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第四章 ~みるくま、幼稚園へ行く~

学校説明会の当日、白雪玲奈は朝から機嫌が悪かった。


正確には、本人は普段と変わらない表情を保っていた。

受付を担当する生徒会の先輩には丁寧に挨拶をし、配布資料の不足を見つけるとすぐに補充し、案内板が数センチ曲がっていることにも気づいた。


それでも、俺には分かる。


白雪は緊張していた。


体育館裏の控室で、彼女はみるくまの頭部を両手で抱えたまま、同じ場所を何度も確認していた。

首元の留め具を触り、内側へ取りつけた小型ファンのスイッチを押し、胸元のリボンを整える。

それが終わると、また首元の留め具へ戻る。


「さっきから三回目ですよ」


俺が指摘すると、白雪は留め具から手を離した。


「念入りに確認しているだけです」


「ファンも四回つけました」


「動作確認です」


「リボンも五回直しました」


「左右のバランスが重要です」


控室の長椅子には、予備の保冷剤や飲料水、タオルが並んでいる。

すべて白雪が用意したものだった。

俺も実家から裁縫道具や補修用の布を持ってきたが、今日必要になるとは思っていない。


みるくまの応急的な補修は、昨夜までに終わらせた。


背中のファスナーを交換し、腰と肩の固定位置を白雪の体格に合わせ、頭部には小型の送風ファンを取りつけた。

長時間の活動に耐えられる状態ではないものの、適切に休憩を取れば、今日の学校説明会には十分対応できる。


問題があるとすれば、着ぐるみではなく中の人だった。


「失敗しても、着ぐるみのせいにできますよ」


俺が言うと、白雪は冷たい目を向けてきた。


「朝倉君が修理した着ぐるみです」


「では、俺のせいにしてください」


「責任を押しつけるつもりはありません」


「白雪一人で背負う必要もありません」


規約に署名したときと同じ言葉を返すと、彼女は何も言わなくなった。


窓の外から、来校者を案内する放送が聞こえてくる。説明会の開始まで、残り二十分ほどだった。


白雪はみるくまの頭部へ視線を落とした。

いつも笑っているくまの顔を見つめながら、指先で少し垂れた左耳を整える。


「今日、誰も見守りハグを希望しなかったら、どうしましょう」


「その場合は、手を振って案内するだけです」


「理事会の方も見ています」


「無理に抱きつくほうが問題になります」


「分かっています」


白雪はそう答えたものの、声には納得していない響きが残っていた。


みるくまを残すためには、結果を出さなければならない。

理事会が何をもって成果と判断するかは曖昧だが、説明会へ来た中学生や保護者から良い反応を得る必要がある。


そのために考えたのが、みるくまの「見守りハグ」だった。


頑張っている人を見つけ、相手の許可を得た上で抱きしめる。

ハグを受けた人には、みるくまからの応援カードを渡す。


昨夜、俺と白雪は旧校舎の備品室に残り、手作業でカードを作った。

印刷自体は学校の機械を使えたが、リボン型の小さな切り込みと、裏面に押す足跡のスタンプは一枚ずつ手作業だった。


白雪は百枚すべてを完璧に仕上げようとしたため、途中から俺が半分を取り上げた。

作業速度で競うような雰囲気になり、最終的には俺が五十三枚、白雪が四十七枚を担当した。


白雪は、その結果を今も不満に思っているらしい。


「カードは俺のほうが多く作ったので、一枚も配れなかったら俺も困ります」


俺が長机の上に置かれた籠を示すと、白雪はわずかに眉を寄せた。


「枚数は、品質とは関係ありません」


「俺が作ったものに問題がありましたか?」


「足跡の角度が、一枚だけ他と違いました」


「よく見つけましたね」


「確認しましたから」


白雪はそれだけ言うと、着ぐるみの胴体へ足を入れた。


学校指定の体操着を着ているため、着替えには時間がかからない。

彼女が両腕を袖へ通したところで、俺が背中のファスナーを閉める。


「触ります」


「毎回言わなくても構いません」


「規約第十条対策です」


「必要な作業は禁止していません」


「どこまでが必要かは、双方の合意が必要です」


白雪は振り返ろうとしたが、着ぐるみの胴体が大きいため、うまく身体を回せなかった。


俺は笑いそうになるのを堪え、固定ベルトの位置を確認した。


「苦しくありませんか?」


白雪が両腕を動かす。


「問題ありません」


「頭部をつけます」


彼女が少し屈み、俺はみるくまの頭を上からかぶせた。

首元の留め具を固定し、内部ファンのコードが引っ張られていないことを確認する。


みるくまが立ち上がった。


白雪玲奈の姿は完全に隠れ、そこには白いくまだけが残る。


先ほどまで緊張していた少女と同一人物とは思えないほど、みるくまは元気よく両腕を上げ、その場で一回転した。


「急に動かないでください」


白いくまがこちらへ親指を立てる。


着ぐるみの中へ入った途端、緊張が消えたらしい。


「準備はできましたか?」


俺が尋ねると、みるくまは大きく頷いた。

その後、自分の胸元へ両腕を回し、こちらへ向けて広げる。


見守りハグの確認動作だった。


「本番前の練習ですか?」


もう一度、頷く。


「昨日、十回以上しましたよね」


両腕を広げたまま、みるくまは動かない。


緊張しているのは事実だろう。俺は断らずに頷いた。


白いくまが近づき、俺の身体を包み込む。

いつものように頭部を肩へ乗せたものの、今日はすぐに離れた。


「本番でも、今くらいの時間にしてください」


みるくまが頷く。


続いて、俺の制服の袖をつかんだ。


「何ですか?」


白い手が、控室の出口を指差す。


一緒に来い、という意味らしい。


「俺は着ぐるみの係だと分かるよう、少し離れて歩きます」


みるくまは袖を離さなかった。


「手をつなぐと、動きにくいですよ」


それでも力を緩めない。


「緊張しているんですか?」


白いくまは一度だけ、わずかに頷いた。


俺は周囲に誰もいないことを確認し、その大きな手を握った。


