、少しだけお互いのほうを向いて笑っている。
前回の写真とは違う。
あのとき玲奈は、好きな人の横にいるつもりでと言われて固まっていた。
今日は、本当にそうなった。
「印刷しますか?」
店主が尋ねる。
玲奈は俺を見る。
「二枚お願いします」
今度は迷わなかった。
「一枚ずつ?」
「はい」
「今度は構図確認じゃなく?」
俺が聞くと、玲奈は少しだけ胸を張った。
「記念です」
店を出る頃には、正午を少し過ぎていた。
予定表では喫茶こひなたへ入る時間を十五分ほど過ぎている。
玲奈がスマートフォンを見る。
俺も画面を覗く。
「遅れてますね」
「十三時三十分の自由時間から十五分減らします」
「まだ管理するんですか」
「一応です」
それでも、以前のように焦ってはいない。
写真を鞄へしまうときには、むしろ嬉しそうだった。
喫茶こひなたへ入る。
「いらっしゃいませ!」
明るい声が飛んでくる。
小日向ひまりだった。
俺たちを見る。
白い花。
つないだ手。
そして玲奈の服装。
「わ」
嫌な予感がする。
「デートですね!」
店中に聞こえる声だった。
玲奈が反射的に、
「違――」
と言いかける。
俺は隣を見る。
玲奈も俺を見る。
数秒。
「……はい」
小さく認めた。
小日向は両手で口元を押さえた。
「本当に!?」
「声を落としてください」
「すみません!」
まったく落ちていない。
窓際の二人席へ案内される。
「白雪先輩、すごくかわいいです」
「ありがとうございます」
「朝倉先輩が選んだ服ですか?」
「違います」
そこだけは即答だった。
「自分で選びました」
「何着くらい試しました?」
玲奈の動きが止まる。
小日向は以前の七着の話を知らないはずだ。
「……九着です」
増えていた。
「すごい」
小日向が素直に感心する。
「湊君」
玲奈がこちらを見る。
「笑わないでください」
「まだ何も言ってません」
「顔に出ています」
九着。
その中から今日の服を選んだ。
俺がどう思うかも、少しは考えたのだろうか。
「似合ってますよ」
改めて言う。
玲奈は一瞬黙った。
「ありがとうございます」
今度は素直に受け取った。
小日向が俺たちを交互に見ている。
「何か?」
玲奈が尋ねる。
「白雪先輩、本当に変わりましたね」
「よく言われます」
「前だったら、絶対『服装について評価を求めていません』とか言ってました」
本人より詳しい。
「私もそう思います」
玲奈が答える。
否定しなかった。
注文は、二人とも日替わりランチ。
そして、みるくまミルクパフェを一つ。
小日向が注文を書きながら笑う。
「パフェは一つでいいんですか?」
「はい」
玲奈が答える。
「二人で食べます」
これも、以前なら業務上の試食と言い張ったはずだ。
俺が驚いていると、彼女が少しだけ睨んだ。
「何ですか?」
「成長したなと思って」
「子ども扱いしないでください」
ここは変わらない。
食事を終え、パフェが運ばれてくる。
白いアイス。
水色のゼリー。
少し垂れた左耳。
以前と同じだった。
「どこから食べますか?」
俺が尋ねる。
玲奈はくまの顔を見つめる。
「前は湊君が右耳を食べました」
「覚えているんですか」
「もちろんです」
「では、今日は玲奈が」
「左耳からいただきます」
迷いなく、少し垂れたほうの耳をすくった。
「そこ大事だったんじゃないですか」
「食べ物ですから」
以前より割り切っている。
一口。
玲奈の表情が緩む。
「おいしい?」
「はい」
今度は「商品として十分魅力がある」とは言わなかった。
「湊君も」
同じパフェを、二人で食べる。
学校の活動でも、広報でもない。
ただ甘いものを食べているだけなのに、妙に特別だった。
途中、玲奈の口元に少しだけ白いクリームがついた。
言うべきか迷う。
以前なら絶対に指摘しただろう。
今は、少し迷う。
「どうしました?」
