第五章 ~白雪玲奈は「ありがとう」が言えない~
月曜日の朝、教室ではみるくまの話題が広がっていた。
学校説明会の写真が公式の広報アカウントに掲載されたときも、それなりの反応はあった。
しかし、ひかり幼稚園との交流会で撮影された写真は、それ以上に生徒たちの関心を集めたらしい。
登校した生徒の多くが、机を囲みながらスマートフォンの画面を見せ合っている。
「この子、かわいくない?」
「みるくまに抱きついてる写真?」
「これ、見守りハグっていうんだって。私もしてほしい」
「中に入ってるの、誰なんだろう」
最後の言葉が聞こえた瞬間、俺は反射的に窓際の席を見た。
白雪玲奈は、いつもどおり静かに本を読んでいた。
表紙には難しそうな外国文学の題名が並んでいる。
教室で自分の秘密が話題になっているにもかかわらず、顔を上げる気配はない。
少なくとも、表面上は。
机の下では、右手の指がスカートの生地をつまんでいた。
緊張したときに出る癖なのだろう。
「みるくま、急に人気者だな」
前の席に座った相川が、椅子ごとこちらへ身体を向けた。
彼のスマートフォンにも、幼稚園で撮影されたみるくまの写真が表示されている。
園児たちに囲まれ、白い両腕を広げている場面だった。
「朝倉も行ったんだろ?」
「着ぐるみの補助で」
「踊ってる動画もあるぞ」
画面を操作し、別の投稿を見せてくる。
遊戯室の前方でみるくまと一緒に腕を動かしている俺の姿が、短い動画に映っていた。
後方から撮影されたものらしく、顔までははっきり見えない。
だが制服と体格から、同じクラスの人間には気づかれる可能性がある。
「消してもらえないのか」
「学校の公式投稿だぞ。むしろ名誉だろ」
「俺は着ぐるみの修理を頼まれただけだ」
「いいじゃん。子どもたちも楽しそうだし」
相川は動画を最初から再生した。
みるくまが左右に揺れ、その隣で俺が同じ動きをしている。
途中から園児たちが自由に踊り始めると、みるくまも振りつけを崩し、一人の子どもの真似をして両手を大きく振った。
映像だけを見ても、中にいる人間が楽しんでいることは分かった。
「このみるくま、動きに性格があるよな」
相川が感心したように言う。
「性格?」
「前に商店街で見たときは、普通の着ぐるみだったんだよ。
手を振って、写真を撮って終わり。今のは子どものことをちゃんと見てる感じがする」
俺はもう一度画面を見た。
みるくまの顔は、いつも同じ笑顔だ。
それでも、柚葉が近づいてくるのを待っていたときも、園児と踊っていたときも、中にいる白雪の感情は動きに表れていた。
「中の人が変わったんじゃない?」
教室の後方にいた男子生徒が会話へ入ってきた。
「前は先生が入ってたとか?」
「体育教師だったら嫌だな」
「夢を壊すなよ」
周囲の生徒たちが笑う。
白雪は本から顔を上げなかった。
ただ、ページをめくる指が止まっている。
「朝倉は知ってるんだろ?」
相川が声を落とした。
「補助担当なら、中に誰がいるか会ってるよな」
「黒岩先生から、話すなと言われてる」
あらかじめ用意していた答えだった。
本当のことを一部含めれば、嘘は不自然になりにくい。
「男か女かも駄目?」
「駄目だ」
「年齢は?」
「知らない」
「実は校長とか」
「知らない」
同じ返事を繰り返すと、相川は諦めたように両手を上げた。
「分かった。聞かない」
普段は軽い態度が目立つが、相川は本当に嫌がっていることを無理に聞き出そうとはしない。
それでも、スマートフォンを机へ置いた後、俺へ顔を近づけてきた。
「ただ一つだけ教えてくれ」
「内容による」
「みるくまって、朝倉にも抱きつくの?」
思わず、白雪のほうを見た。
今度は彼女と目が合った。
