第三章 ~放課後、二人だけの契約~
翌朝、白雪玲奈は俺を一度も見なかった。
昨日までと同じ、と言ってしまえばそれまでだ。
白雪は窓際の席に座り、授業が始まる前から英単語帳を開いていた。
クラスメイトから声をかけられれば丁寧に答え、教師が入ってくれば静かに教科書を準備する。
その横顔は、いつもどおり完璧だった。
ただし、完璧すぎた。
俺が教室へ入ったときも、出席簿を回したときも、休み時間に前の席の相川と話していたときも、白雪の顔は不自然なほどこちらへ向かなかった。
昨日、着ぐるみの中から俺を「湊君」と呼んだことを気にしているのだろう。
聞き間違いだと言い張っていたが、間違いなく下の名前だった。
俺自身、呼ばれたことよりも、白雪が以前から俺の名前を知っていたような口ぶりが気になっていた。
クラスメイトなのだから、名前くらい知っていて当然だ。
それでも、あの呼び方は初めて口にした人間のものではなかった。
「朝倉、お前たち喧嘩した?」
昼休み、購買で買った焼きそばパンを食べていると、相川が唐突に尋ねてきた。
「誰と」
「白雪」
「どうしてそうなる」
「昨日はわざわざお前の席まで来たのに、今日は露骨に目を合わせてないから」
相川は紙パックの牛乳にストローを刺しながら、窓際へ視線を向けた。
白雪は数人の女子生徒と机を囲み、弁当を食べている。
会話には参加しているものの、自分から話題を出すことは少ないようだった。
俺が見ていることに気づいたのか、白雪の手が一瞬だけ止まる。
それでも顔は上げなかった。
「喧嘩するほど話してない」
「昨日の放課後、二人で何してたんだよ」
「修理」
「何の?」
「学校のマスコット」
「みるくま?」
意外にも相川は名前を知っていた。
「よく分かったな」
「小学生の頃、商店街の祭りで見たことがある。白いくまだろ?」
相川は両手を頭の横へ上げ、くまの耳を作るような仕草をした。
「昔は毎年いたけど、最近は見ないな。まだ残ってたんだ」
「廃止が検討されてるらしい」
「へえ」
相川の反応は薄かった。
学校の中では至るところに描かれているが、大半の生徒にとって、みるくまは背景の一部に近いのだろう。
存在していても、わざわざ気にしない。
いなくなったとしても、最初の数日だけ話題になり、やがて忘れられる。
白雪は、それを恐れているのかもしれない。
「それで白雪と一緒に修理してるのか?」
相川が尋ねる。
「白雪は生徒会の担当だ」
間違ってはいない。
「なるほどな」
相川は納得したように頷いた後、こちらを見て口元を緩めた。
「放課後、誰もいない部屋で、白雪と二人きりで裁縫か」
「言い方に問題がある」
「事実だろ?」
「着ぐるみもいる」
「三人なら健全だな」
一人増えたように数えないでほしい。
俺が焼きそばパンの残りを口へ運ぶと、相川が再び窓際を見た。
「でも、白雪がああいう仕事に関わってるのは意外だな」
「どうして?」
「かわいいものとか、興味なさそうじゃん」
教室での白雪だけを見ていれば、そう感じるのも無理はない。
彼女の持ち物は、どれも必要最低限で統一されている。
筆箱も鞄も落ち着いた色で、キャラクターの飾りは一つもついていない。
その本人が、放課後になると白いくまの着ぐるみへ入り、俺へ抱きついてくる。
事情を知らない相川に説明したところで、信じないだろう。
「人は見た目だけじゃ分からないってことだ」
俺が答えると、相川は妙な顔をした。
「昨日まで白雪と話したこともなかった奴が、急に理解者みたいなこと言い始めたぞ」
「一般論だ」
「はいはい」
相川はそれ以上追及しなかった。
昼休みの終了を知らせる予鈴が鳴る。
女子生徒たちが自分の席へ戻り始め、白雪も弁当箱を鞄へしまった。
そのとき、彼女の視線がこちらへ向く。
今度は目が合った。
白雪は周囲の様子を確認すると、机の横へ下げていた鞄から白い封筒を取り出した。
立ち上がることなく、前の席の女子生徒へ何かを頼む。
封筒は数人の手を経由し、教室の中央を横切って、相川の机へ届いた。
「朝倉にだって」
相川が封筒を受け取り、表面を確認する。
そこには整った文字で、朝倉湊君へ、と書かれていた。
「手紙?」
「業務連絡だろ」
俺は相川の手から封筒を取った。
「教室で渡せないような業務連絡?」
「お前は授業の準備をしてくれ」
