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第一章 ~着ぐるみの頭が落ちた日~

俺の高校生活には、三つの方針がある。


目立たない。


争わない。


頼まれ事は、断れるうちに断る。


最後の一つが最も重要だった。


頼まれ事というものは、引き受ければ引き受けるほど増えていく。

一度「あいつは頼めばやってくれる」と認識されれば終わりだ。


手伝いは役割になり、役割は責任になり、責任はいつの間にか当然の義務へ変わる。


だから俺は、高校へ入学してから一年と三か月、なるべく他人の仕事に首を突っ込まないよう生きてきた。


その努力が無駄になったのは、七月最初の月曜日だった。


「朝倉。ちょっと残ってくれ」


帰りのホームルームが終わった直後、担任の黒岩先生に呼び止められた。


教室では、生徒たちが次々と席を立っている。

部活動へ向かう者、友人と遊びに行く者、補習へ連行される者。

それぞれが自分の予定に従って動き始めていた。


俺もその流れに紛れて帰るつもりだった。


「急いでいるか?」


黒岩先生が出席簿を小脇に抱えたまま尋ねる。


五十代半ば。担当科目は現代文。

生活指導も兼任しており、黒縁眼鏡の奥には、生徒の嘘を見抜くことに慣れた目がある。


ここで急いでいると答えれば、理由を聞かれるだろう。


俺は帰宅後、店番を手伝う予定だったが、開始時間は決まっていない。

嘘をついてまで断るほどの材料はなかった。


「内容によります」


「安心しろ。危険な仕事じゃない」


危険ではないという説明は、安全を保証するものではない。


俺が警戒していると、黒岩先生は教壇の上から一枚の紙を持ち上げた。


そこには、白いくまのイラストが印刷されていた。


丸い顔。短い手足。水色のリボン。左耳だけが少し垂れている。


私立桜庭学園の公式マスコット、みるくまだ。


入学案内の冊子、学校行事のポスター、購買部のパン、学園祭限定グッズ。

校内の至るところに描かれている。


名前の由来は、「見る」と「見守る」を掛けたものらしい。


ただし、大半の生徒はそんな由来を知らない。

「校長が牛乳好きだから」という噂のほうが有名だった。


「みるくまの補修を頼みたい」


嫌な予感が当たった。


「業者に出してください」


「予算がない」


「家庭科部は?」


「大会前だ。衣装制作で忙しい」


「演劇部」


「廃部になった」


「美術部」


「着ぐるみの補修は専門外だそうだ」


黒岩先生は、あらかじめ用意していたらしい回答を淡々と並べた。


俺は最後の抵抗として、自分の胸を指した。


「俺も専門家ではありません」


「実家は洋裁店だろう」


「親が洋裁店なだけです」


「中学時代、家庭科作品コンクールで市長賞を取った」


「どうして知ってるんですか」


「内申書に書いてあった」


個人情報の使い方が乱暴すぎる。


俺が黙り込むと、黒岩先生は勝利を確信したように紙を差し出してきた。


そこには、補修が必要な箇所が箇条書きで記されていた。


左耳の縫い目。


背面ファスナー。


右手内側のほつれ。


靴底の剥がれ。


思っていたより多い。


「文化祭は九月ですよね」


「来週、学校説明会がある。みるくまにも出てもらう予定だ」


「中に入る人にも、しばらく休んでもらったほうがいいんじゃないですか」


黒岩先生の表情が、ほんの少しだけ変わった。


そこまで明確な変化ではない。けれど、返答までにわずかな間があった。


「中の人などいない」


「そういう設定は求めてません」


「とにかく、放課後に状態を確認してくれ。無理なら無理で構わない」


教師の言う「無理なら無理で構わない」は、九割ほどの確率で無理では困るという意味だ。


紙の下には、着ぐるみが保管されている場所の鍵が貼りつけられていた。


受け取った時点で負けだ。


そう理解しながらも、俺は鍵を剥がした。


「確認するだけです」


「助かる」


黒岩先生は満足そうに頷く。


教室に残っていた生徒は、いつの間にか二人だけになっていた。


一人は俺。


