第六章 ~商店街デートは業務です~
待ち合わせの十五分前に到着した俺は、すでに時計台の下に立っている白雪玲奈を見つけた。
桜庭商店街の入口には、古い煉瓦造りの時計台がある。
午前十一時を前に、アーケードの中では買い物客や自転車が行き交い、店先からは呼び込みの声が聞こえていた。
休日の白雪を見るのは、これが初めてだった。
淡い水色のブラウスに、膝より少し長い紺色のスカート。薄い白のカーディガンを腕に掛け、足元には歩きやすそうな革靴を履いている。
長い黒髪は普段より低い位置でまとめられ、耳元には小さな銀色の飾りが揺れていた。
学校にいるときよりも柔らかな印象だった。
派手ではない。
それでも、通り過ぎる人が何人か振り返っている。
白雪は両手で鞄を持ち、時計台と腕時計を交互に確認していた。俺に気づくと、わずかに身体を硬くする。
「おはようございます、朝倉君」
「おはようございます。早いですね」
「十時四十分に到着しました」
「二十分前ですか」
「初めて来る場所ではありませんが、交通機関の遅延も考慮しました」
白雪の言葉はいつもどおりだった。
ただ、俺の顔を見た後、視線が服装へ移る。シャツから靴まで一度確認し、何も言わずにもう一度顔へ戻ってきた。
「何か問題がありますか?」
俺が尋ねると、白雪は小さく首を横へ振った。
「歩きやすそうな服装だと思っただけです」
「白雪も似合ってます」
何気なく答えたつもりだった。
白雪の動きが止まる。
時計台の針だけが、変わらず一定の速度で進んでいた。
「今日の下見に適している、という意味です」
彼女は俺が補足するより先に、自分から言葉を付け足した。
「動きやすさと、訪問先へ失礼にならないことを考慮しました」
「服装について説明を求めたつもりはありません」
「では、先ほどの発言は何だったのですか?」
「似合っていると思ったので、そのまま言いました」
白雪の耳が少し赤くなる。
「そうですか」
「はい」
「分かりました」
そこで会話は終わった。
礼を言うか迷っているのかもしれない。
第五章で、白雪は本心からの「ありがとう」を言う練習をすると話していた。もっとも、服を褒められた程度で必要になる言葉ではない。
白雪は鞄から透明なファイルを取り出した。中には商店街の地図と、訪問予定の店舗一覧が入っている。
「本日の目的を確認します」
仕事の話へ切り替えた途端、声が安定した。
「撮影候補地の道幅と入口を確認し、着ぐるみでの移動が可能か判断します。休憩場所、着替えに使用できる部屋、緊急時の退出経路についても確認します」
「混雑する時間帯も見る必要がありますね」
「はい。午前中は比較的空いていますが、正午から午後二時頃にかけて飲食店周辺が混雑するそうです」
地図には色の違う線が何本も引かれている。
赤は撮影候補地。
青は休憩場所。
黄色は混雑が予想される区間。
白雪は昨夜、自分で調べたらしい。
「これを全部用意したんですか?」
「必要な情報をまとめただけです」
「下見の下見まで終わってませんか」
「現地でなければ分からないことがあります」
彼女は地図の端を指でなぞった。
「それから、今日の活動は商店街の下見です」
「聞いています」
「個人的な外出ではありません」
「それも聞きました」
「誤解がないよう、念のため確認しました」
白雪は真剣な表情だった。
俺が頷くと、ようやく時計台から商店街の中へ歩き始めた。
休日の午前中ということもあり、アーケードには家族連れが多い。
八百屋の店先には段ボール箱が積まれ、魚屋からは焼いた干物の匂いが流れてくる。
新しい大型店は少ないが、昔からの個人商店が今も残っていた。
最初の撮影候補は、商店街の入口にある花屋だった。
店先へ季節の花が並び、奥の壁には蔓植物が広がっている。
白いみるくまを撮影すれば、色鮮やかな背景になるだろう。
俺は持参した巻き尺で通路の幅を測った。
「入口は百二十センチです。みるくまの肩幅が最大で九十八センチなので、通ることはできます」
白雪は地図へ数字を書き込む。
「商品へ接触する可能性は?」
「両腕を身体の前へ置き、横を向かずに入れば大丈夫です。ただし、店内で方向転換はできません」
「撮影は店先だけにしたほうが安全ですね」
「そう思います」
俺たちが話していると、花屋の奥から店主らしい女性が出てきた。
五十代ほどで、緑色のエプロンを着けている。
「学校のみるくまの下見?」
藤堂先輩から話が通っているらしい。
白雪はすぐに姿勢を正し、丁寧に頭を下げた。
「桜庭学園生徒会の白雪玲奈と申します。こちらは着ぐるみの補修と安全管理を担当している朝倉湊君です。本日は撮影場所の確認に伺いました」
「話は聞いてるわ。二人で大変ね」
店主は俺と白雪を見比べ、楽しそうに笑った。
「日曜日にデートしながら下見なら、それほど大変でもないか」
「デートではありません」
白雪が間を空けずに否定した。
店主は笑顔のまま俺を見る。
俺に同意を求めているようだった。
「活動に必要な下見です」
俺が答えると、白雪は満足そうに一度頷いた。
「はいはい。活動ね」
店主の表情を見る限り、まったく信じていない。
撮影場所を確認し、当日に移動させる花の位置を相談する。
白雪が質問し、俺が着ぐるみの動きを想定して危険な箇所を指摘する。
必要な情報を一通り記録したところで、店主が小さな花を一本差し出した。
白い花びらの中央に、淡い黄色が入っている。
「下見のお礼。お嬢さんに」
「私にですか?」
「彼から渡してあげて」
俺の手へ押しつけられた。
白雪は困ったように花と俺を見比べている。
「撮影用の小物として確認しますか?」
俺が提案すると、店主が声を上げて笑った。
「真面目な二人ね。普通に受け取りなさい」
俺は仕方なく、白雪へ花を差し出した。
「どうぞ」
「朝倉君からいただく理由がありません」