「青春が始まったら教えろって言ったよな」
「始まってない」
相川を無視し、封筒を机の中へ入れる。
白雪を見ると、彼女はすでに教科書を開いていた。
放課後、広報備品室へ向かう途中で封筒を開けた。
中に入っていたのは、便箋ではなかった。
A4用紙が四枚。
一枚目の上部には、大きな文字でこう書かれている。
『みるくま存続活動に関する協力規約』
嫌な予感がした。
用紙には、活動目的、秘密保持、着ぐるみの管理方法、活動時間、連絡手段などが細かく記載されていた。
第一条、本活動は私立桜庭学園公式マスコット・みるくまの存続を目的とする。
第二条、関係者は、着ぐるみ着用者に関する情報を第三者へ漏らしてはならない。
第三条、着ぐるみの補修および改造は、着用者の了承を得た上で行う。
第四条、活動中に知り得た個人的な情報を、本人の許可なく追及してはならない。
四条だけ、目的が露骨だった。
青い鈴について聞くなという意味だろう。
さらに読み進める。
第七条、みるくまの行動を白雪玲奈本人の行動として扱ってはならない。
第八条、みるくまによる身体的接触に、恋愛的な意味があると解釈してはならない。
第九条、前条に違反する発言を繰り返した場合、白雪玲奈は朝倉湊に対して訂正を要求できる。
「そこまで書面にするのか」
思わず声が漏れた。
用紙の最後には、白雪玲奈と藤堂真帆の署名がある。
朝倉湊の欄だけが空白になっていた。
旧校舎の廊下を歩きながら残りのページを確認する。
別紙には、みるくまの設定資料がまとめられていた。
好きなものは、子どもの笑顔と温かい牛乳。
苦手なものは、ひとりぼっちと暑い場所。
特技は、頑張っている人を見つけること。
誕生日は、桜庭学園の創立記念日である十月十日。
身長は、優しさの分だけ変わる。
最後の一文だけ曖昧だった。
備品室の前へ到着し、規則どおり三回ノックする。
「朝倉です」
中から物音がした。
数秒後、扉が開く。
出迎えたのは白雪だった。
今日はまだ着ぐるみを着ていない。
黒髪を後ろで束ね、制服の上着をハンガーへ掛けている。
長机の上には、俺が昨日までに使った道具が種類ごとに整理されていた。
「時間どおりですね」
白雪は室内の時計を確認した。
「規約を渡した日は、遅れないほうがいいと思ったので」
俺が封筒を見せると、彼女は小さく頷いた。
「読んでいただけましたか?」
「廊下で読みました」
「質問があればお答えします」
白雪は長机の向かい側へ座った。
机上には、同じ規約がもう一部用意されている。
その隣には、黒いボールペンと朱肉まで置かれていた。
「署名だけですよね?」
「念のため、拇印もお願いします」
「必要ですか?」
「強制力を持たせるためです」
「高校生同士で作った契約書に、そこまでの強制力はありません」
白雪は表情を変えず、規約を俺の前へ滑らせた。
「気持ちの問題です」
「規約を作ったのは白雪ですか?」
「はい。昨夜、作成しました」
「いつまでかかったんですか」
「日付が変わる前には完成しました」
昨日、俺を部屋から追い出した後に、これを作っていたらしい。
「藤堂先輩の署名は?」
「今朝、生徒会室でいただきました」
「準備が早すぎませんか」
「必要なことを先延ばしにする理由はありません」
白雪は平然としている。
昨日、着ぐるみの中から俺を下の名前で呼び、慌てて部屋へ閉じこもった人物と同じとは思えない。
「第四条について聞きたいんですが」
俺が用紙を指差すと、白雪の肩がわずかに硬くなった。
「個人的な情報を追及してはいけない、という部分ですか?」
「鈴のことを聞かれたくないから入れましたよね」
「鈴に限った規定ではありません」
「では、何について聞かれたくないんですか?」
「その質問自体が第四条に抵触する可能性があります」
規約を盾にされた。
「第七条と第八条は?」
「誤解を避けるために必要です」
「誰の誤解ですか」
「朝倉君のです」
白雪は即答した。
「俺は何も誤解してません」
「みるくまが自分にだけ甘いと、繰り返し発言していました」
「事実ですよね」
「違います」
「他の生徒にも抱きついているんですか?」
白雪は答えなかった。
規約へ視線を落とし、用紙の位置を数ミリだけ直す。
「活動上、必要であれば行います」
「これまでは?」
「必要がありませんでした」
