第二章 ~完璧美少女の中身~
翌朝、教室へ入った俺は、昨日の出来事が夢だったのではないかと疑った。
窓際の席では、白雪玲奈がクラスメイトと話していた。
相手は前の席に座っている女子生徒で、数学の課題について質問しているらしい。
白雪は開かれたノートを指差しながら、落ち着いた口調で解き方を説明していた。
「ここで公式をそのまま使うのではなく、一度この形へ変えれば計算しやすくなります」
「あ、本当だ。白雪さん、ありがとう」
「いいえ。私も復習になりましたから」
礼を言われた白雪は、上品に微笑んだ。
誰に見られても恥ずかしくない、完璧な笑顔だった。
昨日、くまの頭を前後逆にかぶった人物と同一人物には見えない。
俺は自分の席へ向かいながら、彼女の横顔を確認した。
白雪はこちらを見ない。
目が合わないよう、意図的に避けている様子もなかった。
そもそも俺という人間が教室に入ってきたことさえ認識していないような、自然な無関心だった。
これが演技なら相当なものだ。
「朝から白雪を見つめて、どうした?」
席へ鞄を置いたところで、前方から声をかけられた。
机の上へ頬杖をついていた男子生徒が、面白そうにこちらを見上げている。
相川颯太。
同じクラスになってから話すようになった友人で、バスケットボール部に所属している。
髪は校則に引っかからない程度に明るく、誰とでも気軽に話せる性格だった。
俺とは正反対だが、こちらの領域へ必要以上に踏み込んでこないため、付き合いやすい。
「見てない」
「白雪の後頭部にしか存在しない文字でも読んでた?」
「寝癖がないか確認してただけだ」
「白雪に寝癖なんてあるわけないだろ。朝起きた瞬間から完成してそうじゃん」
完成品として生まれてきた人間ではない。
少なくとも、昨日の白雪は汗で髪を額へ張りつかせ、着ぐるみの中で息を切らしていた。
それを口にするわけにはいかない。
俺が教科書を机へ入れていると、相川は声を潜めた。
「実際のところ、何かあった?」
「何もない」
「その答え方をする奴には、大体何かある」
「昨日、初めてまともに話しただけだ」
「何を?」
「学校の備品について」
嘘ではない。
着ぐるみも学校の備品に含まれる。
「備品?」
相川は教室の前方へ視線を向けた。
そこでは、白雪が数学のノートを閉じている。質問を終えた女子生徒は何度も頭を下げてから、自分の席へ戻っていった。
「白雪って、生徒会の備品まで管理してるのか」
「そういうわけじゃないと思う」
「何でもできる人間は大変だな」
相川は他人事のように言うと、椅子の背もたれへ身体を預けた。
何でもできる人間。
白雪玲奈に対して、周囲の生徒が抱いている印象を一言で表すなら、それだろう。
一年生の頃から学年首位を維持している。
入学式では新入生代表を務め、今年度からは生徒会の書記も担当している。
球技大会では人手が足りないクラスのバレーボールチームへ入り、経験者でもないのに活躍したらしい。
誰に対しても丁寧で、教師からの信頼も厚い。
困っている生徒がいれば助けるが、自分から助けを求めることはない。
そんな白雪が、廃止寸前の着ぐるみを守るため、一人で汗だくになりながらファスナーを直そうとしていた。
思い返すと、妙な光景だった。
「朝倉君」
不意に名前を呼ばれ、顔を上げた。
白雪が俺の机の横に立っている。
教室内の視線が、こちらへ集まった気がした。
実際には数人が見ているだけだろう。
だが白雪が男子生徒の席を訪れること自体が珍しいため、妙に注目される。
隣の相川は、分かりやすく目を見開いていた。
「昨日はありがとうございました」
白雪は周囲に聞かれても問題のない言葉を選び、軽く頭を下げた。
「先生から頼まれた作業の件です」
「ああ」
俺も余計なことは言わないようにした。
白雪は胸元で両手を重ねた。
「放課後、昨日と同じ場所へ来ていただけますか?」
「状態は確認しました。今日から修理するつもりです」
「分かりました。では、よろしくお願いします」
用件だけを伝えると、白雪は自分の席へ戻っていった。
歩き方も、姿勢も、表情も整っている。
昨日、着ぐるみ姿で俺の肩へ頭を乗せてきた人間の動きではなかった。
白雪が着席するのを待ってから、相川が俺の腕をつついた。
「何もない?」
「ない」
「放課後、同じ場所?」
「学校の備品を修理する」
「二人で?」
「結果的には」
相川は何度か頷いた。
その表情には、こちらの説明を信じた様子がまったくない。
「朝倉」
「何だ」
「青春が始まったら教えてくれ」
「始まらない」
俺が即答すると、始業を知らせるチャイムが鳴った。
教壇へ入ってきた黒岩先生が出席簿を開く。
教室内の会話が止まり、生徒たちが前を向いた。
俺も教科書を取り出したが、授業が始まる直前、窓際の白雪がこちらを見た。
一瞬だけ目が合う。
彼女は何も言わず、わずかに頭を下げた。
昨日の秘密を守る意思を確認しているのだろう。
俺も小さく頷き返した。
それだけで、白雪は前を向いた。
教室にいる彼女との距離は、昨日までと何も変わっていない。
けれど俺はすでに、彼女の中にもう一人の白雪玲奈がいることを知っていた。
