第七章 ~新しい中の人~
月曜日の朝、教室へ入ると、白雪玲奈はすでに自分の席に座っていた。
いつものように背筋を伸ばし、机の上には教科書とノートが正確な位置に並べられている。
休日に商店街を一緒に歩き、パフェを半分ずつ食べ、時計台の下で手をつないでいた人物とは思えないほど、普段どおりの姿だった。
俺が教室へ入ったことには気づいているはずだ。
それでも白雪はこちらを見なかった。
商店街から帰る前には、活動ではない日に出かけることを検討すると話していた。
少しくらい態度が変わるかもしれないと思っていたが、期待するだけ無駄だったらしい。
自分の席へ向かう途中、白雪の机の横を通る。
声をかけるべきか迷った。
周囲には何人もの生徒がいる。ここで昨日の話をすれば、相川を含めたクラスメイトに勘づかれる可能性があった。
結局、何も言わずに通り過ぎようとしたとき、白雪が小さく顔を上げた。
視線だけが、こちらへ向く。
「おはようございます、朝倉君」
声量は、近くにいる者だけが聞き取れる程度だった。
教室で白雪のほうから挨拶されたのは、これが初めてかもしれない。
「おはようございます」
俺も普段と変わらない声で返す。
それだけのやり取りだった。
しかし白雪は、すぐに教科書へ戻らなかった。
何かを確かめるように俺を見た後、ほんの少しだけ目を細める。
昨日、時計台の下で別れたときと同じ、柔らかな表情だった。
「朝倉、今、白雪から挨拶されなかったか?」
席へ着くと、前の相川が身体ごと振り向いた。
「同じクラスなら挨拶くらいするだろ」
「白雪から男子に?」
「俺からも返した」
「そういう問題じゃない」
相川は教室の窓際へ視線を向けた。
白雪はすでに教科書を読んでいる。先ほどまで俺を見ていた形跡は、どこにも残っていない。
「やっぱり、何か始まってる?」
「始まってない」
「日曜日、商店街にいたって聞いたけど」
俺は鞄から教科書を取り出す手を止めた。
「誰から?」
「バスケ部の一年。喫茶こひなたで働いてる小日向って子が、白雪と朝倉が一緒に来たって話してた」
小日向ひまり。
今日の放課後、みるくまの着用者候補として試着する予定の後輩だ。
あの明るい性格なら、下見で会ったことを隠す理由もないのだろう。
「生徒会の活動で、商店街を下見しただけだ」
「私服で?」
「休日だから」
「二人でパフェを食べた?」
「商品の確認だ」
「手をつないでた?」
どこまで見られているのか。
「人が多かったから、はぐれないようにした」
「完璧にデートの説明じゃん」
相川が呆れたように言った。
「白雪本人は、業務だと言ってた」
「本人が言い張ってるだけだろ」
俺も否定できなかった。
相川がさらに質問しようとしたところで、教室の入口から明るい声が聞こえた。
「朝倉先輩、おはようございます!」
小日向ひまりが、廊下から大きく手を振っていた。
一年生が二年生の教室へ来るだけでも目立つ。
小日向は元々人目を引く容姿をしており、声もよく通るため、教室内の視線が一斉に集まった。
白雪も、本から顔を上げる。
俺は周囲の注目を感じながら、小日向のもとへ向かった。
「どうしたんですか?」
「今日の放課後のことで、確認に来ました。体操着を持ってくるよう言われたんですけど、ダンス部の練習着でも大丈夫ですか?」
「着ぐるみの中に着るので、動きやすければ問題ありません」
「分かりました。それから、髪は結んだほうがいいですよね?」
「首元に挟まる可能性があるので、まとめてください」
俺が説明すると、小日向は元気よく頷いた。
「楽しみです。みるくまの中がどうなってるのか、ずっと気になってたんですよ」
声が大きい。
教室内の何人かが、こちらを見ている。
「着用者のことは秘密なので、放課後までは詳しく話せません」
俺が声を落とすと、小日向は自分の口を両手で押さえた。
「すみません。秘密でした」
「試着すること自体も、あまり広めないでください」
「分かりました」
小日向は囁くような声で答えたが、それでも周囲には十分聞こえる音量だった。
彼女は教室の中へ視線を向け、窓際の白雪を見つける。
「白雪先輩も、今日いらっしゃいますよね?」
白雪は席を立ち、こちらへ歩いてきた。
「生徒会の担当として、立ち会います」
声も表情も落ち着いている。
昨日、みるくまを取られたくないと話したときの不安は、完全に隠されていた。
「よろしくお願いします」
小日向が頭を下げる。
白雪も丁寧に応じた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。ただし、みるくまは一般的な衣装よりも視界が狭く、身体への負担も大きいものです。無理をせず、異常があればすぐに伝えてください」
「はい。体力には自信があります」
小日向は笑顔で胸を張った。
「ダンス部では、二時間踊り続けることもありますから」
「着ぐるみの活動は、通常のダンスとは異なります」
白雪の返答が、少しだけ早かった。
「暑さだけでなく、頭部の重さや足元の見えにくさがあります。体力があれば安全というわけではありません」