玲奈が気づく。
「クリームついてます」
「どこですか?」
「左」
玲奈が指で頬の近くを触る。
違う。
「もう少し下」
また違う。
「鏡を見ます」
スマートフォンを出そうとする。
その前に、俺は紙ナプキンを一枚取った。
「動かないで」
玲奈が固まる。
口元を軽く拭く。
本当に一瞬だった。
それでも彼女は完全に停止していた。
「取れました」
俺が離れる。
玲奈は数秒、何も言わない。
「玲奈?」
「今のは」
「クリームです」
「そうではありません」
耳まで真っ赤になっている。
「恋人は、普通にこういうことをするのですか?」
「俺に聞かれても知りません」
「湊君も初めてでしたね」
「はい」
「では」
玲奈は少し考える。
「お互い、練習が必要です」
「その言い方をすると危ないですよ」
「何がですか?」
本人は分かっていないらしい。
俺は説明しないことにした。
昼食を終え、店を出る。
予定表では自由時間になっていた。
「どこへ行きますか?」
俺が尋ねる。
「決めていません」
玲奈が答える。
「自由時間なので」
「本当に自由なんですね」
「少し不安です」
「では、歩きましょう」
行き先を決めずに商店街を歩く。
玲奈は最初、何度かスマートフォンを確認していた。
そのうち、見るのをやめた。
雑貨店へ入る。
文房具を見る。
小さなアクセサリー店へ寄る。
書店で新刊を眺める。
何も買わない店もあった。
それでも時間は過ぎる。
「こういうのも、デートなのですね」
玲奈が言った。
「何をすると思ってたんですか?」
「映画を見るとか、食事をするとか、目的があるものだと思っていました」
「それもデートでしょうけど」
「何も決めずに歩くだけでも?」
「俺は楽しいです」
玲奈がこちらを見る。
「私もです」
以前なら、言葉が出るまで少し時間が必要だった。
今はすぐに言えた。
商店街の中央を過ぎた頃、前方に見覚えのある店が見えてくる。
朝倉洋装店。
「寄りますか?」
俺が尋ねると、玲奈の足が止まった。
「今日ですか?」
「前にも来ましたよ」
「前回は活動でした」
「今日は?」
「デートです」
さっきより少し普通に言えるようになっている。
「では、嫌なら通り過ぎます」
玲奈は店のショーウィンドウを見る。
その後、自分の服を一度確認した。
「髪、変ではありませんか?」
「大丈夫です」
「服は?」
「似合っています」
「花は?」
「まだ元気です」
「では」
一度深呼吸。
「伺います」
家へ入るだけなのに、どうしてこれほど緊張するのか。
扉を開ける。
母親は作業台の前にいた。
俺たちを見る。
玲奈を見る。
つないでいる手を見る。
白い花を見る。
もう一度、玲奈を見る。
「いらっしゃい」
笑顔が怖い。
「お邪魔します」
玲奈が丁寧に頭を下げる。
「今日は学校の活動?」
母親まで同じ質問をした。
玲奈の手が少しだけ強くなる。
「違います」
「じゃあ?」
玲奈が俺を見る。
助けを求めている。
けれど、これは本人が言ったほうがいい気がした。
俺は何も言わない。
待つ。
玲奈は一度だけ息を吸う。
「湊君と、お付き合いすることになりました」
母親が固まった。
三秒ほど。
「湊」
「何?」
「今日の夕飯、赤飯にする?」
「しなくていい」
「お母様」
玲奈が真剣な顔で口を挟む。
「私も、そこまでしていただく必要はないと思います」
「玲奈も真面目に答えなくていいから」
母親は楽しそうだった。
「よかった。前に来たときから、そうなると思ってたのよ」
「いつからですか?」
玲奈が尋ねる。
「花を持ってうちに来たとき」
「その花は、花屋の方からです」
「今も持ってるわね」
玲奈が黙る。
説明しても意味がないと判断したらしい。
母親は玲奈の鞄についた青い鈴へ気づいた。
「あら」
表情が変わった。
「それ」
玲奈が少し緊張する。
「昔、湊が持ってた鈴と同じ?」