正確には、もう一人ではないのかもしれない。
教室にいる白雪と、着ぐるみの中にいる白雪。
どちらが本物なのか。
あるいは、どちらも彼女の一部なのか。
その答えを考えるには、俺はまだ彼女のことを知らなすぎた。
放課後、旧校舎へ向かうと、広報備品室の扉にはすでに鍵が開いていた。
注意書きに従い、三回ノックする。
「朝倉です」
返事はない。
扉を少しだけ開けると、中から冷房の風が流れてきた。
昨日まで使われていなかったはずの古いエアコンが、低い音を立てながら動いている。
部屋の中も変わっていた。
床に積み上げられていた段ボール箱は壁際へ移動し、長机の上には道具が整然と並べられている。
裁縫箱、布地、接着剤、交換用のファスナー、消毒用のスプレー。
その中央に、みるくまが座っていた。
長椅子へ腰かけ、両足を前へ投げ出している。
俺が入室すると、みるくまは大きな右手を上げた。
「こんにちは」
声をかけても返事はない。
代わりに、白い手が左右へ振られた。
「白雪は?」
みるくまが自分の胸を指差す。
分かっている。
「教室では普通に話したのに、どうして着ぐるみを着ると無言になるんですか」
くまの両手が口元へ運ばれる。
秘密を守るため、という意味だろう。
「この部屋には俺たちしかいません」
みるくまは数秒考えるように首を傾げた後、ゆっくりくまの頭を外した。
内側から現れた白雪は、昨日とは違い、髪を後頭部で一つにまとめていた。
制服の上着も脱いでおり、白いブラウスの袖を肘まで折っている。
「着ぐるみを着た状態で話す癖をつけると、外でも声を出してしまう可能性があります」
白雪は頭部を隣へ置きながら説明した。
「そのため、みるくまの状態では、基本的に言葉を発しません」
「昨日は普通に話してました」
「あれは緊急事態でした」
「俺を抱きしめたのも?」
「それも緊急事態です」
白雪は間を空けずに答えた。
昨日と同じ説明だった。
「今日は誰も見てませんけど、最初からみるくまになっていた理由は?」
「朝倉君が時間どおりに来るか確認するためです」
「着ぐるみを着る必要はありませんよね」
白雪の視線が、机の上に置かれたくまの頭へ向く。
「動作確認も兼ねていました」
「一人で?」
「問題がありますか?」
「昨日、熱中症になりかけていました」
俺が指摘すると、白雪は視線を逸らした。
「今日は冷房をつけています」
「着ぐるみの中まで冷気は入りません」
「短時間です」
「もし倒れても、誰にも助けを呼べませんよ」
白雪は返事をしなかった。
注意されることに慣れていないのかもしれない。
教師やクラスメイトから見た彼女は、注意する側にいる人間だ。
俺は鞄を床へ置き、窓際の長机を確認した。
「準備したのは白雪ですか?」
「はい。必要と思われるものを集めました」
「冷房も?」
「黒岩先生にお願いして、電源を使えるようにしていただきました」
昨日は動いていなかったのではなく、許可なく使用できなかったらしい。
白雪は着ぐるみの胴体から抜け出すと、丁寧に形を整えた。
中には薄い体操着を着込んでいる。
制服のスカートのままでは動きにくいため、下だけ学校指定のジャージへ履き替えていた。
「何から始めますか?」
「まず、全部確認します」
俺は着ぐるみの胴体を長机へ横たえた。
白い毛は遠目にはきれいに見えるが、近くで確認すると劣化が目立つ。
生地の一部は硬くなり、縫い目も何度か補修されていた。
特に背中のファスナー周辺は傷みがひどい。
昨日、毛が絡んだことだけが原因ではない。
金具そのものが歪み、布地も引っ張られている。
「何年前に作られたものですか?」
俺が尋ねると、白雪は棚から一冊のファイルを取り出した。
「正確には分かりません。学校に残っている記録では、十二年前にはすでに使われています」
「十二年」
着ぐるみとしては相当古い。
適切に保管し、定期的に部品を交換していたとしても、内部の素材は劣化する。
まして学校の備品だ。専門業者が毎年整備していたとは考えにくい。
ファイルには、みるくまが参加した行事の記録がまとめられていた。
入学説明会。
文化祭。
地域清掃活動。
商店街のクリスマスイベント。
病院の夏祭り。
最後の文字を見た瞬間、頭の奥がわずかに痛んだ。
白い階段。
夕方の光。
青い鈴。
昨日と同じ記憶が浮かびかけ、すぐに消える。
「朝倉君?」
白雪が俺の顔をのぞき込んでいた。
「どうしましたか?」
「何でもありません」
「顔色が悪いように見えました」
「昔、病院に入院していたことがあるので、少し思い出しただけです」
答えた瞬間、白雪の表情が止まった。
ほんの一瞬だった。
すぐに彼女は、いつもの落ち着いた顔へ戻る。
「入院していたのですか?」
「小学生の頃です。足を怪我して」
「いつ頃でしょうか」
白雪の問いは、思っていたよりも早かった。
「小学六年の夏だったと思います」
「病院の名前は?」
俺は彼女を見る。
白雪は、自分が踏み込みすぎたことに気づいたらしい。
「すみません」
少しだけ視線を下げる。
「個人的なことを聞きすぎました」
「別に隠してはいません。桜庭総合病院です」
学校から電車で三駅ほど離れた場所にある病院だ。