「なら、現時点では俺にだけ甘いということで」
「朝倉君」
白雪が俺の名前を呼ぶ。
教室で使う、丁寧だが距離のある声だった。
ただし、耳が少し赤い。
「そのような解釈を禁止するための第八条です」
「契約で俺の解釈まで縛れませんよ」
「では、どのようにすれば誤解しませんか?」
「白雪が着ぐるみを着ていないときにも同じことをすれば、区別はできます」
彼女の動きが止まった。
「同じこと、とは?」
「抱きつくとか、肩に頭を乗せるとか」
白雪は数秒、無言でこちらを見た。
そして規約を自分の側へ引き戻すと、余白に何かを書き加えた。
「何を書いたんですか?」
「第十条です」
用紙が再び差し出される。
第十条、朝倉湊は、活動に必要のない身体的接触を白雪玲奈へ要求してはならない。
「追加するほどのことですか」
「今、必要性が証明されました」
「要求してません。例を出しただけです」
「言葉の選び方に注意してください」
俺はボールペンを手に取った。
契約へ署名するためではない。
用紙の余白へ、新しい条文を書き加える。
「何をしているのですか?」
「こちらにも条件があります」
俺が書いた内容を白雪のほうへ向けた。
第十一条、白雪玲奈は、体調不良や着ぐるみの破損を隠して活動を続けてはならない。
白雪が文章を読む。
「昨日、約束したことです」
「規約へ入れる必要がありますか?」
「気持ちの問題です」
彼女が使った言葉を、そのまま返した。
白雪は反論せず、条文を読み直した。
「分かりました。追加を認めます」
「もう一つ」
第十二条、活動方針およびみるくまの演出は、白雪玲奈と朝倉湊の双方が合意した上で決定する。
「俺は修理担当のはずでした。でも見せ方も考えるなら、白雪だけで全部決めないでください」
「私が独断で決めると思っているのですか?」
「この規約を一人で作った人に言われても説得力がありません」
白雪は黙り込んだ。
用紙へ視線を落とし、何かを考えている。
「では、今後の規約変更も双方の合意が必要とします」
「お願いします」
「ほかにありますか?」
「今のところは」
俺は空欄へ名前を書いた。
拇印は断ったが、白雪は最終的に了承した。
署名済みの規約を二部に分け、一部を俺へ渡す。
「これで朝倉君は、正式な協力者です」
「修理と、活動方針の相談役です」
「学校説明会、幼稚園交流会、地域文化祭までの活動へ参加します」
「いつの間に期間が延びたんですか」
白雪は規約の最初のページを示した。
活動期間は、地域文化祭終了までとする。
見落としていた。
「重要なことは、先に説明してください」
「読んだ上で署名したのは朝倉君です」
「悪質ですね」
「適切な手続きです」
白雪は署名済みの規約を透明なファイルへしまった。
口元には、わずかな笑みが浮かんでいる。
教室で見せる礼儀としての微笑みとは違う。
自分の思いどおりになったことを喜ぶ、少し子どもっぽい表情だった。
「白雪」
「何でしょうか」
「今、笑いました?」
「笑っていません」
彼女はすぐに表情を戻した。
「みるくまは喜んでいるかもしれませんが」
「まだ着てませんよ」
白雪は聞こえなかったふりをして立ち上がった。
棚から、みるくまの頭部を取り出す。
俺が昨日調整した箇所を確認している間に、彼女は胴体部分へ足を通した。
「今日は何をしますか?」
「みるくまの特徴を考えます」
俺は設定資料を持ち上げた。
「藤堂先輩が言っていたとおり、かわいい白くまというだけでは弱いです。見た人が何をするキャラクターなのか、一度で分かる行動が必要です」
白雪は胴体部分を腰まで引き上げながら頷いた。
「名前の由来は、生徒を見守ることです」
「見守るだけだと、絵になりません」
「では、応援する動きでしょうか」
「それも他のマスコットがやっています」
白雪が両腕を袖へ通す。
背中のファスナーを閉めるため、俺は彼女の後ろへ回った。
「触ります」
「毎回言うのですね」
「規約に追加しますか?」
「必要ありません」
ファスナーを閉じ、内部の固定ベルトが正しい位置にあるか確認する。
昨日よりも動作は安定しているが、頭部の重さはまだ改善できていない。
白雪が少し屈み、俺がくまの頭をかぶせる。
留め具を固定すると、完璧美少女が白いくまへ変わった。
みるくまは両腕を上げ、その場で一回転した。