「分かっています。勝手な動きはしません」
小日向は白雪の厳しい口調を気にせず、素直に頷いた。
「でも、白雪先輩のみるくまみたいに動けるよう、頑張ります」
白雪の表情がわずかに変わった。
「私の?」
「はい。昨日、藤堂先輩から聞きました。中に入っているのが白雪先輩だって」
着用者候補になる以上、正体を知らせる必要がある。
小日向は秘密保持についても説明を受けているのだろう。
それでも、教室の近くで口にしてよい内容ではない。
俺と白雪は同時に廊下を確認した。
幸い、近くにいる生徒は相川くらいだった。
相川もすべてを聞き取った様子はなく、不思議そうにこちらを見ているだけだった。
「その話は、放課後にしましょう」
白雪が静かに告げる。
小日向は再び口元を押さえた。
「ごめんなさい。秘密を守るの、思ってたより難しいですね」
「慣れるまでは、みるくまについて話す場所を限定してください」
「はい。気をつけます」
小日向は一度頭を下げ、自分の教室へ戻っていった。
彼女の姿が階段の向こうへ消えた後、白雪は教室へ入ろうとした。
俺はその横へ並ぶ。
「大丈夫ですか?」
小さな声で尋ねると、白雪は前を向いたまま答えた。
「何がでしょうか」
「小日向さんの試着です」
「必要なことです」
「昨日は嫌だと言っていました」
白雪が足を止める。
教室の入口までは、あと数歩だった。
「嫌だからといって、安全上の判断を拒否することはできません」
「気持ちが変わったわけではない?」
彼女はすぐには答えなかった。
教室から相川がこちらを見ていることに気づき、白雪は表情を整える。
「放課後にお話しします」
それだけ言い残し、自分の席へ戻っていった。
午前中の授業が始まってからも、白雪は普段と変わらない態度を続けた。
教師から指名されれば正確に答え、休み時間にはクラスメイトから頼まれたプリントを確認する。
小日向の試着を気にしている様子は見せない。
しかし昼休みになると、俺の机へ小さく折られた紙が回ってきた。
『本日の試着について、活動規約を一部変更する必要があります』
その下には、放課後の集合時間と、持参するものが記されていた。
一番下に、小さな文字で一文だけ加えられている。
『昨日の件を、教室で話すつもりはありません』
昨日の件が、商店街を一緒に歩いたことなのか、時計台で手をつないだことなのか、それとも次は活動ではない日に出かけたいと話したことなのかは分からない。
俺は紙の裏へ返事を書く。
『俺も話しません。試着のときは、一人で我慢しないでください』
白雪へ紙を戻す。
彼女は内容を読み、しばらく動かなかった。
やがてペンを取り、一言だけ書き加える。
『努力します』
それは、白雪なりに助けを求める可能性を残した返事なのだと思った。
放課後の広報備品室には、いつもより多くの人間が集まっていた。
俺と白雪、小日向に加え、藤堂先輩と黒岩先生がいる。
長机の上には、試着用の確認表と秘密保持に関する書類が並んでいた。
小日向はダンス部の練習着へ着替え、髪を後頭部で一つにまとめている。
普段の明るい印象はそのままだが、着ぐるみの頭部を前にすると、少し緊張した表情を見せた。
「最初に確認しておく」
黒岩先生が書類を閉じ、小日向を見る。
「今日の試着は、白雪の代わりをすぐに決めるためのものではない。今後の安全を考え、緊急時に交代できる人員を用意できるか判断するためだ」
「はい」
小日向が真面目に頷く。
「着用者の正体、活動場所、着ぐるみ内部の構造については、外部へ漏らさないこと。友人や家族にも話してはいけない」
「分かりました」
「体調が悪くなった場合は、我慢せず申告すること。白雪のように無茶をしないように」
黒岩先生の視線が白雪へ向く。
彼女は何も言わず、確認表へ目を落とした。
「その件については、すでに改善しています」
「そうだといいが」
黒岩先生は俺を見る。
「朝倉。安全面は任せる。少しでも危険だと思ったら中止して構わない」
「分かりました」
俺は小日向の身長や肩幅を、事前に提出された記録と照らし合わせた。
白雪と小日向の身長差は二センチほどしかない。着ぐるみに入ること自体は問題ないはずだ。
ただし、体格は同じではない。
小日向はダンス部で身体を鍛えているため、白雪より肩まわりに筋肉がついている。反対に腰の位置は少し高く、内部ベルトの固定場所を調整する必要があった。
「肩幅を確認します」
俺がメジャーを持つと、小日向は両腕を横へ広げた。
「お願いします」
白雪のときとは違い、緊張して身体を硬くする様子はない。
俺が肩へメジャーを当てると、小日向は興味深そうに手元を見ていた。
「着ぐるみって、中の人に合わせて調整してるんですね」
「今は白雪の体格に合わせています。小日向さんが着る場合は、固定位置を少し変える必要があります」
「先輩が全部直したんですか?」
「使えない部分を交換しただけです」
「すごいですね。服も作れるって聞きました」
「実家が洋装店なので」