もう一人は、窓際の席で鞄に教科書をしまっている女子生徒だった。


白雪玲奈。


同じクラスになって三か月が過ぎているが、個人的な会話をした記憶はほとんどない。


彼女は学年一位を何度も取っている。入学式では新入生代表、今年の始業式では在校生代表を務めた。

運動部には所属していないが、体育の成績も優秀らしい。


何より目立つのは、その容姿だった。


肩より下まで伸びた黒髪。白い肌。長いまつげに縁取られた、涼しげな目。

制服は校則どおりに着ているだけなのに、学校案内のモデルのように見える。


誰に対しても礼儀正しい。


ただし、親しい相手はほとんどいない。


愛想が悪いわけではなく、冷たい言葉を使うわけでもない。

相手を傷つけない絶妙な距離を保ったまま、誰も自分の内側へ入れない。


男子生徒たちは、彼女のそんな態度まで含めて「高嶺の花」と呼んでいた。


白雪は鞄を持ち上げると、教壇の前を通った。


「黒岩先生。先ほどお願いされた資料は、生徒会室に届けておきました」


「ありがとう、白雪。悪かったな」


「いいえ。それでは失礼します」


一度頭を下げ、白雪は教室を出ていく。


その際、彼女の視線が俺の手元へ向けられた。


正確には、俺が持っていた着ぐるみ倉庫の鍵を見ていたように思う。


ほんの一瞬だった。


表情も変わっていない。


しかし白雪は、教室を出る直前、わずかに歩調を速めた。


「白雪も実行委員か何かですか」


俺が尋ねると、黒岩先生は出席簿を閉じながら首を振った。


「いや。生徒会の仕事だろう」


「そうですか」


気にするほどのことではない。


そのときは、そう思った。


着ぐるみの保管場所は、旧校舎一階の用具室だった。


現在の校舎が建てられたのは十年ほど前だが、旧校舎の一部は部室棟として残されている。


文化部の活動時間にもかかわらず、廊下は静かだった。

ほとんどの部が新校舎側に移っているため、この辺りを利用する生徒は少ない。


指定された用具室は、廊下の突き当たりにあった。


古い木製の扉に、手書きの札が貼られている。


『桜庭学園広報備品室』


その下に、丸い文字で注意書きが加えられていた。


『みるくまのお部屋です。ノックしてね!』


中に誰もいないのなら、ノックをする必要はない。


そう考えて扉へ鍵を差し込んだ。


回らない。


力を加えてみても、鍵は途中で引っかかった。


古い扉なので、立てつけが悪いのかもしれない。

取っ手を押しながら、もう一度鍵を回す。


今度は動いた。


解錠の音がする。


「失礼します」


一応、声をかけてから扉を開けた。


薄暗い室内には、段ボール箱や立て看板、折り畳まれた長机が並んでいた。


窓は一つだけ。西日がカーテンの隙間から差し込み、空気中の埃を照らしている。


着ぐるみは、すぐに見つかった。


部屋の中央に、白いくまが立っていた。


写真や行事で見るのと同じ、水色のリボンを巻いた学校公式マスコット。


ただし、展示用の人形ではない。


胸が上下していた。


中に誰かがいる。


みるくまは、こちらへ背中を向けたまま動かない。


背面にあるファスナーへ両手を回し、どうにか下ろそうとしているようだった。


「あの」


声をかけると、白い身体が大きく跳ねた。


みるくまが勢いよく振り向く。


その足元には、修理道具らしい裁縫箱が置かれていた。


俺は扉の鍵と、手に持っている補修箇所の一覧を見比べた。


どうやら、今日ここへ来ることが中の人に伝わっていなかったらしい。


「黒岩先生から、着ぐるみの状態を確認するように言われて来ました」


みるくまは黙っている。


「驚かせてすみません。すぐに出ます」


俺が後ろへ下がると、みるくまは慌てた様子で両手を振った。


出ていかなくてもいいらしい。


続いて背中を向け、ファスナーを指差した。


「開かないんですか?」


みるくまが何度も頷く。


声を出さないのは、正体を知られたくないからだろう。


中の人が誰であろうと、俺には関係ない。


学校職員か、外部の業者か、生徒かもしれない。

みるくまが男子生徒に人気であることを考えると、屈強な体育教師が入っている可能性も十分にある。