現在も地域では大きな総合病院として知られている。
桜庭学園とは、同じ学校法人が運営しているらしい。
白雪の指が、ファイルの端を強く押さえた。
「そうですか」
彼女はそれだけ答えると、ファイルを閉じた。
明らかに反応が不自然だった。
昨日、青い鈴を見たときも同じだった。
何かを知っている。
そう考えるのが自然だが、問い詰めるほどの根拠はない。
「白雪は、この頃からみるくまを知っていたんですか?」
俺が尋ねると、彼女は閉じたファイルへ視線を落とした。
「昔、見たことがあります」
「病院で?」
白雪のまつげが、わずかに揺れた。
「地域のイベントです」
嘘ではないのだろう。
しかし、すべてを話しているようにも見えなかった。
彼女はファイルを棚へ戻すと、話題を切り替えるように着ぐるみを指差した。
「修理は可能でしょうか?」
俺は追及せず、胴体部分へ視線を戻した。
「修理だけならできます。ただし、今の状態を維持するだけでは危険です」
「危険?」
「中の骨組みと固定用のベルトが劣化しています。ファスナーだけ直しても、動いているうちに別の場所が壊れます」
着ぐるみの内側には、形を保つための骨組みと、着用者の身体へ固定するためのベルトがある。
みるくまの骨組みには軽い素材が使われていたが、接合部分が緩み、一部のクッションも潰れていた。
昨日、白雪がふらついていたのは暑さだけが原因ではない。
内部で着ぐるみが安定せず、身体に余計な負荷がかかっている。
「外側だけ残して、中身を作り直す必要があります」
俺が説明すると、白雪は不安そうに着ぐるみへ近づいた。
「見た目は変わりますか?」
「できるだけ変えません」
「できるだけ、ということは、変わる可能性があるのですね」
「今とまったく同じにはできません。毛の傷んでいる部分もありますし、耳の角度も調整する必要があります」
白雪は、少し垂れた左耳へ手を伸ばした。
毛並みを整えるように、指先で優しく撫でる。
「この形を残すことはできませんか?」
「どうしてですか?」
「みるくまだからです」
答えになっているようで、なっていない。
白雪にとっては、耳が少し垂れていることも含めてみるくまなのだろう。
新しくきれいな着ぐるみを作ればいい、という問題ではない。
「外側は、なるべく残します」
俺はもう一度伝えた。
「ただし、中身は変えます。そうしないと長く使えません」
白雪は左耳から手を離し、こちらを見た。
「中身が変わっても、同じみるくまでいられますか?」
着ぐるみについて尋ねているはずなのに、その声には別の意味が含まれている気がした。
俺は少し考えてから答えた。
「外側が同じでも、中身が壊れていたら続けられません。必要なところを直すのは、別物にすることではないと思います」
白雪は何も言わなかった。
ただ、こちらを見る目から、わずかに力が抜けた。
「朝倉君らしい考え方ですね」
「俺らしいと言われるほど、話したことはありませんけど」
「昨日と今日で、少し分かりました」
白雪はそう言うと、みるくまの手を持ち上げた。
手袋部分の内側には、何度も縫い直した跡がある。
縫い目は細かく、外からは目立たないよう工夫されていた。
ただ、専門的な技術ではない。
丁寧だが、ところどころ縫い幅が不揃いだった。
「これを直したのは白雪ですか?」
「はい」
「他の場所も?」
「できる範囲で」
白雪は右手を後ろへ隠した。
その動きが気になり、俺は彼女の手元を見る。
指先に小さな傷がいくつもあった。
針で刺した跡だろう。
「見せてください」
「何をですか?」
「手です」
「必要ありません」
「怪我をしてるでしょう」
俺が手を差し出すと、白雪は警戒するように一歩下がった。
「大した傷ではありません」
「化膿したら困ります」
「消毒しています」
「なら見せても問題ないですよね」
白雪はしばらく抵抗するように手を背中へ隠していたが、やがて諦めたように右手を差し出した。
細い指の腹に、いくつか赤い点がある。
親指の付け根には、布地を強く押さえたためにできたらしい擦り傷もあった。
「針を持つ手に力を入れすぎです」
俺は裁縫箱から消毒液と小さな絆創膏を取り出した。
「細かい作業をするときほど、肩と指の力を抜いてください」
「慣れていませんので」
「分からないなら、誰かに頼めばよかったでしょう」
消毒液を含ませた綿を傷口へ当てると、白雪の指がわずかに動いた。
痛みを我慢しているようだ。
「頼める人がいませんでした」
白雪は、俺の手元を見ながら答えた。
「黒岩先生は?」
「先生は裁縫ができません」
「家庭科部」
「正体を知られる可能性があります」
「業者に出すこともできたはずです」
「学校側は、廃止を検討しているものへ予算を使いたがりません」
冷静な説明だった。
しかし結局、白雪は誰にも頼れず、一人で直そうとしていたのだ。
完璧美少女と呼ばれる彼女なら、頼めば手伝ってくれる人間はいくらでもいるだろう。
それでも頼れない。
周囲が助けてくれないのではない。
白雪自身が、助けを求めることを避けている。
「これからは、勝手に直さないでください」
俺は小さな絆創膏を傷口へ貼った。
「悪化させる可能性があります」