俺たちが話している間、白雪は確認表へ数字を書き込んでいた。
ただし、ペン先が紙に触れたまま動いていない。
「白雪」
声をかけると、彼女はすぐに顔を上げた。
「何でしょうか」
「肩幅は三十九センチです」
「記録しました」
用紙を見ると、数字はすでに書かれている。
俺が小日向と話していることを気にしているように見えたが、直接尋ねても否定されるだけだろう。
腕や腰の位置も確認し、着ぐるみ内部のベルトを調整する。
小日向はその間、棚へ置かれた活動写真を眺めていた。
「この写真、幼稚園のときですよね」
園児たちに囲まれたみるくまの写真を指差す。
「そうです」
藤堂先輩が答えた。
「最初に見守りハグを受けている子、すごく安心した顔をしてますね」
「朝倉君と玲奈が考えたのよ」
「白雪先輩が?」
小日向は嬉しそうに白雪を見る。
「私、見守りハグが一番やってみたいです」
白雪はすぐには答えなかった。
確認表を机へ置き、活動写真へ目を向ける。
「見守りハグは、単に相手を抱きしめるものではありません」
声は落ち着いている。
「相手が本当に望んでいるかを確認し、嫌がっている様子があれば近づかないことが最も重要です」
「はい。胸の前で自分を抱きしめてから、相手へ腕を広げるんですよね」
小日向はその場で確認動作を真似した。
動きは正確だった。
動画を何度も見てきたらしい。
「形だけを覚えても、十分ではありません」
白雪の言葉が少し厳しくなる。
小日向は腕を下ろし、真剣に話を聞いた。
「相手の表情や身体の動きを見てください。頷いていても、足が後ろへ下がっている場合があります。周囲に言われ、断れずにいる可能性もあります」
「無理をさせない、ということですね」
「はい。みるくまがしたいことではなく、相手がどうしたいかを優先してください」
「分かりました」
小日向は素直に頷いた。
白雪の説明には、ひかり幼稚園で柚葉と向き合った経験が含まれている。
見守りハグを考えた当初の白雪は、人気を取り戻すために抱きしめることを重視していた。
今は、抱きしめないこともみるくまの役割だと理解している。
その変化は、小日向にはまだ分からないだろう。
「調整できました」
俺は内部ベルトから手を離した。
「まず胴体だけ着て、苦しい場所がないか確認します」
小日向が着ぐるみの脚部分へ足を入れる。
腰まで引き上げ、両腕を袖へ通したところで、俺は背後へ回った。
「ファスナーを閉めます」
「はい」
背中の生地を押さえ、金具をゆっくり下ろしていく。
白雪のときより、肩まわりに余裕が少ない。ただし、動きを妨げるほどではなかった。
小日向が両腕を回す。
「思ってたより重いです」
「頭部をつけると、さらに重くなります。腰と肩のベルトで分散していますが、長時間は着ないでください」
「白雪先輩は、これで幼稚園の子全員と踊ったんですよね」
「途中で休憩しています」
白雪が答えた。
「体力だけで続けられるものではありません」
同じことを朝にも説明していた。
小日向が白雪の口調を気にする様子はない。むしろ尊敬するような目で、着ぐるみの身体を見下ろしている。
「頭部を装着します」
小日向が少し屈む。
俺はみるくまの頭部を持ち上げた。
そのとき、白雪が一歩近づいた。
「朝倉君」
「何ですか」
「首元の留め具は、私が確認します」
俺は頭部を持ったまま、白雪を見る。
これまで留め具の固定は、修理担当である俺が行ってきた。
白雪自身も、誰かに任せる必要があることを理解している。
「やり方は分かりますか?」
「見ていますから」
「固定が甘いと危険です」
「慎重に行います」
白雪は譲るつもりがないらしい。
俺は小日向へ頭部をかぶせ、白雪に留め具の位置を示した。
「左右の金具を同じ場所まで入れて、最後に引いて確認してください」
「分かりました」
白雪がみるくまの首元へ手を入れ、一つずつ留め具を固定する。
動作は丁寧だった。
小日向の身体へ必要以上に触れることもなく、最後に頭部を軽く動かして外れないことを確認する。
「問題ありません」
白雪が後ろへ下がった。
そこに立っているのは、いつもと同じみるくまだった。
丸い黒目。
水色のリボン。
少し垂れた左耳。
外見だけでは、中にいるのが白雪なのか小日向なのか分からない。
みるくまは自分の両手を見た後、勢いよく両腕を上げた。
そのまま軽く足を開き、左右へ身体を動かす。
白雪が中にいるときより、動きが大きい。
「小日向さん、最初はゆっくり動いてください」
俺が注意すると、みるくまは片手で頭部を押さえながら頷いた。
「すみません。身体が動くか試したくて」
くまの中から小日向の声が聞こえる。
「活動中は、声を出しません」
白雪がすぐに指摘した。
「話す癖がつくと、人前でも無意識に声を出す可能性があります」
みるくまが両手で口元を押さえる。
その動きにも、小日向らしい勢いがあった。
俺は歩行から確認することにした。
備品室の端から端まで、真っすぐ歩く。
止まる。
方向を変える。
腰を落とす。
段差を想定し、片足ずつ上げる。