本を読んでいたはずなのに、こちらを見ている。
黒い瞳には、はっきりと警戒が浮かんでいた。
「活動の前に動作確認をすることはある」
俺が答えると、相川の口元が緩んだ。
「それ、ほぼ毎回抱きつかれてるってこと?」
「着ぐるみの構造を確認してるだけだ」
「構造確認で抱きつく必要ある?」
「腕を動かしたとき、縫い目に負荷がかからないか見る」
自分でも苦しい説明だと思う。
相川も信じてはいなかった。
「役得だな」
「中身が体育教師でも同じことを言えるか?」
「急に怖くなった」
相川がそれ以上質問することはなかった。
白雪へ目を向けると、彼女はすでに読書へ戻っている。
机の下でつまんでいたスカートの生地も離していた。
秘密が守られたことに安心したらしい。
その日の昼休み、俺の机へ一通のメッセージが届いた。
今回は封筒ではない。
白雪から直接渡された、小さく折られた紙だった。
彼女は教室の前方にある提出箱へ課題を入れた帰り、俺の机の横を通る際に紙を置いていった。
一言も話さない。
視線すら合わせない。
前の席にいた相川は、紙が置かれたことに気づいていなかった。
開くと、整った文字で短く書かれている。
『放課後、藤堂先輩からお話があります。生徒会室へ来てください』
その下に、少し小さな文字が付け加えられていた。
『朝の件は、適切な対応でした』
礼を言っているつもりなのだろう。
ありがとう、とは書かれていない。
俺は紙の裏へ返事を書いた。
『了解しました。体育教師ではないと答えなくてよかったですか』
授業の準備を始めていた白雪の机へ、相川に見られないよう紙を戻す。
彼女は内容を読み、こちらを見た。
目が合うと、ゆっくり一度だけ頷く。
それから紙を細かく折り畳み、筆箱の中へしまった。
捨てるのではなく保管するらしい。
その行動に特別な意味があるのかは、分からなかった。
放課後、生徒会室を訪れると、藤堂先輩は大きな紙袋を机の上へ置いていた。
白雪は俺より先に来ている。
生徒会の仕事を終えたところらしく、机の上には学校行事の資料や議事録が並んでいた。
「二人とも揃ったわね」
藤堂先輩は紙袋を俺たちの前へ移動させた。
中には、色画用紙や便箋が大量に入っている。
「ひかり幼稚園から、みるくま宛ての手紙よ」
白雪が目を見開いた。
「手紙ですか?」
「園児全員ではないけれど、家に帰ってから書きたいと言った子が多かったらしいわ。先生方がまとめて届けてくれたの」
白雪は紙袋へ両手を伸ばした。
すぐには中身を取り出さず、壊れやすいものへ触れるように、袋の端をそっと持つ。
「読んでもよろしいのでしょうか」
「もちろん。みるくまへの手紙だから、玲奈が受け取って」
「私ではなく、みるくまに届いたものです」
「中に入っているのは玲奈でしょう」
「活動中は、みるくまです」
いつもの主張だった。
藤堂先輩は慣れているのか、反論せずに俺を見た。
「朝倉君も一緒に読んで。あなたへの手紙も混ざっているみたいだから」
「俺にも?」
「みるくまの隣で踊っていたお兄さん、だそうよ」
名前を知られていないため、仕方がない。
紙袋を持って備品室へ移動すると、白雪はいつもの長机へ手紙を一枚ずつ並べた。
クレヨンで描かれた絵。
平仮名だけで書かれた短い文章。
保護者が代筆したと思われる手紙。
みるくまの色も形も、書いた子によって違った。
耳が四つあるものや、水色のリボンが身体と同じくらい大きなものもある。
『ぎゅってしてくれてありがとう』
『おどってくれてたのしかった』
『またようちえんにきてね』
『みるくまさんだいすき』
白雪は一枚ずつ、時間をかけて読んでいた。
いつもの彼女なら、書類を内容ごとに分類し、必要な情報を短時間で確認するだろう。