「命令ですか?」
「修理担当からのお願いです」
「昨日は、状態を確認するだけだと言っていたはずですが」
「見た以上、途中で放置するのは気分が悪いので」
最後の傷へ絆創膏を貼り終え、手を離す。
白雪は自分の指先を見つめていた。
「ありがとうございます」
いつもの丁寧な言い方だった。
だが教室でクラスメイトへ向けていた言葉より、少しだけ声が柔らかい。
「どういたしまして」
俺が答えると、白雪は指先を握り込んだ。
「では、採寸をお願いします」
突然、彼女が言った。
「心の準備が早いですね」
「必要なのでしょう?」
「必要ですけど」
俺は鞄から持参したメジャーを取り出した。
着ぐるみの内部を作り直すなら、着用者の体格に合わせる必要がある。
内部の固定位置が合っていなければ、どれだけ外側を補修しても動きにくいままだ。
「まず肩幅を測ります。正面を向いてください」
白雪は俺から一歩離れ、姿勢を正した。
普段から姿勢がいいため、その点は指示する必要がない。
「力を抜いて」
「抜いています」
「肩が上がってます」
「上がっていません」
「緊張してますか?」
「していません」
言葉とは反対に、白雪の肩はさらに硬くなった。
「服を作るときは、よくある作業です」
「私は服を作ってもらった経験がありません」
「制服は?」
「採寸表へ記入して注文しました」
「なら、初めてですね」
俺が肩へメジャーを当てると、白雪の身体がわずかに揺れた。
触れているのはメジャーだけだ。
それでも彼女にとって、他人をここまで近づけること自体が珍しいのだろう。
「白雪」
「何でしょうか」
「息を止めないでください」
彼女は小さく息を吐いた。
「止めていません」
「今、吐きましたよね」
「普段から呼吸はしています」
「それなら問題ありません」
肩幅を記録し、次に腕の長さを測る。
白雪の右腕を横へ伸ばしてもらい、肩から手首までメジャーを当てた。
彼女の指先には、先ほど貼った絆創膏が見える。
「反対側も」
俺の指示に従い、白雪は身体の向きを変えた。
長い黒髪が背中で揺れる。
教室では遠くから見るだけだった白雪が、今は腕を伸ばした状態で目の前に立っている。
状況だけを切り取れば、相川が妙な想像をするのも無理はない。
「朝倉君」
「何ですか」
「手が止まっています」
「記録を確認してました」
「私を見ていたのでは?」
「腕の位置を見てました」
白雪は疑うような視線を向けてきた。
「嘘をつくのが得意ではないのですね」
「白雪ほどではありません」
「私が嘘をついたことがありますか?」
「昨日、俺を抱きしめたのは自分ではないと言いました」
「みるくまです」
「今も設定を続けるんですか」
「設定ではありません」
白雪は真剣だった。
これ以上話しても平行線だろう。
腕の長さを測り終え、今度は腰から足元までの位置を確認する。
実際の身体へ直接メジャーを当てる必要はない。
着ぐるみの内側でベルトを固定する位置が分かれば十分だ。
それでも白雪は、測定が終わるまで終始落ち着かなかった。
「終わりました」
俺が告げると、彼女は目に見えて息を吐いた。
「そんなに嫌なら、別の人に頼んでもよかったんですよ」
「他の人に頼む選択肢はありません」
白雪は乱れのないブラウスの裾を整えた。
「朝倉君だからお願いしました」
手元の記録用紙から顔を上げる。
彼女は自分の発言に気づいていないのか、平然としていた。
「俺だから?」
「裁縫ができるからです」
「他にもできる人はいます」
「秘密を知っているからです」
「黒岩先生も知っています」
「先生に身体を測られるのは困ります」
それはそうだ。
白雪は少し考えてから、さらに言葉を加えた。
「それに、朝倉君は誰にも話さないと言いました」
「昨日会ったばかりの人間を、よく信用できますね」
「信用しているわけではありません」
彼女は即答した。
「今後、信用できるかを確認します」
「試用期間ということですか」
「そのようなものです」
白雪の言い方には、どこか事務的な響きがあった。
しかし、昨日までまともに話したこともない男子生徒へ、自分の秘密と大切な着ぐるみを預けようとしている。
信用していないという言葉ほどには、拒絶されていないように思えた。
俺は採寸表を置き、着ぐるみの内部へ手を入れた。
「今日できるのは、仮の調整だけです。ベルトの位置を変えて、ファスナーが噛まないように補強します」
「学校説明会までに間に合いますか?」
「説明会は来週ですよね」
「土曜日です」
「なら、何とかします」
俺が作業を始めると、白雪は長机の反対側へ回った。
手伝おうとしているらしい。
「何をすればいいですか?」
「今は何もしなくて大丈夫です」
「見ているだけでは落ち着きません」
「なら、必要な道具を渡してください」
俺は白雪へ糸と針を指定した。
彼女は裁縫箱の中を確認し、言われたものを正確に手渡してくる。
作業の邪魔はしない。
余計な質問もせず、俺が必要とする直前に道具を準備する。
こういうところは、確かに何でもできる人間らしい。
しばらく無言で作業を続けた。
着ぐるみの内側は、外から見るよりも複雑だった。