着ぐるみ越しなので、白雪本人の手には触れていない。

けれど、みるくまの指が俺の手を包むように動いた。


「入口までです」


白いくまが嬉しそうに腕を揺らす。


控室を出ると、体育館へ続く廊下には案内係の生徒が何人もいた。

みるくまの姿を見た生徒たちが手を振り、スマートフォンを向ける。


その瞬間、白雪は俺の手を離した。


みるくまは学校の公式マスコットらしく、大きな動きで周囲へ手を振る。

先ほどまで俺の袖をつかんでいた気配は完全に消えた。


白雪は着ぐるみを着ると、本当の自分を出せる。


そう思っていた。


けれど、みるくまの中でも、彼女は誰かに見られているときと、俺と二人きりのときで態度を変えている。


俺の前で見せるみるくまが、白雪にとってどれほど特別なのか。

その意味を考えそうになり、今は仕事へ集中することにした。


学校説明会は、予想以上に来場者が多かった。


体育館での全体説明が終わると、中学生と保護者が校舎見学へ移動する。

みるくまは昇降口近くの案内コーナーに立ち、来場者へ手を振った。


最初の数分は、誰も近づかなかった。


中学生たちはみるくまに気づいても、遠くから見るだけだった。

保護者の前で着ぐるみに抱きつくのは恥ずかしいのかもしれない。


白雪も無理に近づこうとはしない。


相手を急かさず、少し離れた位置から手を振る。

小学生の兄弟を連れた家族が通ると、子どもの目線に合わせて腰を落とした。


俺は用意した応援カードの籠を持ちながら、壁際で様子を見ていた。


開始から十分ほど経った頃、一人の女子中学生が廊下の端で立ち止まった。


制服の胸元には、近隣の公立中学校の校章がついている。

母親らしい女性と一緒にいるが、校舎案内へ進もうとせず、配布資料を胸元へ抱きしめていた。


母親が何かを話しかけても、少女は俯いたまま動かない。


みるくまが、その少女を見つけた。


白いくまはすぐに近づこうとせず、少し離れた場所から小さく手を振った。


少女が顔を上げる。


みるくまは自分の胸を指差した後、首を傾げた。大丈夫、と問いかけているような動きだった。


少女は戸惑いながらも、小さく首を横へ振った。


大丈夫ではないらしい。


みるくまは胸元へ両腕を回した。


見守りハグの合図。


次に、少女へ向けて両腕を広げる。


少女の母親が驚いたように娘を見る。

周囲にいた案内係の生徒たちも、動きを止めていた。


少女はしばらく迷っていた。


やがて資料を母親へ預け、一歩前へ出る。


小さく頷いた。


みるくまは急がなかった。少女が逃げないよう、一歩ずつゆっくり近づき、身体を包み込む。


少女の顔が、白い毛へ埋まった。


最初は身体を硬くしていたが、数秒後、その両手がみるくまの背中へ回された。


白いくまは少女の頭を撫でることも、身体を揺らすこともしなかった。

ただ、相手が離れるまで静かに抱きしめていた。


やがて少女が自分から身体を離す。


目元が少し赤くなっていた。


俺はみるくまへ応援カードを渡した。

白い手では細かいものを持ちにくいため、籠ごと差し出す。


みるくまはカードを一枚選び、少女へ渡した。


少女が裏面の言葉を読む。


『だいじょうぶ。ゆっくりでいいよ。みるくまは、頑張っている君を見ています』


白雪が考えた文章だった。


少女はカードを両手で持ち、初めて少し笑った。


「私、この学校に入りたいんです。でも、今日来たら、急に怖くなってしまって」


小さな声だった。


みるくまは何度も頷き、自分の胸元に拳を当てる。

応援している、と伝えたいらしい。


少女の母親が、みるくまへ深く頭を下げた。


「ありがとうございます。朝から緊張して、ほとんど話せなかったんです」


白いくまは慌てたように両手を振った。


その後、少女と同じ目線になるよう腰を落とし、もう一度手を差し出す。


少女は今度は迷わず、その手を握った。


みるくまに案内され、親子は校舎見学へ向かっていった。


その様子を見ていた別の中学生たちが、少しずつ近づいてくる。


写真を撮ってほしい。


カードが欲しい。


受験勉強を応援してほしい。


一人が声をかけると、それまで遠巻きにしていた来場者も次々と集まり始めた。


全員がハグを希望したわけではない。


両腕を広げたみるくまに対し、恥ずかしそうに首を横へ振る生徒もいた。

その場合、白雪は練習どおり無理に近づかず、手を振ってカードを渡した。


相手の意思を尊重するからこそ、見守りハグは受け入れられたのだと思う。


一時間後、百枚用意した応援カードは残り十二枚になっていた。


休憩のため控室へ戻ると、みるくまは扉を閉めた直後、その場へ座り込んだ。


「大丈夫ですか?」


俺が頭部を外すと、白雪は大きく息を吸った。


額から頬まで汗に濡れている。内部ファンをつけていても、来場者に囲まれた状態で動き続ければ体温は上がる。


「水を飲んでください」


白雪は着ぐるみの胴体から抜け出し、長椅子へ座った。


俺が水筒を渡すと、彼女は両手で受け取り、少しずつ飲む。


「成功でしたね」


俺が言うと、白雪は水筒から口を離した。


「まだ終わっていません」


「午前の部は成功です」


「午後もあります」


「休憩中まで完璧でいる必要はありません」


白雪は反論しようとしたが、疲れているのか言葉を止めた。


代わりに、長机へ置かれたくまの頭を見つめる。


「最初の方が、笑ってくれました」


「白雪のカードを読んでいましたね」


「見守りハグも受けてくれました」


「白雪が急がなかったからです」


彼女の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。


教室で見せるものよりも幼く、素直な笑顔だった。


「朝倉君」


「何ですか」


「午後の前に、見守りハグの確認をしてもいいでしょうか」


「今ので十分成功していました」


「中学生と朝倉君では身長が違います」


「俺で確認する意味がないということですよね」


「体力が回復したか判断するためです」