しかし今日は、書かれた文字を指先でなぞり、絵の細部まで見ていた。
途中、みるくまの白い耳を黄色く塗った絵を見つけると、わずかに笑う。
「このみるくまは、耳の色が違いますね」
「塗る色が足りなかったのかもしれません」
「こちらは、足が六本あります」
「速く走れそうです」
「みるくまは走りません」
「安全のために?」
「設定上、ゆっくり歩きます」
俺たちは手紙を順番に確認していった。
白雪の表情は、教室にいるときとは明らかに違う。
笑う回数が多い。
言葉も自然に出ている。
着ぐるみを着ていなくても、備品室で俺と二人なら、少しずつ素の感情を表せるようになってきたのかもしれない。
紙袋の底近くに、小さな封筒があった。
表には、色鉛筆で『みるくまさんへ』と書かれている。
右下には、小さな猫と黄色い鈴の絵が描かれていた。
「柚葉の手紙ですね」
俺が言うと、白雪の手が止まった。
「なぜ分かるのですか?」
「猫のキーホルダーを持っていました」
白雪は封筒の絵を見つめた。
すぐに開けず、しばらく両手で持っている。
「読みますか?」
俺が尋ねると、彼女は頷いた。
封筒の中には、折り畳まれた便箋と、小さな黄色い折り紙が入っていた。
折り紙は鈴の形に切られている。
便箋の文章は、途中まで子どもの文字で書かれ、その下へ保護者の字で補足があった。
『みるくまさんへ
おいかけないでくれてありがとう。
となりにいてくれてありがとう。
ぎゅってしてくれてありがとう。
ゆずははもうくまさんがこわくないです。
こんどはゆずはがみるくまさんをぎゅってします。』
最後に、猫と白いくまが手をつないでいる絵が描かれていた。
白雪は動かなかった。
便箋を持つ指が、わずかに震えている。
「白雪?」
声をかけても返事がない。
彼女は手紙から顔を上げず、何度も同じ文章を読んでいるようだった。
やがて、小さく息を吸う音が聞こえた。
「よかったですね」
俺が言うと、白雪は一度だけ頷いた。
「はい」
声が掠れている。
目元には涙が浮かんでいた。
それでも白雪は泣こうとしなかった。
机の上へ手紙を置き、目を閉じて呼吸を整える。
「泣いてもいいと思います」
俺が伝えると、彼女は目を開いた。
「泣いていません」
「目が赤いです」
「埃が入りました」
「掃除したばかりです」
「手紙の紙粉かもしれません」
無理のある説明だった。
「ここには俺しかいません」
「朝倉君がいます」
「俺には見られたくない?」
白雪は答えなかった。
その代わり、長机の端に置かれていたみるくまの頭部へ手を伸ばした。
両手で持ち上げ、自分の顔へかぶせようとする。
「何をしてるんですか」
「着ぐるみの動作確認です」
「胴体を着ていません」
「頭部だけでも、確認できることがあります」
くまの頭をかぶれば、泣いている顔を隠せる。
白雪の考えは分かりやすかった。
俺は止めなかった。
みるくまの頭部が、彼女の顔を覆う。
制服姿の身体の上に、大きなくまの頭だけが乗っている。
不自然な姿だが、白雪にとっては必要なのだろう。
白いくまの顔は、いつもどおり笑っていた。
「白雪」
返事はない。
「みるくま」
くまの頭が、わずかにこちらを向く。
「柚葉は、みるくまが待ってくれたから近づけたんだと思います」
白い頭が一度だけ頷く。
「白雪が昔してほしかったことを、柚葉にできたんですね」
動きが止まった。
言いすぎたかもしれない。
第四条に触れる内容だった。
俺が謝ろうとしたとき、くまの頭の内側から声が聞こえた。
「私も、待ってほしかったのだと思います」
小さな声だった。
「何をですか?」
「笑えるようになるまで。話せるようになるまで。大丈夫だと言えるようになるまで」