汗を吸うインナー部分は取り外せるようになっているが、何度も洗濯されたため縮んでいる。
白雪の体格に合っていないことも、動きにくさの原因だった。
腰を固定するベルトの位置を上げ、肩へかかる重さを分散させる。
背中のファスナー周辺には、補強用の布を縫いつけた。
大がかりな修理ではないが、今日の動作確認には耐えられるはずだ。
「一度、着てみてください」
俺が告げると、白雪は待っていたように立ち上がった。
「もう大丈夫なのですか?」
「完全ではありません。どこを直すべきか確認するためです」
「分かりました」
白雪は着ぐるみの脚部分へ足を入れた。
腰まで引き上げ、両腕を袖へ通す。
背中のファスナーは自分では閉められない。
「触ります」
俺が一声かけてから、背後へ回った。
「毎回言うのですか?」
「言ったほうがいいでしょう」
「昨日は言いませんでした」
「緊急事態だったので」
白雪が黙り込んだ。
自分の言葉を返されたことが不満らしい。
俺は背中の生地を押さえ、ファスナーをゆっくり下ろした。
昨日より滑らかに動く。
最後まで閉めても、生地が引っ張られている様子はない。
「苦しくないですか?」
白雪が両腕を動かす。
「昨日より軽く感じます」
「肩にかかっていた重さを腰へ逃がしました」
「そのようなことができるのですね」
「最初から、白雪の体格に合っていなかったんです」
「以前の担当者に合わせて作られていたのでしょうか」
「おそらく」
俺は床に置かれたくまの頭を持ち上げた。
頭部だけでも相当な重さがある。
内側のクッションも劣化しているため、こちらも作り直す必要があるだろう。
「かぶせます」
白雪が少し屈み、俺は頭部を上から重ねた。
胴体と頭部を内側の留め具で固定する。
白雪が立ち上がると、見慣れたみるくまの姿になった。
少し垂れた左耳。
水色の大きなリボン。
丸く短い手足。
外見は昨日と何も変わっていない。
だが、立ち姿は安定している。
みるくまは、その場で両腕を回した。
次に足を上げ、何度か屈伸する。
昨日より動きやすいらしい。
やがてこちらへ振り返ると、両手を叩いた。
音はほとんど鳴らない。
それでも、喜んでいることは伝わった。
「まだ仮調整です」
俺が釘を刺すと、みるくまは大きく頷いた。
続いて俺の前まで歩いてくる。
両腕を広げた。
「何ですか?」
白い腕が開いたまま、左右へ小さく揺れる。
抱きつきたいらしい。
「動作確認なら、一人でできますよね」
みるくまは首を横へ振った。
両手を広げたまま、さらに一歩近づいてくる。
「昨日、緊急避難だったと言ってましたよね」
今度は、何度も頷いた。
「では、今は必要ありません」
みるくまの腕が下がる。
笑顔は変わらない。
しかし、落ち込んでいるように見えた。
着ぐるみの表情は固定されているはずなのに、中にいる白雪の感情が不思議と伝わってくる。
演技がうまいのか。
それとも俺が、彼女の動きを少しだけ理解し始めているのか。
「抱きつく動作に問題がないか、確認するだけですか?」
みるくまが勢いよく頷く。
仕方なく、俺もその場に立った。
「一度だけです」
白いくまが近づいてくる。
大きな両腕が、俺の背中へ回された。
昨日と同じように、柔らかな毛へ身体が包まれる。
ただし今日は、人から隠れる必要もなければ、誰かへ見せる演技でもない。
みるくまは俺を抱きしめたまま、身体を左右へ小さく揺らした。
頭部が俺の肩へ乗る。
「動作確認ですよね」
返事はない。
白い腕に、少しだけ力が加わった。
「苦しくはないので、構造上の問題はなさそうです」
俺が客観的な感想を伝えても、みるくまは離れない。
昨日よりも、抱きしめている時間が長い。
「白雪」
くまの内側から、小さな声がした。
「……みるくまです」
「話さない決まりでは?」
「今は緊急事態です」
「何が起きてるんですか」
「確認が必要です」
「何の?」
少し間が空いた。
「朝倉君が、途中で逃げないかどうかです」
「修理が終わるまでは来ます」
「コンテストまでです」
「そこまで手伝うとは言ってません」
白い腕がさらに強くなる。
逃がさないつもりらしい。
「苦しいです」
俺が伝えると、すぐに腕の力が弱まった。
しかし完全には離れない。
「白雪は、どうしてそこまでみるくまを残したいんですか?」
抱きしめられたまま尋ねた。
くまの内側から、白雪の呼吸が聞こえる。
「昨日は、必要だったからと言ってましたよね」
「はい」
「誰にとって必要なんですか?」
白雪は答えなかった。
遠くから、運動部のかけ声が聞こえてくる。
旧校舎の廊下には誰もいない。
冷房の低い音だけが、部屋の中に続いていた。
やがて、みるくまの頭部が俺の肩から離れる。
白いくまは一歩後ろへ下がった。
両手を胸元で重ねる。
そこに、何か大切なものを抱えているような動きだった。
「昔、助けてもらったことがあります」
くまの中から、白雪の声がした。
「みるくまに?」
彼女はゆっくり頷いた。
「何をされたんですか?」
「そばにいてくれました」
それだけだった。
詳細を話すつもりはないらしい。
けれど、白雪にとっては、それだけで十分だったのだろう。
何か特別なことをしてもらったわけではない。