小日向は基本的な動作を問題なくこなした。
身体能力が高いため、着ぐるみの重さにも早く慣れている。
ただし、動きが速い。
方向転換をすると、頭部が少し遅れてついてくる。
足元が見えていないにもかかわらず、普段の感覚で歩こうとするため、歩幅も大きかった。
「もう少しゆっくりです」
俺が声をかけると、みるくまの歩幅が小さくなる。
「動けることと、安全に動くことは別です」
白雪が確認表へ記録しながら説明する。
「子どもは予想できない方向から近づきます。すぐに止まれる速度で歩いてください」
みるくまが頷いた。
小日向は指摘されたことを素直に修正した。
二回目には速度を落とし、方向転換の前に一度止まる。
三回目には、頭部の重さを利用し、身体全体でゆっくり向きを変えた。
「覚えるのが早いな」
黒岩先生が感心したように言う。
「ダンス部で、身体の使い方に慣れているのでしょう」
白雪が答えた。
褒めている言葉のはずだが、声には硬さが残っていた。
次に、学校説明会や幼稚園で行った簡単な踊りを試す。
音楽を流すと、みるくまの動きが明らかに変わった。
小日向は振りつけを一度見ただけで覚え、着ぐるみの制限に合わせて動きを調整している。
白雪が何度も練習して身につけた動作を、短時間で再現していた。
さらに、子どもが喜びそうな動きを自分で加える。
両腕を大きく振り、身体を左右へ揺らす。
回転する代わりに、片足ずつその場で踏みながら、全身を使って円を描く。
着ぐるみの左耳が楽しそうに揺れる。
「かわいいわね」
藤堂先輩が笑顔を見せた。
「イベントのステージなら、玲奈より小日向さんのほうが動けるかもしれない」
悪意のない言葉だった。
事実でもある。
小日向はダンス部員だ。着ぐるみに慣れれば、舞台上の動きでは白雪よりも優れているだろう。
白雪は確認表から顔を上げなかった。
「動作の選択肢が増えることは、広報活動に有効だと思います」
生徒会役員としての正しい意見だった。
ただ、ペンを握る指が少し白くなっている。
踊りを終えたみるくまが、両腕で大きな丸を作った。
楽しめたらしい。
「一度休憩しますか?」
俺が尋ねると、首を横へ振る。
続いて、両腕を自分の胸へ回した。
見守りハグの確認動作だった。
「練習したいんですか?」
みるくまが頷く。
「相手の希望を確認するところからです。腕を広げた後、頷くまで近づかないでください」
俺が説明すると、みるくまは数歩後ろへ下がった。
胸元で自分を抱きしめ、次に両腕をこちらへ広げる。
練習相手として、俺を選んだらしい。
「朝倉君」
白雪の声が横から聞こえた。
「私が相手になります」
「白雪が?」
「動きを確認する立場として、私が適切です」
白雪は確認表を机へ置き、みるくまの前へ立とうとする。
しかし小日向は、すでに俺へ両腕を広げたまま待っていた。
相手を途中で変えると、練習として不自然になる。
「一度目は俺がやります。次に白雪が確認してください」
俺が言うと、彼女は少しだけ唇を結んだ。
「分かりました」
俺が頷く。
みるくまが勢いよく近づいてきた。
白い両腕が背中へ回り、身体が強く押される。
小日向は止まる直前まで普段の速度で進んだため、抱きしめるというより、飛び込まれた感覚に近かった。
俺は一歩後ろへ下がり、どうにか体勢を保つ。
「勢いが強いです」
みるくまの中から、小日向の慌てた声が聞こえた。
「ごめんなさい」
「今は練習なので大丈夫です。活動中は相手が子どもの場合もあります。最後の一歩は、特にゆっくり近づいてください」
小日向が身体を離す。
白いくまは反省したように両手を前で合わせ、何度も頭を下げた。
動きは素直で、愛嬌がある。
それでも、いつものみるくまとは違っていた。
白雪のみるくまは、相手が近づくのを待つ。
許可を得た後も急がず、逃げる場所を残しながら距離を縮める。
抱きしめる瞬間も、相手がどれほどの力で触れてきたかを確かめ、その人に合わせて腕の強さを変えている。
小日向の抱擁は明るく、元気で、相手を励ます力があった。
しかし白雪の見守りハグとは、同じではない。
「次は、私が確認します」
白雪が小日向の正面へ立つ。
みるくまが胸元へ両腕を回し、彼女へ向けて広げる。
白雪はすぐに頷かなかった。
くまの腕の角度、身体の向き、足の位置を確認している。
数秒後、静かに頷く。
今度のみるくまは、先ほどの失敗を意識していた。
歩幅を小さくし、一歩ずつゆっくり近づく。
白い腕が白雪の身体を包んだ。
小日向は同じ女子生徒ということもあり、俺のときより自然に抱きしめられている。
頭部を肩の横へ置き、数秒で離れた。
「今の動きは問題ありません」
白雪は平静な声で伝えた。
「ただ、抱きしめる前に、相手の足元も見てください。今の私は動きませんでしたが、怖いと感じた場合は後ろへ下がる可能性があります」
みるくまが頷く。
「それから、腕を背中へ回す位置が少し高いです。小さな子どもが相手なら、肩や首へ力がかかります」
もう一度、頷く。
白雪は小日向へ厳しく接しているわけではない。