「店主さんからです」
「あなたが渡しています」
「受け取らないと、話が進みません」
白雪は少し迷った後、両手で花を受け取った。
「……ありがとうございます」
今度は、きちんと口にした。
礼儀としての言葉なのか、本心を込めた言葉なのかは分からない。
ただ、白雪はその花を鞄へしまわず、ファイルと一緒に大切そうに持っていた。
花屋を出た後、俺たちは時計店、和菓子店、写真館の順に回った。
時計店は入口が狭く、みるくまが入ることは難しい。代わりに、店頭の大時計の横へ立つ構図を提案した。
和菓子店では、店主がみるくまの顔を模した最中を試作している。
丸い白い皮に黒い目と水色のリボンが描かれていたが、左耳が垂れていなかった。
白雪はその点だけを、丁寧な口調で何度も説明した。
写真館では、当日の撮影角度を確認するため、店主から俺たちが代わりに立つよう求められた。
「お二人、もう少し寄ってください」
店の前に並ぶと、カメラを構えた店主が手を動かした。
「みるくまの大きさを考えると、こんなに近づく必要はないと思います」
白雪がその場から動かずに指摘する。
「今はお二人の記念撮影だから」
「撮影構図の確認では?」
「それも兼ねてるよ」
写真館の店主は七十代ほどの男性だった。
白雪の反論を聞かず、さらに近づくよう指示する。
仕方なく、俺が半歩移動した。
白雪との肩の距離が、数センチになる。
「もう少し」
「これ以上は、構図の参考になりません」
白雪の声が少し硬くなった。
店主は気にせず、こちらへレンズを向ける。
「お嬢さん、表情が硬いよ。彼氏の横なんだから、もう少し笑って」
「彼氏ではありません」
「では、好きな人の横にいるつもりで」
白雪が完全に固まった。
俺が店主へ撮影の中止を伝えようとした瞬間、シャッター音が鳴る。
「今の顔が一番自然だった」
店主は満足そうにカメラを確認した。
「後で印刷しておくから、帰りに寄りなさい」
「必要ありません」
白雪はすぐに断ったが、店主は聞いていないようだった。
写真館を離れてからも、彼女はしばらく無言だった。
隣を歩きながら、先ほど受け取った花の茎を指先で触っている。
「嫌なら、写真は受け取らなくてもいいと思います」
俺が言うと、白雪は前を向いたまま答えた。
「撮影候補地の構図を確認するために、必要かもしれません」
「記念写真では?」
「みるくまが立つ位置を検討できます」
「では、帰りに受け取りましょう」
「仕方がありません」
声には、完全な不満は感じられなかった。
四軒目の下見を終えた頃、正午を知らせる商店街の放送が流れた。
アーケード内の人通りが増えている。
飲食店の前には列ができ始め、自転車で通る人も多くなった。
白雪は通行人を避けながら地図へ時間を書き込んだ。
「この状態でみるくまが歩くのは危険です」
「撮影は午前中に終えるべきですね」
「はい。昼以降は、時計台付近の広場だけに限定したほうがよいと思います」
話しながら歩いていると、前方から子どもが走ってきた。
母親のもとへ向かっているらしく、こちらを見ていない。
白雪が気づき、避けようとする。
しかし横には店先の商品棚があり、動ける場所がなかった。
俺は彼女の腕を引き、自分の側へ寄せた。
子どもは何も気づかず、俺たちの横を走り抜けていく。
白雪の身体が、俺の胸元へ触れていた。
片手には地図、もう片方の手には白い花を持っているため、彼女は俺のシャツの袖を指先でつかんでいる。
「大丈夫ですか?」
尋ねると、白雪は自分たちの距離に気づいた。
慌てて離れようとしたが、背後から別の通行人が来ている。
「今は動かないほうがいいです」
俺が止めると、白雪は小さく頷いた。
人の流れが過ぎるまで、二人で店先の狭い場所へ立つ。
着ぐるみを着ていなくても、白雪との距離は以前より近くなっている。
以前は電車の中で俺の袖をつかみ、また、くまの頭部だけをかぶった状態で抱きついてきたこともあった。
それでも、周囲に人がいる場所でこれほど近づくのは、彼女にとって落ち着かないらしい。
白雪は顔を上げず、俺のシャツをつかんだ指に力を入れていた。
「もう大丈夫だと思います」
人通りが途切れたところで声をかける。
白雪はすぐに手を離した。
「申し訳ありません」
「俺が引っ張りました」
「助かりました」
そこで言葉を止める。
続きがあることは、表情を見れば分かった。
白雪は何度か小さく呼吸し、こちらを見た。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
今度の言葉は、礼儀だけではないように聞こえた。
白雪は自分が言えたことを確認するように、一度だけ頷いた。
「少し慣れてきましたね」
俺が言うと、彼女の眉が寄る。
「何にですか?」
「ありがとうの練習です」
「練習ではありません。実際に助けていただいたので、必要な言葉を伝えました」
「それを練習していたのでは?」
「細かい部分を気にしすぎです」
白雪は先に歩き始めた。
ただし、先ほどまでより歩く速度が少しだけ速い。
昼食の予定は決めていなかった。
商店街の混雑状況を確認するため、実際に飲食店を利用するよう藤堂先輩から言われている。
地図には候補として三軒の店が記されていた。
一軒目は昔ながらの蕎麦店。
二軒目は洋食店。
三軒目は、商店街会長の家族が経営する喫茶店だった。
「どこにしますか?」
俺が尋ねると、白雪は地図を確認した。
「着ぐるみでの撮影候補に入っているのは、喫茶こひなたです。店内の休憩場所についても確認できます」
「では、そこにしましょう」
「昼食も業務の一部です」
「分かっています」
何度目かの確認だった。
喫茶こひなたは、商店街の中央付近にある二階建ての店だった。
木製の扉にはくまと太陽を組み合わせた看板が下がり、店頭の黒板には日替わりランチとクリームソーダの絵が描かれている。