白雪はくまの頭をかぶったまま、机上の手紙へ視線を落としている。
「大人は、私が黙っていると心配しました。何があったのか、どうして泣いているのか、何度も聞きました」
「答えられなかった?」
「分かりませんでした。自分でも、何が悲しいのか説明できませんでしたから」
彼女の言葉が、くまの内側で少し響く。
「それでも、何か答えなければ、皆を困らせてしまいます。だから、笑って大丈夫だと言うことを覚えました」
「そのほうが楽だったんですか」
「周りの人は安心しました」
白雪本人が楽だったとは言わない。
みるくまの頭部が、少し俯いた。
「そのうち、ありがとうも同じになりました。何かをしてもらったら、すぐに言う。笑って、頭を下げる。そうすれば相手は満足します」
「それは普通のことでは?」
「普通です」
白雪は静かに答えた。
「だから、簡単なのです。必要な場面で、必要な言葉を言うだけですから」
柚葉の手紙には、ありがとうが三回書かれている。
その一つ一つに、相手へ伝えたい気持ちが込められていた。
「本心から言うときだけ、難しくなる?」
くまの頭が、ゆっくり頷いた。
「本当に感謝すると、その人に助けてもらったことを認めることになります」
「助けてもらうのは悪いことですか」
「悪くありません」
「では、どうして?」
しばらく返事はなかった。
白雪はくまの頭を両手で支え、少しだけ位置を直す。
「助けてもらった人が、いなくなるのが怖いからです」
その言葉は、予想していなかった。
「いなくなる?」
「誰かを必要としなければ、その人がいなくなっても困りません」
白雪は淡々と説明した。
感情を抑えているからこそ、言葉の内容だけが重く残る。
「ありがとうと言わなければ、助けてもらったことを特別にしなくて済みます。自分一人でも大丈夫だったと思えます」
「本当は大丈夫ではなくても?」
「時間が経てば、大丈夫になります」
「時間が経つまで、一人で我慢するんですか」
白雪は答えない。
おそらく、これまでずっとそうしてきたのだろう。
困っても助けを求めない。
怪我をしても一人で着ぐるみを修理する。
暑さで倒れそうになっても活動を続ける。
誰かを必要としなければ、その人が離れていくことも怖くない。
それは強さではない。
傷つかないために、最初から誰も近づけない方法だ。
「俺がいなくなると思ってますか?」
尋ねると、くまの頭がわずかに上がった。
「朝倉君は、活動が終われば、みるくまに関わる理由がなくなります」
「同じクラスです」
「来年も同じクラスとは限りません」
「学校は同じです」
「卒業すれば、別々になります」
随分先まで考えている。
「だから、ありがとうと言わない?」
「幼稚園の帰りに言いました」
「一日一回の制限つきでした」
「制限は必要です」
白雪は真剣だった。
俺は長机に置かれた柚葉の手紙を見る。
「柚葉は、みるくまがまた来ると信じていると思います」
白いくまの頭が手紙へ向く。
「手紙に、今度は自分が抱きしめると書いてあります。もう会えないと思っていたら、そんなことは書きません」
「子どもですから」
「子どもだから、素直に信じられるんだと思います」
白雪は黙っている。
「ありがとうと言うことは、別れの言葉ではありません。次も会いたいと伝えるために使うこともあります」
自分で言いながら、少し気恥ずかしくなった。
白雪も同じように感じたのか、くまの頭が動かなくなる。
「誰かに助けてもらったことを認めても、その人が必ずいなくなるわけではありません」
「必ず残るとも限りません」
「それはそうです」
簡単に否定することはできなかった。