必要なことを正確に伝えている。
それでも、表情からは感情が消えていた。
「白雪先輩」
小日向がくまの頭部をつけたまま声を出す。
「何でしょうか」
「白雪先輩のみるくまは、もっと優しいですよね」
白雪の目がわずかに動いた。
「今の私、形だけ真似してる感じがします」
小日向は自分の白い手を見下ろした。
「動画では、もっと簡単に見えました。でも中に入ると、相手の顔もよく見えないし、どのくらいの力で抱きしめればいいのか分かりません」
「最初から、すべてできる必要はありません」
白雪の声が、先ほどより少し柔らかくなる。
「失敗した部分を確認し、次に直せばいいのです」
「白雪先輩も失敗しましたか?」
「何度もしました」
着ぐるみの耳を扉へぶつけ、椅子へ座ろうとして尻尾を挟み、暑さを我慢して倒れかけた。
最後の失敗は笑えないが、小日向に話す必要はない。
「朝倉君に、何度も注意されました」
白雪は俺を見ずに続けた。
「動きが速い。無理をしない。相手が望んでいるか確認する。今のあなたと、同じです」
小日向は少し考えた後、大きく頷いた。
「では、練習すれば白雪先輩みたいになれますか?」
白雪は答えなかった。
俺にも、その質問への正しい答えは分からなかった。
動き方は覚えられる。
安全な歩き方も、相手への確認方法も、練習すれば身につく。
しかし白雪とまったく同じみるくまになることは、おそらくできない。
それは小日向の技術が足りないからではない。
中にいる人間が違うからだ。
「同じになる必要はないと思います」
俺が答えると、全員の視線がこちらへ向いた。
「小日向さんには、小日向さんにしかできない動きがあります。踊りや大きな動作では、白雪より得意な部分もあるでしょう」
白雪の表情が、少し硬くなる。
俺は構わず続けた。
「でも、白雪のみるくまと同じになる必要はありません。中にいる人間が違えば、完全に同じ動きにはならないからです」
「それでは、みるくまではなくなりませんか?」
白雪が尋ねた。
「外から見れば同じ姿です。けれど、受ける印象は変わります」
俺は小日向が入っているみるくまを見る。
「小日向さんのみるくまは、明るくて元気です。見ている人を一緒に動かすのが得意だと思います」
次に白雪を見る。
「白雪のみるくまは、相手が近づくまで待てる。話したくない人には話させず、抱きしめてほしくない人には触らない。相手がどうしたいかを、ずっと見ています」
ひかり幼稚園で、柚葉の前へ座っていた白いくまを思い出す。
何もせず、声もかけず、ただ同じ部屋にいた。
あの動きは、手順として教えられるものではない。
白雪自身が、待ってほしかった経験を持っているからできたことだ。
「同じ着ぐるみでも、同じみるくまにはなりません」
俺が言うと、備品室に沈黙が落ちた。
小日向が、くまの頭部をゆっくり外した。
汗で額に髪が張りついている。着用時間は短いが、やはり内部は暑いらしい。
「私は、白雪先輩のみるくまになりたいと思っていました」
小日向は頭部を両手で持ったまま言った。
「幼稚園の動画を見て、私も子どもたちを笑顔にしたいと思ったからです。でも、同じになるのは無理なんですね」
「無理というより、なる必要がありません」
俺が答える。
「小日向さん自身が、どういうみるくまになりたいかを考えたほうがいいと思います」
小日向は白雪を見た。
「白雪先輩は、どう思いますか?」
白雪はすぐには答えなかった。
机上の確認表を見つめ、その後、みるくまの頭部へ視線を移す。
「朝倉君の言うとおりだと思います」
静かな声だった。
「動作を共有することはできます。見守りハグの規則や、安全に活動する方法も伝えられます。しかし、私と同じである必要はありません」
「それなら、私が中に入ってもいいですか?」
小日向の問いに、白雪の指がわずかに動いた。
昨日、彼女は他の人がみるくまになるのは嫌だと言った。
その感情は今も消えていないはずだ。
白雪は唇を開きかけ、再び閉じる。
生徒会役員として正しい答えを選ぼうとしているのだろう。
俺は白雪の代わりに答えなかった。
彼女自身の気持ちを、正しさで覆ってほしくなかった。
「私は」
白雪は一度、深く息を吸った。
「正直に言えば、ほかの人がみるくまの中に入ることを、受け入れられていません」
藤堂先輩と黒岩先生が、驚いたように彼女を見る。
小日向も目を見開いた。
白雪は逃げずに続けた。
「みるくまは学校のもので、私個人のものではありません。安全のために、交代できる人が必要であることも理解しています。それでも、私にとってみるくまは、単なる着ぐるみではありません」
彼女の視線が、少し垂れた左耳へ向けられる。
「誰かが中に入れば、自分の大切な場所を渡してしまうように感じます」
「白雪先輩」
小日向が名前を呼ぶ。
白雪はまっすぐ相手を見た。
「あなたが悪いわけではありません。適性もあると思います。だからこそ、私の感情だけで拒否するべきではないと考えています」
小日向はしばらく黙っていた。