扉を開けると、カウンターの向こうから明るい声が飛んできた。
「いらっしゃいませ――って、白雪先輩?」
声の主は、桜庭学園の制服ではなく、店のロゴが入った黄色いエプロンを着ていた。
肩の辺りで切りそろえた明るい髪と、大きな目が印象的な少女だ。
俺たちより一つか二つ年下に見える。
白雪は一瞬驚いた後、相手を思い出したように頭を下げた。
「小日向さん。こちらのお店で働いているのですか?」
「祖父のお店なんです。休日だけ手伝ってます」
少女は白雪と俺を交互に見る。
その表情が、すぐに楽しそうなものへ変わった。
「もしかして、デートですか?」
「違います」
白雪の否定は、今日一番早かった。
「商店街で行われるみるくまの撮影に向けた下見です。朝倉君は着ぐるみの安全管理を担当しています」
「朝倉先輩なんですね。二年二組の」
「知ってるんですか?」
俺が尋ねると、少女は笑顔で頷いた。
「私は一年三組の小日向ひまりです。ダンス部の衣装が破れたとき、家庭科の先生が朝倉先輩なら直せるかもって話してました」
俺の知らないところで、裁縫ができる生徒として名前が広まっているらしい。
「白雪先輩とは、生徒会の部活動予算説明会で会いました」
「一度お話ししましたね」
白雪は覚えていた。
小日向は俺たちを窓際の席へ案内した。
二人掛けの小さなテーブルだったため、向かい合って座る。
店内には家族連れや高齢の客が多く、壁には商店街の古い写真が何枚も飾られていた。
「当日の撮影については、祖父から聞いてます。みるくまが来るんですよね」
小日向はメニューを二冊置きながら言った。
「私、幼稚園の動画も見ました。見守りハグ、すごくかわいかったです」
「ありがとうございます」
白雪が答える。
みるくま本人としての礼なのか、生徒会役員としての礼なのか、小日向には分からない。
「中に入ってる人、動きが上手ですよね。ダンス経験者ですか?」
「着用者については、お答えできません」
「ですよね。学校でも秘密になってますから」
小日向は残念そうな様子を見せたものの、それ以上は尋ねなかった。
「注文が決まったら呼んでください。日替わりランチがおすすめです。それから、みるくまミルクパフェは今日だけ半額です」
最後の言葉に、白雪の視線がメニューへ落ちた。
みるくまミルクパフェ。
名前の横には写真が載っている。
白いミルクアイスをくまの顔に見立て、チョコレートで目と口を描き、水色のゼリーでリボンを表現している。
片方の耳だけ少し傾けてあり、現在のみるくまの特徴も再現されていた。
「よくできていますね」
白雪が写真を見つめながら言う。
「注文しますか?」
「昼食に甘いものだけでは、栄養が偏ります」
「食後に頼めばいいのでは?」
「必要ありません」
そう答えながら、視線はパフェの写真から離れていなかった。
俺は日替わりランチと、みるくまミルクパフェを一つずつ注文した。
白雪も同じランチを頼んだが、パフェについては最後まで何も言わなかった。
「朝倉君が食べるのですか?」
小日向が注文を厨房へ伝えに行った後、白雪が尋ねる。
「そうです」
「甘いものが好きなのですか?」
「嫌いではありません」
「その量を一人で?」
「食べられると思います」
白雪は俺の顔とメニューの写真を見比べていた。
「食べたいなら、少し分けます」
「必要ありません」
「そうですか」
「ただし」
彼女は少し間を置いた。
「商品撮影の際、味を説明できる必要があります。広報担当として、一口だけ確認したほうがよいかもしれません」
「業務ですか?」
「業務です」
白雪は真剣だった。
日替わりランチは、オムライスと小さなサラダだった。
白雪は食事中も、店内の通路幅や入口の段差を確認している。
客が出入りするたびに視線を向け、みるくまが通行の邪魔にならない場所を考えていた。
「食事くらい、普通にしたらどうですか」
俺が言うと、白雪はスプーンを置いた。
「確認し忘れる可能性があります」
「食べ終わってからでもできます」
「限られた時間を有効に使っています」
「急ぐ必要はありません」
白雪は、俺の言葉に少しだけ表情を緩めた。
「朝倉君は、いつもそう言いますね」
「何をですか?」
「急がなくていい。待てばいい。少しずつでいい」
柚葉へ接したときも、ありがとうの話をしたときも、同じようなことを言った。
自分では意識していなかった。
「白雪が急ぎすぎるからでは?」
「私は、予定どおりに進めたいだけです」
「予定から遅れると不安になる?」
白雪はスプーンの先で、オムライスの端を小さく切った。
「時間を守り、決められたことを正しく行えば、失敗は減らせます」
「失敗したら困るんですか」
「誰でも困ると思います」
「みるくまの中では、何度も失敗してますよね」
扉へ耳をぶつけ、パンフレットを落とし、椅子へ座ろうとして尻尾を挟んだ。
思い出したのか、白雪の頬が少し赤くなる。
「着ぐるみでは、視界や動きに制限があります」
「それでも、失敗した後にもう一度やり直していました」
「必要だからです」
「白雪本人も同じでいいと思います」
彼女は答えなかった。
食事へ戻ったものの、先ほどより動きがゆっくりになっている。
急がずに食べることを意識しているのかもしれない。
ランチを食べ終えた頃、小日向が大きなグラスを運んできた。
白いアイスで作られたくまの顔が、俺たちを見ている。
水色のゼリーの下にはミルクプリンや果物が重なり、写真よりも大きく見えた。
「みるくまミルクパフェです。先輩たちで仲よく食べてください」
小日向はスプーンを二本置いた。
「一本で大丈夫です」
白雪がすぐに返そうとする。
「試食が必要なんじゃないですか?」
「どうして知っているのですか」
「さっき、業務だから一口食べるって聞こえました」
小日向は笑いを堪えるように口元を押さえた。