少しふらついたものの、転びそうになるほどではない。
「回転は問題なさそうですね」
みるくまが両手を叩く。
「ただ、動きが普通です」
両手が止まった。
「悪いという意味ではありません。でも、白雪は中で何を考えて動いていますか?」
みるくまは首を傾げる。
「例えば、子どもが手を振ったら振り返す。近づいてきたら頭を撫でる。写真を頼まれたら横に並ぶ。それだけでは、誰が中に入っても同じです」
白雪は着ぐるみの中で黙っていた。
「白雪にしかできないみるくまの動きが必要です」
白いくまが胸元へ手を当てた。
自分にしかできないものを考えているのだろう。
しばらくして、みるくまは俺の前へ歩いてきた。
両腕を広げる。
「またですか?」
みるくまが頷いた。
「白雪にしかできない動きが、俺へ抱きつくこと?」
首が横へ振られる。
白い腕を開いたまま、みるくまは少し腰を落とした。
相手を待っているような姿勢だ。
昨日見せた、誰かを迎え入れるための動きに似ていた。
「抱きしめること自体を、みるくまの特徴にしたいんですか?」
今度は頷いた。
「学校説明会に来る中学生へ、いきなり抱きつくわけにはいきません」
みるくまの頭が下がる。
「でも、考え方は悪くないと思います」
白いくまが勢いよく顔を上げた。
「名前の由来は、見守ること。みるくまは、頑張っている人を見つけるのが得意。それなら、頑張っている人を見守り、必要なときに抱きしめるキャラクターにできます」
みるくまは何度も頷いた。
「ただし、勝手に触るのは禁止です。相手へ必ず確認する」
俺は長机に置かれていた画用紙を一枚取り、簡単な絵を描いた。
みるくまが両腕を胸元で交差させ、次に相手へ向けて広げる。
「最初に自分を抱きしめる動きをする。その後、相手へ両腕を広げる。これで『抱きしめてもいい?』と確認します」
着ぐるみでは表情を変えられず、言葉も使わない。
だから、誰が見ても意味を理解できる動作が必要になる。
「相手が頷いたら、ゆっくり近づいて抱きしめる。嫌がったら、手を振って終わりです」
みるくまは、俺が描いた絵をのぞき込んだ。
その後、俺から数歩離れる。
両腕を自分の胸へ回し、一度、自分自身を抱きしめる。
次に、こちらへ向けて腕を広げた。
「そうです」
俺は頷く。
みるくまは動かない。
返事を待っているらしい。
「練習ですよね」
白い頭が上下する。
俺が頷くと、みるくまがゆっくり近づいてきた。
正面から身体を包まれる。
昨日までのように勢い任せではなく、相手を驚かせないよう慎重な抱き方だった。
白い腕が背中へ回り、くまの頭部が肩の横へ来る。
数秒後、みるくまは自分から離れた。
「今の時間で十分です。長すぎると相手が困ります」
白いくまが頷き、もう一度元の位置へ戻る。
「もう一回ですか?」
また両腕を胸元へ回す。
「動作はできていました」
それでも、みるくまは腕を広げたまま待っている。
「何を確認したいんですか」
くまの頭が少し傾く。
俺が頷くまで動くつもりはないようだった。
仕方なく許可を出す。
みるくまが近づき、先ほどより少し強く抱きしめた。
「白雪」
返事はない。
「練習にしては、さっきより力が入ってませんか」
白い腕の力がわずかに緩む。
「みるくま?」
くまの内側から、小さな声が聞こえた。
「二回目は、確認です」
「何の確認ですか」
「同じ動作を再現できるかどうかです」
「話さない決まりは?」
「緊急事態です」
やはり都合がいい。
みるくまが離れた後、俺は画用紙の上部へ名称を書いた。
『みるくまの見守りハグ』
白雪がくまの顔を近づけ、文字を確認する。
「分かりやすいと思います。説明会では、入場口や相談コーナーにいるだけでなく、緊張している中学生を見つけて、この動きをする」
みるくまが片手を上げた。
「質問ですか?」
頷く。
「話して大丈夫です」
白雪はくまの頭を外さず、少し声を落とした。
「誰にでも行うのでしょうか」
「相手が希望すれば」
「男子生徒にも?」
「みるくまに抱きしめてほしいと言われれば」
みるくまの動きが止まった。
「問題がありますか?」
「ありません」
声が低い。
「学校のマスコットですから、誰に対しても平等ですよね」
俺が昨日の言葉を返すと、白いくまは背中を向けた。
「白雪?」
「みるくまです」
「みるくまは何を怒ってるんですか」