理屈が強引だった。


「先に十分休んでください」


「では、休憩後に」


白雪は本気で予定へ入れるつもりらしい。


結局、午後の部が始まる直前、俺は一度だけ見守りハグの練習相手になった。


学校説明会を終えた時点で、応援カードはすべてなくなった。


来場者へのアンケートには、みるくまについての感想が何件も書かれたらしい。

翌週の生徒会報には、女子中学生を抱きしめるみるくまの写真が掲載され、学校の公式広報アカウントにも同じ写真が投稿された。


反応は、これまでの行事より明らかに良かった。


それでも、みるくまの存続が決まったわけではない。


次の行事は、翌週の日曜日に行われる、ひかり幼稚園との交流会だった。


学校説明会から数日後、俺は旧校舎の備品室で、みるくまの頭部を分解していた。


「本当に外してしまうのですか?」


長机の向かい側に座る白雪が、不安そうに内部をのぞき込む。


「ファンの位置を変えるだけです」


「元に戻せますか?」


「戻せます」


「左耳の角度は変わりませんか?」


「変えません」


「内部のポケットは?」


「触りません」


俺が先回りして答えると、白雪はようやく身体を引いた。


頭部の内側には、学校説明会で使った小型ファンがついている。

簡易的に固定したため、角度によっては風が顔へ届きにくかった。


幼稚園の交流会では、学校説明会以上に動く可能性がある。

子どもの目線に合わせて屈んだり、園庭を歩いたりするなら、冷却方法を改善しておく必要があった。


「幼稚園では、見守りハグを中心にするんですか?」


俺が作業しながら尋ねると、白雪は予定表を確認した。


「最初に園児全員との写真撮影。その後、遊戯室で簡単な交流を行います。園側からは、みるくまと一緒に踊りたいと希望されています」


「踊る?」


手が止まった。


「聞いていません」


「昨日、藤堂先輩から連絡がありました」


「どんな踊りですか?」


白雪は机の下からタブレット端末を取り出した。


動画を再生すると、明るい音楽に合わせて、幼稚園の先生らしい人物が両腕を大きく動かしている。


動き自体は単純だった。


両手を上げる。身体を左右へ揺らす。その場で一回転し、最後に両腕で大きな丸を作る。


ただし、それは着ぐるみを着ていない人間が踊る場合だ。


視界が狭く、足元が見えず、頭部の重いみるくまが同じ動きをすれば、転倒する可能性がある。


「一回転は禁止です」


俺が言うと、白雪はすぐに頷いた。


「私も危険だと思いました」


「先生には伝えましたか?」


「みるくま用の振りつけへ変更してもよいと言われています」


「なら、足を動かさず、上半身中心にしましょう」


俺は動画を最初から再生し、危険な動きを一つずつ確認した。


白雪は俺の説明を聞きながら、ノートへ変更点を書いていく。


「見守りハグは、希望した園児だけです。先生から、触れられることを苦手とする子もいると聞いています」


「確認動作は、学校説明会と同じでいいと思います」


「子どもにも伝わるでしょうか」


「事前に先生から説明してもらいましょう。それでも反応がなければ、無理に近づかない」


白雪は真剣な表情で頷いた。


最初に見守りハグを提案したとき、男子生徒にも行うのかと不満そうにしていた人物とは思えない。


みるくまの活動に関しては、彼女は誰よりも慎重だった。


「朝倉君も、一緒に踊りますか?」


不意に尋ねられ、俺は顔を上げた。


「どうして俺が?」


「みるくま一人では、園児が動きを理解できないかもしれません」


「先生がいます」


「着ぐるみの補助担当として、朝倉君も前に立つようお願いされています」


「それも昨日決まったんですか?」


「はい」


「重要なことは早く言ってください」


白雪は視線を逸らした。


「朝倉君なら、断らないと思いました」


「どうしてですか」


「正式な協力者ですから」


規約が、日に日に便利な道具として使われている。


「踊りは得意ではありません」


「私も同じです」


「白雪は体育の成績もいいでしょう」


「着ぐるみで踊る成績はつけられたことがありません」


当然だった。


その日の作業を終えた後、俺たちは旧校舎の廊下で振りつけの練習をした。


白雪は着ぐるみを着ず、体操着姿で動きを確認する。

両腕を上げ、音楽に合わせて左右へ振る。

普段の彼女らしく動作は正確だったが、表情まで真剣なため、幼児向けの踊りには見えない。


「もっと楽しそうにできませんか?」


俺が言うと、白雪は腕を上げたままこちらを見た。


「楽しんでいます」


「顔に出てません」


「着ぐるみを着れば、顔は見えません」


「動きにも出ます」


白雪はもう一度、最初から踊り始めた。


先ほどより腕の動きが大きくなる。

ただし、今度は正確さを意識しすぎて、体操の模範演技のようになっていた。


「何か違います」


「具体的に説明してください」


「子どもと遊ぶ感じです」


「子どもと遊ぶ経験は、あまりありません」


白雪の動きが止まった。


「兄弟はいないんですか?」


「一人っ子です。親戚にも小さな子はいません」


「では、相手が俺だと思ってください」


「朝倉君を幼稚園児だと思うのですか?」


「今のは忘れてください」


白雪は少し考えた後、音楽を止めた。


「朝倉君が一緒に踊れば、分かるかもしれません」


「俺も踊るんですか」


「本番で必要です」


断れる雰囲気ではなかった。


廊下の端にタブレットを置き、音楽を最初から流す。


俺と白雪は並んで両腕を上げた。


単純な動きのはずなのに、相手と合わせようとすると意外に難しい。

白雪は正確に拍を取るが、俺は途中でわずかに遅れた。


彼女がこちらを見る。


「遅れています」


「分かっています」


「次は右です」


「動画を見れば分かります」


「左へ動いています」


「白雪が近いんです」


廊下の幅は十分にあるはずだが、白雪は動きを確認しようとして、少しずつこちらへ寄ってきていた。


腕が触れる。