やがて、着ぐるみの頭部を長机へ置く。
「私は、白雪先輩からみるくまを取りたいわけではありません」
いつもの明るい声ではなかった。
真剣な口調だった。
「白雪先輩のみるくまが好きだから、手伝いたいと思いました。ダンス部なら体力もあるし、私にも何かできるかもしれないって」
「しかし、理事会は交代要員を求めています」
「交代と、交代させることは違います」
小日向が言った。
「白雪先輩が体調を崩したときや、どうしても出られないときだけ、私が代わりに入る。それでは駄目ですか?」
白雪は藤堂先輩を見る。
判断を求められた彼女は、腕を組んで少し考えた。
「理事会が求めているのは、活動を一人へ依存しない体制よ。必ずしも主担当を交代させろとは言われていないわ」
「ただし、白雪が無理を続けるなら話は別だ」
黒岩先生が付け加える。
「交代要員がいることを理由に無茶をするのではなく、適切に休むこと。これを守れるなら、主担当を変える必要はない」
白雪の目が、わずかに揺れた。
「私が主担当のままで、よろしいのですか」
「今のみるくまの活動を作ったのは、白雪と朝倉だ。結果も出ている。すぐに変更する理由はない」
黒岩先生の言葉に、白雪の肩から少し力が抜ける。
それでも、安心した表情を見せることはなかった。
「ただし、安全計画を作り直す必要がある」
藤堂先輩が確認表を引き寄せる。
「活動時間、休憩の回数、交代が必要になる条件を明文化する。小日向さんには、緊急時の交代要員として基本動作を覚えてもらう。それで理事会へ提案しましょう」
「私、踊りだけ外で手伝うこともできます」
小日向が提案する。
「みるくまの中に入らなくても、一緒に踊る人がいれば子どもたちも動きやすいですよね。着ぐるみの近くで誘導もできます」
「商店街の撮影でも、補助役が必要でした」
白雪が答える。
「小日向さんに協力していただけるなら、活動の選択肢が増えます」
「はい。任せてください」
小日向に笑顔が戻った。
白雪も、ほんの少しだけ表情を緩める。
二人が対立する必要はなかった。
小日向は白雪のみるくまを奪おうとしているのではない。
白雪が守りたいものを、一緒に残そうとしている。
そのことを白雪自身が理解するまで、少し時間が必要だっただけだ。
試着を再開し、今度は緊急時に必要となる最低限の動きを確認した。
着ぐるみの着脱方法。
体調不良を伝える合図。
誘導者の腕へ触れる位置。
段差の前で止まる方法。
小日向は一つずつ覚え、分からない部分は白雪へ質問した。
白雪も先ほどまでとは違い、自分の経験を交えて説明する。
「頭部がずれたと感じても、自分で直そうとしないでください。視界がさらに狭くなります」
「その場合はどうしますか?」
「その場で両手を上げ、誘導者に伝えます」
「朝倉先輩が直すんですか?」
小日向が俺を見る。
「近くにいる補助担当が直します。必ずしも俺とは限りません」
「白雪先輩のときは、朝倉先輩ですよね」
白雪の説明が止まった。
「現在は、朝倉君が安全管理を担当しています」
「では、私のときもお願いします」
小日向は特に深い意味もなく言ったのだろう。
白雪は確認表へ視線を落とした。
「必要な場合は、私も補助します」
「ありがとうございます」
小日向は素直に礼を言う。
白雪の耳が少しだけ赤くなっていたが、口を挟んだこと自体には満足しているようだった。
最後にもう一度、見守りハグを確認した。
今度の練習相手は藤堂先輩だった。
小日向は先ほどの指摘を守り、相手が頷いてからゆっくり近づく。
腕を背中の低い位置へ回し、短く抱きしめて離れた。
「今度はよかったわ」
藤堂先輩が笑顔で評価する。
小日向は着ぐるみの中で喜んだらしく、両手を上げて小さく跳ねようとした。
俺と白雪が同時に声を上げる。
「跳ばないでください」
小日向は動きを止め、両手で頭部を押さえた。
俺と白雪は顔を見合わせる。
注意する内容まで同じだった。
どちらからともなく、少しだけ笑った。
試着を終え、小日向が着ぐるみから出る。
顔は汗に濡れていたが、体調に問題はないらしい。
用意していた水を飲みながら、何度も楽しかったと話していた。
「見ているより、ずっと大変でした」
小日向はタオルで髪を拭きながら言う。
「でも、また練習したいです」
「次回は、活動時間を短く区切って行います」
白雪が答える。
「今日の動作で、肩や腰に痛みが出た場合は、必ず明日までに伝えてください」
「分かりました」
「無理をしていなくても、後から痛みが出る場合があります」
「白雪先輩、思ってたより心配性ですね」
小日向が笑う。
白雪は一瞬言葉を止めた。
「安全管理に必要な確認です」
「ありがとうございます」
小日向が素直に礼を言うと、白雪は返答に迷ったように視線を逸らした。
「どういたしまして」
小さな声だった。
試着が終了し、黒岩先生は職員室へ戻った。
藤堂先輩も、生徒会室で安全計画の草案を作ると言って退室する。
小日向は着替えのため、別の空き教室へ移動した。
備品室に残ったのは、俺と白雪だけだった。