「業務なら仕方ないですよね」
白雪は何も答えなかった。
小日向が離れた後、俺は片方のスプーンを白雪へ渡した。
「耳から食べますか?」
「顔を崩すのは抵抗があります」
「では、下のゼリーから」
「商品としての見た目も記録したほうがよいと思います」
白雪はスマートフォンを取り出し、パフェを正面から撮影した。
角度を変え、店内の照明が反射しない位置を探している。
「食べる前に、朝倉君も一緒に撮りますか?」
「俺も?」
「大きさが分かりやすくなります」
俺がパフェの隣へ手を置くと、白雪は写真を撮った。
その後、自分の手も反対側へ置く。
画面の中には、みるくまのパフェを挟んだ二人の手が写っていた。
「商品紹介の写真には、人の顔があったほうがいいそうです」
「では、小日向さんに撮ってもらいますか?」
白雪の動きが止まる。
自分から提案したものの、二人で写真に写るところまでは考えていなかったらしい。
「手だけで大きさは十分に伝わります」
「そうですか」
「早く食べなければ、アイスが溶けます」
話を終わらせるように、白雪はスプーンを持った。
最初は水色のゼリーを一口だけ取る。
口へ運び、時間をかけて味を確認する。
「どうですか?」
「甘さは控えめです。ゼリーには、わずかに柑橘の香りがあります」
「広報用の感想ですね」
「必要ですから」
もう一口、今度はミルクプリンをすくう。
試食は一口だけのはずだった。
白雪は何も言わず、三口目へ進んだ。
「気に入りましたか?」
俺が尋ねると、スプーンが止まる。
「複数の層を確認しなければ、全体の味は分かりません」
「くまの耳も確認しますか?」
「左右で味が違う可能性があります」
どちらも同じミルクアイスだと思う。
俺が片方の耳を食べると、白雪はわずかに不満そうな顔をした。
「右耳を食べましたね」
「何か問題が?」
「みるくまの左耳は、少し垂れています」
「こちらが左耳でしたか」
「正面から見れば右側です」
「なら、残ってます」
白雪は傾いた耳の部分を慎重にすくい、口へ運んだ。
その表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
教室では見たことのない顔だった。
「おいしいですか?」
尋ねると、彼女はスプーンを置いた。
「商品として、十分魅力があると思います」
「白雪の感想は?」
「今、お伝えしました」
「商品としてではなく」
彼女はパフェを見たまま、小さな声で答えた。
「おいしいです」
「よかったです」
「朝倉君が注文したものですから、残りは食べてください」
そう言いながらも、スプーンを返す様子はない。
結局、みるくまミルクパフェは二人で半分ずつ食べた。
会計の際、白雪は生徒会から支給された千円を使い、超過分を自分で支払おうとした。
パフェ代は俺が頼んだものだから自分で出すと伝えると、彼女はしばらく反対した。
最終的には、白雪が食べた分として半額を渡すことで決着した。
店を出る前、小日向が俺たちを呼び止めた。
「当日のみるくま、私も手伝っていいですか?」
「商店街側の係としてですか?」
白雪が尋ねる。
「はい。祖父から、写真を撮ったり、お客さんを案内したりする人が必要だって聞いてます。ダンス部なので、着ぐるみと一緒に簡単な振りつけもできます」
小日向は両腕を大きく動かした。
明るい表情と動きは、子ども受けしそうだった。
「安全面の確認が必要ですが、協力していただけるなら助かります」
白雪は生徒会役員として答えた。
「ありがとうございます、白雪先輩」
小日向は笑顔を向けると、今度は俺を見る。
「朝倉先輩も、よろしくお願いします」
「俺は着ぐるみの担当なので、当日は近くにいると思います」
「では、三人ですね」
小日向が無邪気に言った。
その瞬間、白雪の表情がわずかに固くなった。
「撮影内容は、まだ決定していません」
「決まったら教えてください。学校でも声をかけます」
小日向は店内から呼ばれ、元気よく戻っていった。
白雪は扉が閉まるまで、その背中を見ていた。
「何か気になりますか?」
「小日向さんは、積極的な方ですね」
「そうみたいですね」
「朝倉君とも、すぐに話していました」
「初対面ですが」
「知っています」
白雪の声が、少しだけ低い。
「白雪とも話していたと思います」
「私とは、以前会ったことがあります」
「なら、普通では?」
彼女は答えず、地図を開いた。
「次へ行きます」
白雪は歩き始めた。
先ほどまでより、地図を持つ位置が少し高い。顔の下半分を隠しているようにも見えた。
午後最初の訪問先は、商店街の東側にある洋装店だった。
正確には、俺の実家だ。
『朝倉洋装店』と書かれた古い看板が、店の上部に掲げられている。
ショーウィンドウには母親が仕立てた夏用のワンピースと、祭りで使う子ども用の法被が並んでいた。
白雪は店の前で足を止めた。
「ここは、朝倉君のご実家では?」
「そうです」
「先に言ってください」
「地図に店名が書いてあったと思います」
「同じ名字の店だと思っていました」
「この辺りで朝倉洋装店は一軒だけです」
白雪は自分の服装を確認するように、ブラウスとスカートへ視線を落とした。
「何か問題がありますか?」
「ご家族にお会いする準備をしていません」
「挨拶の準備が必要ですか?」
「初めてお会いするのですから、必要です」
学校行事の下見で立ち寄るだけだ。
それでも白雪は、髪やカーディガンの状態を気にしている。
「そのままで大丈夫です」
「朝倉君の基準は信用できません」
「待ち合わせでは似合っていると言いました」
口にした瞬間、白雪の動きが止まった。
「それとこれとは別です」
彼女は小さな声で答え、花屋から受け取った白い花を持ち直した。
店内へ入ると、奥の作業台で布を裁断していた母親が顔を上げた。
「あら、湊。今日は商店街の下見じゃなかったの?」