俺の鞄にも、もう片方がついている。
二つを見比べれば、同じものだと分かる。
「はい」
玲奈が答えた。
「八年前に、湊君からもらいました」
俺は一瞬、玲奈を見る。
母親へ話すつもりだとは聞いていなかった。
彼女は青い鈴へ触れる。
「桜庭総合病院の夏祭りで」
母親の目が大きくなる。
「じゃあ、あのときの?」
玲奈は頷いた。
「みるくまの中にいたのは、私です」
しばらく、誰も話さなかった。
母親は俺を見る。
「湊、覚えてたの?」
「途中から思い出した」
「ずっと秘密って言ってた相手?」
「多分」
玲奈が小さく笑う。
「約束を守ってくれていたことにします」
母親は玲奈を見る。
それから、青い鈴を見る。
「そう」
短く答えた。
いつものようにからかわない。
「持っていてくれたのね」
「はい」
玲奈は少しだけ頭を下げた。
「私にとって、大切なものです」
母親は穏やかに笑った。
「ありがとう」
玲奈が少し驚く。
「湊が昔したことを、大切にしてくれて」
玲奈は何か言おうとした。
すぐには声が出ない。
本心のこもったありがとうを受け取る側になることも、まだ慣れていないのかもしれない。
「私のほうこそ」
玲奈が答える。
「湊君に会えて、よかったです」
母親が俺を見る。
今度こそ余計なことを言いそうだった。
「何?」
先に牽制する。
「何も」
絶対に何かある顔だった。
店を出る前、母親は玲奈の白い花へ、前回と同じ水色のリボンを結んだ。
「今度は、本当に湊からもらった花ってことでいいのよね?」
「店主さんからです」
俺が答える。
「湊君を通していただきました」
玲奈が付け加えた。
前回と同じ言い方だった。
ただ、今回は少し笑っていた。
午後三時を過ぎた頃、俺たちは時計台へ戻った。
最初の予定では、ここでデート終了だったらしい。
玲奈がスマートフォンを確認する。
「十五時七分です」
「七分遅れですね」
「自由時間を使ったので、計算上は問題ありません」
最後まで管理していたらしい。
「今日は楽しかったですか?」
俺が尋ねる。
玲奈はスマートフォンを鞄へしまう。
「はい」
即答。
「予定どおりじゃないところも多かったですけど」
「それも含めて、楽しかったです」
「よかったです」
「湊君は?」
「楽しかったですよ」
玲奈は少し安心したように笑う。
「では、成功ですね」
「デートに成功失敗ってありますか?」
「今日はあります」
「どうして?」
「初めてでしたから」
彼女は時計台を見上げる。
前にここへ来たとき。
白雪玲奈は、今日の外出は業務だと何度も確認していた。
俺に私服を褒められただけで困り、写真館で彼氏と言われれば即座に否定し、手をつなぐにも安全上の理由が必要だった。
今は違う。
「次は」
玲奈が言う。
「どこへ行きますか?」
「もう次を考えてるんですか」
「駄目ですか?」
「駄目ではありません」
俺は少し考える。
「玲奈が行きたい場所で」
「それでは、候補をまとめます」
「また予定表を?」
「候補だけです」
本当に候補だけで済むのだろうか。
「映画館」
玲奈が指を折る。
「水族館。動物園。図書館」
「図書館もデート候補なんですか?」
「静かで良いと思います」
玲奈らしい。
「それから」
少し迷う。
「学校のない日に、どこか遠くへ行くのも」
「いいですね」
「泊まりではありません」
「聞いてません」
「念のためです」
何を警戒しているのか。
時計台の鐘が鳴った。
午後三時十五分。
そろそろ帰る時間だった。
「では」
玲奈が言う。
「今日は、ここで」
言葉が少し寂しそうに聞こえた。
「駅まで行きますよ」
「方向が違います」
「前はここで別れましたけど、今日は送ります」
「必要ありません」
「彼氏なので」
自分で言うと、少し恥ずかしい。
玲奈はもっと恥ずかしそうだった。
それでも。
「では、お願いします」