白雪は慌てて一歩離れ、その拍子に足をもつれさせた。


俺は咄嗟に彼女の腕をつかんだ。


白雪の身体がこちらへ傾き、肩に額が当たる。


音楽だけが明るく流れ続けていた。


「大丈夫ですか?」


「はい」


白雪は答えたものの、すぐには身体を離さなかった。


俺の制服を片手でつかみ、体勢を整える。


「着ぐるみを着ていなくても、距離が近いですね」


冗談のつもりで言うと、彼女は勢いよく身体を離した。


「転倒を避けるための緊急措置です」


「みるくまではないのに?」


「白雪玲奈にも、緊急事態はあります」


白雪は乱れた髪を直し、タブレットの音楽を止めた。


耳が赤くなっている。


「本番では、近づきすぎないよう注意します」


「そのほうがいいですね」


「朝倉君も、遅れないでください」


「原因を俺だけにしないでください」


それから三十分ほど練習を続けた。


最終的に、俺と白雪の動きは問題なく合うようになった。

白雪も途中から正確さだけを追い求めなくなり、少しずつ身体の動きが柔らかくなった。


着ぐるみへ入れば、さらに自然にできるだろう。


交流会当日、ひかり幼稚園の園庭には、手作りの旗が並んでいた。


正門には『みるくまさん ようこそ』と書かれた大きな看板が設置されている。

くまの絵は、園児たちが描いたらしい。

白いものもいれば、茶色や桃色、翼の生えたくままでいた。


白雪は看板の前で立ち止まり、一枚ずつ確認していた。


まだ着ぐるみには入っていない。

学校の制服姿で、俺と一緒に控室へ向かうところだった。


「全部、みるくまだそうです」


案内を担当する幼稚園教諭の宮本先生が、笑いながら説明した。


二十代後半ほどの女性で、黄色いエプロンの胸元にくまの名札をつけている。


「昨日、みるくまさんが来ると伝えたら、子どもたちが描きたいと言い出したんです。朝から、いつ来るのか何度も聞かれました」


「ありがとうございます」


白雪は丁寧に頭を下げた。


「子どもたちも楽しみにしています。今日はよろしくお願いしますね」


宮本先生が笑顔を向けると、白雪は一瞬だけ返事を遅らせた。


「はい。ご期待に添えるよう努めます」


言葉は正しい。


けれど、少し硬い。


先生が先に控室へ入った後、俺は白雪へ視線を向けた。


「緊張していますか?」


「していません」


「学校説明会の朝も同じことを言ってました」


「今回は、子どもの人数が多いだけです」


「それを緊張していると言います」


園児は三つの学年を合わせて、およそ百二十人いるらしい。


全員が一度にみるくまへ駆け寄れば、転倒する危険がある。

そのため、写真撮影も交流もクラスごとに行う予定だった。


控室には、藤堂先輩が先に来ていた。

生徒会を代表し、園との連絡や時間管理を担当する。


「二人とも、遅刻はしていないわね」


藤堂先輩は時計を確認した。


「玲奈、体調は?」


「問題ありません」


「朝食は?」


「食べました」


「水分は?」


「移動中にも取りました」


「朝倉君、信用していい?」


「水筒が少し減っていたので、おそらく」


白雪が不満そうにこちらを見る。


「私の申告だけでは信用できないのですか?」


「前科がありますから」


「倒れてはいません」


「倒れかけました」


藤堂先輩は俺たちのやり取りを聞き、小さく笑った。


「朝倉君が一緒なら大丈夫そうね」


その言葉に、白雪は反論しなかった。


着ぐるみへ入る前に、俺は内部ファンと固定ベルトを確認した。

胸元の内側にある小さなポケットには触れない。

青い鈴が入っていると思われる場所は、白雪との約束どおり、そのまま残してある。


白雪が胴体へ入り、俺がファスナーを閉める。


頭部を装着すると、みるくまは元気よく両腕を上げた。


廊下の向こうから、子どもたちの声が聞こえてくる。


「みるくま、準備はできましたか?」


俺が尋ねると、白いくまは一度頷いた。


その後、すぐに両腕を自分の胸へ回し、俺へ向けて広げる。


「今ですか?」


もう一度、頷く。


藤堂先輩が横から俺たちを見ている。


「毎回やっているの?」


「本番前の確認らしいです」


「そう」


藤堂先輩の口元が、面白そうに緩んだ。


「私は外に出ているわね」


余計なことを言わず、彼女は控室を出ていった。


俺が許可すると、みるくまはすぐに近づいてきた。


いつもより短く抱きしめ、すぐに身体を離す。


「緊張は取れましたか?」


白いくまが頷く。


その動きを見て、俺は気づいた。


見守りハグは、応援される側だけのものではない。


白雪自身も、誰かに触れることで安心しようとしている。


そう考えると、彼女が俺にだけ何度も練習を求める理由が、少し分かる気がした。


最初の年少クラスが遊戯室へ入ってくる。


みるくまを見つけた瞬間、子どもたちから歓声が上がった。


「くまさん!」


「しろい!」


「おっきい!」


列を整えようとする先生たちの声も聞かず、数人が走り出しそうになる。

みるくまは慌てず、両手を前へ出して止まる動きを見せた。


先生から事前に説明されていたのだろう。

子どもたちは黄色い線の前で止まり、その場から大きく手を振った。


みるくまも両腕を振り返す。


白雪の動きは、練習のときより柔らかかった。


手を振るだけでも、相手の目線に合わせて身体の高さを変えている。

飛び跳ねる子には大きく腕を動かし、怖がって先生の後ろへ隠れる子には、小さく手を振る。


子どもと接する経験がないと言っていたが、相手を観察することは得意らしい。


集合写真を撮った後、練習してきた踊りが始まった。


遊戯室の前方にみるくまが立ち、その横に俺と宮本先生が並ぶ。

明るい音楽が流れ、子どもたちが一斉に両手を上げた。


俺も見本になるよう腕を動かす。


隣のみるくまは、練習どおり足を大きく動かさず、上半身を左右へ揺らしている。

一回転する部分では、白い両手を上へ伸ばし、その場で小さく足踏みする動きへ変更した。


子どもたちは正しい振りつけを気にしていない。