ただ、そばにいてくれた。
だから今度は、自分がみるくまを残そうとしている。
「それが廃止されるのが嫌なんですね」
白雪は答えなかった。
代わりに、みるくまの両腕をもう一度広げる。
今度は俺へ抱きつくためではない。
誰かを迎え入れるような形だった。
「この動きは?」
俺が尋ねると、白雪がくまの中で答えた。
「みるくまは、誰でも受け入れます」
「昨日は、誰に対しても平等だと言ってましたね」
「学校のマスコットですから」
「でも、俺にだけ抱きついてませんか?」
両腕が止まった。
みるくまは、しばらくその場から動かなかった。
やがて右手を上げ、人差し指を立てる。
一本。
「一日に一回まで、という意味ですか?」
首が横へ振られる。
「一人だけ?」
動きが止まる。
どうやら当たったらしい。
「みるくまは、誰でも受け入れるのでは?」
白いくまは背中を向けた。
質問には答えたくないようだ。
そのとき、廊下から足音が聞こえてきた。
昨日の女子生徒たちとは違う。
迷いのない一定の歩調で、こちらへ近づいてくる。
みるくまが素早く振り返った。
俺は扉へ視線を向ける。
ノックが三回鳴った。
「藤堂です。入ってもいい?」
女性の声だった。
白雪はくまの頭部を外さなかった。
代わりに俺の横を通り、扉の鍵を開ける。
入ってきたのは、背の高い女子生徒だった。
制服の胸元には、生徒会長を示す銀色の徽章がついている。
三年生の藤堂真帆。
全校集会で何度も見たことがある。
切りそろえられた短い髪と、意志の強そうな目が印象的な人物だ。
藤堂先輩は部屋へ入ると、俺とみるくまを順番に見た。
「あなたが朝倉湊君?」
「はい」
「二年二組。実家は朝倉洋装店。中学時代に家庭科作品コンクール市長賞」
「どうして皆、俺の過去を知ってるんですか」
「黒岩先生から聞いた」
藤堂先輩は悪びれずに答えると、みるくまへ視線を移した。
「玲奈。動きやすくなった?」
みるくまが頷く。
生徒会長も、中身が白雪であることを知っているらしい。
「そう。よかった」
藤堂先輩は俺が作業していた箇所を確認した。
縫い目や補強部分を一つずつ見ている。
裁縫に詳しい様子ではないが、いい加減な仕事をしていないか確認しているのだろう。
「急に頼んで悪かったわね」
「藤堂先輩が依頼したんですか?」
「私と黒岩先生で相談したの。玲奈一人では、そろそろ限界だったから」
みるくまの顔が藤堂先輩へ向く。
「そんな顔をしても駄目」
藤堂先輩は苦笑した。
「自分で何とかすると言って、指を傷だらけにしたでしょう」
みるくまが両手を後ろへ隠した。
行動が子どもに近い。
教室でこの姿を見せても、誰も白雪玲奈だとは思わないだろう。
藤堂先輩は小さく息を吐いた後、持っていた封筒を長机へ置いた。
「二人に知らせておくことがあるわ」
封筒から取り出されたのは、理事会からの通知書だった。
上部には、学校広報活動見直しについて、と記されている。
俺が内容へ目を通す。
難しい表現が並んでいたが、要点は単純だった。
みるくまの広報効果を、九月末までに再評価する。
学校説明会、市内の幼稚園で行われる交流会、地域文化祭。
この三つの行事で十分な成果が認められなければ、着ぐるみを廃棄し、翌年度から新しい広報キャラクターへ切り替える。
「廃棄?」
俺が顔を上げると、藤堂先輩は静かに頷いた。
「保管ではないんですか?」
「場所も維持費も必要になるから。使用をやめるなら、処分する方針らしいわ」
みるくまが通知書へ近づいた。
白い手で紙を持ち上げる。
動きが、目に見えて小さくなった。
「藤堂先輩は、反対なんですよね」
「もちろん。生徒会としても、長く使ってきたものを簡単に処分することには反対しているわ。ただ、結果を出さなければ理事会を説得できない」
藤堂先輩は俺へ向き直った。
「最初の行事は、今週土曜日の学校説明会。その次が来週の日曜日、市内のひかり幼稚園で行われる交流会よ」
「修理は説明会までに間に合わせます」
「修理だけでは足りない」
藤堂先輩の言葉は厳しかった。
「これまでと同じことをして、人気が戻るとは思えない。見た目だけでなく、みるくまの見せ方も変える必要がある」
俺は隣の白いくまを見る。
みるくまは通知書を持ったまま、動かない。
「中身を変えろということですか?」
「玲奈を交代させるという意味ではないわ」
藤堂先輩は、俺が先ほど白雪へ伝えたことと同じように、着ぐるみの胸へ手を置いた。
「みるくまが何をするキャラクターなのか、誰にも伝わっていないの。かわいいくま。それだけでは、他のマスコットに埋もれてしまう」
学校の公式説明では、「生徒を見守るくま」とされている。
しかし、その設定を知っている生徒は少ない。
俺も昨日まで名前の由来すら知らなかった。
「分かりやすい特徴が必要ということですか」
「そうね。子どもが一度見ただけで覚えられるようなものが」
藤堂先輩は腕時計を確認した。
「私は会議があるから、今日はこれで戻るわ。玲奈、無理はしないこと。朝倉君も、危険だと思ったら止めて」
「分かりました」
俺が答える一方で、みるくまは動かなかった。
藤堂先輩は扉へ向かったが、途中で足を止めた。