「下見の途中」
俺の隣にいる白雪へ気づき、母親の目が大きくなる。
「初めまして。白雪玲奈と申します」
白雪は背筋を伸ばし、学校で教師へ挨拶するとき以上に深く頭を下げた。
「桜庭学園生徒会の活動として、朝倉君とみるくまの撮影場所を確認しております。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、湊がいつもお世話になっています」
「いえ。私のほうが朝倉君に助けていただいています」
母親の顔に、明らかに楽しそうな笑みが浮かんだ。
「湊から、女の子と一緒に下見するとは聞いてなかったわ」
「言う必要がないから」
「写真を送ってくれてもよかったのに」
「どうして写真を送るんだよ」
俺が反論している間、白雪は黙っていた。
ただ、耳が少しずつ赤くなっている。
「お母様」
白雪が母親へ向き直る。
「本日の下見は、学校の活動です」
「そうなのね」
母親は頷いた。
「でも、休日に二人で商店街を歩いていることは変わらないでしょう?」
「それは、そのとおりですが」
「湊、女の子を立たせたままにしないの。奥でお茶を出すから」
「下見中だから長居できない」
「休憩場所の確認も必要なんでしょう?」
白雪が俺を見る。
地図にも、朝倉洋装店は休憩候補として記されていた。
「十五分だけお願いします」
彼女が頭を下げると、母親は嬉しそうに店の奥へ入っていった。
店の作業台には、色の違う布や型紙が積まれている。
壁には仕立てた衣装の写真が飾られ、その中には幼稚園の発表会や商店街の祭りで使われたものもあった。
白雪は一枚ずつ、興味深そうに見ていた。
「朝倉君は、ここで裁縫を覚えたのですか?」
「小さい頃から道具が近くにあったので、自然に」
「家庭科作品コンクールでは、何を作ったのですか?」
「男子用のジャケットです」
「中学生で?」
「母親に教わりました」
壁の隅には、そのとき作った紺色のジャケットの写真が残っている。
俺自身は、もう飾らなくてもいいと思っていた。
「きれいですね」
白雪が写真へ近づいた。
「学校の制服にも似ています」
「怪我で外に出られない時期があって、暇だったんです」
「小学六年生の頃ですか?」
彼女の質問に、俺は一瞬言葉を止めた。
「そうです。病院を退院してからも、しばらく運動できなかったので」
白雪は写真から俺へ視線を移した。
「その頃から、着ぐるみの修理もできたのですか?」
「さすがに着ぐるみは直してません。ぬいぐるみくらいです」
「くまのぬいぐるみも?」
「種類は覚えていません」
白雪は何かを考えるように、壁の写真を見つめた。
その横には、さらに古い一枚が飾られている。
桜庭総合病院で行われた夏祭りの写真だった。
屋外の広場に提灯が並び、子どもたちが輪投げやヨーヨー釣りをしている。
端のほうには、松葉杖を持った小学生の俺も写っていた。
そして人混みの奥に、白いくまがいる。
現在のみるくまよりも毛並みが新しく、水色のリボンも濃い。周囲の子どもへ手を振りながら、少しだけこちらへ顔を向けていた。
白雪は写真の前で動かなくなった。
「これは」
声が小さくなる。
「入院していたときの夏祭りです。母親が撮ったらしいですけど、俺はあまり覚えてません」
白雪は写真の端へ書かれた日付を見た。
八年前の八月二十四日。
彼女の指が、写真の中のみるくまへ伸びる。
触れる直前で止まり、ゆっくり手を下ろした。
「このときも、みるくまが来ていたのですね」
「学校法人が同じなので、昔は病院の行事にも出ていたらしいです」
「朝倉君は、話しかけましたか?」
「みるくまに?」
「はい」
記憶の奥に、夕暮れの非常階段が浮かぶ。
笑っている白いくま。
小さな泣き声。
青い鈴。
「会ったような気はします。でも、詳しくは思い出せません」
俺が答えると、白雪は写真から目を離した。
「そうですか」
声には、わずかな落胆が含まれていた。
「白雪も、この夏祭りにいたんですか?」
彼女の肩がわずかに揺れる。
「以前、みるくまを病院で見たのでは?」
「第四条です」
白雪は静かに答えた。
強く拒絶する言い方ではない。
まだ話せないという合図だった。
「すみません」
「いいえ。朝倉君が気になることも理解しています」
白雪はもう一度、古い写真を見た。
「いつか、お話しします」
そのとき、店の奥から母親が戻ってきた。
お茶と小さな焼き菓子を載せた盆を持っている。
「懐かしい写真でしょう。湊が入院していた頃よ」
「はい。みるくまも写っていますね」
白雪が尋ねると、母親は写真を見上げた。
「この夏祭りで、湊は途中からいなくなって大騒ぎになったのよ。非常階段で見つかったんだけど、一人で何をしていたのか、最後まで話さなかったわね」
「覚えてない」
「青い鈴も一つなくして帰ってきたでしょう」
白雪が息を止めた。
俺は母親を見る。
「それ、前にも言ってた?」
「何度も言ったわよ。二つ一組のくまのキーホルダーだったのに、片方の鈴だけ誰かにあげたって」
「誰に?」
「それを聞いても、秘密だから言えないって」
俺自身の言葉だったはずなのに、記憶がない。
白雪は手に持っていた花を強く握りかけ、慌てて力を緩めた。
「今も、もう一つは持っていますよね」
彼女が俺へ尋ねる。
「鞄につけています」
「片方を渡した相手については、本当に覚えていないのですか?」
「白いくまに渡したような記憶はあります」
非常階段で、泣いていたくま。
俺は青い鈴を渡した。
くまだって、泣いていい。
そう言った。
そこまでは思い出せる。
「中にいた人の顔は見ていません」
白雪は俯いた。
口元には、悲しいとも安心したとも取れる、曖昧な表情が浮かんでいる。
「そうでしたか」
「玲奈さん、どうかした?」
母親が心配そうに尋ねると、白雪はすぐに顔を上げた。
「いいえ。みるくまの過去について、興味深いお話を伺えたと思いまして」