むしろ、そのほうが夢を壊さない。


俺はみるくまの背後に回った。


ファスナーには白い毛が絡んでいた。

無理に引っ張ったせいで、金具が途中から斜めになっている。


「少し触ります」


返事の代わりに、みるくまが親指を立てた。


ファスナー周辺の生地を押さえ、噛み込んだ毛を一本ずつ外していく。


中の人は暑いのだろう。着ぐるみの内側から、浅い呼吸が聞こえていた。


「気分は悪くないですか」


みるくまが片手を上げた。


大丈夫、という意味だろう。


しかし、その直後に身体がふらついた。


俺は咄嗟に背中を支えた。


思っていたよりも軽い。


体育教師ではなさそうだった。


「座ったほうがいいです」


みるくまを長机の脇へ移動させる。


窓を開けると、夕方の風がカーテンを揺らした。


ファスナーは、下から三分の一ほどの位置で完全に止まっていた。


俺は裁縫箱から糸切り鋏を借り、絡んだ毛を傷つけないように少しずつ切った。


数分かけて金具を元の位置へ戻す。


「開きます」


ファスナーを上まで引き上げた。


着ぐるみの場合、一般的な服とは向きが逆になっている。

固定されていた背中が緩み、中の人が小さく息を吐いた。


これで俺の仕事は終わった。


そう思った瞬間だった。


みるくまが立ち上がり、両手でくまの頭を持ち上げた。


大きな頭部が外れる。


最初に現れたのは、汗で額へ張りついた黒髪だった。


次に、白い額と、驚くほど整った横顔。


着ぐるみの中にいた人物が、苦しそうに息を吸う。


俺は何も言えなかった。


彼女もまた、俺の存在を忘れていたらしい。


涼しい空気を求めるように顔を上げ、それから目の前にいる俺を見た。


白雪玲奈と目が合った。


沈黙が落ちた。


開いた窓から、運動部のかけ声が遠く聞こえる。


白雪の頬には、暑さのためか赤みが差していた。

普段は一糸も乱れない黒髪が、首筋や頬に張りついている。


白い着ぐるみの胴体から、学校一の美少女の顔だけが出ていた。


あまりにも現実感のない光景だった。


俺が状況を理解するよりも先に、白雪はくまの頭をかぶり直した。


慌てたせいで、前後が逆になっている。


笑顔のくまが、後頭部を俺へ向けていた。


「白雪」


名前を呼ぶと、着ぐるみの動きが止まった。


両手で頭部を持ち上げ、白雪がもう一度顔を出す。


今度は先ほどまでの狼狽が消えていた。


呼吸は乱れている。それでも表情だけは、教室で見る完璧な白雪玲奈へ戻っている。


「朝倉君」


静かな声だった。


「はい」


「今、何を見ましたか?」


「白雪が、みるくまの中に入っていました」


「そうですか」


白雪は目を閉じた。


俺の返答が不正解だったらしい。


「もう一度聞きます」


彼女は目を開き、先ほどよりもゆっくりと言葉を区切った。


「今、何を見ましたか?」


意図を理解した。


「何も見てません」


「本当ですか?」


「誰もいない用具室で、無人のみるくまのファスナーを直しました」


「無人の着ぐるみのファスナーを、どうやって直したのですか?」


「心霊現象です」


「もっと自然な説明を考えてください」


白雪は着ぐるみの頭を長机へ置いた。


厳密には置こうとしたものの、机の端に当たり、くまの頭が床へ転がった。


笑顔のみるくまが、俺たちを見上げる。


白雪はしばらく動かなかった。


やがて何事もなかったようにくまの頭を拾い上げ、机の中央へ置き直した。


その耳が、わずかに赤くなっている。


「誰かに話すつもりはありません」


俺は先に伝えた。


白雪がこちらを見る。


「理由を聞いても?」


「話しても得をしないので」


「学校一の秘密を知ったのですよ。面白がる人は多いと思います」


「俺は面白がらない人です」


「自分で言いますか?」


「他人から言われたことはありません」


白雪の口元が、ほんのわずかに動いた。


笑いかけたようにも見えたが、すぐに普段の表情へ戻る。


彼女は着ぐるみの胴体に入ったまま、窓際の椅子へ腰を下ろした。


「このことを知っている生徒は、ほとんどいません」


「先生は知ってますよね」