誰かがずっとそばにいると保証することはできない。状況も関係も変化する。
「でも、いなくなるかもしれないから最初から近づけないなら、白雪の周りには誰も残れません」
くまの頭が、わずかに下を向いた。
「分かっています」
「分かっていて、変えない?」
「簡単には変えられません」
「なら、少しずつでいいと思います」
柚葉に渡したカードと、同じ言葉だった。
急がなくていい。
相手が近づくまで待つ。
嫌なら無理に触れない。
俺たちが見守りハグのために決めたルールは、白雪本人にも必要なのかもしれない。
「ありがとうが言えなくても、俺は急かしません」
白いくまが俺を見る。
「ただ、言わなくても気づかないふりはしません」
「何に気づくのですか」
「白雪が、本当は感謝していることに」
くまの頭がこちらから逸らされた。
「自意識過剰です」
「幼稚園の帰りにも言われました」
「改善されていません」
白雪の声には、少しだけ普段の調子が戻っていた。
くまの頭部を外す。
中から現れた彼女の目は、やはり少し赤かった。
それでも、先ほどより表情は落ち着いている。
「朝倉君」
「何ですか」
白雪は何かを言おうとした。
唇が動く。
けれど言葉は出ず、彼女は柚葉の手紙へ視線を戻した。
「今は、言わなくていいですよ」
俺が先に伝えると、白雪の眉がわずかに寄る。
「何を言おうとしたか、分かるのですか?」
「分かりません」
「では、勝手に決めないでください」
「違いましたか?」
白雪は答えない。
柚葉が作った黄色い鈴を手に取り、掌の上へ乗せる。
「いつか、必要なときに言います」
「一日一回の制限は?」
「検討します」
少しだけ前進したらしい。
その後、俺たちは手紙を種類ごとに分け、保管用のファイルへ入れた。
白雪は柚葉の手紙だけを別の透明な袋へ入れ、みるくまの頭部を置いている棚の中へしまった。
「ほかの手紙と一緒にしなくていいんですか?」
「湿気や折れを防ぐためです」
「柚葉のものだけ?」
「鈴がついているため、厚みが違います」
特別に扱っていることは認めないらしい。
すべての手紙を整理し終えた頃、備品室の扉が三回鳴った。
入ってきた藤堂先輩は、手に新しい資料を持っていた。
「手紙は読んだ?」
「はい」
白雪はいつもの表情へ戻り、椅子から立ち上がる。
「みるくまへ温かい言葉をいただきました。園の先生方にも、改めてお礼をお伝えください」
「分かったわ」
藤堂先輩は棚へ収められたファイルを確認し、満足そうに頷いた。
「それで、二人に次の活動について相談があるの」
資料には、駅前商店街の写真が印刷されていた。
アーケードの両側に、古くからの個人商店や飲食店が並んでいる。学校から歩いて二十分ほどの場所だ。
「桜庭商店街から、みるくまへ出演依頼が来たわ」
「商店街から?」
俺が尋ねると、藤堂先輩は資料を机へ置いた。
「幼稚園での活動が地域の広報にも掲載されたでしょう。それを見た商店街の会長が、夏祭りの宣伝に協力してほしいと連絡してきたの」
白雪が資料へ目を通す。
「夏祭りは来月ですよね」
「本番への出演だけではなく、事前に商店街を紹介する写真を撮影したいそうよ。みるくまが店を回り、商品や店主と一緒に写真を撮る」
「広報効果は期待できます」
白雪の目が真剣になる。
みるくまを存続させるための機会が増えたのだから、断る理由はない。
「ただし、撮影の前に下見が必要ね」
藤堂先輩は俺を見る。
「着ぐるみで通れる道幅や、休憩場所、撮影する店舗の入口を確認してほしいの。玲奈だけでは、安全面の判断ができないから、朝倉君も一緒に行って」
「分かりました」
俺が答えると、白雪が顔を上げた。
即答したことが意外だったらしい。
「日時は?」