回る者、跳ねる者、友人の手を取る者。それぞれが自由に踊っている。


その様子を見たみるくまも、途中から練習どおりの動きを崩し始めた。


子どもの真似をして両手を振り、しゃがんだ園児と同じ高さまで腰を落とす。

目の前の男の子が飛び跳ねると、自分も少しだけ身体を上下させた。


着ぐるみの頭が揺れるたび、少し垂れた左耳が動く。


白雪本人の顔は見えない。


それでも、中で笑っていることが分かった。


踊りを終えると、見守りハグの時間になった。


宮本先生が子どもたちへ説明する。


「みるくまさんは、ぎゅってしてもいいか、こうやって聞きます。ぎゅってしてほしい人は、うんって頷いてね。嫌な人は、嫌ってしても大丈夫です」


みるくまが胸元へ両腕を回し、見本の動きをする。


子どもたちの多くは、すぐに手を上げた。


一人ずつ順番に前へ出て、みるくまに抱きしめてもらう。

短く抱きしめられるだけで笑い出す子もいれば、白い身体からなかなか離れようとしない子もいた。


白雪は急かさず、それぞれに合わせていた。


俺は隣で見守りカードを渡しながら、着ぐるみの動きを確認する。


ファンは正常に動いている。


足取りにも問題はない。


それでも、二十人を超えた頃から、みるくまの動きが少し遅くなった。


「一度、休憩を入れましょう」


俺が宮本先生へ伝えようとしたとき、列の後ろにいる一人の女の子が目に入った。


年中クラスの園児らしい。


周囲の子どもより少し背が低く、肩までの髪を二つに結んでいる。

皆が順番を待ちながら騒いでいる中、その子だけは列から離れ、壁際に立っていた。


名札には「ゆずは」と書かれている。


宮本先生も気づいたらしく、女の子のそばへしゃがんだ。


「柚葉ちゃんは、ぎゅってしなくて大丈夫?」


柚葉は小さく頷いた。


「見るだけにする?」


もう一度、頷く。


宮本先生は無理に誘わず、女の子の頭を撫でてから戻ってきた。


「最近、こちらへ転園してきた子なんです。まだ大勢の場所に慣れていなくて」


先生は声を落として説明した。


「前の幼稚園で、着ぐるみに追いかけられて怖い思いをしたらしくて。今日は部屋へ入れただけでも、すごいことなんです」


白雪にも聞こえたのだろう。


みるくまの顔が、壁際の柚葉へ向く。


俺は白い腕へ軽く触れた。


「近づかないほうがいいです」


みるくまは頷いた。


見守りハグを希望した子どもたちへの対応を終え、休憩へ入る。


他の園児たちが別の教室へ移動しても、柚葉だけは壁際に残っていた。

宮本先生は少し離れたところから見守っている。


みるくまは控室へ戻らなかった。


柚葉から十分ほど離れた場所へ腰を下ろす。


白いくまが座ったことに気づき、柚葉が顔を上げた。


みるくまは何もせず、両手を膝へ置いている。


手も振らない。


抱きしめようともしない。


ただ、同じ部屋に座っていた。


俺はその姿を見て、白雪の言葉を思い出した。


昔、みるくまに助けてもらった。


何をされたのかと聞いた俺に、彼女はこう答えた。


そばにいてくれました。


柚葉は、しばらく白いくまを見ていた。


みるくまも、動かなかった。


やがて女の子は壁から背中を離し、一歩だけ前へ出た。


白いくまは反応しない。


さらに一歩。


柚葉は、少しずつ距離を縮めていく。


みるくまから二メートルほど離れたところで止まると、床へ座った。


向かい合うような位置だった。


どちらも話さない。


宮本先生が、俺の隣で小さく息を呑んだ。


「柚葉ちゃんが、自分から近づいたのは初めてです」


みるくまは、柚葉を見つめたまま両手を膝へ置いている。


見守りハグを提案しない。


相手が望むまで、待つつもりなのだろう。


数分後、柚葉が床に手をつき、立ち上がった。


みるくまのすぐ前まで歩いてくる。


白いくまが、ゆっくり片手を上げた。


触れない距離で止め、小さく左右へ振る。


柚葉も同じように手を振り返した。


それだけで、みるくまの身体が嬉しそうに揺れた。


柚葉の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。


「みるくまさん」


初めて声を聞いた。


白いくまが首を傾げる。


「追いかけない?」


みるくまは何度も頷いた。


「さわらない?」


今度は首を横へ振った後、自分の両手を後ろへ隠す。

勝手には触れない、と伝えたいらしい。


柚葉は少し考え、みるくまの右手を指差した。


「おててだけ」


白いくまはゆっくり右手を差し出した。


柚葉の小さな指が、みるくまの大きな手へ触れる。


握るというより、白い毛の上へ手のひらを置いただけだった。


それでも柚葉は逃げなかった。


みるくまも動かない。


数秒後、女の子は自分から手を離した。


「ふわふわ」


柚葉が笑った。


みるくまは両手を上げ、喜ぶように小さく揺れた。


そのとき、胸元から微かな鈴の音がした。


ちりん。


柚葉が首を傾げる。


「すず?」


みるくまの動きが止まった。


「くまさん、すずもってるの?」


白雪は答えられない。


俺は少し離れた位置から見守っていたが、みるくまが困っていることが分かった。


柚葉は追及せず、自分の通園鞄へ手を伸ばした。


鞄には、黄色い鈴のついた猫のキーホルダーがぶら下がっている。


「ゆずはも、もってるよ」


鈴を指で揺らす。


みるくまは自分の胸元へ手を当て、その後、柚葉の鈴を指差した。


おそろいだと伝えたいらしい。


柚葉は嬉しそうに何度も頷いた。


「おそろい」


白いくまも頷く。


そのやり取りを見ているうちに、俺の頭の中で、遠い記憶がまた揺れた。


夕暮れの非常階段。


大きな白い手。


手のひらに乗せられた、小さな青い鈴。


俺が渡したのか。


受け取ったのか。


そこだけが、どうしても曖昧だった。


「朝倉君」


藤堂先輩の声で、意識が現在へ戻る。


彼女は遊戯室の入口から、腕時計を示していた。


次のクラスが来る時間らしい。