受け入れた。
二人で時計台を離れる。
歩き始めてすぐ、玲奈が俺の手を握った。
今度は何も言わない。
理由もつけない。
俺も聞かなかった。
商店街を出た先の横断歩道で、信号を待つ。
隣に玲奈がいる。
鞄の青い鈴が風に揺れた。
ちりん。
俺の鈴も鳴る。
ちりん。
「湊君」
「何ですか」
「一つ、聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
玲奈は前を向いたまま言う。
「みるくまがなくても、私を好きですか?」
「まだそれを聞きますか」
「確認です」
「好きですよ」
即答する。
玲奈の口元が緩む。
「では」
今度は俺を見る。
「みるくまも好きですか?」
「好きです」
「どちらのほうが?」
「比較するんですか?」
「少し気になります」
俺は考えるふりをする。
玲奈の眉が少しずつ寄っていく。
「湊君」
「冗談です」
「早く答えてください」
「玲奈です」
彼女の表情が一気に柔らかくなる。
「でも、みるくまも大事です」
「分かっています」
「玲奈が中にいなくても」
少しだけ間が空く。
小日向が中へ入ったみるくま。
これから先、別の生徒が中へ入ることもあるだろう。
いつか、今の着ぐるみ自体が引退する日も来る。
白雪が以前恐れていたように、中身も外側も変わるかもしれない。
それでも、みるくまが積み重ねてきたものまでなくなるわけではない。
「はい」
玲奈が答える。
「それでいいです」
信号が青になる。
歩き出す。
玲奈の手は離れない。
「ところで」
俺が言う。
「月曜日、学校どうしますか?」
玲奈の足が一瞬止まった。
地域文化祭で、玲奈はみるくまの中に入っていたことを公表した。
そして数日前。
旧校舎では、部活帰りの生徒に手をつないでいるところも見られた。
さらに今日は、小日向がいる喫茶店へ二人で行った。
噂が広がっていないほうがおかしい。
「通常どおり登校します」
玲奈は答えた。
「俺とのことは?」
「聞かれた場合は」
一度、深呼吸。
「お付き合いしています、と答えます」
「隠さない?」
「はい」
「大丈夫ですか?」
玲奈は少し考える。
「大丈夫ではありません」
最近、この答えが増えた。
「とても恥ずかしいです。おそらく、教室へ入りたくなくなります」
「なら、少し時間をずらしますか?」
「いいえ」
玲奈は首を横へ振った。
「逃げたくありません」
俺の手を握る。
「それに」
少しだけ笑う。
「湊君がいますから」
たったそれだけだった。
でも、今までの玲奈なら簡単には言えなかった言葉だ。
誰かがいるから大丈夫。
誰かを必要としている。
それを認めることが、彼女にとってどれだけ難しかったのか、俺は知っている。
「分かりました」
俺は握った手へ少しだけ力を返した。
「一緒に行きましょう」
「はい」
交差点を渡る。
空は少しずつ夕方の色へ変わり始めていた。
ふと、高校へ入った頃に決めた自分の方針を思い出す。
目立たない。
争わない。
頼まれ事は、断れるうちに断る。
今思えば、かなり早い段階で全部失敗している。
学校一目立つ女子と付き合うことになった。
みるくまを守るために理事会の決定へ抗った。
頼まれた着ぐるみの修理は、地域文化祭が終わっても続いている。
静かな高校生活を送りたいという最初の計画は、もう完全に崩れていた。
「どうしました?」
玲奈が尋ねる。
「高校生活の方針を考えてました」
「以前話していた、三つの方針ですか?」
「覚えてたんですか」
「湊君のことですから」
最近、玲奈はこういうことを普通に言う。
本人は気づいていないのだろう。
「全部守れてません」
俺が言うと、玲奈は少し考えた。
「新しく作ればいいのでは?」
「新しい方針?」
「はい」
「例えば?」
玲奈は歩きながら考える。
「無理をしない」
「それは玲奈の方針にしてください」