「今週の日曜日。午前十一時に商店街の時計台前へ集合。下見だけなら二時間くらいで終わると思う」
藤堂先輩は俺たちの顔を交互に見る。
「私は別の生徒会行事があるから同行できないわ。二人でお願い」
その言葉に、白雪の動きが止まった。
「二人で、ですか?」
「不都合がある?」
「活動に必要であれば、問題ありません」
答えは平静だった。
ただし、資料を持つ指へ少し力が入っている。
藤堂先輩は気づいているのかいないのか、穏やかな表情で続けた。
「商店街の店を一軒ずつ回るから、普通の服装で行って。制服だと学校の正式訪問だと思われるかもしれないから、私服のほうがいいそうよ」
白雪の指が、さらに固くなる。
休日。
私服。
商店街。
二人きり。
内容だけを並べれば、下見よりも別のものに聞こえる。
「写真撮影の日ではないんですよね?」
俺が確認すると、藤堂先輩は頷いた。
「本番前の確認だけ。商店街の担当者には話を通してあるけれど、当日は自由に見て回って構わないそうよ。必要なら実際に店を利用して、混雑する時間帯も確認して」
「食事も含まれますか?」
「必要経費として、生徒会から一人千円まで出せるわ」
「千円を超えた場合は?」
「自費ね」
藤堂先輩は資料を二部置き、生徒会室へ戻っていった。
扉が閉まった後、備品室には妙な沈黙が残った。
俺と白雪は、同じ資料を見ている。
それでも、どちらもすぐには話さなかった。
「日曜日、都合は悪いですか?」
俺から尋ねると、白雪は資料から顔を上げた。
「予定はありません」
「では、十一時に時計台前で」
「はい」
会話はそれだけで終わるはずだった。
しかし、白雪は資料を持ったまま立ち上がらない。
何か言いたそうにしている。
「どうしました?」
「私服とのことですが」
「そう書いてありますね」
「朝倉君は、どのような服装で来ますか?」
「まだ決めていません」
「商店街を歩くのに適した服装が必要です」
「普通の服でいいと思います」
「普通という基準は、人によって違います」
白雪の表情は真剣だった。
「歩きやすい靴で来れば問題ありません」
「それだけですか?」
「ほかにありますか?」
彼女は少し迷った後、首を横へ振った。
「ありません」
それでも納得していないように見える。
「白雪は私服に悩むんですか?」
「悩みません」
「なら、いつも着ているものでいいのでは?」
「誰かと休日に商店街へ行く機会が、これまでありませんでした」
正直な答えだった。
白雪ほど目立つ人間なら、休日に友人から誘われることも多いと思っていた。
「友達と買い物に行ったことは?」
「学校帰りに文房具を見たことはあります」
「休日は?」
「家で過ごします」
「家族とは?」
白雪の表情がわずかに硬くなる。
「両親は仕事で忙しいため、休日が合いません」
それ以上は聞かないほうがよさそうだった。
「下見なので、服装は何でも大丈夫です」
俺が改めて伝えると、白雪は頷いた。
「分かりました」
口では答えたが、不安は消えていないようだった。
資料を鞄へしまった後、白雪は机上のみるくまの頭部を見る。
「朝倉君」
「何ですか」
「日曜日は、みるくまの活動です」
「着ぐるみは持っていきませんよ」
「将来の活動へ必要な下見です」
「そうですね」
「したがって、個人的な外出ではありません」
誰も個人的な外出だとは言っていない。
「分かっています」
「誤解しないでください」
「何をですか?」
白雪は答えず、棚の整理を始めた。
耳が赤い。
俺も資料を鞄へ入れ、作業道具を片づける。
その日の活動は、手紙の整理だけで終わる予定だった。
下校時刻まではまだ少しある。
俺はみるくまの右腕にできた小さなほつれを直すため、白い糸を用意した。