俺はみるくまへ近づき、白い腕へ触れた。


「一度休憩します」


みるくまは柚葉を見る。


女の子は、もう怖がっていなかった。


「またくる?」


白いくまが何度も頷く。


柚葉は自分の胸元へ両腕を回した。


見守りハグの確認動作を真似している。


次に、みるくまへ向けて小さな両腕を広げた。


白雪はすぐには動かなかった。


柚葉が本当に望んでいるのか、確かめているのだろう。


「ぎゅって、してもいいよ」


女の子が言った。


みるくまは、ゆっくり前へ進んだ。


膝を床につき、柚葉と同じ高さになる。


白い腕が、小さな身体を包み込む。


柚葉はみるくまの胸元へ頬を寄せ、自分から背中へ手を回した。


長くはない。


けれど、学校説明会で初めて見守りハグを受けた女子中学生のときと同じように、白雪は相手が離れるまで動かなかった。


抱擁が終わると、柚葉は応援カードを受け取った。


幼稚園用に作ったカードには、みるくまが両腕を広げる絵と、『きみのそばにいるよ』という言葉が書かれている。


柚葉はカードを大切そうに通園鞄へしまった。


「またね、みるくまさん」


白いくまが大きく手を振る。


女の子は何度も振り返りながら、宮本先生と一緒に遊戯室を出ていった。


扉が閉まった直後、みるくまの身体がわずかに傾いた。


俺はすぐに白い腕をつかんだ。


「白雪?」


返事はない。


着ぐるみが、こちらへ体重を預けてくる。


「藤堂先輩、控室を開けてください」


俺が声を上げると、藤堂先輩がすぐに扉へ走った。


みるくまは倒れてはいない。

しかし、足元に力が入っていないことは明らかだった。


俺は着ぐるみの片腕を自分の肩へ回し、身体を支える。


「歩けますか?」


くまの頭が一度だけ動いた。


歩けるという意味なのか、分からないという意味なのか判断できない。


控室までの距離は短い。俺は急がず、白雪の足取りに合わせて進んだ。


扉を閉めると、すぐに頭部の留め具を外す。


くまの頭を持ち上げた瞬間、白雪が苦しそうに息を吸った。


顔が赤い。


額だけでなく、首筋まで汗に濡れている。


「ファンは動いていましたか?」


白雪は呼吸を整えながら頷いた。


「途中で、風が弱くなりました」


俺は頭部の内側を見る。


ファン自体は動いていたが、吸気口に水色のリボンの端がかかっていた。

激しく動いた拍子に布がずれ、空気の流れを塞いだらしい。


「すみません。固定が甘かったです」


「朝倉君のせいではありません」


白雪は着ぐるみの胴体から出ようとしたが、手に力が入っていなかった。


俺はファスナーを最後まで開き、彼女の腕を支える。


「ゆっくりでいいです」


白雪が胴体から抜け出し、長椅子へ座る。


俺は冷えたタオルを首元へ当て、水筒を渡した。


「気分は悪くないですか?」


「少し、息苦しかっただけです」


「それを早く伝えてください」


「柚葉さんが近づいてきていました」


「だからといって、倒れるまで続けないでください」


声が強くなった。


白雪は水筒を持ったまま、視線を下げる。


「倒れてはいません」


「俺が支えなければ倒れていました」


「最後まで対応できました」


「結果がよければ無茶をしてもいいんですか?」


白雪は答えなかった。


控室には、荒い呼吸と小型扇風機の音だけが続く。


藤堂先輩が園側へ事情を説明するため、一度部屋を出た。

次のクラスとの交流は時間を遅らせてもらうらしい。


俺は着ぐるみの頭部を長机へ置き、リボンと吸気口の状態を確認した。


構造を変えれば再発は防げる。


しかし、着る人間が不調を隠すなら、どれだけ修理しても意味がない。


「規約第十一条」


俺が言うと、白雪の肩がわずかに動いた。


「体調不良や着ぐるみの破損を隠して活動を続けてはならない。白雪が認めた条文です」


「破損ではありません」


「風が弱くなった時点で異常です」


「子どもたちの前で、突然中断することはできませんでした」


「中断できます。先生も藤堂先輩もいました」


「みるくまが途中でいなくなれば、子どもたちが――」


「白雪が倒れるほうが困ります」


思っていた以上に大きな声が出た。


白雪が顔を上げる。


教室では、誰も彼女にこんな言い方をしないのかもしれない。


驚いたような目で、俺を見ていた。


「みるくまを残したいのは分かります。でも、白雪が無理をして倒れるために協力しているわけではありません」


「朝倉君には関係ありません」


静かな言葉だった。


けれど、口にした直後、白雪自身が傷ついたような表情をした。


俺もすぐには言葉を返せなかった。


規約へ署名した。


着ぐるみを修理した。


何日も一緒に準備を続けた。


それでも、白雪にとって俺は、まだ関係のない人間なのかもしれない。


「そうですか」


俺は頭部のリボンから手を離した。


「では、修理担当として言います。今の状態で、次の活動は許可できません」


白雪の指が、水筒を強く握る。


「私なら続けられます」


「続けさせません」


「双方の合意が必要です」


「安全に関する判断は、俺が止められると最初に約束しました」


白雪は反論しようとしたが、言葉が出なかった。


俺は予備の保冷剤をタオルへ包み、彼女へ渡す。


「首に当ててください。少なくとも三十分は休みます」


「朝倉君」


「何ですか」


「怒っていますか?」


「怒っています」


正直に答えると、白雪は目を伏せた。


水筒を膝へ置き、受け取った保冷剤を首元へ当てる。


「すみません」


聞き逃しそうなほど小さな声だった。


「謝ってほしいわけではありません」


「では、どうすればいいですか」


「次から、異常があればすぐに教えてください」


白雪は少し迷った後、頷いた。


「約束できますか?」


「はい」


「着ぐるみの中で声を出せないなら、合図を決めます。胸元のリボンを二回叩く。俺が見えない位置にいるなら、その場で両手を上げて止まる。それで活動を中断します」