「怒っていません」
「では、こちらを向いてください」
返事はない。
俺は彼女の正面へ回り込んだ。
みるくまも同じ方向へ身体を回し、再び背中を向ける。
右へ移動すれば左へ、左へ行けば右へ。
数回繰り返した後、俺は追うのをやめた。
「学校説明会でやらないなら、別の案を考えます」
みるくまがすぐに振り返る。
両腕で大きな丸を作った。
実施するつもりはあるらしい。
「男子にも?」
今度は小さな丸だった。
条件つきという意味だろう。
「相手を選ぶと、問題になります」
くまの頭が下がる。
着ぐるみ越しでも、納得していないことが伝わってくる。
「白雪が嫌なら、無理にハグを特徴にしなくてもいいんですよ」
俺が伝えると、みるくまは首を横へ振った。
両腕を自分の胸へ回し、再びこちらへ広げる。
この動きを残したいらしい。
「どうして、抱きしめることなんですか?」
白雪はしばらく答えなかった。
やがて白い手が、くまの胸元へ置かれる。
「言葉がなくても、安心できるからです」
小さな声だった。
「白雪自身が?」
「みるくまに抱きしめてもらった子どもが、です」
すぐに言い直した。
しかし最初の一言で、十分だった。
白雪は過去に、みるくまに助けられたと言っていた。
そばにいてくれた。
もしかすると、そのとき抱きしめてもらったのかもしれない。
ただ、泣いているくまを抱きしめたのは少年のほうではなかっただろうか。
記憶が曖昧で、どちらがどちらを抱きしめたのか思い出せない。
「分かりました」
俺は画用紙を長机の前へ立てかけた。
「見守りハグを、みるくまの特徴にしましょう」
白いくまが嬉しそうに両手を上げる。
「ただし、条件があります」
腕が止まった。
「誰に抱きつくときも、今の確認動作をすること。相手が頷くまで近づかない。嫌がっている様子が少しでもあれば、すぐにやめる」
みるくまが真面目に頷く。
「白雪自身が体調を崩しているときも禁止です」
もう一度、頷く。
「俺にするときも、確認してください」
白いくまが首を傾げる。
「どうして疑問に思うんですか」
今まで許可を取ったことがない自覚はあるらしい。
「俺だけ例外にすると、練習になりません」
みるくまは少し考えた後、両腕を胸元へ回した。
そのまま俺へ向けて広げる。
早速、確認動作をしてきた。
「今は練習ですか?」
頷く。
俺は首を横へ振った。
白いくまが固まった。
「断られたときの練習も必要でしょう」
みるくまは腕を広げたまま動かない。
笑顔のはずなのに、明らかに落ち込んでいる。
数秒後、腕がゆっくり下がった。
くまの頭まで俯く。
「そのときは、手を振って終わるんです」
白い手が力なく上がり、左右へ振られた。
「そうです」
俺が頷くと、みるくまは壁際へ移動した。
隅に座り込み、膝を抱える。
「そこまで落ち込む必要はありません」
反応がない。
「白雪」
くまの顔がさらに下がる。
「みるくま」
返事はない。
俺は小さく息を吐き、彼女の前へ立った。
「もう一度、お願いします」
みるくまが顔を上げる。
「見守りハグです」
白いくまはすぐに立ち上がった。
先ほどまでの落ち込みが嘘のように、胸元で両腕を交差させる。
次に、俺へ腕を広げた。
今度は頷く。
みるくまが近づき、身体を抱きしめた。
「切り替えが早いですね」
白雪は答えない。
俺の背中へ回った腕に力を込め、くまの頭を肩へ乗せる。
数秒で離れるというルールも、すでに忘れているようだった。
「白雪、長いです」
「みるくまです」
「時間を数えてください」
「今は、規約締結のお祝いです」
「それは活動に必要な接触ですか?」
返事が止まる。
第十条を自分で追加したことを思い出したのだろう。
白い腕がゆっくり離れた。
みるくまは後ろへ下がると、人差し指を一本立てた。
「一回だけ特別?」
頷く。
「昨日も一日一回みたいなことを言ってませんでしたか」
首が横へ振られる。
なかったことにするつもりらしい。
その後、学校説明会に向けた動きの練習を続けた。
入場口で手を振る。
パンフレットを持った中学生を案内する。
写真撮影の際は、人の顔が隠れないよう少し後ろへ立つ。
階段では足元が見えにくいため、手すりを使い、一段ずつゆっくり上がる。
白雪は一度説明すると、ほとんど間違えなかった。
教室で何でもできると思われている理由が分かる。