「それから朝倉君」
「はい」
「玲奈は、助けを求めるのが下手なの」
みるくまが勢いよく顔を上げた。
「本人は否定するでしょうけど」
「藤堂先輩」
着ぐるみの中から、白雪の声が漏れた。
藤堂先輩は振り返らない。
「だから、できれば途中で放り出さないであげて」
それだけ言い残し、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
廊下を離れていく足音を聞きながら、俺はみるくまを見た。
白雪は通知書を長机へ戻した。
「今の話は忘れてください」
「どの部分ですか?」
「私が助けを求めるのが下手だという部分です」
「事実では?」
みるくまが、ゆっくりこちらを向く。
笑顔のくまが近づいてきた。
「何ですか」
白い両手が、俺の肩をつかんだ。
「訂正してください」
「着ぐるみ姿で圧をかけても、怖くありませんよ」
「朝倉君」
白雪の声が低くなる。
「分かりました。助けを求めるのが下手ではない」
肩から手が離れる。
「最初から一人で全部やろうとして、誰にも頼れず、着ぐるみの中で倒れかけただけです」
再び両肩をつかまれた。
「言い方が悪化しています」
「事実を並べました」
みるくまは俺の身体を軽く揺らした。
着ぐるみの力では大した威力はない。
むしろ、大きなくまに遊ばれているような状態だった。
「今度こそ忘れてください」
「忘れません」
「なぜですか」
「忘れたら、白雪がまた一人で何とかしようとするからです」
みるくまの動きが止まった。
俺は肩に置かれた白い手を見た。
「着ぐるみを残したいなら、修理だけでは足りないんでしょう。学校説明会と幼稚園の交流会で、何をするか考える必要があります」
白雪は黙っている。
「コンテストまで手伝うとは言ってません。でも少なくとも、直した着ぐるみがすぐ廃棄されるのは嫌です」
みるくまの手が、肩からゆっくり下ろされた。
「それは、協力していただけるという意味ですか?」
「学校説明会までは」
「文化祭までです」
「話を広げないでください」
「幼稚園の交流会もあります」
「まず説明会です」
「最後まで責任を持ってください」
「どうして、白雪が強気なんですか」
みるくまが両腕を組んだ。
「途中で投げ出さないと言ったからです」
「言ってません」
「藤堂先輩には、止めると答えませんでした」
「言葉の隙を探さないでください」
白いくまは、しばらく俺を見つめていた。
表情は笑顔のまま変わらない。
けれど白雪が、何かを期待していることだけは分かった。
学校説明会まで一週間。
その後には幼稚園の交流会。
さらに九月の地域文化祭。
長く関われば関わるほど、俺の高校生活の方針からは遠ざかっていく。
目立たない。
争わない。
頼まれ事は、断れるうちに断る。
すでに最後の方針は崩れていた。
「条件があります」
俺が言うと、みるくまが姿勢を正した。
「何でしょうか」
「活動中に危険を感じたら、俺の判断で止めます」
みるくまが頷く。
「着ぐるみを勝手に修理しない」
もう一度、頷く。
「暑いときは我慢せずに脱ぐ」
動きが止まった。
「そこが一番大切です」
みるくまは渋々頷いた。
「それから、俺に隠し事をしない」
白いくまの動きが完全に止まる。
「無理です」
中から、白雪の声が聞こえた。
「即答ですね」
「誰にでも、話したくないことはあります」
「みるくまを守る理由についても?」
白雪は答えなかった。
「全部話せとは言いません。ただ、活動に関係することは教えてください。知らないことが原因で失敗するのは避けたいので」
しばらくして、みるくまが小さく頷いた。
「できる範囲で、お話しします」
「なら、それでいいです」
白いくまは、胸元で両手を合わせた。
そのまま何度か嬉しそうに跳ねる。
先ほどまでの沈んだ動きが嘘のようだった。
「これで正式に協力者ですね」
「説明会までです」
「では、延長については後日相談します」
最初から延長する前提らしい。
みるくまは長机へ近づくと、置かれていたファイルの下から小さな封筒を取り出した。
白い手で、俺へ差し出す。
「これは?」
「部屋の合鍵です」
封筒の中には、昨日黒岩先生から渡されたものと同じ鍵が入っていた。
青いくまの形をした、小さなキーカバーがついている。
「準備がいいですね」
「朝倉君が協力する可能性を考えて、藤堂先輩に用意していただきました」
「断る可能性は?」
「考えていませんでした」
堂々とした回答だった。
鍵を受け取ると、みるくまは満足したように頷いた。
その拍子に、胸元から小さな音がした。
ちりん。
聞き覚えのある鈴の音だった。
俺はみるくまの胸へ視線を向ける。
「今、何か鳴りませんでしたか?」
白いくまが一歩下がった。
「鈴ですよね」
俺が近づくと、みるくまは両手で胸を隠した。
着ぐるみの外側には、鈴らしいものはついていない。
内部のどこかに入っているのだろう。
「昨日、俺の鞄の鈴を見て驚いてましたよね」
みるくまは答えない。
「同じものを持ってるんですか?」
俺が手を伸ばすと、白いくまは素早く身体を反転させた。
背中を向け、胸元を守るように丸くなる。