「分かりました」


「本当に?」


「約束します」


白雪は右手の小指を差し出そうとした。


けれど途中で動きを止め、手を膝へ戻した。


以前、指切りをしたとき、俺が昔の記憶に触れかけたことを思い出したのかもしれない。


俺は何も言わず、小指ではなく右手を差し出した。


「今回は、普通の約束で」


白雪は俺の手を見る。


少し迷いながら、自分の手を重ねた。


握手をするだけのつもりだった。


けれど白雪の手にはまだ力が戻っておらず、身体がわずかに前へ傾いた。


俺は反対の手で彼女の肩を支える。


白雪の額が、俺の胸元へ触れた。


「すみません」


彼女は離れようとしたが、足元が安定していなかった。


「無理に動かないでください」


「もう大丈夫です」


「説得力がありません」


俺は長椅子へ座り直し、白雪の身体を支えた。


彼女はしばらく抵抗していたものの、やがて諦めたように力を抜いた。


黒髪が俺の肩へ触れる。


着ぐるみの頭部ではない。


白雪玲奈自身の頭が、俺の肩へ乗っていた。


「これは、緊急事態です」


彼女が小さな声で言う。


「分かっています」


「活動に必要な接触です」


「今は活動中ではありません」


白雪は黙った。


「規約第十条に違反しますか?」


俺が尋ねると、彼女は肩へ頭を乗せたまま答えた。


「私からなので、朝倉君の違反ではありません」


「白雪の規約違反は?」


「規定されていません」


抜け道を見つけたらしい。


そのまま数分、白雪は動かなかった。


呼吸が落ち着き、身体の熱も少しずつ下がっていく。


「朝倉君」


「何ですか」


「柚葉さんは、笑っていましたか?」


最初に気にするのは、自分の体調ではなく、あの女の子のことだった。


「笑っていました。カードも大切そうにしまっていました」


「そうですか」


白雪の声が柔らかくなる。


「なら、よかったです」


「白雪は、ああいう子どもだったんですか?」


肩に乗った頭が、わずかに動いた。


「どうして、そう思うのですか」


「みるくまに助けられたと言っていたからです」


彼女はすぐには答えなかった。


「大勢の場所が苦手でした」


しばらくして、白雪は静かに話し始めた。


「知らない人に囲まれると、何を話せばいいのか分かりませんでした。大人からは、笑っていればいいと言われました」


「それで、笑うようになった?」


「そうすれば、心配をかけずに済みます」


「今も?」


白雪の身体が少し硬くなる。


「今は、必要だからです」


「誰に必要なんですか」


「周囲の人に」


「白雪本人には?」


返事はなかった。


俺の肩へ乗せられた彼女の頭が、少しだけ重くなる。


「みるくまは、笑っている顔しかありません」


白雪が言った。


「けれど、中で泣いていても、誰にも分かりません。失敗しても、怖がっても、外から見れば笑っている。だから、安心できました」


プロローグの記憶が、再び浮かぶ。


非常階段。


笑顔の白いくま。


中から聞こえていた泣き声。


「白雪は、みるくまの中で泣いたことがありますか?」


尋ねた瞬間、彼女の身体が止まった。


「第四条です」


それだけ答え、白雪は肩から離れた。


顔色は先ほどより戻っている。


けれど、その目は俺を見ていなかった。


「すみません」


今度は俺が謝った。


「聞かない約束でした」


「いつかお話しします」


白雪は両手で水筒を持ち、もう一度水を飲んだ。


会話はそこで終わった。


それでも、彼女の言葉で一つ分かったことがある。


白雪がみるくまを守りたい理由は、過去の思い出だけではない。


今も彼女自身が、みるくまを必要としている。


三十分後、白雪の体調は回復した。


俺は頭部の吸気口へリボンがかからないよう、固定用の布を縫いつけた。

念のため、次の交流時間を短縮し、途中で必ず休憩を入れる。


白雪は着ぐるみへ入る前に、俺の手元を見ていた。


「直りましたか?」


「今度は塞がりません」


「ありがとうございます」


彼女は自然に言った。


俺が顔を上げると、白雪は自分の発言に気づいたらしい。


わずかに目を見開く。


「今、普通に言えましたね」


「何がですか?」


「ありがとうございます、と」


「必要な礼儀です」


「俺が絆創膏を貼ったときも、言っていました」


「当然です」


「では、どうして今は驚いたんですか?」


白雪は着ぐるみの胴体へ入る作業を始めた。


「驚いていません」


明らかに話題を終わらせようとしている。


俺は追及せず、ファスナーを閉めた。


次の交流では、白雪は約束どおり途中で休憩の合図を出した。


胸元のリボンを二回叩く。


俺がすぐに宮本先生へ伝え、みるくまは子どもたちへ手を振ってから控室へ戻る。


ほんの数分休んだだけで、再び活動できる状態になった。


無理をするより、最初からこうすればよかったのだ。


交流会の最後には、園児全員が遊戯室へ集まった。


子どもたちは、みるくまへ歌を贈った。


歌詞はところどころ揃わず、途中で先に進んでしまう子もいた。

それでも白いくまは両手を胸元へ重ね、最後まで静かに聞いていた。


歌が終わると、代表として柚葉が前へ出た。


両手には、子どもたちが作った大きな画用紙がある。


中央には白いくまが描かれ、その周囲を色とりどりの手形が囲んでいた。


『みるくまさん そばにいてくれて ありがとう』


柚葉は先生に手伝ってもらいながら、画用紙をみるくまへ渡した。


白いくまは受け取ったまま、動かなかった。


「みるくまさん?」


柚葉が心配そうに見上げる。


みるくまは慌てたように顔を上げ、大きく頷いた。


その後、胸元へ両腕を回す。


見守りハグの確認動作だった。


柚葉は笑顔で頷く。


みるくまが女の子を優しく抱きしめた。


周囲の園児たちから、次は自分もしてほしいという声が上がる。


先生たちが笑い、藤堂先輩も拍手をしていた。


俺は少し離れた位置から、その光景を見ていた。