「黒岩先生と、生徒会長だけです」


「どうして白雪が入ってるんですか?」


俺の問いに、彼女はすぐ答えなかった。


長机の上に置かれたくまの頭へ視線を向ける。


「必要だったからです」


「中に入る人が?」


「みるくまが、です」


同じことのようで、少し意味が違う。


白雪は膝の上で、着ぐるみの大きな手を重ねた。


「この学校では今、みるくまの廃止が検討されています」


初めて聞く話だった。


校内のどこを見ても、みるくまの絵がある。

入学説明会でも文化祭でも必ず登場する。学校の顔と言ってもいい存在だ。


「人気がないんですか?」


「学外では、ほとんど知られていません。着ぐるみの維持費もかかります。今の理事会は、新しい広報キャラクターへ変更したいそうです」


白雪の口調は冷静だった。


けれど、その指がくまの手袋越しに強く握られている。


「私は、みるくまをなくしたくありません」


彼女はくまの頭を見つめたまま言った。


学校で誰かと話すときの、隙のない声ではなかった。


ほんの少しだけ幼く、不安を含んだ声だった。


理由を尋ねようとしたとき、廊下から複数人の足音が聞こえてきた。


白雪が顔を上げる。


「誰か来ます」


彼女はくまの頭を抱え、急いでかぶろうとした。


しかし焦りのため、うまく位置を合わせられない。


扉の向こうから、女子生徒たちの声が近づいていた。


「広報備品室って、この辺りじゃない?」


「学校説明会の看板、ここにあるって先生が言ってたよ」


鍵をかける時間はない。


白雪は頭部を装着したものの、背中のファスナーが開いたままだ。


この状態を見られれば、中に誰かがいることは一目で分かる。


「こっちに」


俺は白雪の腕を引き、部屋の奥へ移動した。


長机と積み上げられた段ボール箱の隙間に、どうにか一人分の空間がある。


白雪をそこへ押し込む。


自分も身を隠そうとしたが、場所が足りない。


着ぐるみの身体が大きすぎる。


「朝倉君も」


くまの頭の内側から、くぐもった声がする。


「無理です」


「見つかります」


「白雪だけ隠れれば――」


言い終える前に、大きな白い腕が俺の背中へ回された。


着ぐるみの中へ引き寄せられる。


俺の顔が、みるくまの胸元へ埋まった。


柔らかな毛に視界を塞がれ、身体の両側をくまの腕で抱え込まれる。


白雪の体温が、着ぐるみ越しに伝わってきた。


「静かにしてください」


頭上から、彼女の小さな声が落ちてくる。


「この隠れ方は無理がありませんか」


「みるくまが荷物を抱えているように見えます」


「荷物に制服は着せません」


用具室の扉が開いた。


女子生徒が二人入ってくる。


俺からは、みるくまの白い毛しか見えない。


ただ、すぐ近くにいる白雪の呼吸だけは聞こえた。


先ほどよりも速い。


彼女の腕に、さらに力が入る。


「みるくま、ここにいたんだ」


女子生徒の一人が言った。


「何か抱えてない?」


俺の身体が強張る。


白雪も動かなかった。


数秒の沈黙の後、もう一人の女子生徒が笑った。


「新しいポーズの練習じゃない? みるくまって、たまに変なことしてるし」


「かわいい。写真撮ろうかな」


まずい。


その瞬間、白雪は俺を抱えたまま、ゆっくり左右へ揺れ始めた。


子どもをあやすような動きだった。


さらに、俺の頭を大きな手で何度も撫でる。


外から見れば、みるくまが何かを大切に抱きしめているように見えるのだろう。


女子生徒たちから、小さな歓声が上がった。


「かわいい!」


「何抱いてるんだろう。大きなぬいぐるみ?」


白雪は一言も発さず、愛想よく片手を振った。


女子生徒たちは目的の看板を見つけると、みるくまへ手を振り返して部屋を出ていった。


扉が閉まる。


足音が十分に遠ざかっても、白雪は俺を離さなかった。


大きな手が、もう一度頭を撫でる。


先ほどは演技だったはずだ。


しかし今は、誰も見ていない。


「白雪」


声をかけると、彼女の動きが止まった。


白い腕が、ゆっくりと離れていく。


俺が身体を起こすと、みるくまは何事もなかったように背筋を伸ばしていた。