「湊は昔から、困っている人を見ると放っておけないのよ。自分では目立たずに生きたいとか言っているけど」
「余計なことを言わなくていい」
「病院でも、泣いている子を見つけたら隣に座っていたわ。名前も知らない子へ、自分のおもちゃを渡してしまったりして」
白雪は母親の話を、黙って聞いていた。
俺にとっては気恥ずかしい過去でしかない。
けれど彼女にとっては、違う意味があるようだった。
休憩を終える前、母親が白雪の持っている花へ気づいた。
「きれいな花ね。湊から?」
「花屋の方からです」
白雪は正確に答えた。
「朝倉君を通して、いただきました」
「それなら、湊からもらったようなものね」
「違います」
「そうかしら」
母親は笑いながら、店の奥から細い水色のリボンを持ってきた。
「花が傷まないように、これでまとめてあげる」
白い花の茎へリボンを結ぶ。
みるくまの首元についているものと、よく似た色だった。
白雪は小さな花束になった一本の花を、今度こそ大切そうに鞄へ入れた。
「ありがとうございます」
「またいつでも来てね。今度は活動でなくても」
「お母さん」
俺が止めると、白雪は少し迷った後、静かに頭を下げた。
「機会があれば、伺います」
店を出ると、午後の日差しがアーケードの隙間から差し込んでいた。
白雪はしばらく何も話さなかった。
地図を見ているが、次の店へ向かう様子もない。
「疲れましたか?」
俺が尋ねると、彼女は首を横へ振った。
「お母様は、優しい方ですね」
「話しすぎるところがあります」
「朝倉君のことを、大切にしているのだと思います」
「白雪の家族は?」
口にしてから、聞くべきではなかったと思った。
白雪の表情がわずかに硬くなる。
「両親は、仕事を大切にしています」
「忙しいと言っていましたね」
「はい。必要なものは、すべて用意してくれます」
必要なもの。
一緒に過ごす時間があるとは言わなかった。
「今日の服も、ご両親が?」
「自分で選びました」
白雪は少しだけ胸を張った。
「昨夜、着ていくものを決めるまで時間がかかりましたが」
「悩まないと言ってませんでしたか」
「候補が複数あっただけです」
「何着くらい?」
「七着です」
想像していたより多い。
「全部着たんですか?」
「鏡の前で確認しました」
「下見のために?」
「訪問先へ失礼のない服装が必要です」
白雪の説明は一貫している。
それでも七着を比べた理由が、それだけではないことくらい分かった。
「今の服でよかったと思います」
俺が伝えると、白雪は少しだけ俯いた。
「朝にも聞きました」
「では、二回目です」
「一日に何度も言う必要はありません」
「ありがとうと同じですか?」
「違います」
そう答えながら、彼女の口元には小さな笑みが浮かんでいた。
午後の下見は、順調に進んだ。
玩具店では、みるくまの身体が棚へ当たらないよう店外で撮影することにした。
書店では児童書コーナーの窓越しに手を振る構図を考え、青果店では店先の果物を少し後ろへ移動させる許可を得た。
最後の確認場所は、商店街の西側にある小さな広場だった。
夏祭り当日は簡易ステージが組まれ、みるくまも商店街の紹介を行う予定になっている。
今はベンチと植木が置かれているだけで、中央では子どもたちがボールを蹴っていた。
俺はステージの設置予定場所から、控室として使われる集会所までの経路を歩く。
途中に段差が二か所。
排水溝の蓋が一か所。
着ぐるみでは足元が見えないため、目印をつける必要がある。
白雪は記録しながら、何度も実際の経路を歩いた。
「本番は、朝倉君が隣にいてください」
彼女が言う。
「もちろんです」
「段差の前で合図をお願いします」
「右手を二回叩きます」
幼稚園で決めた体調不良の合図とは区別する必要がある。
俺たちはその場で、誘導方法を確認した。
白雪が目を閉じ、みるくまの視界を想定して歩く。
俺は少し前に立ち、右手で彼女の腕へ触れた。
「一段上がります」
白雪が足を上げる。
段差を越えると、俺の腕をつかんだ。
「今のは必要ですか?」
「着ぐるみでは、バランスを崩す可能性があります」
「今は着ていません」
「動作確認です」
そのまま次の段差まで、彼女は俺の腕から手を離さなかった。
広場にいた子どもたちが、こちらを見ている。
白雪も気づいたようだが、すぐには離れなかった。
「見られていますよ」
俺が小さな声で伝える。
「転倒防止の確認です」
「商店街デートに見えるかもしれません」
朝から何度も否定してきた言葉を使うと、白雪の指がわずかに強くなる。
「活動だと説明すれば問題ありません」
「一人ずつ説明するんですか?」
「必要であれば」
白雪は前を向いたまま答えた。
表情は平静だったが、頬は赤い。
段差を越えても、彼女は数歩ほど腕をつかんだままだった。
やがて広場の端へ到着し、ようやく手を離す。
「本日の確認は、これで終了です」
白雪は地図へ最後の印を書き込んだ。
時の印を書き込んだ。
時刻は午後三時を少し過ぎている。予定していた二時間を大幅に超えていた。
「時計台へ戻りますか?」
「写真館で、先ほどの写真を受け取る必要があります」
白雪は忘れていなかった。
「必要ないと言ってませんでしたか」
「構図確認へ使用できます」
「分かりました」
来た道を戻る。
午後の商店街は、正午頃よりもさらに混雑していた。
白雪は人にぶつからないよう注意しながら歩いていたが、途中で何度か俺との間に通行人が入った。
そのたびに、少し離れてしまう。
俺が振り返れば、白雪はすぐ後ろにいる。
しかし、玩具店の前を通り過ぎたところで、彼女の姿が見えなくなった。
立ち止まり、周囲を確認する。
買い物客の間に、水色のブラウスが見えた。
白雪は数メートル後方で、ベビーカーと自転車の間に挟まれて動けずにいる。