長机の上には、みるくまの頭部が置かれている。
いつもと同じ笑顔を浮かべているはずなのに、先ほどまで別の人間が中にいたことで、少し違って見えた。
白雪も同じことを感じているのか、くまの顔を見つめたまま動かない。
「どうでしたか?」
俺が尋ねると、彼女は静かに息を吐いた。
「小日向さんには、適性があると思います」
「それは生徒会としての意見ですか?」
「白雪玲奈としても、同じです」
答えは落ち着いていた。
「体力もありますし、覚えるのも早い。子どもと一緒に踊る活動では、私より向いているかもしれません」
「白雪には、白雪にしかできないことがあります」
「先ほども聞きました」
「納得していないように見えます」
白雪は俺から目を逸らした。
「朝倉君は、小日向さんのみるくまを見て、すぐに違うと分かりましたか?」
「分かりました」
「外見は同じでした」
「動きが違います」
「練習すれば、同じ動きを再現できるかもしれません」
「それでも、違うと思います」
白雪がこちらを見る。
その目には、期待と不安が入り交じっていた。
「どうしてですか?」
「小日向さんは、相手を元気にするような抱きしめ方でした。明るくて、勢いがある。あれはあれで、喜ぶ人がいると思います」
「私の見守りハグは?」
「相手の力が抜けるまで待っている感じがします」
白雪は何も言わない。
俺は長机のみるくまへ視線を向けた。
「白雪は、自分から抱きしめているようで、実際には相手に合わせています。近づいてきた人が軽く触れるだけなら、白雪も軽く抱く。背中へ腕を回されたら、少し強くする。相手が離れようとするまで、自分からは急いで動かない」
「よく見ていますね」
「安全管理ですから」
「それだけですか?」
白雪は少しだけ口元を緩めた。
商店街で俺が使った言葉を、今度は彼女から返された。
「それだけではありません」
正直に答える。
「白雪のみるくまに、何度も抱きしめられていますから」
彼女の頬が赤くなる。
「動作確認です」
「回数が多すぎると思います」
「必要な確認です」
いつもの反論だった。
しかし、白雪の表情から不安は少し消えていた。
「俺が知っているみるくまは、白雪です」
口にすると、彼女の動きが止まった。
「小日向さんが着れば、小日向さんのみるくまになる。それは悪いことではありません。でも、俺が白雪と間違えることはないと思います」
「顔は見えません」
「顔以外で分かります」
白雪はしばらく俺を見つめた後、くまの頭部へ近づいた。
少し垂れた左耳を指先で撫でる。
「私が中にいなくても、この形は変わりません」
「外側だけなら」
「朝倉君は以前、中身が変わっても同じみるくまでいられると言いました」
着ぐるみの内部を作り直すと話したときのことだ。
中身が変わっても、同じみるくまでいられるか。
あのとき白雪が尋ねた「中身」は、骨組みやクッションのことだけではなかったのかもしれない。
「壊れた部分を直すことと、別の人が入ることは違います」
俺は答えた。
「でも、変わること自体が、すべて別物にするわけではないと思います。小日向さんが加わっても、白雪が積み重ねてきたものは消えません」
「見守りハグも?」
「白雪が考え、白雪が育てたものです」
「朝倉君と一緒に、です」
彼女が訂正した。
「一人では、思いつきませんでした」
「なら、二人で作ったものです」
白雪はゆっくり頷いた。
それから、くまの頭部を両手で持ち上げる。
自分でかぶるのかと思ったが、彼女は胸元に抱えただけだった。
「今日は、みるくまにならないのですか?」
俺が尋ねると、白雪は首を横へ振った。
「今は、白雪玲奈として話しています」
「そうですか」
「ただし」
彼女はくまの頭を机へ戻した。
次に、両腕を自分の胸元へ回す。
着ぐるみを着ていない状態で、見守りハグの確認動作をした。
続いて、俺へ両腕を広げる。
「練習ですか?」
白雪は少し迷った後、首を横へ振った。
「違います」
着ぐるみの中へ逃げず、白雪自身として認めた。
俺は頷く。
彼女が一歩ずつ近づいてくる。
白いくまの大きな身体ではないため、距離が縮まるほど白雪本人の表情が見えた。
頬が赤い。
視線も落ち着かず、何度か俺の肩と胸元を行き来している。
それでも途中で止まらなかった。
白雪の腕が、俺の背中へ回る。
彼女の額が、肩へ軽く触れた。
着ぐるみ越しではない。
制服の生地を通して、体温と呼吸が伝わってくる。
「これは、何の確認ですか?」
俺が尋ねると、白雪は肩へ顔を寄せたまま答えた。
「朝倉君が、私と小日向さんを間違えないかの確認です」
「着ぐるみを着ていません」
「比較のために必要です」
「規約第十条は?」
「私からなので、朝倉君の違反ではありません」
また同じ抜け道だった。
「違いは分かりますか?」
「分かります」
「どこが違いますか?」
答えに困る。
今の白雪は、みるくまのときよりも腕の力が弱かった。
抱きしめるというより、触れてもいい場所を確かめながら、恐る恐る近づいている。
「白雪のほうが緊張しています」