「活動に関係することは教えると言ったばかりですよね」
「これは関係ありません」
着ぐるみの中から、くぐもった声がした。
「では、白雪個人のもの?」
「みるくまのものです」
「都合が悪いときだけ、みるくまを使ってませんか」
返事はない。
白い背中は、何かを隠すように丸まったままだった。
これ以上追及しても答えないだろう。
俺が作業台へ戻ろうとすると、背後から腕をつかまれた。
みるくまが、俺の制服の袖を握っている。
「何ですか?」
白いくまは顔を伏せたまま、なかなか動かなかった。
「鈴のことは、まだ聞かないでください」
白雪の声が、くまの中から聞こえる。
先ほどまでの強気な口調ではない。
何かを怖がっているような、小さな声だった。
「まだ?」
「いつか、お話しします」
俺は彼女の手元を見る。
大きな白い手が、制服の袖を離さない。
「分かりました」
そう答えると、指の力が少し緩んだ。
「ただし、約束してください」
「何をですか?」
「一人で無茶をしないことです」
みるくまが顔を上げる。
「鈴のことと関係ありますか?」
「ありません」
「では、どうして」
「教室の白雪は、俺が言わなくても何でもできると思います」
俺は、みるくまの内側にいる彼女へ向けて言った。
「でも、中身まで何でもできるわけじゃないでしょう」
白いくまは動かなかった。
やがて俺の袖をつかんでいた手が離れる。
代わりに、両腕がゆっくり広がった。
「また抱きつくんですか?」
みるくまが一歩近づく。
「一日一回では?」
くまの頭が横へ振られた。
「さっきのは動作確認です」
「では、これは?」
白い腕が俺の身体を包む。
先ほどよりも優しい抱き方だった。
頭部が肩へ乗る。
「お礼です」
白雪の声が、耳元に近い位置から聞こえた。
「お礼なら、言葉だけで十分です」
「みるくまは、言葉を使いません」
「今、話してますけど」
「緊急事態です」
「今日は緊急事態が多いですね」
白雪は答えず、俺を抱きしめたまま離れなかった。
教室では、必要以上に誰かへ近づこうとしない。
廊下ですれ違えば、礼儀正しく頭を下げるだけ。
そんな白雪が、みるくまの中では簡単に距離をなくしてしまう。
着ぐるみがあるから、本当の自分を出せる。
昨日は、そう考えた。
しかし、それだけでは説明できないことが増えている。
俺の鞄についている青い鈴。
白雪が隠している、同じ音のする何か。
小学六年生の夏。
桜庭総合病院。
そして、昔みるくまに助けられたという彼女の記憶。
それらが、どこかでつながっている。
ただ、形になる直前で、大切な部分だけが見えなかった。
「白雪」
俺が呼ぶと、白い腕が少し緩んだ。
「何でしょうか」
「みるくまを脱いでいるときも、これくらい普通に話せばいいのに」
くまの中から返事はない。
「教室では、俺が存在してないみたいでした」
「周囲に秘密を知られないためです」
「それにしても、徹底してました」
「朝倉君は、寂しかったのですか?」
「そういう意味ではありません」
みるくまの頭が肩から離れた。
黒い丸い目が、すぐ近くから俺を見ている。
「では、教室でもお話しします」
「無理に変える必要はないです」
「どちらですか?」
「急に話しかけられると、相川が面倒なので」
「朝、隣にいた方ですね」
「見てたんですか」
「偶然、視界に入っただけです」
どこかで聞いたことがあるような言い訳だった。
みるくまは俺から離れると、床に置かれていたくまの頭を――すでにかぶっているため、正確には何も拾わず、意味もなく両手を動かした。
照れたときの癖なのかもしれない。
「明日も、同じ時間でよろしいですか?」
「来ます」
俺は作業道具を片づけながら答えた。
「ファスナーの部品を買ってきます。頭部のクッションも交換するので、しばらく時間がかかります」
「分かりました」
「今日は、もう脱いでください。長時間着る必要はありません」
みるくまが頷く。
しかし白雪は、その場ですぐには動かなかった。
扉へ向かう俺の背中を見つめている。
「朝倉君」
呼び止められ、振り返る。
白いくまが両手を背中へ回し、少しだけ身体を前へ傾けていた。
「これから、よろしくお願いします」
今度は、白雪玲奈としての声だった。
「こちらこそ」
俺は答え、部屋の扉を開けた。
廊下へ出ようとしたとき、背後から小さな声が聞こえた。
「明日も来てね、湊君」
足が止まる。
学校で俺を下の名前で呼ぶ人間は、ほとんどいない。
家族と、幼い頃からの知人くらいだ。
振り返ると、みるくまは両手で口元を押さえていた。
「今、湊君って言いましたか?」
白いくまは激しく首を横へ振った。
「聞こえましたけど」
さらに強く首を振る。
「朝倉君、と言いました」
着ぐるみの中から、明らかに動揺した声が返ってくる。
「でも――」
「聞き間違いです」
白雪は俺の背中を押し、部屋の外へ追い出した。
そのまま扉が閉められる。
内側から鍵のかかる音がした。
「白雪?」
返事はない。
「みるくま?」
それでも返事はなかった。
扉の向こうから聞こえてきたのは、青い鈴の音だけだった。
ちりん。
一度だけ。
まるで、遠い昔に交わした約束を思い出させるように。