覚えるのが早く、同じ失敗を繰り返さない。
俺が指摘した部分をすぐに修正し、その上で自分なりの工夫を加える。
ただし、見守りハグだけは別だった。
練習相手が俺しかいないため、何度も確認動作を繰り返してくる。
「今ので十分です」
みるくまが首を横へ振る。
「どこが悪かったんですか?」
くまの手が、自分の肩を指す。
頭部を乗せる位置が不自然だったと言いたいらしい。
「相手によって身長が違うので、毎回同じ位置にはなりません」
それでも納得しない。
再び両腕を胸元へ回す。
「五回目です」
みるくまは動きを止めない。
「白雪が練習したいだけでは?」
白いくまが首を横へ振る。
「俺へ抱きつきたいだけ?」
今度は、動きが完全に止まった。
くまの頭部が、ゆっくりこちらを向く。
「冗談です」
俺が訂正すると、みるくまは両手で俺の肩をつかんだ。
「訂正してください」
中から白雪の声が聞こえる。
「今、しました」
「明確にお願いします」
「白雪が俺へ抱きつきたいわけではない」
肩から手が離れる。
「みるくまです」
「そこは否定しないんですか」
「みるくまは、見守りハグの練習を必要としています」
白雪はそう言い切ると、くまの頭を外した。
中から現れた顔は、暑さだけでは説明できないほど赤い。
前髪が少し額へ張りつき、呼吸も速くなっている。
「休憩です」
俺は時計を確認した。
着用開始から二十分ほど経っている。
冷房をつけていても、着ぐるみの内部は暑い。
白雪は反論せず、胴体部分から抜け出した。
長椅子へ座り、用意していた水筒から水を飲む。
俺は小型の扇風機を彼女のほうへ向けた。
「次までに、内部へ風を送れるようにしたいですね」
「可能なのですか?」
「小型ファンをつける方法はあります。ただ、音と重さが増えるので、試してから決めます」
「お任せします」
白雪は水筒を両手で持ったまま答えた。
活動方針は双方で決めると規約へ加えたばかりだが、着ぐるみの構造については俺へ任せるつもりらしい。
「白雪」
「何でしょうか」
「規約の第七条、本気ですか?」
「みるくまの行動を、私の行動として扱わないという条文ですね」
「中にいるのは白雪です」
「みるくまを着ている間は、みるくまです」
「では、白雪本人には、俺へ抱きつきたい気持ちは一切ない?」
彼女が水を飲もうとして止まった。
「ありません」
答えは早かった。
しかし、こちらを見ない。
「それなら、どうしてみるくまだとできるんですか?」
「着ぐるみの動作だからです」
「学校説明会が終わって、見守りハグの練習が必要なくなっても?」
白雪は水筒の蓋を閉めた。
長椅子の隣へ置き、膝の上で両手を重ねる。
「朝倉君は、私に抱きしめてほしいのですか?」
逆に問い返された。
「質問に質問で返さないでください」
「否定しないのですね」
白雪がこちらを見る。
先ほどまで動揺していたはずなのに、今度はわずかに勝ち誇ったような目をしている。
「俺は、理由を確認しているだけです」
「では、理由は活動に必要だからです」
「それだけ?」
「それだけです」
白雪は言い切った。
教室で見るのと同じ、隙のない表情だった。
だが、彼女の右手が、長椅子に置かれた着ぐるみの手袋へ触れている。
指先で、白い毛を何度も撫でていた。
「分かりました」
俺はこれ以上追及しなかった。
本人が認めない以上、無理に答えを求めても仕方がない。
白雪がみるくまの中でだけ距離を縮める理由は、いつか本人が話すまで待つしかない。
青い鈴のことと同じだ。
「今度は何を考えていますか?」
白雪が尋ねる。
「何も」
「顔に出ています」
「白雪ほどではありません」
「私は顔に出しません」
「着ぐるみを着ていると、分かりやすいですよ」
彼女の眉がわずかに動いた。
「表情が見えないのに?」
「動きに出ます。嬉しいと跳ねる。都合が悪いと背中を向ける。落ち込むと部屋の隅へ行く」
「みるくまの演技です」
「俺に抱きつきたいときは、両腕を広げる」
「それも演技です」
「全部演技なら、白雪本人はどこにいるんですか?」
問いかけた後、彼女の表情が変わった。
ほんのわずかだったが、目から力が抜ける。
白雪は着ぐるみの手袋から指を離した。
「難しい質問ですね」
声は静かだった。
冗談で返すことも、規約を盾にすることもしない。