こちらに気づき、無理に進もうとした。
「そこで待ってください」
俺は人の流れを避けながら戻った。
白雪の前まで来ると、彼女は少しだけ不満そうな顔をしていた。
「先に行かないでください」
「すぐ後ろにいると思っていました」
「人が多い場所では、確認してください」
「すみません」
謝ると、白雪は鞄を持っていないほうの手をこちらへ差し出した。
何うの手をこちらへ差し出した。
何を求めているのか分からずにいると、彼女の眉が寄る。
「離れないようにするためです」
「袖でいいのでは?」
「途中で外れる可能性があります」
「腕をつかみますか?」
「それでも構いません」
白雪の手は、差し出されたままだった。
俺が右手を重ねる。
細い指が、俺の手を握った。
着ぐるみの手ではない。
服の袖でも、動作確認でもない。
白雪玲奈本人と、手をつないでいる。
「これなら、はぐれません」
彼女は前を向いたまま言った。
「活動上、必要な行動ですか?」
俺が尋ねると、白雪は少しだけ歩く速度を上げた。
「安全な移動のためです」
「規約第十条には?」
「朝倉君から要求していません」
第五章と同じ理屈だった。
「では、白雪が手をつなぎたかった?」
彼女の指に力が入る。
「訂正してください」
「安全のためですね」
「そうです」
それでも白雪は手を離さなかった。
人の流れが少なくなっても、そのまま歩き続ける。
俺も、離す理由を見つけられなかった。
写真館へ到着すると、店主は俺たちの手元を見て、何も言わずに笑った。
白雪が気づき、すぐに手を離す。
「先ほどの写真を受け取りに来ました」
彼女は平静を装いながら言った。
「はいよ。きれいに撮れてるよ」
店主から渡されたのは、二枚の写真だった。
一枚目は、店の前に立つ俺と白雪。
俺はカメラを見ているが、白雪は店主から「好きな人の横にいるつもりで」と言われた直後だったため、驚いた顔でこちらを見ている。
教室では決して見せない、無防備な表情だった。
二枚目は、その直後に撮影されたらしい。
白雪が慌てて正面を向き、頬を赤くしている。
俺は状況が分からず、彼女を見ていた。
「構図確認には、二枚も必要ありません」
白雪が言う。
「記念に持って帰りなさい」
店主は写真を一枚ずつ俺たちへ渡した。
俺には一枚目。
白雪には二枚目。
彼女は断ろうとしたが、店主はすでに奥へ戻ってしまった。
写真を返すこともできず、白雪はしばらく自分の姿を見ていた。
「処分しますか?」
俺が尋ねると、彼女は写真を裏返した。
「学校へ持ち帰り、撮影構図の参考資料として保管します」
「生徒会室に?」
「個人情報が含まれるため、私が管理します」
つまり、自分で持ち帰るらしい。
「朝倉君の写真も、不要であれば預かります」
「俺は自分で持っておきます」
白雪の目が、俺の手にある写真へ向く。
「どうしてですか?」
「記念になると思ったので」
「下見の?」
「今日の」
白雪は何も言わなかった。
自分の写真を、鞄の内側へ慎重にしまう。
時計台へ戻ると、午後三時半を過ぎていた。
朝に比べて日差しが傾き、煉瓦の時計台の影が商店街の入口まで伸びている。
「本日の下見は終了ですね」
白雪はファイルを閉じた。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
そこで別れるはずだった。
白雪は駅とは反対方向に住んでいるため、時計台から帰る道が違う。
それでも彼女は、すぐには歩き出さなかった。
「朝倉君」
「何ですか」
「今日の下見について、感想はありますか?」
「撮影場所は、問題なく決められると思います。休憩場所も確保できました」
「そうではなく」
白雪は言葉を止めた。
時計台の鐘が、三十分を知らせる。
「活動以外の部分ですか?」
俺が尋ねると、彼女はわずかに頷いた。
「楽しかったです」
素直に答えると、白雪の目が少し大きくなる。
「下見が?」
「商店街を一緒に歩いたことが」
彼女は俺から視線を外した。
鞄の持ち手を両手で握り、地面へ落ちた時計台の影を見ている。
「私も」
小さな声が聞こえた。
「今日の下見は、予定以上に有意義でした」
「業務として?」
「それだけではありません」
白雪は顔を上げた。
今日一日、何度も見た迷いが、その表情に浮かんでいる。
本当の気持ちを言うべきか、無難な言葉へ置き換えるべきか。
彼女の中で二つの選択が争っているようだった。
俺は急かさず、待った。
「私も、楽しかったです」
白雪は、はっきり言った。
「商店街を歩いたことも、一緒に食事をしたことも、朝倉君のご家族にお会いしたことも」
「ありがとうございます」
俺が答えると、白雪の眉が寄る。
「なぜ朝倉君がお礼を言うのですか」
「本心を言ってくれたので」
「感謝されることではありません」
「白雪にとっては、簡単ではないでしょう」
彼女は否定しなかった。
「次も」
白雪が言いかける。
「次も?」
「商店街の本番があります」
予想どおり、活動の話へ戻った。
「そのときも、よろしくお願いします」
「もちろんです」
「それから」
まだ続きがある。
白雪は鞄の中へ一度手を入れ、写真館でもらった写真へ触れた。
取り出そうとはせず、存在を確かめるように指先だけを動かす。
「活動ではない日にも、来ることはできますか?」
商店街に、という意味だろう。
「誰と?」
尋ねると、白雪は俺を見た。
頬が少しずつ赤くなる。
「朝倉君が詳しいのであれば、案内をお願いする可能性があります」
「それはデートですか?」
朝から白雪が何度も否定してきた言葉を使った。
彼女はすぐには答えなかった。
「まだ、分かりません」
否定しなかった。
「何度か練習が必要です」
「デートの?」
「休日に誰かと出かけることのです」
白雪は最後までこちらを見ていた。
「次は、業務ではないかもしれません」
胸の奥が、わずかに熱くなる。