着ぐるみの中にいる白雪の顔は見えない。


けれど、画用紙を受け取った瞬間、白いくまの肩がわずかに震えたことには気づいていた。


交流会を終え、幼稚園を出た頃には、空が夕方の色へ変わり始めていた。


藤堂先輩は園長と話があるため残り、俺と白雪は先に駅へ向かうことになった。


着ぐるみは学校の車で運ばれるため、俺たちは手荷物だけを持って歩いている。


白雪は、園児たちから贈られた画用紙を胸元へ抱えていた。


「今日は成功でしたね」


俺が言うと、彼女は少しだけ頷いた。


「学校説明会とは、違う反応でした」


「子どもは正直ですから」


「怖がられる可能性もありました」


「柚葉は最後に笑っていました」


白雪は画用紙へ視線を落とした。


「朝倉君が、近づかないほうがいいと止めてくれたからです」


「白雪も無理に近づきませんでした」


「以前の私なら、みるくまを好きになってもらおうとして、何かしていたかもしれません」


「今は待てた」


「朝倉君が、見守りハグのルールを決めたからです」


白雪は足を止めた。


俺も数歩先で立ち止まり、振り返る。


夕方の歩道には、幼稚園から帰る親子の姿がいくつか見えた。

遠くで電車が通過する音がする。


白雪は何かを言おうとして、口を開いた。


しかし、すぐに閉じる。


「どうしました?」


「いえ」


「言いかけましたよね」


「大したことではありません」


「第四条ですか?」


「私が言わないことを、朝倉君が追及する場合に適用されます」


「便利ですね」


白雪は画用紙を抱え直し、再び歩き始めた。


駅へ向かう途中、彼女は何度かこちらを見た。


それでも、何も言わない。


改札の前まで来たところで、俺は気づいた。


「白雪」


「何でしょうか」


「さっき、俺に礼を言おうとしましたか?」


彼女の表情が固まる。


「違います」


「今日は助けてもらったから、ありがとうと言おうとした?」


「自意識過剰です」


返答が早すぎた。


「幼稚園では、普通に言っていましたよね。先生にも、子どもにも」


「礼儀として必要だからです」


「俺には必要ない?」


白雪は視線を逸らした。


「朝倉君には、すでに控室で言いました」


「ファンを直したことに対してですよね」


「一日に何度も言う必要はありません」


回数制限があるらしい。


「では、今日の分は使い切ったということですか」


「そうです」


白雪は改札へ交通系カードを当てた。


扉が開く。


彼女はそのまま中へ入ろうとしたが、途中で足を止めた。


こちらを振り返らないまま、小さく言う。


「みるくまは、感謝しています」


「白雪は?」


「みるくまが感謝していれば十分です」


「着ぐるみを脱いでいるのに?」


彼女は答えず、改札の向こうへ進んだ。


俺も後を追う。


階段を上がり、同じホームへ向かう。

白雪は普段より少し速く歩いていた。


「白雪」


呼びかけても止まらない。


「何でしょうか」


「また逃げてますよ」


「電車が来ます」


「まだ五分あります」


「乗り遅れる可能性を考慮しています」


ホームへ到着すると、白雪は人の少ない場所まで歩き、ようやく足を止めた。


画用紙を抱えたまま、線路の向こうを見つめている。


「ありがとうございます」


突然、彼女が言った。


声は小さかった。


電車の接近を知らせる放送と重なり、聞き逃してもおかしくないほどだった。


「何ですか?」


聞こえないふりをすると、白雪がこちらを見る。


「聞こえていたでしょう」


「確認です」


彼女の頬がわずかに赤くなる。


「今日、私を止めてくれたこと。着ぐるみを直したこと。柚葉さんを無理に抱きしめないよう教えてくれたこと。そのほかのことも含めて、ありがとうございます」


今度は、はっきり聞こえた。


みるくまではない。


白雪玲奈自身の言葉だった。


「どういたしまして」


俺が答えると、白雪は少しだけ目を細めた。


それは、教室で誰にでも見せる完璧な微笑みではなかった。


泣きそうになるのを隠すような、不器用な笑顔だった。


電車がホームへ入ってくる。


強い風が吹き、白雪の黒髪と、抱えている画用紙の端を揺らした。


俺は紙が飛ばされないよう、反対側を押さえる。


その拍子に、白雪の手と触れた。


彼女はすぐには離さなかった。


「朝倉君」


「何ですか」


「先ほどのお礼は、一度だけです」


「回数制限があるんですか」


「何度も言わせないでください」


「次に無茶をしたら、また止めます」


「その必要はありません」


「今日も同じことを言っていました」


白雪は反論せず、画用紙の向こうで小さく笑った。


電車の扉が開く。


乗り込む直前、彼女が俺の制服の袖を指先でつかんだ。


着ぐるみを着ているときのような、大きな白い手ではない。


白雪玲奈自身の、小さな手だった。


「混んでいるので、離れないようにするだけです」


何も聞いていないのに、彼女は先に説明した。


車内には空席もあり、人もそれほど多くなかった。


それを指摘すると手を離されそうだったため、俺は黙って電車へ乗った。


白雪は袖をつかんだまま、俺の隣に立つ。


二人の間には、園児たちから贈られたみるくまの絵があった。


『そばにいてくれて ありがとう』


その言葉を見ながら、俺は考える。


白雪は、礼を言うことが苦手なのではない。


誰に対しても、必要な言葉としてなら簡単に言える。


けれど、自分の本当の感情が込められた「ありがとう」だけは、うまく口にできない。


それはきっと、過去の誰かへ言えなかった言葉とつながっている。


彼女が青い鈴を隠している理由とも。


そして白雪が、みるくまの中でだけ俺に甘える理由とも。


電車が動き出す。


揺れに合わせ、白雪の肩が俺の腕へ触れた。


彼女は離れなかった。


俺も、何も言わなかった。

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