「助かりました」


くまの頭の中から、白雪の声が聞こえる。


「どういたしまして」


「先ほどの行動に、深い意味はありません」


「どの行動ですか」


「抱きしめたことです」


自分から言った。


「隠れるために必要だっただけです」


「頭を撫でたのも?」


「演技です」


「二人が出ていった後も撫でてましたけど」


みるくまの顔は、変わらず笑っている。


そのまま数秒、沈黙が続いた。


やがて白雪は、右手の人差し指を俺へ向けた。


「忘れてください」


「便利な言葉ですね」


「朝倉君は、細かいことを気にしすぎです」


「今の状況では、白雪のほうが気にするべきだと思います」


みるくまが一歩近づいてくる。


俺は反射的に一歩下がった。


白雪はさらに近づき、くまの顔を俺の目の前へ寄せた。


笑顔のまま、圧をかけてくる。


「この姿のとき、私は白雪玲奈ではありません」


「では、誰ですか」


「みるくまです」


「中身は白雪ですよね」


「中の人はいません」


黒岩先生と同じことを言い始めた。


「したがって、先ほど朝倉君を抱きしめたのは、私ではなくみるくまです」


「分かりました」


俺が素直に答えると、白雪は満足そうに頷いた。


「理解してもらえて何よりです」


「みるくまは、俺のことが好きなんですね」


白いくまが固まった。


「抱きしめて、頭まで撫でてくれましたから」


「違います」


即答だった。


今度は着ぐるみの中からでも、はっきり聞き取れた。


「今のは緊急避難です。みるくまは、誰に対しても平等です」


「そうですか」


「そうです」


みるくまが腕を組む。


着ぐるみ姿では、どれだけ厳しい態度を取っても愛嬌があった。


俺が少し笑うと、白雪は不満そうにくまの頬をこちらへ押しつけてきた。


「笑わないでください」


「笑ってません」


「声が笑っています」


「みるくまは、学校のマスコットとしてもう少し寛容になるべきでは?」


白雪は答えず、くまの頭を俺の肩へ乗せた。


重い。


「反省するまで、このままです」


「それは誰の判断ですか」


「みるくまです」


「白雪ではなく?」


「当然です」


表情の変わらないくまの顔が、すぐ隣にある。


白雪本人の顔は見えない。


だからこそ、彼女はこんな距離まで近づけるのかもしれない。


教室では、誰にも触れさせないほど遠くにいる少女。


その彼女が今は、着ぐるみの中から俺の肩へ甘えるように頭を預けている。


白雪がどんな表情をしているのか、少し気になった。


そのとき、俺の鞄から小さな音がした。


ちりん。


古い鈴の音だった。


鞄につけているくま型のキーホルダー。母親が直してくれた際、家の鍵についていたもう片方の鈴を取りつけたものだ。


白雪の身体が、突然離れた。


みるくまが俺の鞄を見る。


笑顔のくまから感情は読み取れない。


しかし、その場の空気が変わった。


「その鈴……」


着ぐるみの中から聞こえた声は、先ほどまでとは違っていた。


かすかに震えている。


俺は鞄についた鈴を手に取った。


色は長年使っている間に剥げ、青というより灰色に近くなっている。


「昔から持ってるものです。元は二つあったらしいですけど、一つはなくして――」


言いながら、記憶の端に白いものが浮かんだ。


病院。


非常階段。


笑顔のまま泣いていたくま。


けれど、形になる前に記憶は遠ざかった。


みるくまは、何も言わずに俺を見ている。


正確には、くまの黒い目がこちらを向いているだけだ。


それでも、白雪の視線がくまの内側から俺へ注がれていることは分かった。


「白雪?」


呼びかけると、彼女は我に返ったように一歩下がった。


「何でもありません」


「でも今――」


「古い鈴だと思っただけです」


それ以上の説明を拒むように、白雪は背中を向けた。


「朝倉君。着ぐるみの補修をお願いできますか」


突然、話題が変わる。


「そのために来たので、状態は確認します」


「学校説明会だけではありません」


白雪は、くまの頭を両手で外した。


汗に濡れた黒髪が揺れる。