彼女は床に置かれたくまの頭へ目を向けた。
笑顔を浮かべたまま、こちらを見上げている。
「学校では、皆が白雪玲奈を知っています」
彼女は言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。
「成績が良くて、失敗をせず、誰にでも公平で、感情的にならない人間です」
「それは、周りが勝手に決めた白雪ですよね」
「期待されていることに応えるのは、悪いことではありません」
「疲れませんか?」
白雪はすぐに答えなかった。
扇風機の風が、彼女の黒髪を揺らしている。
「慣れています」
疲れない、とは言わなかった。
「みるくまの中なら、失敗しても許されます。話さなくても不自然ではありません。誰かに近づいても、笑われることはありません」
「学校の白雪が近づいたら、笑われるんですか?」
「驚かれます」
「それだけです」
「噂になります」
「相川みたいな人間がいますからね」
俺が言うと、白雪は少しだけ笑った。
今度は、否定しなかった。
「だから私は、みるくまでいるほうが楽なのかもしれません」
「白雪として話している今は?」
彼女は俺を見た。
「少しだけ、慣れてきました」
それは教室では見せない、柔らかな表情だった。
白雪本人は気づいていないのかもしれない。
俺は指摘せず、作業用のノートを開いた。
「学校説明会までに、見守りハグの案内を作ります」
「案内?」
「みるくまが何をしているのか分からないと、近づけない人もいます。『頑張っているあなたを、みるくまが応援します』と書いた看板を用意しましょう」
白雪が身を乗り出す。
「見守りハグを受けた方へ、小さなカードを渡すのはどうでしょうか」
「カード?」
「応援の言葉を書いたものです。受験を控えた中学生なら、持ち帰ることもできます」
「いいと思います」
俺はノートへ書き加えた。
「絵柄は何種類か用意したいですね。一枚だけだと、複数回欲しがる人が出ません」
「集めてもらうのですか?」
「人気を出したいなら、もう一度会いたいと思ってもらう必要があります」
白雪は真剣な表情で考え始めた。
「学校説明会では三種類。幼稚園では、子ども向けに別の絵柄を作りましょう」
「制作費は?」
「生徒会の広報予算を確認します。難しければ、私が負担します」
「個人で出すのは禁止です」
白雪が顔を上げる。
「規約には書かれていません」
「今、追加します」
「双方の合意が必要です」
「では、合意してください」
「理由を説明してください」
「白雪一人が負担する活動ではないからです」
彼女は言葉を止めた。
俺は続ける。
「費用が足りないなら、できる範囲で考えます。カードも手作りできますし、印刷枚数を減らす方法もあります。白雪が全部背負う必要はありません」
「しかし、私が始めたことです」
「今は俺も正式な協力者です」
先ほど署名した規約を指差す。
白雪は透明なファイルへ目を向けた。
その後、少しだけ俯く。
「そうでしたね」
「不満そうですね」
「違います」
彼女は顔を上げた。
今度の笑顔は、教室で使うものではなかった。
「一人ではないことを、忘れていました」
胸の奥が、わずかに動いた。
ただ礼を言われるよりも、その言葉のほうが重く感じられた。
「忘れないでください」
俺が答えると、白雪は静かに頷いた。
休憩を終え、もう一度着ぐるみを装着する。
今度は見守りハグではなく、学校説明会の入場から退出までの動きを確認した。
歩く速度。
手を振る角度。
写真撮影のポーズ。
階段や段差での安全確認。
白雪は真剣に練習し、ときどき失敗した。
扉を通る際にくまの耳をぶつけ、配布用のパンフレットを手袋でうまく持てず、椅子へ座ろうとして尻尾を挟んだ。
そのたびに、みるくまは何事もなかったように姿勢を整えた。
教室の白雪なら、失敗そのものをしない。
だが、みるくまの中では違う。
失敗しても、もう一度試す。
くまの顔は笑ったままだ。
やがて日が傾き、窓から入る光が赤くなった。
「今日はここまでにしましょう」
俺が告げると、みるくまは両手を膝へつき、明らかに疲れた動きを見せた。
「疲れていたなら、早く言ってください」
首が横へ振られる。
「まだ大丈夫?」
今度は頷く。
俺は近づき、背中のファスナーを開けた。
くまの頭を外すと、白雪は大きく息を吐いた。