「一人で抱え込まない」
「それも玲奈です」
「ありがとうを、きちんと言う」
「全部玲奈じゃないですか」
彼女が少し笑う。
「では、湊君が決めてください」
俺は隣を見る。
白雪玲奈。
学校では完璧で、近づきにくいと思っていた少女。
みるくまの頭が落ちた日、全部が始まった。
着ぐるみの中では抱きついてくるのに、外へ出れば他人のような顔をする。
本心からのありがとうを言うことすら苦手だった。
青い鈴を八年間守り続けていた。
泣いている顔を隠した。
そして最後には、自分から着ぐるみを脱いだ。
今は、俺の隣で手をつないで歩いている。
「一つだけでいいなら」
俺は言う。
玲奈がこちらを見る。
「大事な人が困っていたら、そばにいる」
彼女の足が少しだけ遅くなる。
「それは」
「みるくまみたいですか?」
玲奈は首を横へ振った。
「違います」
「では?」
握っている手に、少し力が加わる。
「湊君らしいです」
昔の俺は、ただ泣いている白いくまの隣へ座った。
何かを治したわけではない。
問題を解決したわけでもない。
それでも玲奈は、そのことを八年間覚えていた。
そして今度は、玲奈が俺の隣にいる。
「なら、それにします」
「はい」
少し歩いたところで、玲奈が足を止めた。
「湊君」
「何ですか」
彼女は俺の手を離す。
少しだけ距離を取った。
胸元へ両腕を回す。
見守りハグの合図だった。
「ここで?」
歩道の端。
周囲には何人か人がいる。
玲奈の顔はすでに赤い。
「嫌なら、断って構いません」
「それ、みるくまの動きですよね」
「はい」
「玲奈として?」
彼女は頷く。
「今度は、私として」
俺も頷いた。
玲奈が近づいてくる。
周囲を少し気にしながら、それでも逃げない。
両腕が俺の背中へ回る。
俺も彼女を抱きしめる。
みるくまほどふわふわしていない。
白い毛もない。
大きなくまの頭もない。
青い鈴の音が、すぐ近くで鳴る。
ちりん。
「玲奈」
「はい」
「今のは、何のハグですか?」
少し前なら、動作確認だと言った。
緊急事態だと言った。
みるくまがしたことだと言った。
今の玲奈は、俺の肩へ顔を寄せたまま答える。
「好きだからです」
それだけ。
理由としては、十分だった。
しばらくして身体を離す。
玲奈は真っ赤だった。
「やはり、まだ恥ずかしいです」
「無理しなくてもいいですよ」
「いいえ」
首を横へ振る。
「これも、慣れたいです」
「ゆっくりでいいでしょう」
玲奈が笑う。
「そうですね」
俺たちは、もう一度手をつないだ。
駅へ向かって歩き出す。
鞄についた二つの青い鈴が、交互に鳴る。
ちりん。
ちりん。
八年前。
白いくまの中で泣いていた少女へ、俺は何気なく鈴を渡した。
あのときは、その先にこんな未来があるなんて考えていなかった。
彼女も、きっと同じだ。
それでも、あの日の小さな約束は消えなかった。
別々の場所で過ごした八年間を越えて、もう一度俺たちをつないだ。
そして今度は、くまの中ではない。
笑っているふりもしない。
何かを演じているわけでもない。
白雪玲奈自身が、俺の隣にいる。
「湊君」
「何ですか」
「今日は、ありがとうございました」
玲奈が言う。
もう迷わない。
「私もです」
「それから」
「はい」
玲奈は少しだけ照れながら、俺の手を握り直した。
「次も、来てくださいね」
どこへ、とは言わなかった。
たぶん、場所はどこでもいいのだと思う。
「もちろん」
俺が答える。
玲奈は嬉しそうに笑った。
その笑顔は、みるくまのようにいつも同じではない。
少し照れていて。
少し不安そうで。
それでも、ちゃんと嬉しそうだった。
だから俺も、その手を離さなかった。
今度は、彼女が何かを演じているからではない。
白雪玲奈だから。
ただ、それだけの理由で。
二つの青い鈴を鳴らしながら、俺たちは並んで歩いていった。