「十分ほどで終わります」
俺が着ぐるみの腕を持ち上げると、白雪が隣へ座る。
「何か手伝いますか?」
「糸を切ってください」
彼女へ鋏を渡し、縫い目を確認する。
幼稚園で多くの子どもを抱きしめたため、腕の内側へ負荷がかかったらしい。
破損というほどではないが、今のうちに補強しておいたほうがいい。
白雪は俺の手元を見ながら、必要な長さに糸を切った。
「朝倉君」
「はい」
「先ほどの話ですが」
「私服のこと?」
「違います」
白雪の手が、鋏を持ったまま止まる。
「手紙を読んでいるとき、待つと言っていました」
「ありがとうが言えるまで?」
「はい」
「言いました」
「どのくらい待つつもりですか?」
質問の意味を考える。
「期限は決めていません」
「活動が終わっても?」
白い糸へ針を通しながら、俺は彼女を見た。
白雪は俺ではなく、着ぐるみの腕へ視線を落としている。
「活動が終わったら、話さなくなるつもりですか?」
「その予定はありません」
「では、学校では?」
「白雪が無視しなければ」
彼女の眉がわずかに動く。
「秘密を守るためです」
「今朝は、同じクラスの人間として話しても問題なかったと思います」
「相川君がいました」
「相川がいると話せない?」
「何かを勘づく可能性があります」
「すでに勘づいています」
「では、さらに注意が必要です」
白雪は真剣だった。
「放課後にしか話せないなら、卒業したら困りますね」
何気なく口にした言葉だった。
だが白雪は、鋏を机へ置いた。
「卒業後も、話すのですか?」
「同じ学校を卒業したら、話してはいけない決まりがあるんですか」
「ありません」
「なら、話すでしょう」
白雪は何も言わなかった。
横顔から、感情は読み取れない。
ただ、膝の上に置かれた手の力が少し抜けていた。
「それなら」
彼女は小さく息を吸う。
「少しずつ、練習します」
「何を?」
「ありがとうを、言うことです」
俺の手が止まった。
白雪は顔を上げ、こちらを見る。
教室で使う完璧な表情ではない。
着ぐるみに隠れてもいない。
「今日、秘密を守ってくれたこと。柚葉さんの手紙を一緒に読んでくれたこと。私が話すまで待つと言ってくれたこと」
そこまで言い、彼女は視線を下げた。
唇が動く。
言葉が出るまで、しばらく時間がかかった。
俺は急かさなかった。
針を持ったまま、ただ待つ。
「……ありがとう、湊君」
白雪が言った。
名字ではなく、下の名前だった。
以前、着ぐるみの中で間違えて呼んだときとは違う。
今度は、自分の意思で呼んでいる。
「どういたしまして」
俺が答えると、白雪は顔を上げた。
目が合う。
数秒後、彼女の頬が急に赤くなった。
自分が何を言ったのか、遅れて理解したらしい。
「今のは」
「一日一回ですか?」
「違います」
「みるくまが言った?」
「着ぐるみを着ていません」
「では、白雪本人ですね」
白雪は立ち上がろうとした。
しかし椅子の脚が長机へ当たり、逃げるように動くことができない。
「忘れてください」
「せっかく練習したのに?」
「下の名前で呼んだ部分だけです」
「そちらですか」
「朝倉君」
元の呼び方へ戻った。
「今後は気をつけます」
「気をつけなくていいと思います」
「よくありません」
「俺も白雪を玲奈と呼べば平等では?」
彼女の動きが止まる。
「それは、駄目です」
「どうして?」
「心の準備ができていません」
答えた直後、白雪は両手で口元を押さえた。
今度こそ、本音が出たことに気づいたらしい。
俺が笑うと、彼女は着ぐるみの頭部を持ち上げた。
「何をするんですか?」
「動作確認です」
「また頭だけ?」
「緊急事態です」