俺が返事をしようとしたとき、商店街の中から明るい声が飛んできた。
「白雪先輩、朝倉先輩!」
喫茶こひなたで会った小日向ひまりが、こちらへ走ってくる。
店のエプロンは外し、私服の上へ薄いパーカーを羽織っていた。
仕事が終わったところらしい。
白雪は一瞬だけ残念そうな表情を浮かべた後、すぐに普段の顔へ戻った。
「小日向さん。どうしましたか?」
「学校から連絡が来たんです」
小日向は少し息を切らしながら、スマートフォンの画面を見せた。
そこには、黒岩先生から送られたメッセージが表示されている。
『みるくま着用者候補の選考について』
俺と白雪は、同時に画面を見た。
「着用者候補?」
俺が尋ねると、小日向は嬉しそうに頷いた。
「幼稚園で中の人が体調を崩しかけたって、理事会で問題になったみたいです。一人だけに任せるのは危険だから、交代できる人を探すことになったそうです」
白雪の顔から、表情が消えた。
「小日向さんが、候補なのですか?」
「ダンス部の先生から推薦されました。体力もあるし、身長も着ぐるみに合うだろうって」
小日向は両腕を広げ、みるくまの動きを真似した。
「まだ決まったわけじゃないですけど、明日の放課後、試着することになりました」
「どこで?」
俺が聞く。
「旧校舎の広報備品室です。朝倉先輩が安全確認をしてくれるって聞きました」
俺には何も伝えられていない。
おそらく藤堂先輩か黒岩先生が、月曜日に説明する予定だったのだろう。
小日向は白雪の反応に気づかず、楽しそうに続けた。
「私、みるくまの中に入ってみたかったんです。子どもたちと踊るのも楽しそうだし、見守りハグもできますよね」
白雪は答えなかった。
手にしていたファイルの端を、指が強く押さえている。
「白雪先輩?」
呼ばれた彼女は、ようやく表情を整えた。
「安全のために複数の着用者を用意することは、必要な判断だと思います」
生徒会役員としての、正しい答えだった。
「明日はよろしくお願いします」
小日向は俺へ笑顔を向ける。
「分かりました。着ぐるみの状態を確認しておきます」
「ありがとうございます。それでは、また学校で」
小日向は手を振り、商店街へ戻っていった。
残された俺と白雪の間に、先ほどまでとは違う沈黙が落ちる。
「白雪」
名前を呼んでも、彼女は小日向が去った方向を見ていた。
「安全面を考えれば、間違った判断ではありません」
自分へ言い聞かせるような声だった。
「幼稚園での件もあります。一人で活動を続けることには、限界があります」
「嫌なんですか?」
白雪はすぐに答えなかった。
「みるくまは、学校のものです」
「白雪のものではない?」
「はい」
「なら、誰が入っても同じですか?」
彼女の指が、ファイルの角を強く握る。
「同じみるくまでなければなりません」
答えになっていない。
俺はもう一度尋ねた。
「小日向さんが中に入っても、白雪は平気ですか?」
白雪は俯いた。
長い黒髪が、顔の横へ落ちる。
「私が決めることではありません」
「白雪本人の気持ちを聞いています」
彼女は沈黙した。
今日、白雪は何度も本心を口にした。
服を褒められて嬉しかったこと。
商店街を歩いて楽しかったこと。
次は業務ではなく、一緒に出かけたいと思っていること。
それでも、みるくまに関することだけは、簡単に言葉にできないらしい。
「嫌です」
しばらくして、白雪が小さく言った。
顔は上がらない。
「ほかの人がみるくまになるのは、嫌です」
「どうして?」
「分かりません」
声が震えている。
「学校のものだと分かっています。私だけが独占するべきではありません。安全のためには、交代できる人も必要です」
正しい言葉を並べながら、彼女は鞄を胸元へ抱えた。
「それでも、嫌なのです」
俺は何も言わず、彼女の隣に立った。
励ますべきなのか、理事会の判断が正しいと説明するべきなのか、分からない。
白雪も答えを求めている様子ではなかった。
時計台の下を、休日の買い物客が通り過ぎていく。
誰も俺たちへ注目していない。
白雪は、鞄から花屋でもらった白い花を取り出した。
水色のリボンでまとめられた小さな花を見つめ、指先で花びらへ触れる。
「朝倉君」
「はい」
「明日、小日向さんが着ぐるみを試すとき、私も立ち会ってよろしいでしょうか」
「当然です」
「生徒会としてではありません」
白雪は顔を上げた。
完璧美少女としての表情は、そこにはなかった。
不安を隠せず、助けを求めることにも慣れていない、一人の少女の顔だった。
「みるくまを、取られたくありません」
白雪が初めて、自分の望みを口にした。
俺はすぐに答えられなかった。
安全のためには、別の着用者が必要だ。
みるくまは学校のもので、白雪一人のものではない。
それでも、彼女がどれほど長い間、あの白いくまに守られてきたのかを、俺は少しずつ知り始めている。
「一緒に考えましょう」
俺が答えると、白雪の目がわずかに揺れた。
「小日向さんを拒否するのではなく、白雪がみるくまでいられる方法を」
「そのような方法がありますか?」
「まだ分かりません」
「無責任です」
「一人で考えるよりは、見つかる可能性があります」
白雪は俺を見たまま、しばらく動かなかった。
やがて、小さく頷く。
「お願いします」
ありがとう、とは言わなかった。
今は、それでよかった。
白雪は花を鞄へ戻した後、右手を俺へ差し出した。
商店街の混雑はすでに落ち着いている。
はぐれる危険もない。
「安全のためですか?」
俺が尋ねると、彼女は首を横へ振った。
「今は、違います」
白雪玲奈自身の手が、俺の手を握る。
「少しだけ、このままでいてください」
着ぐるみを着ていない。
周囲にも人がいる。
それでも彼女は、手を離さなかった。
俺も、理由を聞かなかった。
白雪が自分から離れるまで、時計台の下でその手を握っていた。