振り返った彼女の顔には、教室で見る完璧な微笑みが戻っていた。


ただし、その目にはわずかな緊張が残っている。


「九月の市民文化祭で、地域マスコットコンテストが行われます」


「それに出るんですか」


「優勝すれば、学園側もみるくまの廃止を見直す可能性があります」


白雪は俺をまっすぐ見つめた。


「私は、みるくまを残したい」


普段の彼女なら、もっと遠回しな頼み方をしただろう。


誰かへ弱みを見せることもなければ、縋るような目を向けることもない。


今の白雪には、そんな余裕がないように見えた。


長机の上では、取り外されたくまの頭が笑っている。


少し垂れた左耳。


何年も補修を重ねた白い毛。


新しいものへ交換したほうが、費用も手間もかからないのかもしれない。


けれど白雪にとっては、代わりのないものなのだろう。


「修理するだけですか?」


俺が尋ねると、白雪は一瞬、言葉を失った。


「コンテストに出るなら、動きや演出も必要ですよね。今のままでは、見た目が古いだけのくまです」


「みるくまです」


「古いみるくまです」


「訂正になっていません」


白雪の眉がわずかに寄る。


着ぐるみを脱いでいるときの彼女は、やはり距離を取ろうとしている。


俺は長机の上に置かれた補修一覧を拾った。


「優勝できるかは分かりません。ただ、学校説明会までに最低限動ける状態にはします」


「本当ですか?」


白雪の声が少し高くなる。


「ただし、条件があります」


彼女の表情が警戒へ変わった。


「秘密を守る代わりに何か要求するつもりですか」


「俺を何だと思ってるんですか」


「まだ判断できるほど、朝倉君を知りません」


率直な回答だった。


「条件は一つです。修理中は、着ぐるみを脱いでください」


「なぜですか」


「暑さで倒れられると困ります。それに採寸や動作確認をするなら、着る人の体格も知る必要があります」


「身体を測るのですか?」


白雪が一歩下がった。


「嫌そうな顔をしないでください。服の上から肩幅や腕の長さを見るだけです」


「朝倉君が慣れているように聞こえます」


「実家が洋裁店なので」


白雪はしばらく迷った後、着ぐるみの胴体から出た。


制服姿へ戻る。


先ほどまで俺へ抱きついていた人物と同じとは思えないほど、姿勢も表情も整っていた。


彼女は乱れた黒髪を手櫛で直し、窓ガラスへ映る自分の姿を確認する。


それから俺へ向き直った。


「先ほどのことは、すべて忘れてください」


「どこからですか」


「私がこの部屋にいたところからです」


「それだと、修理の依頼も忘れることになります」


「では、抱きしめたところだけ」


「分かりました」


「本当に分かっていますか?」


「白雪は俺を抱きしめていない。みるくまが抱きしめた」


「そのとおりです」


「みるくまは俺に甘い」


「違います」


白雪の声が、また少しだけ大きくなった。


学校では見たことのない反応だった。


俺が笑いを堪えていると、彼女は頬を赤くしながらくまの頭を持ち上げた。


そのまま、みるくまの額で俺の肩を軽く押す。


「朝倉君」


「何ですか」


「今日から放課後、ここへ来てください」


「修理が終わるまでですよね」


「コンテストが終わるまでです」


話が大きくなっている。


「俺は修理担当では?」


「秘密を知った以上、途中で抜けることは認められません」


「いつ決まったんですか」


「今です」


白雪はくまの頭を抱えたまま、教室で見せるものと同じ微笑みを浮かべた。


整っていて、上品で、反論を許さない笑顔だった。


「これからよろしくお願いします。朝倉君」


こうして俺は、学校一の完璧美少女と、廃止寸前の着ぐるみを守ることになった。


この時点で、俺はまだ知らなかった。


白雪玲奈が、なぜみるくまにこだわっているのか。


彼女が俺の鞄の鈴を見たとき、何を思い出していたのか。


そして、みるくまが俺にだけ甘いのは、偶然でも、演技でもなかったということを。

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