白雪はくまの頭をかぶり、自分の顔を隠した。
制服姿の身体に、大きなくまの頭。
先ほどまでと同じ、不自然な姿だった。
「白雪」
くまの頭が首を横へ振る。
「みるくまです」
「玲奈」
白いくまが完全に固まった。
数秒後、大きな頭部がゆっくりこちらへ向く。
表情は笑顔のままだ。
それでも中にいる白雪が、驚きと恥ずかしさで動けなくなっていることは分かった。
「日曜日、十一時ですね」
俺が話題を変えると、くまの頭が一度だけ頷いた。
「遅刻しないようにします」
もう一度頷く。
「服装も普通で大丈夫です」
今度は少し間を置いてから頷く。
「楽しみにしています」
白いくまは動かなかった。
俺も、下見を楽しみにしていると言っただけだ。
それ以上の意味はない。
しかし、白雪はくまの頭をかぶったまま、両手で頬の辺りを押さえている。
「白雪?」
返事はない。
「みるくま?」
くまの頭が、ゆっくり机へ伏せられた。
その内側から、小さな声が聞こえる。
「日曜日まで、話しかけないでください」
「同じクラスです」
「必要な場合だけにしてください」
「下見の確認は?」
「紙でお願いします」
第二章の頃へ戻ってしまった。
俺は補修作業を再開した。
白雪はくまの頭をかぶったまま、隣の椅子へ座っている。
話しかけないでほしいと言った割に、部屋から出ていくつもりはないらしい。
数分後、俺が腕の補修を終えると、白いくまの手がこちらへ伸びてきた。
胸元へ両腕を回し、次に俺へ向けて広げる。
「何ですか?」
見守りハグの確認動作だった。
「話しかけない約束では?」
くまの頭が首を横へ振る。
会話ではないから問題ないという意味だろう。
「今日は練習の必要はありません」
白い両腕が下がる。
くまの頭まで俯いた。
先ほど、ありがとうが言えるまで待つと話したばかりだ。
俺は小さく息を吐き、一度だけ頷いた。
白雪が近づいてくる。
頭部だけをかぶった状態なので、白い腕はない。
制服姿の彼女が、くまの頭をつけたまま俺へ両腕を回した。
着ぐるみ越しではない。
白雪本人の腕が、俺の背中へ触れる。
「これは、みるくまですか?」
くまの内側から、くぐもった声が返ってきた。
「活動に必要な確認です」
「何の確認?」
「日曜日も、朝倉君が来るかどうかです」
「行きます」
「本当に?」
「約束しました」
白雪の腕から、少しだけ力が抜けた。
「では、これはお礼ではありません」
「分かっています」
「見守りハグです」
「見守られているのは白雪のほうでは?」
返事はなかった。
くまの頭が、俺の肩へ乗せられる。
内部で、微かな鈴の音がした。
ちりん。
どこか懐かしい、青い鈴の音。
「湊君」
くまの中から、白雪の声が聞こえた。
「何ですか」
「先ほどのありがとうは、忘れないでください」
言葉を返そうとする前に、白雪は俺から離れた。
くまの頭を抱えたまま、備品室の扉へ向かう。
「話しかけないでと言ったのは?」
「撤回します」
「下の名前で呼ぶことも?」
白雪は扉の前で足を止めた。
こちらを振り返らずに答える。
「それは、日曜日に検討します」
扉が開く。
白雪は廊下へ出る直前、少しだけこちらを振り返った。
くまの頭を胸元に抱え、普段より柔らかな表情を浮かべている。
「遅刻しないでくださいね、朝倉君」
呼び方は元に戻っていた。
それでも、距離まで元に戻ったわけではない。
日曜日。
休日の商店街。
二人だけの下見。
白雪は活動だと言い張っている。
俺も、そのつもりだった。
ただ、商店街を歩く白雪玲奈が、どのような私服で現れるのか。
そのことを少しだけ気にしている時点で、俺も完全に仕事として考えられてはいなかったのかもしれない。