額には汗が浮かんでいる。
「やはり内部の換気が必要ですね」
「土曜日までに間に合いますか?」
「簡易的なものなら」
俺は頭部の内側を確認した。
劣化したクッションの端を持ち上げると、裏側に小さな縫い目が見えた。
他の部分とは糸の色が違う。
「ここ、補修しました?」
白雪が近づく。
「いいえ。以前からその状態でした」
縫い目に沿って指を動かす。
内側の布が二重になっており、小さなポケットのような空間が作られている。
入口は糸で閉じられていた。
その中から、硬いものが触れた。
「何か入っています」
白雪の表情が変わった。
「触らないでください」
普段の彼女からは想像できないほど、強い声だった。
俺はすぐに手を離した。
白雪はくまの頭を受け取り、内側を胸へ抱えるようにした。
「すみません」
彼女は少し遅れて謝った。
「大切なものですか?」
「はい」
「青い鈴?」
白雪は答えなかった。
しかし、否定もしない。
昨日、胸元から聞こえた鈴の音。
着ぐるみの内部に隠された小さなポケット。
おそらく、そこに入っている。
「第四条ですね」
俺が言うと、白雪は申し訳なさそうに視線を下げた。
「いつか話すと言いました」
「覚えています」
「今は、まだ話せません」
「無理に聞きません」
白雪はくまの頭を抱えたまま、俺を見る。
警戒するような目ではなかった。
信じていいのか確認するような、不安を含んだ視線だった。
「修理するとき、この部分は残します」
俺は内側のポケットを指した。
「中身も取り出しません。白雪が自分で移してください」
「ありがとうございます」
「ただし、作業中に音が鳴る可能性はあります」
「構いません」
「俺の鈴と似ている理由も、今は聞かない」
白雪は小さく頷いた。
「その代わり」
俺が続けると、彼女は顔を上げた。
「いつか話せるようになったら、白雪自身の言葉で教えてください」
「みるくまではなく?」
「白雪玲奈として」
彼女は何も答えなかった。
夕方の光が、くまの白い毛と、白雪の横顔を赤く染めている。
長い沈黙の後、彼女はくまの頭を長机へ置いた。
そして俺の正面に立つ。
「約束します」
声は小さかったが、教室で使うものではなかった。
着ぐるみに隠れることも、みるくまのせいにすることもない。
白雪玲奈自身の声だった。
「そのときまで、待っていてください」
「分かりました」
俺が答えると、白雪は右手の小指を差し出した。
意外な動きだった。
「何ですか?」
「約束です」
「高校生でも指切りをするんですか」
「嫌なら結構です」
白雪が手を引こうとする。
俺はその前に、小指を絡めた。
細い指が触れる。
その瞬間、頭の中に映像が浮かんだ。
夕暮れの非常階段。
白いくま。
不器用に突き出された、大きな小指。
秘密にすると約束した、遠い夏の日。
記憶は一瞬で消えた。
俺の指に、白雪の小指だけが残る。
「朝倉君?」
彼女が不思議そうにこちらを見る。
「いえ。昔も、誰かと同じことをした気がして」
白雪の指がわずかに震えた。
「覚えているのですか?」
声が変わった。
「何を?」
俺が聞き返すと、彼女は唇を閉じた。
絡めていた小指を離し、一歩後ろへ下がる。
「何でもありません」
「白雪」
「片づけをしましょう。下校時刻になります」
再び距離を作るように、彼女は長机へ向かった。
くまの頭を両手で持ち上げ、棚へ戻そうとする。
その内側から、微かな鈴の音がした。
ちりん。
俺の鞄についている鈴が、その音へ応えるように揺れた。
二つの音は、ほとんど同じだった。
白雪は振り返らない。
俺も、約束どおり問いかけなかった。
ただ、確信に近いものが生まれ始めていた。
俺と白雪は、高校で初めて出会ったわけではない。
忘れているのは、おそらく俺だけだ。
「朝倉君」
棚の前で、白雪が俺を呼んだ。
「土曜日の学校説明会では、よろしくお願いします」
「正式な協力者ですから」
「見守りハグの練習も必要です」
「今日だけで十分したと思います」
「本番前に、もう一度確認します」
「何回するつもりですか」
白雪は振り返った。
教室で見せる完璧な笑顔ではない。
悪戯を思いついた子どものような、少しだけ楽しそうな笑顔だった。
「みるくまが納得するまでです」
そう言った彼女の後ろで、棚に置かれた白いくまは、相変わらず優しく笑っていた。