「それは、着ぐるみを着ていないからです」
「では、次は着ぐるみを着ますか?」
「今日は着ません」
白雪の腕に、少しだけ力が入る。
「私が中にいると分かっているのなら、今はこれで十分です」
しばらくして、彼女は自分から身体を離した。
目を合わせることができないのか、すぐに長机へ向かう。
そこには、試着後のみるくまが置かれていた。
「片づけます」
白雪が胴体部分を確認し始める。
俺も手伝おうとすると、彼女の動きが止まった。
「朝倉君」
「何ですか」
「先ほどは、ありがとうございました」
「何に対して?」
「私の気持ちを、待っていてくれたことです」
本心からの「ありがとう」だった。
以前のように長い時間をかけることなく、今度は自分から言えた。
「どういたしまして」
俺が答えると、白雪は少しだけ笑った。
「一日の回数制限は、なくなったんですか?」
「まだ検討中です」
完全に撤廃されたわけではないらしい。
着ぐるみを片づけるため、内部の状態を確認する。
小日向が動いたことで、肩ベルトが少しずれていた。
次回までに、着用者ごとの位置を簡単に変更できる構造へ直したほうがよさそうだ。
俺が胸元の内側へ手を入れようとしたとき、小さな音が鳴った。
ちりん。
青い鈴の音だった。
白雪の動きが止まる。
「試着中にも鳴っていました」
俺が言うと、彼女は小さく頷いた。
「小日向さんも、何か入っていることに気づいたかもしれません」
「何も聞かれませんでした」
「今回は聞かれなかっただけです。中に別の人が入るなら、安全のためにも私物は外したほうがいいと思います」
鈴そのものが危険なわけではない。
しかし内部で動けば、硬い部分が着用者へ当たる可能性がある。
また、何かの拍子にポケットから出れば、小日向に見つかる。
白雪は胸元の内側を見つめた。
「ここにあるから、意味があります」
「白雪が中に入るときだけ戻すことはできます」
「毎回、縫い直すのですか?」
「ポケットを開閉できるように作り替えます。鈴は、別の場所で保管してください」
白雪はすぐには頷かなかった。
みるくまの胸元へ手を置いたまま、迷っている。
「外したくないですか?」
俺が尋ねると、彼女は静かに答えた。
「この鈴は、ずっとみるくまと一緒にありました」
「なくすわけではありません」
「分かっています」
頭では理解していても、簡単には受け入れられないのだろう。
みるくまの中へ別の人が入るだけでも、自分の場所を渡すように感じていた。
そこから青い鈴まで外せば、白雪にとって大切な何かが、さらに失われるように思えるのかもしれない。
「俺が触らないほうがいいですよね」
白雪は一度頷いた。
「少し、向こうを向いていてください」
俺は彼女へ背を向けた。
背後で、裁縫箱が開かれる音がする。
白雪が小さな鋏を取り、ポケットを閉じている糸を切っているのだろう。
しばらくして、聞き慣れた鈴の音が鳴った。
ちりん。
俺の鞄についている鈴が、応えるように揺れる。
二つの音は、やはりよく似ていた。
振り返りたい衝動を抑える。
白雪が話すと約束した日まで、無理に見るべきではない。
「もう大丈夫です」
声をかけられ、振り向く。
白雪は両手を胸元で重ねていた。
中に何かを包んでいるようだったが、鈴そのものは見えない。
長机には、小さな水色の布袋が置かれている。
以前、みるくまの補修に使った余り布で作られたものらしい。
白雪は両手の中にあるものを布袋へ入れ、紐を結んだ。
その動作の間も、鈴は一度も見えなかった。
「この部屋で保管しますか?」
俺が尋ねると、白雪は棚の下段にある鍵つきの引き出しを開けた。
中には、過去の活動記録や予備の鍵が入っている。
「持ち帰ると、落とす可能性があります。活動に関係するものなので、ここへ置きます」
水色の布袋を、引き出しの奥へしまう。
白雪は鍵をかけた後、何度か取っ手を引いて開かないことを確認した。
「鍵は?」
「私と藤堂先輩が持っています。予備は黒岩先生が管理しています」
「それなら、問題ないと思います」
白雪は鍵を鞄へ入れた。
それでも引き出しから離れようとしない。
「明日、ポケットを直します」
俺が伝えると、彼女はようやく頷いた。
「できるだけ、元と同じ形にしてください」
「分かりました」
「鈴を戻したとき、外から音が聞こえすぎないように」
「内側へ薄い布を重ねます」
「それから」
白雪は言葉を止めた。
「何ですか?」
「なくさないでください」
俺が保管するわけではない。
鍵をかけたのも白雪自身だ。
それでも彼女は、不安を口にせずにはいられなかったのだろう。
「明日、二人で確認しましょう」
俺が答えると、白雪は引き出しへ手を置いたまま、小さく頷いた。
「約束です」
「はい」
備品室を出る前、白雪はもう一度、鍵がかかっていることを確かめた。
その日の時点では、青い鈴は確かに引き出しの中にあった。
水色の布袋に包まれ、誰にも見られない場所で、静かに保管されていた。
翌日の放課後。
俺と白雪が同時に鍵を開けるまでは。




